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第二章 名門
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「よーし、ハイテンションでえ突っ走るぞおおおお!」
新堂良子は元気良く大声を張り上げて、光のアッパーカットで天を打ち抜いた。
「おおーーっ!」
高木双葉と芦野留美が続いたが、直後、双葉は真顔に戻って、
「ついノリで、おーとかなんとか叫んでしまったけど、どんな先輩なんやろかあ、練習きつくないんやろかあ。不安やなあ。中学ん時みたく毎日怒鳴られたり、ボールを顔に投げられたり、背中に飛び蹴り食ろうたり、ジャイアントスイングぶんぶん振り回されてパッと手を離して飛んでけ~みたいなことされへんやろかあ」
そんな双葉に良子はぴたり寄り添いにんまり笑顔。
「双葉ちゃあん、ここは天下の佐原南だよお、そりゃ死ぬほどきついに決まってるよお。怒鳴られるよお。あったりまえさああ」
「うわああ、やっぱりいっ!」
双葉は頭を抱え、うおおおと絶叫した。
「怖がってるってのになに追い打ちかけてんだよ、良子はもう!」
芦野留美が、良子の脇腹を肘で小突いた。
「え、え、うそ、あたしただ元気づけようと思っただけなのにっ!」
「ど こ が や ねん!」
双葉も反対側から良子の脇腹へ肘鉄だ。
「うにいっ、ずんときたあああ!」
良子は身もだえした。
などと騒いでいると、隣に立っているひょろり背の高い一年生が苦笑しつつ話し掛けてきた。
「あんたらさあ、元気がいいねえ」
ちょっと呆れたような、小バカにしたような口調であった。
「そう? まああれやなあ、特別仕様のハイテンション娘が一人おるからなあ。な、良子」
双葉は、良子の後ろに回り込むと頬っぺたをむにゅりと引っ張った。
「だってだってだってだって、これから部活なんだよ。フットサル部なんだよ。あの、佐原南のフットサル部なんだよ。佐治ケ江優の……神様のいたフットサル部なんだよ。これからっ、いよいよっ、始まるっ、そりゃあテンションも上がるってえ! そ、それはそうとっ痛い痛い痛い双葉ちゃん痛あい!」
良子はほっぺの肉を限界まで左右に引き伸ばされていた。
「さっきのお返しや!」
双葉は手を下ろすと、今度は良子の脇腹をくすぐり始めた。
「うわ、ちょっと、くすぐったい、っていうかなんでっ、意味不明っ、さっき二人から肘鉄もらったのあたしなのに、その後に顔をむにゅうううってやられて脇くすぐられて、意味分かんないいい! やり返してくれるっ。必殺くすぐり返し! 受けてみよ双葉っ!」
「ぐわっ、やめや! うち、くすぐりに弱いんや!」
「いいこと聞いたっ! お気に入りに登録だっ!」
「だからやめわははははっ」
などと幼児のような不毛な争いをしている二人であるが、ここは幼稚園ではない。
佐原南高校体育館の片隅である。
高木双葉、新堂良子、芦野留美の三人は先日、約束通り一緒に担任へ部活の願書を出した。そして週が明け、開始日である今日が来たというわけである。
これから一週間は体験入部期間である。願書を出していなくとも気軽に参加出来るし、出した者であっても辞める際に引き止められることはない。体験期間が終わる時点で、どこに正式に入部するかを決めるのだ。
良子は、辞めるつもりなど微塵もなかったが。
まったくの偶然であったとはいえ、せっかくフットサルの神様である佐治ケ江優がその昔に勉学運動に励んだこの佐原南高校に入学し、そして神様が所属していたという歴史のあるフットサル部に入ったのだ。辞めるなどとんでもない。罰が当たるというものだ。
「良子いい加減にせんといい加減におこわははははははあっ!」
まだくすぐり合っている二人。
さて、彼女たちはいまこの体育館でなにをしているのであろうか。
正解は「じゃれあっている」であるが、何故じゃれあっているのかというと、それは暇をもてあましてのものであった。
良子たち三人だけではない。
先ほど双葉に呆れ顔を向けてきたひょろひょろと背の高い女子、それ以外にも十人近くジャージ姿の一年生がおり、先輩たちのやってくるのをずっと待っていた。
みな良子たちの知らない顔ばかり、つまりは他のクラスの生徒のようであった。
もしも同じクラスの子がいたら同盟に誘ったのにな、と良子はちょっと残念そう。
「まあ、そういうの関係なく、同じ部活の仲間だけどね」
だけど体験入部期間が終わって、果たして何人が残るだろうか。
全員、残るといいなあ。
良子は本心から思う。
残った者は試合の出場を競うライバルになるわけだけど、でもそうやって競って成長出来るって素敵なことだと思うし、なによりもフットサルの競技人口が増えるのはいいことじゃないか、と。
フットサル日本女子代表はW杯で奇跡の二連覇を成し遂げた。二度目の優勝は、良子の記憶にも新しい。
連覇達成直後に、もう女性アスリートとしてはかなりの年齢であった佐治ケ江優が引退。
その影響か、それからの女子代表は大会優勝に縁がない。
アジアのカップ戦ですら準優勝に届かず、次のW杯は出場も厳しいといわれている。
佐治ケ江優がその時代に存在したということ、
相手主力に警告累積で出られない者が多かったこと、
終了間際に追いつくような劇的な展開が多かったこと、
こうした点から奇跡のW杯二連覇といわれていた。裏を返せば、日本女子代表の真の実力は世界レベルには到底及ばない、というのが現在の日本国内での評価である。
佐治ケ江のいた常勝黄金時代には、日本代表そのものをベタ褒めする評価ばかりだったのだが。
強さに波があるのは仕方がない。
良子だってそう思う。
競技人口が少ないのだから、谷間の世代が出来てがくっと弱くなってしまうということもあるだろう。
でも競技人口さえ多ければ、必然的に全体的な底上げがなされるわけで、人物がどんどん現れるわけで、二連覇三連覇ごときで奇跡とはいわせない強豪国になれるかも知れない。
だから日本代表の活躍を願ってやまない良子としては、競技人口が増えることは大歓迎なのだ。
トラップもろくに出来ない下手くそなわたしが、そんなことを考えるなどおこがましい限りではあるけれど、誰にだって夢を見る権利くらいあるだろう。
でも、いまはどうしようもなく下手だけど、ガムシャラに練習して絶対に誰よりも上手になってやるぞ。
フットサルが好きだということでは、誰にも負けないんだから。
だから、頑張るぞ。
練習が厳しくたって、わたしには成層圏同盟という心臓捧げた心強い仲間がいるんだから。
などと良子が胸の中で熱意を高めていると、
「来たよっ」
と、誰かの声がした。
向こう、体育館横にある出入口の一つから、上級生と思われるジャージ姿の女子が一人、姿を見せた。
「あれえ、なんだよ、まだ二年三年誰も来てないの?」
けだるそうに髪の毛をかき上げながら、近付いてきた。
「はい! まだ誰も来ていません!」
一年生の一人が答えた。
「そのうち主将たちも来るだろうから、そこで待っててよ。あ、あたし二年の武朽恵美子。よろしく。そいじゃ」
と武朽先輩が用具室へ道具を取りに消えたのと入れ違いに、また一人が体育館へと入ってきた。
そしてまた一人、さらにまた一人。
一年生たちは勝手分からぬままに、誰かの張り上げる声を真似して挨拶の言葉を叫んだ。
運動部は挨拶に関して独自ルールが強いものであるため、入部したばかりの者が戸惑うのはいつの時代も変わらない。
この数分間に一年生が発した言葉だけでも「こんにちは!」「授業後お疲れ様です!」「おはようございます(夕方だけど)」「はじめまして!」「お願いします!」等など千差万別。
そんな一年生を尻目に上級生たちが用具室を行き来していそいそと練習の準備を進めていると、やがてよったよったとした足取りの女子が入ってきた。
「主将かな?」
良子は留美に耳打ちした。
なんだか貫禄のある、偉そうに見える歩き方だったので。
でも、偉そうに歩いているのではなくただ単に太っていてふらついているだけの気もする。
ぽっちゃりどころか、半端じゃなく太っているのだ。
目が細くて、太っていて、まるでお相撲さんだ。
こんなぶるんぶるん揺れるお腹で、フットサルなんか出来るのだろうか。
うーん。
良子は悩んだ。
「無理やろなあ」
と双葉。
どうやら良子とまったく同じことを思っていたようである。
でもとにかく上級生は上級生だ。
良子たちは、みんなと一緒に挨拶をした。
「こんにちはあ!」
「おうっ! こんにちはっ! みんな元気だねっ」
ぶるんぶるんの女子はみんなの挨拶を受け、細い目をさらに細めて満足そうな笑顔で応えた。
「誰だよお前は!」
最初に来た上級生の武朽恵美子が、持っていたボールを放り投げてぶるんぶるん女子へとダッシュし頭をぶん殴った。頭皮の脂肪は普通なようで、ゴツと鈍い音が響いた。
「いたいい、あたし一年三組、鈍台洋子ですう」
太った女子、鈍台洋子は耳の近くの殴られたところを押さえながら答えた。
無茶苦茶痛いのかも知れないが、目が元から細いので相変わらず笑っているようにしか見えない。
「い、一年?」
声を発した双葉だけでなく一年生のほとんどが、昔のコントのようにがくり拍子抜けして倒れそうになっていた。
「一年のくせに生意気な態度とってんじゃねえよ、デブ! 激デブ!」
武朽先輩は、容赦なくもう一発殴った。
「だってえ、遅れてきたら、みんながかしこまって挨拶してくるからあ。なんで遅れて来たかというと、ジャージのお尻がびりっと裂けてえ、同じクラスのエミちゃんから裁縫道具貸してもらって縫っててえ、裁縫不得意というか才能的には得意かも知れないけど太ってて指も太いから上手く出来なくてえ、指ちょっと刺しちゃって血がアアアとかいってとかいってえ」
「裁縫の話なんかどうでもいいよ。そこで一年生みんなで主将たちが来るの待ってろ、この太っちょ! ダンゴ! チャンコ鍋! 拾え、あのボール!」
武朽先輩は自分が放り投げて転がったボールを鈍台洋子に集めるよう命令した。
そんなやりとりを目にしながら、良子はむーーと小声で唸っていた。
体育会系、といえばそれまでだけど、でもなんかみんな荒っぽそうだなあ。いまの先輩を始めとして。
さっき双葉ちゃんにはあんなことをいっておきながらなんだけど。
「ごめん、ユズちゃん、遅くなった」
ボールをすべて集めて先輩に渡した鈍台洋子は、お腹のお肉をぶるんぶるん揺らしながら一年生たちの中に入ってくると、先ほど良子たちに話しかけてきた背の高い女子へと寄った。
「もう、ドンちゃんふざけんなよ、どこ行ってたかと心配したじゃんかよ。ジャージなんか、あたしにいえば縫ってあげたのに」
ユズちゃんといわれたすらりと背の高い一年生は、ほっとしたようなイラついたような表情を浮かべた。
「いいよ、ユズちゃんいつも変な刺繍しちゃうんだもん」
「変な刺繍なんか一度もしたことないよ。可愛らしいのしか」
「うそお、アネッサンドリアのホークスカイが殴られて顔面半分歪んでるとことか、そんなんばっかじゃん」
などとドンちゃんユズちゃんがなんだかマニアックな会話に興じていると、なんだかいきなり空気が変わった。
二年生たちが一斉に引き締まったような表情になり、体育館扉へ視線を向けたのである。
「おっと、主将が来たぞ」
上級生の一人がそう口に出した。
二人、あらたに体育館に入ってきた。
先頭に立つ者が、主将であろうか。
髪が長くて眼鏡をかけている。
背は低いが、ちょっと冷たそうな、なんだか風格を感じさせる顔立ちであった。
数歩ほど下がって、いかつい顔の女子。するとこちらは副主将であろうか。
一年生たちも二年生にならって挨拶をし、二年生にならって主将たちを取り囲んだ。
「主将の花咲蕾です。よろしく」
眼鏡で小柄なのが、やはり主将であった。
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「主将の花咲蕾です。よろしく」
彼女は一年生へ身体を向け、大きくはないがよく通る声を出すと、小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
良子たち一年生は大声で深く頭を下げた。
「副主将の荒上です」
大柄でいかつい顔の女子の挨拶に、また一年生は頭を下げた。。
「今年は本入部希望の者ばかりなんだよね。だからはなから佐原南の部員として接するから、覚悟してね。それじゃあ端から、一人一人に自己紹介をしてもらおうか」
花咲蕾主将は、冷たい感じの表情を崩すことなくいった。
「え、端? それじゃあ、あたしからだな」
先ほど鈍台洋子にユズちゃんと呼ばれたすらりと背の高い一年生が、体育館の壁際まで出るとくるり振り向いた。
「一年三組、九頭柚葉です! 佐原六中出身」
そういうと彼女は、勢いよく右拳を突き出した。正拳突きだ。
そしてハイキック。
空手をやっているのであろう。突きも蹴りも、空気を焦がしそうなくらいに勢い迫力のあるものであった。
間髪入れずに後ろ回し蹴り、膝蹴り、踵落とし、肘、手刀、受け、ハイキック。
型、というのだろうか。「特技は空手です」といわんばかりの、一連の見事な動きを披露すると、
「特技はいたずらです! あと趣味は食べ歩きです!」
と締め、押忍っと深く礼をした。
「はい、ふざけすぎ。用具室行き」
主将の花咲蕾がぽんと手を叩くと、二年生二人が九頭柚葉の背後に回り込み、がっちりと押さえ付けた。
「え、ちょっと、なに、やだっ、なにすんだ、ちょっと!」
柚葉はもがいたが抵抗むなしくすぐそばの扉の向こう、用具室へと連れ込まれてしまった。
金属の重たい扉が閉じられた。
全部員が見守る中、
「ギャアアアアアアアアアア!」
断末魔のような悲鳴が聞こえてきた。柚葉の声のようだ。
それが一分ほども続いただろうか。
不意に扉が開き、九頭柚葉がげっそりやつれたような顔になって出てきた。
「どうした? ユズちゃん。泣いてるけどどうした? 泣いてるユズちゃんも可愛いな。大丈夫?」
鈍台洋子、心配の言葉はかけているものの、まるで心配していないこと誰の目にも明らかであった。
「思い切り、くすぐられた……」
ふらふらと歩いてきた柚葉は、がくり膝をついた。
「くすぐられただけか。ちょっとされてみたいような、みたくないような」
と呟くのは良子だ。
あれだけげっそりしているのだから一体どんな殺人的なくすぐりだったのだろうと思う半面、くすぐりだけでそんなになるわけないじゃないかという思いもあり、ちょっとだけ受けてみたくなったのだ。
「また葉っぱちゃんかいな」
高木双葉が、ちょっとつまらなさそうな表情でぼやいた。
「なにが?」
良子は小声で尋ねた。
「ほら、良子の妹も葉付きやろ。良子も、うちの名前に紛らわしいとかゆったことあるやん」
「ああ、ごめん。気にしてたのか。でもここはフットサル部。名前より個性で勝負だっ」
「うち、なんだかんだ地味やからな。個性でも、あいつには負けるわ。つうか、あんなんやったら別に勝ちたくもない」
双葉はちらり柚葉を見た。一瞬目が合い、慌ててそらした。
「じゃ、次」
主将の声に、二人目、鈍台洋子が前に立った。
「一年三組、鈍台洋子です。さっきのユズちゃんと……ユズと、いや違うな、柚葉と、いや九頭さん、でなくて柚、柚……」
「オフィシャルな呼び方に迷ってなくていいから、とっとといえよデブ! まだたくさんいるのに。つかえてんのは狭いとこ通る時の身体だけにしとけ!」
上級生の一人がしびれを切らせて怒鳴った。
「いやあ、こりゃ上手いこといわれた。どうもすみません、先輩。いや、あのね、友達だったっていおうと思っただけなんです。ユズちゃんの家はね、佐原駅そばの有名な和菓子屋さんで、あたしはそこの近くにあるどうでもいい金物屋で、幼なじみで一緒に空手を習ってましたからね。ユズちゃんはフットサルもやってて、あたしは空手だけだったんですけど、なんかいつの頃からか太りだしてえ、全然痩せなくてえ、動く以上に食べるからなんですよねえ。常に秋みたいな。フットサルはとにかく走るから痩せるよってユズちゃんがいうんでえ、始めてみようかなと。鈍台ダイエット計画2029カミングスーン! 痩せて美しくなったあたしを見るのは君だ」
「はい、用具室」
主将は面倒くさそうに腕を上げると、指をパチンと鳴らした。
「え、なんでえ?」
心底疑問といった表情の洋子、用具室へさようなら。
「うわあ、凄いわ。ドンちゃんいう子、凄いわ。なにが凄いって、用具室に連行された前例を目の当たりにした直後に、普通出来ひんわあんなん。アホとか天才とかじゃなく、もう悟りや、悟りの境地や!」
双葉は、良子にだけ聞こえるような小声で興奮気味に騒いでいた。
「次」
主将の声。
「吉田理恵です。よろしくお願いします」
ポニーテールでぎゅっと上げているものの、それでも地面につきそうというくらいとんでもなく長髪の、そして病的なくらいにがりがり痩せた一年生。
彼女はそのやつれた顔のイメージのままに、ぼそりとした言葉を発し、紐の切れたマリオネットだか骸骨模型のように、かくりとうなだれるように頭を下げた。
「もっと元気出さないと用具室送り。っていいたいとこだけど、前の二人が酷すぎだから相対的に合格にしとく。次」
「茂満香奈美です! 岡野二中出身! キープ力には自信があります。厳しい練習を頑張って成長したいと思います。よろしくお願いします!」
鼓膜破るような元気な大声で、びしっと締めた。
元からハキハキした喋り方なのか、先ほどの二人のようになりたくないというだけなのか分からないが。
「鈴鹿澄子です! よろしくお願いします!」
「桐谷舞です!」
次々と、前に出て挨拶をしていく。
「茨崎悠希です。三松二中出身です。小学生の頃からずっとイバちゃんと呼ばれてました」
「イバサキ、テバサキ、テバ。じゃあお前、コートネームはテバな」
副主将の荒上先輩が勝手に命名し、ぴっと指を差した。
「えええええ」
焼鳥みたいな呼び名に不満げな茨崎悠希であったが、副主将にじろり睨まれ縮こまった。
続いて、留美の番がきた。
「芦野留美です。久野三中出身です。一応どこのポジションもこなせますが、ここはレベルが高いので最初は足手まといにしかならないかも知れません。練習して、早く先輩たちに追い付いて手助けが出来るよう頑張ります。よろしくお願いします!」
「はは、上手く先輩立ててまとめたもんやな。ほな、次はうちや」
双葉は留美と入れ代わり、前に立った。
「高木双葉いいます。おかん……母の影響で小さな頃からフットサルをやっておったんですけど、あまり上達せんで中学では先輩に怒られてばかりでした。ずっとピヴォやってましたけど、でも、足らんとこあればどこでもやります。精一杯頑張りますんで、よろしくお願いします」
関西弁イントネーションで述べると、深々と頭を下げた。
「ああ、緊張したあ」
双葉はドキドキする胸を押さえながら、良子の隣に戻ってきた。
「なあんで関西弁なのに用具室行きにならないんだよお」
九頭柚葉が不満そうな表情を隠そうともせず、双葉にぐっと顔を寄せてからんできた。
「なんや意味分からんわ! なにいっとるんや、こいつ。つうかどいつもこいつも関西弁イコールお笑いかよ、不真面目人間かよ、って、バカ、見てる見てる!」
「うわ、やば」
双葉と柚葉の二人は、まるで軍人かのようにびしっと気をつけをした。
先輩たちの視線が、自分たち二人に注目していたのである。
やがて先輩たちの注意が他にそれると、二人は安堵のため息をついた。
「二度も連れてかれるとこだったぜい」
九頭柚葉は、おでこに浮かんだ汗を袖で拭った。
「連れてかれちまえばよかうぐっ!」
どすっと、双葉の脇腹に柚葉の肘が減り込んでいた。
「くっそ、あとで覚えとき。ユズだかキンカンだか知らへんが」
ここで騒いだら、自分こそ用具室へ強制連行されてしまう。必死に怒りと肘鉄の吐き気を押さえる双葉であった。
「次は!」
「あ、はい! あたしです!」
良子は短い足をせかせか早足で前に出ると、くるりみんなの方を向いた。
「こんにちはあ、新堂良子でえす!」
笑顔で、大きく甲高い叫び声。
「アニメ声で、なんかヒーローショーのお姉さんみたいなノリやな。みんなあ、げーんきい? みたいなあ」
双葉は自分にしか聞こえないような小声で、突っ込みを入れた。
「ええとお、あたしはあ、この春にこちらへ引っ越してきましたあ。それまでは、生まれた時からずっと宮城県の石巻市っていうところにいました。知るはずもないと思うのでいいませんが、そこの中学でフットサルをやっていました」
「取り合えず、なんていう中学かいってみな。みんな教えてんだから」
副主将の声に良子は頷いた。
「日和ケ丘中学校です」
その言葉に、体育館内は一瞬にしてしんと静まり返っていた。
他の部の者もおり、そちらは変わらず賑やかなのであるが、そう思えるくらいの衝撃が部員全員に落雷していたのである。
一呼吸ほどの後に、今度はどよめきが起きた。
みな、驚いたような表情。
高木双葉も芦野留美も同様であった。
中学の名前をいっただけなのに……
良子は顔に楽しげな笑みを浮かべながらも、なんなんだこの雰囲気は、とすっかり戸惑ってしまっていた。
「うそ……そこ超名門」
上級生の一人が、信じられないといった口調で呟いた。
「ええっ、先輩知ってるんですかあ? でも、東北の田舎ですよお。もしかして偶然知り合いがいるとかあ?」
良子は笑いながら尋ねた。
「お前、とぼけてんのかよ。心の中では、佐原南なんかたいしたことないとかバカにしてんだろ。日和ケ丘中っつったら、強豪中の強豪だろ。中学でフットサルやっていた奴なら、誰だって名前を聞いたことくらいあるっつーの」
「そうだったんですか。強豪校らしいということは知っていたんですけど」
知ってはいたものの、たかだか中学校の部活がそこまで全国区の知名度を誇るようなものであるなど思いもしなかった。
フットサル部など存在していない学校も多いし、少ないが故に強ければすぐ有名になるということなのかな。
「あーあ、レギュラー一人確定かあ」
「さすが佐原南、競争厳しいなあ」
落胆する一年生たち。
「なあ良子、自分そんな凄い中学の出身やったん?」
戻ってきた良子に、双葉がぐっと肩を寄せた。
「……ということになるのかな。あ、でもあたしは下手だよ。超がいくつついても足りないくらい。だから死に物狂いで頑張ろうって思ってるんだから」
良子は苦笑しながら正直に答えた。
しかし周囲の一年生たちは、そうは受け取っていないようであった。
「謙遜しちゃってさあ、エリートは」
「なんか嫌味い……」
「強豪校で、自分が本当の下手だと思ったらもうそこにはいられないって。退部してるって」
3
佐原南高校体育館の片隅では、女子フットサル部のミニゲームが行われていた。
みな紺色のジャージを着ており、片一方のチームは黄色いビブスを着用して区別をつけている。
ピッチに立っているのは一年生だけだ。
先ほど新入部員挨拶が終わったばかりであるが、主将の花咲蕾がみんなの実力を知っておきたいということで発案したものである。
現在ピッチに立つメンバーは次の通り、
Aチーム
吉田理恵、
茂満香奈美、
新堂良子、
高木双葉、
ゴレイロ 桐谷舞
Bチーム
茨崎悠希、
須賀崎桜、
鈴鹿澄子、
村谷咲美、
ゴレイロ 九頭柚葉
「こっちこっちい、理恵ちゃあん!」
新堂良子は会って間もないというのにさっそく下の名前を叫んで、上げた両手をぶんぶんと振り、走り出した。
来た!
吉田理恵からのパスが。巧みなフェイントで須賀崎桜をかわして、すぐさま前線へと蹴ったボールが、こっちへ来た。
タイミング、速度、精度、完璧だ。
凄い。
良子は感心しながらもボールの転がる軌道上へと入り込み、右足でトラップしようとする。
だがパスとは出し手の技量だけでなく受け手あって成立するもの。良子は、ものの見事にトラップを失敗した。
フットサルボールは、軽く踏み付けるだけでキュッと気持ち良い音とともに一瞬にして回転が止まって収まるものなのであるが、一体足のどこに当ててしまったものかころころ転がって、ビブスを着たB組の茨崎悠希に奪われてしまった。
「ごめん、理恵ちゃん! よし、次は上手くやるぞおお」
良子は自分を励ましながら、茨崎悠希の背中を追った。
そんな良子の姿を見ながら、ピッチの中では一年生たちが唖然とした表情で口々に呟いていた。
「まただ……」
「謙遜じゃなかった」
「信じらんない。……一緒の空気吸ってるだけで強くなれるって噂があるくらいの名門中学出身なのに」
と。
ピッチの外でも、上級生たちがやはり同じような反応であった。
「あいつ、ずっと怪我かなにかで、実はボールに触るの生まれて初めてとか」
「うん、その説は一番しっくりくるね」
「そもそも日和ケ丘中出身というのが、大ボラ。ハッタリ」
「その説も、一番しっくりくる」
「極度のあがり症」
「それも一番しっくりくるねえ」
「チカラさあ、一番っつーのは一個なんだよ。なにがしっくりこないかいってみろ逆に」
などと二年生の須黒笛美、武朽恵美子、多田ロカの三人が騒いでいると、横で副主将の荒上真子がガラガラの大声を張り上げた。
「よっし、交代だ! お前はビブス着けてあいつと代わって、お前とお前はビブスなしで、代わるのはあいつとあいつ」
指示に従い芦野留美、高井真矢、山崎芳枝がピッチに入り、新堂良子、高木双葉、須賀崎桜が外へ出た。
「頑張って、留美ちゃん」
良子は留美とハイタッチ。
「でも、人のことより自分のことだ。今度はもっと上手にやれるよう頑張るぞおお」
良子はぐっと握った拳を突き上げた。
「でも良子、一回、惜しいシュートあったやん。あれ絶対に決まったかと思たわ。運悪くクソ女に弾かれたけど、もっともっと練習して今度は顔面ブチ抜いたれ。首がもげてもええわ」
双葉が物騒なことをいう。
なおクソ女とは、九頭柚葉のことである。
あの新入部員挨拶の時から、双葉は柚葉のことが気に入らないようなのである。
「そんな縁起でもないことを。これから三年間一緒に過ごす仲間だよ。でももっともっと練習してってところは確かに双葉ちゃんのいう通りだ。もっと頑張らないとな、あたし」
「せやなあ。ほんま自分でいっとった通りのレベルでびっくりしたわ」
「でしょお」
良子は屈託なく笑った。
「っと、ああっ、いや、いまひょっとして独り言出ちゃった? ごめんな、良子。悪気はないんやけど、つい。でも見てた通りうちもどっこいどっこいやから、気にせんといてや」
先日のこと、良子と双葉は中学校の部活で自分がいかに劣等生であるかを語り合い競い合ったのであるが、双葉は若干の誇張を交えたものであったのに対して良子は自ら語っていたままのレベルであったのである。
友人の双葉としては、負けていなくて嬉しいような、でも少し淋しいような、なんとも複雑な気持ちで、その思いがつい良子の言葉に誘発されて無意識に口をついて出てきてしまったのであろう。
「でも双葉ちゃんはよかったじゃない。シュートだって決めたしさあ」
「偶然や偶然。うちかて、もっと頑張らな。今度、どこかで秘密特訓するで。劣等生同士。ええやろ」
「うん。やろうよ。どうせなら留美ちゃんに教えてもらおうよ。上手だし」
ちょうどその芦野留美が、ひらりひらりと相手をかわしてシュートを決めたところであった。
無抵抗で得点を許すこととなったゴレイロの九頭柚葉が、床をばんばん叩いて悔しがっている。
双葉は、留美を自分に置き換えているのかにんまり笑顔になりながら、
「せやな。下手同士の秘密特訓とはいえ、成層圏同盟の仲間にまで内緒にするのはよくないしな。ほな留美に教えてもらおうか。今度の土曜か日曜にでもな。場所はいい出しっぺのうちが探しとく」
「お願い。なんか、楽しみだねえ。よおおし、やるぞおおおお」
と、良子が天へ拳を突き上げようとした瞬間であった。
「おい! シャクレ、シャクレ!」
武朽恵美子先輩が、なんだか迷惑なくらいの大声で叫んでいる。
誰、シャクレって? 二年? 三年?
良子はきょろきょろ周囲を見回した。
「こら、シャクレアゴ! お前、無視すんなよ!」
足取り荒く近寄ってきた武朽先輩が、良子を睨みつけた。
良子はなにがなんだか分からず、首を傾げながら自分の顔を指差した。
「他に誰がいるんだよ」
「ええええっ、ほんとにあたしっ? 別にしゃくれてなんかないですよおお!」
「アゴの先っちょ、ちょいと突き出してっだろ」
「お母さんが熊本出身だから、ちょっと離れると分からないくらい微妙にささやかにがっしりしているだけです! 大昔のなでしこジャパンにだって、こんな感じの、でもアイドルみたいに可愛い子がいたじゃないですか!」
「知らないよ。どうでもいい。それより、第二審判とタイムキーパーやってよ。シャクレとブーと、他に余ってる一年と分担決めて。分かったか、シャクレ」
「分かりましたよ」
良子はすっかり憮然とした表情で返事をした。
「つうか、あたしブー?」
双葉は自分の顔を指差した。
「フタバっつーんだろ。フタバ、ブータン、ブーだ。文句はアラジン先輩にいえ。じゃあな」
そういい残すと、武朽先輩はくるり背を向け上級生だけの練習に加わった。
なおアラジン先輩とは、副主将の荒上真子のことだ。荒上 ― 荒神 ― あらじん、という連想だ。
「まだブーの方がいい。あたし、最悪だあ」
「うちかて最悪や」
「そっち自分の名前をいじられただけじゃん。あたしなんか、顎がちょっと出てるとかなんとか、気にしてるとこなのにい」
「良子はそこが可愛いとこなんやから、構へんやん。くそう、アラジン先輩め。男と見まごういかつい顔してるくせに、なにが下の名前マコや」
などと二人が愚痴をこぼしていると、
「おーいシャクレ! ちょっと!」
三年の成宮桃子先輩が、手招きしている。
「うにゃあああああああああああああ」
良子は身体をぐにゃんぐにゃん軟体動物のように身体を揺らした。
「そう思ってんのうちだけやなかったってことやな」
双葉も、入学式の日に早々にして失礼ながら良子の顎先について指摘したことがあるのだ。
自分もブーなどと変なあだ名をつけられてしまって、笑うに笑えない状況になってしまったようだが。
「誰の顔だって、神のバランスより少しは狂いがあるわけで、それだけのことでしょ! あたしは別に神の造形じゃないだけなんです! なんですか、この世は神様がデッサンした顔の通りでない限りシャクレなんですかあああああ?」
良子は天の神様だか悪魔だかに不満の限りを叫んだ。
「うるせえな! この世でお前だけだよ、しゃくれてんのは」
良子の後頭部にバチンとなにかが当たった。荒上副主将が、ボールを投げつけたのだ。
神様はどこにいるのか分からないが、少なくとも悪魔は地上に存在するようであった。
「いいんだ。もう」
良子はがくりと肩を落とし、ぼそり呟いた。
嫌なあだ名がついてしまった。
ああ、今日は最悪の日だあ。
もう、嫌。
なんなの、シャクレとかなんとかさあ。
ほんと、最悪。
そういう肉体的欠陥を、平気で他人にいうかね。
とはいえあたしの場合、別にそんなでもないでしょ。
よく見ればそう見えるってだけの話でさあ。
落ち込むなあ。
もう、練習したくない。
帰りたい。
いや……
いやいや。
自分に約束したじゃないか。
三年間、ハイテンションで頑張るぞって。
そうだ、今日が最悪の日というのなら、自分が頑張って最高の日に変えてしまえばいいんだ。
例えば、練習試合でゴール決めるとか。中学の頃なんか、公式戦には出してもらえなかったから当然として練習中のミニゲームですらシュートを決めたこと一回もなかったし。そうだ、決めれば人生ハッピーに変わる。今日が最高の日になる。
「よし、やるぞおおおおっ! 今日を人生最高の日にするんだああああああ!」
かくしてタイムキーパーその他雑用の後、張り切ってゲームに戻った良子であるが、やはり自分自身のレベルは非常に低く、周囲のレベルは非常に高く、その相対性によって生じたのは惨憺たる結果というただそれだけであった。
トラップはもたついて奪われるか、受け損なってラインを割るし。
シュートチャンスに滑って転ぶし。
血迷ったか逆走するし。
ポストに頭直撃するし。
「やっぱり、今日は最悪だああああ!」
頭を抱え、叫ぶ良子。
でも、今日といわず三年間こんなかも知れない。
中学の時はひょっとして強豪校だから自分がダメに感じるだけかも、と淡い期待を描いていたけれど……
佐原南だって強豪だけど、でももうそういう問題じゃない。
自分は、もうどうしようもないくらいに下手くそなのだ。
ハイテンションを維持するのが、こうも難しいとは……
と、その時であった。
「うお!」
目の前のピッチで、高木双葉が床に顔面強打。
相手を抜こうとして、自分の持っていたボールに乗ってしまって前のめりに倒れておでこを強打したのである。
それどころか、逆エビぞりになって足をぶるんと振った時に股関節を痛めたのか、ゴギリと嫌なが音が響き、両手で股を押さえてどったんばったん床をのたうちまわる始末。
「双葉ちゃんは優しいねえ。あたしのこと慰めようとして、そんなことまでしてくれてえ」
友人の真心に心から感謝する良子であった。
「アホウ、誰がわざわざこんなことするかああああ! くそ、いってえええ! 大切なとこがあああああ!」
4
「あたしはさあ、むしろドンちゃんって子の方がちょっと苦手かなああ」
新堂良子はシャープペンを鼻と上唇の間に挟んだまま、器用に声を出した。
「ドンちゃんって、あのクソ女の仲良しやろ? あんな腐れな友達がいるとは思えないくらい、明るくてええ子やん。どこでなにを間違うて、あんなのと友達付き合いしとるんだか分からんけどな」
高木双葉、褒めているのかけなしているのか。
「その明るくていい子ってとこだよ。あたしは別に自分を明るいともいい子とも思ってないけど、でも、なあんかキャラが被るんだよねえ。向こうもそう意識しているような感じがして、接するのにためらってしまうんだ」
「へーえ、良子にも苦手な人なんているんだ」
おどけてみせるのは芦野留美である。
「そりゃあいますよおおおっ。あれえ、なんでこんな話が始まったんだっけ? ああ、そうだ。双葉ちゃんが、柚葉ちゃんの悪口いってたことからだ」
「悪口やなんて、人聞き悪いで。あの女の方こそ、うちがトラップ失敗するたびに鼻で笑うんやで。そんだけならまだええけど、これみよがしにリフティングしてるとこなんか見せ付けてくるし。ゴレイロよりボール捌きが劣るお前ダサッ、て笑うとるわけよ」
双葉は様々と思い出したのか、イラついた顔でふんと鼻息を出した。
「そんなあ、気のせいだよ。あたしには、柚葉ちゃんもいい子に見えるよ。仮にそうだとしても、頑張ろうって発破かけてんじゃないの?」
「自分、他人事やから、そう思えるんや。良子にとっちゃ、どいつもこいつもええ子やろし」
「そうかなあああ」
「いちいち語尾伸ばすな」
「伸ばしてるかなあ? まあそれはいいや。とにかくさ、だからこそ秘密特訓をするんでしょ。笑われてると思っているのなら、上手になって見返してやればいいんだよ。もし柚葉ちゃんとのことが単なる思い過ごしだったとしても、練習して身についたことは無駄にはならない。でしょ?」
「前向きやねんなあ、良子は。でも、それはそれとして、やっぱりあの女、ムカつくわ。ああ、顔を思い出しただけで指先震えてきたあ!」
「まあまあ、双葉ちゃん押さえて。一番実力のないあたしだって、全部良い方へ捉えて頑張ってるんだからさあ。でもあれだよねえ、留美ちゃんはさあ、勉強もフットサルも出来るからあ、自分に自信があってこういった問題が起こらなくていいよねえ。いつも、なんだかどっしり落ち着いている感じだもんねええ。貫禄あるというか」
「ないない、貫禄なんか。背が高くて骨太で、声が低くてお喋りでないだけ。ほおら、それより勉強勉強。今日ここへあたしと双葉が来たのは、なんのためだあ?」
「勉強するため」
「分かってるなら、ほら」
ここは良子の自宅、二階の自室である。
佐原駅西北にある住宅街の外れにある家で、窓からは広大な田園風景が広がっている。
座卓には、教科書やノートが散らばっている。
彼女ら三人はその座卓を囲み、勉強会を開いているところだ。
フットサルの秘密特訓のために、である。
部内での劣等生を自認する良子と双葉は、特訓に付き合ってもらえるよう留美にお願いしたのだが、引き受けるにあたっての条件がこの勉強会であった。
部活外でまでフットサルに夢中になると、学校の勉強がおろそかになることが心配される。だからとりあえず、簡単に授業の予習をしておくことと、これまでの授業で分からなかったところを教え合って、学力レベルの確認と後顧の憂いをなくした上で特訓に臨もう、と。
三十分ほどは真面目にやっていたのだが、だれてしまって、すっかり雑談ばかりになってしまっていたが。
「そういやさあ、さっき良子のお父さんと挨拶したけど、なんの仕事してるの? マッチョな身体して、こんな時間に家にいて」
留美が尋ねた。
「ああ、今日は休日出勤の代休だって。筋肉質なのは、単に趣味。これまではずっと東北の復興に関わる仕事をしてたんだけど、それが終わって石巻からこっちに引っ越してきて、いまはなんの仕事をやってんだろ」
「ああ、復興って、東日本大震災? あれ、とんでもない地震だったらしいよね」
関東、東北を襲い、津波による多数の死者を出した大地震。彼女らが生まれる数年前のことだ。
「たかだか十数年前に東北がムチャクチャになっちゃうような地震が起きたなんて、まったく実感がないなあ。わたしたち世代は、教科書で学んだだけだからね。関東はそれほどの被害は受けてなくてすぐに元通りになったらしいけど、復興っていってるくらいだから東北はだいぶ長引いたのかな」
留美は指の上でシャープペンをくるくると回した。
「どうだろ。あたしが物心ついた時には、もうだいぶ落ち着いていたと思うよ。ただ、至るところに瓦礫の山はあったけどね。仮設住宅に住む人の姿なんかも、うっすら記憶に残っている。支援に来た自分たちが立派なアパートなんかあてがわれていいのかな、なんてお父さんよくいってた。瓦礫除去や施設の建設なんかで、石巻がどんどんどんどん新たに作られていくのは、見ていて気持ちよかったな。震災前を知っている人からすれば、元に戻っただけなんだろうけど。もうあんな地震はきて欲しくないよね。あたし特に地震苦手だからさあ、ほんと大地震の後に生まれてよかったあああ」
「でも関東大地震、まだ来てないよね」
留美が真顔でぼそり。
「うわああああ、石巻に戻りたあああああい! 地震やだああああああああああ! やだあああああ! やだあああああ! あ、そうだっ!」
良子はシャープペンを取ると、がばっと伏せるようにノートと教科書に向かった。
「なんや、いきなり」
面食らったように、双葉が尋ねた。
「いやあ、地震の恐怖を紛らわすために勉強に集中しようと思ってええ。まさに一石二鳥お。でもさあ、佐原南がこんな学力高いとこだなんて、あたし知らなかったよ。半分、近いからってだけで決めたようなもんだからね。おかげで神様のいたフットサル部に入れたし、こうしてみんなとも出会えたわけだけどさあ。廊下歩いてても、みんな優等生のエリートに見えて畏縮しちゃうよね」
「確かに学力高くて、無理して入ったうちもちょっと後悔しとるんやけど、でも優等生ばかりじゃあないで。悪い奴もぎょうさんおるねんで。爆弾テロ未遂のことやって警察に捕まった奴とか。放課後の教室でいかがわしいことしてたカップルもおるとか。おかんがいうとった。不良生徒に写真撮られてて脅されてとんでもないことになったとか。どうせお前自身のことやろゆうたら、殴られたわ」
「ぎゃああああああ! 双葉ちゃん、それ本当? それどこの教室ううううう? ほんとにお母さんのことなのおおおおお?」
良子は生々しい話に、思わず頭を抱え、恥ずかしいような興味あるような表情を作り立ち上がっていた。
「つうか、なんつー話を娘にしてるんだよ双葉のお母さんは!」
留美は頬杖ついて呆れ顔だ。
「まあ、注意しろゆうこっちゃ。注意するわ、バカなおかんのようになりたくないからな」
双葉も留美に続いてどっかと頬杖をついた。
「でもま、双葉のいう通り注意するにこしたことないね。そんなんじゃなくても高校生ともなればいつどんな間違いが起きてもおかしくないからね。あたしは一人の人と普通の恋愛に普通の結婚、普通の出産、普通の老後を希望だから、絶対にそんな変なことに巻き込まれないようにしないとな」
「ああっ、留美ちゃんなんか顔が赤くなってるううううう。好きな誰かのこと想像してんでしょおおお! 絶対にそうだ。どこまで? 想像の中ではその人とどこまで進んでんのお?」
良子はいやらしい笑みを浮かべ、留美の脇腹に肘鉄連打。
「いえないよおお」
「いえよおおおお」
「百万もらっても教えない」
お互いに顔を赤らめながら、胸をどんと突き合う留美と良子。
「ははん、二人とも甘いなあ、高校生になってから恋愛だなんて。しかも一人とだけやなんて」
双葉は、かっこつけてさらり髪の毛を掻き上げた。
「ええっ、双葉ちゃんひょっとしてえええ、あれですかああああ? もうとっくに青春突破ですかああああ! 何人? ねえ、何人っ?」
「せやなあ、五、六人くらいかなあ。七人かなあ。つうか細かい人数なんか、よう覚えとらんわ」
「おおおおおお、すっごおおおおお。おとなあああああああ。みんなあ、集合ーーーっ、ここに大人がいっるよおおおおっ!」
「なんか……ドキドキして鼻血出そう」
好奇の目で双葉を見つめる二人。
「なんやあ、うぶな二人やな」
双葉はちょっと困ったようにちょっと気取ったように肩をすくめてみせた。
「でも、人の恋バナは好きだけど、あたし自身はいいかなあ、まだ。十年、いや二十年、いやいや三十五年は早い」
「五十歳やん! でも、実はおるんやろ? 好きな人が」
「えーーーっ、いないよお」
せっかく勉強のために集まったというのに、こうして恋愛話に花が咲いてそれどころではなくなってしまった成層圏同名の三人であった。
恋愛話といっても、良子も留美も異性との交際経験がないので、幼い恋愛持論を展開したり双葉から実体験を聞き出そうとしたり、そんな程度のものでしかなかったが。
5
茨城県潮来市にあるフットサル場に三人は訪れていた。
三人とはもちろん新堂良子、高木双葉、芦野留美の成層圏同盟である。
田園風景真っ只中に三ヶ月ほど前にオープンした屋外フットサル場であり、あと二週間、オープニング記念の格安価格で使用することが出来る。
双葉が、知り合いからその情報を仕入れ、茨城なら部員にも見つからないだろうと思い、ここを第一回成層圏同盟フットサル秘密特訓の場所として選んだのである。
コートは四面あり、残り三面は若い男女が試合を行っている。
良子たちは、借りたコートのゴール前に立っている。
それぞれ、私服のTシャツにショートパンツ姿だ。
部活でユニフォームを購入しているが、「私的練習を、初めて袖を通す機会には出来ないね」、と三人の意見が一致したためだ。
まだ部活では対外試合を行っていないし、普段の練習はジャージであるため、ユニフォームを公に着用する機会がないままなのである。
「ほな、始めよっか。留美、よろしくな」
「お願いします、先生!」
と、双葉と良子の二人は、留美を見た。
「先生などと呼ばれると照れるよ。自分にとっても特訓なので、こちらこそよろしくお願いします! ……では久々に、同盟のしるしを」
留美は恥ずかしそうに右拳を左胸に持っていき、前へ伸ばし良子へと突き出した。
良子も同様に、双葉へ。
双葉へ、留美へ。
「なんか気が引き締まるなあ。粛々っていうの? 粛々とした気持ちになるねんなあ」
「そうだねえ。よおおおしっ、これから秘密特訓をっ、ハイテンションでええ、やあっるぞおおおおおおおっ。どっかああああああん!」
良子はジャンプしながら、右拳を澄み渡った青空へと突き上げた。
「全然引き締まってへんのがおるわあ。どっかんやないで。叫んでたら、秘密にならへんやん。ほんといつもテンション高いなあ、良子は」
双葉が苦笑している。
「だって、それしか取り柄がないから。それで最初はなにをするの、留美先生」
「だから先生はやめてよ。まずはウォーミングアップ。筋肉を暖め、関節をほぐし。基本だよ。秘密特訓だろうと、準備運動に必殺はない」
三人は留美を先頭に、借りたコートの内周を走り始めた。
五周した後はストレッチ。
必殺はないが、二時間で借りている関係上、早めに。
それから練習開始である。
秘密特訓といっても、特別なことをするわけではない。
まずは基礎の確認。
そして、知っている人間に見られないからこそ出来るのびのびした練習の中から、近所の公園や庭でも実践出来るような有用なもの探っていく。
それが、先生である芦野留美が打ち出した目標である。
まずは、三角パス交換。
距離を縮めたり離したり。
くるり回ってからパスを受ける、など段々と難しくなっていく。
良子がまったくついていかれなくなったところで、今度はトラップ練習だ。
地上空中、あらゆる方向、様々な強さのパスを、足裏で受ける練習だ。
最初は留美が一人でパスを出していたが、そのうち留美ともう一人で。
良子がまったくついていかれなくなったところで、今度は戦術練習。
留美が基本敵になり、時に味方になっての守備と攻撃の練習だ。
だが、練習になっているといっていいのか。
良子のトラップがあまりにも下手すぎて、いちいち中断してしまうのだ。
「オフザボールの動きだけは、結構センスあると思うんだけどなあ」
「中学の部活、きつくてまったく出とらんかったのかなあ」
遥か向こうに飛んでいったボールを良子が追いかけている間に、留美と双葉は小声でぼそり。お互いの独り言にはっと気づくと、慌てたようにお互い顔をそむけた。
他、特筆すべきもののないまま二時間が過ぎた。
終了時間である。
もともと良子と双葉のための秘密特訓であるため、良子一人を無視するわけにいかず合わせるしかなく、ということであまり実のある練習にはならなかった。
6
むしろ特筆すべきは、秘密特訓終了後に起きた。
次にこのコートを借りる者たちから、声を掛けられたのである。
「ミックスで、一緒にやりませんか?」
と。
大学生風の若者が七人。
六人が男性で、一人が女性だ。
「ミックスって、なに?」
良子は双葉にこそっと耳打ちで尋ねた。
甘いお菓子のような響きだが、きっとフットサル用語なのだろう。
「良子、名門出身のくせにミックス知らへんのか。男と女がごっちゃでプレーすることや。フットサル関係なく、スポーツ共通のいい方やん」
「ああ、そうなんだあ。それで、どうしようか。あたしは別に構わないけど」
男性ばかりだったら嫌だけど、女性だっているし。
「うちも別に構へんよ。留美は?」
「やろうよ。楽しそうだし」
三人とも乗り気なのが分かると、最初に声を掛けた男性がそばにいる女性へと肩を組んでぐいと引き寄せた。
「よかった。彼女がさ、見てるだけのはずだったんだけど君らがやっていたのを見て自分もやりたいとかいい出して。でも女子一人じゃあ、バランス悪いからさあ」
「フットサルやったことないけど、よろしくう」
すらり体型の彼女が、彼氏に肩を抱かれながらにっと微笑んだ。
「よろしくお願いしまーす」
良子が元気に応じた。
「ああ、でもここのお金はどうすればええんやろ」
双葉が心配そうに、誰にともなく尋ねた。
「おれらが出すに決まっとるやん。こっちの勝手で付き合ってもらうんやしな」
若者たちの一人が関西弁のイントネーションで答えた。
その瞬間である。双葉の身体がびいんと突っ立ったまま硬直したのは。
「あ、あのっ、か、関西出身のかか、かたですか?」
錆びたブリキの人形のようにカタカタ震えながら、なんとか言葉を絞り出した。
「現役や。吹田市に住んどって、ちょっとこっちに遊びにきただけや」
「あ、そそ、そうなんですかあ」
「なんや自分、関西に知り合いでもおるん?」
「いえっ、ちょっと聞いてみただけで別になにもっ。あたしの知り合い千葉にしかいないですう」
完全にギクシャクとしてしまっている双葉。
良子と留美はそんな態度を怪しみ心配し、双葉の腕を掴んでぐいーっと引っ張って若者たちから距離を置くと、
「双葉ちゃん、どうしたの? なんか態度がおかしいよっ」
良子が双葉の耳元でこそり心配の言を囁いた。
「態度どころか言葉が標準語になってる。双葉があたしなんていうの初めて耳にしたよ」
「ああ、そういえばそうだね。双葉ちゃん、どうしたのお? なんで標準語なの?」
「だってネイティブ関西弁の前で、えせ関西弁なんか話せるわけないじゃないですかああ」
双葉は顔を真っ赤にしながら、良子の肩をぐっと掴んだ。
「おーい、試合、初めてもいいのかな」
若者が、すっかり自分たちの世界に入ってしまっている良子たちを見て苦笑している。
こうして良子たちは、秘密特訓の締めとして、大学生とのミックス試合を経験することになったのである。
7
六人いる男性が三人三人に分かれ、片方に女性と双葉、片方に留美と良子がそれぞれ加わった、五人チーム同士の対戦。
ゴレイロも置いて、通常のフットサルと同じだ。
当然ながら、良子たちの中で一番上手なのは留美であった。
技術だけなら、この大学生たちにも匹敵するのではないか。
だけどそうであればこそ、良子はなんだか悲しい気持ちになるのだった。
だって技術では対等だというのに、実戦では男性とまるで比較にならないほどの差があるのを感じてしまったから。
見た目上は接戦なのだが、自分や双葉は当然のこと留美に対しても明らかに手を抜いているのが分かるのである。
やはり、男性は男性であるというだけで圧倒的に有利なのだ。
強さも、速度も。
自分があまりに酷いのは例外として、世間一般的に女子だってやればもっと戦えるんだと思っていたのに。
だからこそ競技一般は性別で分けて行なうんだと分かってはいても、このなんとも悲しい気持ちをどうすることも出来なかった。
フットサルが初めてというこの女性の方が、良子よりよっぽど上手であるということの方が、よっぽど悲しむべき重大な問題かも知れないが。
交代人員がいないので休みを入れつつのプレーであったが、開始から三十分ほど経過した頃、
「手加減いただきありがとうございました。ちょっと提案があるのですが」
と、留美の提案によって、チーム編成に変更が加えらることになった。
ちょっと加えたどころではない。
男性二人を余らせて、
ゴレイロなしで男性四人。
留美、双葉、良子、女子大生、で四人。
要はミックスではなく、男女別のチームを作ったのである。
ゴレイロがいないため、ロングシュートの応酬にならないようサイドネット内側に当てたら得点というルールで改めてゲームが開始された。
結果は、良子たちチームのボロ負けであった。
女性チームは二人が初心者級の実力なのだ。しかもほとんどが高校生なのに対して、相手はみな大学生。
いくら男性陣が手加減しようにも限界があるのは当然であった。
だがそんな中、ついにというべき瞬間が訪れた。
「良子、こっち!」
と、叫び走る留美の足元へ、良子からこれ以上はないというパスが来たのである。
パスの半分がラインを割ってしまう良子のこと、まったくの偶然であろうが、とにかく留美は急に来たその絶妙なパスに慌てることなく大学生をしっかり背中で食い止めながらダイレクトに浮き球パスを前線へ送った。
するりマークを掻い潜った双葉が、倒れ込みながらボールに頭を叩きつけた。
サイドネットの内側に、ボールが突き刺さった。
「やった、双葉ちゃん!」
良子が叫んだ。
先ほどの秘密特訓で散々と練習した同盟コンビネーションであった。
女性チームは輪になり、抱き合って喜んだ。
良子たちにとって、この達成感を得たことこそが今日一番の成果であったのかも知れない。
この後は一度たりともゴールネットを揺らすことはかなわず、一方的に攻められて十点差以上の大敗をきっしたわけであるが、その結果がその達成感を引き下げることはなかった。
むしろ、こうまで圧倒的な実力を持つ男性という生き物相手に得点を決めたこと、それにより自分たちの可能性を感じ取れたという嬉しさが大きかった。
こうして成層圏同盟の三人は第一回フットサル秘密特訓を終え、それぞれの満足感を胸に鹿島線に乗って香取市への帰路についたのである。
8
じっくりと壁に染み込んだ長年の汗や埃。それらが呼吸するがごとく空気中へと溶け出して、部室はなんとも微妙なカビ臭さに満ち溢れていた。
読書をしろといわれれば特に問題なく出来るのではあろうが、大事な私物をロッカーに入れっ放しにしておくのは躊躇われるような。絶対に食事はしたくないような。
芦野留美。
九頭柚葉。
新堂良子。
鈍台洋子。
高木柚葉。
現在この部室でこのカビ臭さを共有し呼吸している五人である。
彼女たちは、それぞれ道具を手に清掃をしている。させられている、という方が正しいだろうか。
九頭柚葉と高木双葉の軽い口論がいつしかボールを顔にぶつけ合うまでの大喧嘩に発展、それぞれの仲良しが連帯責任を取らされて五人で部室の掃除をさせられているというわけだ。
「まあ、ただの掃除と思えば別に構わないけど、でも普通さあ、連帯責任って班で行動していたり、そこに一緒にいたりする子が負わされるものでしょ? あたしら三人のだあれも、その現場にいなかったのに、仲良しだからなんて納得いかないなあ。先輩たちはよい機会だから一気に綺麗にさせてしまえと思ったんだろうけれど」
芦野留美の発するその言葉は、他意のない単なる疑問なのであろう。
しかし、この状況にうしろめたさを感じているのか、留美の一言一句ごとに双葉の心臓に矢がぶすり一本また一本。ぐっ、うおっ、と呻き声を上げている。
表面上の態度とは裏腹に、気が小さい双葉なのである。
「悪いとは思っとるわ、留美。ごめんな。そやかて、それをうちにいわれてもなあ。連帯や部室掃除やって、全部アラジン先輩の命令やし、そもそもの原因はこいつが自分が悪いくせに食って掛かってくるからやしなあ」
双葉は、床をせっせと雑巾掛けしている九頭柚葉を指差した。
柚葉の、雑巾を持つ手の動きが、ぴたりと止まった。
「そいつはこっちの台詞だよ。冗談にいちいち本気になりやがってよ」
柚葉は立ち上がるなり、雑巾を床に叩き付けた。
そう、双葉のいうとおりこの件の発端ということでいえば、柚葉が双葉の言葉使いをからかったことにあるのだ。
「冗談はその顔だけでたくさんや、このアホんだら」
「あたしの顔のどこが冗談だよ。毎日鏡見てっけど、全然心当たりなんかねえぞ。むしろうっとりするくらいで」
「全部や全部。周囲にまとわりつく空気や小汚いオーラ、いまみたいなことを平気でいえる面の皮の厚さを含めて、存在のすべてがすべてオール冗談や」
「いったなあ、このタコ焼き屋あ!」
「焼いとらへんわ、この柑橘類!」
果たして今度はボールではなく雑巾を顔に投げ合うのであろうか、という一触即発の状態であること誰の目にも明らかであった。
が、あわやというところで、鈍台洋子が自らの肥満した身体を、仲裁すべく二人の間に割り込ませた。
「やめなよ、二人とも!」
いつもニコニコを崩さないその顔であるが、ちょっとだけいつもより目が細く、いつもよりほっぺたが膨らんでいた。
二人が黙ったのをみはからって、洋子は続ける。
「今回のことは、ユズちゃんが悪いと思うな、あたし」
「ええっ、だってちょっとからかっただけじゃん。あんなん責められちゃ呼吸も出来ないぜ」
不満そうな表情の柚葉。
「でもそれで相手が本気で嫌がってるんだったら、じゃあ謝っておいた方がいいんじゃない?」
洋子のいうこと、まさに正論である。
しかし、
「えー」
柚葉は、間違って渋柿を口にしたかのような顔になっている。
「ほらあ。あたしも一緒に謝るからさあ」
「うー」
なおも恥ずかしそうに、身体を左右にぶるんぶるん揺らしている柚葉であったが、親友に真顔で迫られて覚悟を決めたようで、ゆっくりと双葉の方へと向いた。
あくまで身体だけで、顔は半ばそむけた感じであったが。
「……悪かったよ」
仏頂面で、柚葉は尖った唇を微かに開いてもごもごと声を出した。
「ああ……そういわれたらなあ、うちかて悪かったわっていうしかないな。ごめんな、こっちも子供なんで。……しかしドンちゃんは、ほんまええ子やなあ。なんでこんなのと友達なん?」
「こんなのだあ?」
と、憤怒の形相に一変して双葉へ詰め寄ろうとする柚葉を制して洋子、
「ユズちゃんだって、いい子だよ」
「どこがや。今回は特別に許してやったけど、いつも人のことおちょくってばかりで」
「捨てられてる小さな動物を見るとほっておけないしい」
「それ単なるペット好きやろ。マフィアのボスかて膝に猫を乗せとるやん。それでええ子かどうかなんて分からへんやん。ドンちゃんは間違いなくええ子やけどな」
「いい子じゃないよお。食い意地張ってるから、子供の頃からいっつもユズちゃんのおかず奪っちゃうし。だからこんなぶくぶく太っちゃったしね」
「そういやダイエットでフットサル部に入ったゆうとったな。ほんま効果あると思うで。走り回らされるから、嫌でも痩せる。まあゴレイロで走ってないくせに、栄養どこいっちゃったのってくらいガリガリなのもおるがな」
双葉はちらりと柚葉に視線を向けた。
「やんのかあ、お前。受けて立つぞ」
柚葉はボクシングのように右左と素早く拳を繰り出した。
「やめた方がいいよ、喧嘩なんて。ユズちゃんずっと空手やってて、とてつもなく強いから。こんな痩せてても」
「誰がするか、そんな野蛮なこと。別にどこのゴレイロの話かなんてなんもゆうとらんわ。うちはただ、どっかの誰かと違うてドンちゃんええ子やなって話をしていただけや。……ところでドンちゃんって、なんでドンいうん? マフィアのドンか? ステーキのどんが大好きとか?」
その質問に、柚葉がぷっと吹いた。
「なにを笑うんや柑橘類」
「いや、分かっていってるんだろうなと思うんだけど、わざとボケてんなら全然面白くないし、じゃあやっぱり天然? って思ったらおかしくなって。……鈍台のドンに決まってるだろ、バーカ」
「え? あ、ああっ、知ってたわ! 余裕で知ってたわ! たまにはうちかて下らないボケをかますわ! 結婚して苗字変わったらなんて呼ばれたいって会話の前振りや」
「クズちゃんかなあ」
鈍台洋子は、ニコニコ顔のまま即答した。
「なんやそれ! それこいつの名字やん」
「だってあたし、将来ユズちゃんと結婚するんだもん。そしたら名前が九頭洋子になるでしょお。ユズちゃんはもうユズちゃんだから、クズちゃんユズちゃんと呼び合って紛らわしくないしい」
「充分に紛らわしいわ! つうか女同士で結婚出来ひんやろ」
「そうなれるようにいつか法改正の運動を起こすつもりなんだあ。ねえ、ユズにゃん」
洋子はもにょもにょとした胴体を、柚葉にぴたりくっつけた。
「勝手に決めんな!」
「ええっ、結婚しようっていったのユズにゃんの方なのにい」
「それ幼稚園の頃の話だろ。離れろ、勘違いされる」
柚葉はぴたりくっつく肥満体を押し退けようとするが、洋子は地に杭が突き刺さっているかのごとくびくともしない。
「ああ……そうかそうか、二人はそういう仲やねんな。ははあん、そうか、そうなのか。どこまで進んでおるのかなあ」
双葉はにいっといやらしい笑みを浮かべた。
「だから違うって。このタコ焼き屋! 絶対に違うからな。適当なことその関西弁でいいふらすなよ」
「ああ、分かった分かった。真実は、うちとここにいる人間だけの胸ん中におさめといたるわ」
「だからあ、真実じゃな……」
そんな柚葉の困ったような大声を、良子のスカーンと突き抜けた甲高い声が掻き消した。
「おおおおっ、なんかなんかなんかっ、凄いもんみつけたあああああああっ!」
その超音波のような声に、まだ柚葉が雑巾掛けをしていない部分の床からもわっと埃が舞い上がった。
音声による埃分離機能。最新掃除機に搭載されれば売れるのではないだろうか。いやいや、良子の声が特別なだけか。
「どうした、良子」
芦野留美が尋ねた。
「これ。この大学ノート」
机の引き出しの奥から良子が引っ張り出したのは、すっかりボロボロになった、埃を被った大学ノートであった。
「『部長ノート1 2009年』、って書いてある。これ本当かな? もしそうなら二十年もの大昔、創部してまだ数年しか経ってない頃ってことになる。なんだか、凄いものを発見してしまった。この埃のかぶり具合からして、長いこと誰も触ってなかったみたい」
「というか、わたし紙のノートなんて初めて見たよ。そういう作りのノートって大学ノートっていうんだ? 今は全部機械だから、そもそも学校で使う机は引き出しなんかないのが普通だし、だから使われなくて、だからなんとなく開けてみることすらしなかったんだろうね」
留美がノートの埃の理由を、自分なりに想像して語った。
確かに留美のいう通り現在は机上備え付けの端末か、腕時計型のリストフォンを利用して記述閲覧するのが当たり前の時代である。
様々なデータはクラウドつまりは国から割り当てられたサーバーの個人領域内に置かれるため、自宅や旅行先など場所を問わずいつでも記述内容の閲覧が出来るのだ。
「あたしは、お父さんの書斎にこういうのが腐るほどあったから慣れてるけど。……あれえええ? 部長、木村梨乃だって。なんかどこかで聞いた覚えが……」
「うちのおかんや」
疑問に首を傾げる良子を見て、双葉がぼそり呟いた。
「ああ、そうだそうだ。双葉ちゃんのお母さん、ここの部員っていって……」
という良子の声を、九頭柚葉の大声が掻き消した。
「えーーーーーっ、お前の親もこのフットサル部にいたのお?」
信じられないといった表情で、双葉の顔に自分の顔をぐうっと寄せた。
「あんまり顔を寄せんなや! それより、もってなんや?」
「きっとそのノートを見てみれば分かるよ。部長の記録だというんなら、部員の名前も書かれてるんじゃないか?」
柚葉にいわれ、良子はようやくその古いノートの埃を払ってゆっくりと開いた。
このノートは旧姓木村梨乃が書いたと思われる、部長を務めるにあたっての様々なことを記述したものであった。
単なる日記のようでもあり、戦術研究や試合や練習を記録したものでもあり、要は思い付くまま筆を走らせた雑記帳だ。
なんでもかんでもとりあえず記載をしておけば、後でなにかの役に立つかも知れないというような。
「おおおおっ! 佐治ケ江先輩のことが書かれているううううう!」
「やかましわ。いちいち甲高い声で叫ぶな」
双葉が、良子の頭をぐっと押さえつけた。
「ごめん」
と謝った瞬間に、もう良子の表情はにやけ、そして目がきらきらと輝いていた。
佐治ケ江優、二十年前にこの佐原南高校で女子フットサル部に所属していた生徒である。
その後、日本代表に選ばれて主将となり、W杯奇跡の二連覇を成し遂げたその立役者となった、良子が神様と尊敬する人物である。
いつしか佐治ケ江優という存在が自分と運命の糸で繋がっているような、そんな特別な思いを抱いていた良子である。顔がにやけ、目が潤むくらい当然であろう。
そんな良子だけに、佐治ケ江優に関する記述に関しては実に目ざとかった。
『周囲に溶け込む気がなく、本人もそれのどこが悪いと居直っている節がある。
ここに入ったからにはせめてフットサルの楽しさくらいは覚えて欲しいものだが、しかしフットサルはチーム競技。一人でボールを蹴っていることのみを求めている現状を考えると厳しいか。
なんでも過去に酷いいじめを受けていたらしく、それで広島から千葉へ逃げるように転校してきたらしい。それを考えると、誰とも接触したがらないのも仕方ないことなのかな。
ポテンシャルは最高のものを持っているのに惜しいよな。』
部長ノートの、佐治ケ江優についての悩みを綴っている章である。
「神様って、最初はこんなだったんだ……」
良子はぼそり呟いた。
そういえば、以前に双葉にいわれたことがある。双葉の母親である梨乃が、佐治ケ江優という選手を作り出した、と。
いまの文章を読んで、その意味がちょっと理解出来た気がする。
きっと、この続きを読んでいけば、段々と神様が神様に変身していくんだ。
「佐治ケ江優なんかどうでもいいから、早く他の部員のとこ見てよ」
せかす柚葉。
良子は佐治ケ江優についての記述だけを追い掛けたかったのだが、しかたなく素早くぱらぱらページをめくっていった。
今度は一人で掃除しにここへこよう。
などと、佐治ケ江の成長を知る楽しみに胸をワクワクさせながら。
部長ノートのページは進み、木村梨乃は三年生になり、新入部員が入ってきた。
ずらりと部員の名前が並ぶページ。
その中にある一人の名に、良子の目が軽く見開かれていた。良子以外の者もやはり驚いたような表情で、柚葉へと視線を向けていた。
「九頭、葉月って……。これ、ひょっとしてユズちゃんの……」
良子の言葉に、柚葉は頷いた。
「そ、あたしの母親の名前だよ。あたしの名前はそこから一文字貰っているんだ」
柚葉は照れたような笑みを見せた。
「おおおおおおっ、凄い、それ凄いよ、柚葉ちゃんに双葉ちゃん、それ運命だよきっと! あたしもこの高校に入ったことを運命と感じているけど、それと同じでさあ。おんなじ部活に入って知り合った二人の友達が、それぞれの親も同じ時期に同じ高校で同じ部活をやっていたなんて。名前だって、どっちも葉があるし、きっとこれ運命なんだよ運命!」
良子はなんだか興奮したように喜びはしゃいだ。
「友達じゃない!」
「友達やない!」
柚葉と双葉が同時に抗議の怒鳴り声を上げた。
「勝手にハモってくるなよ、タコ焼き屋! ハモりたいんなら、標準語でいえよ。あたしが、やないなんて関西弁使うわけないだろ」
「ハモったのそっちやろ。つうかなんでそうことごとくが自分基準やねん」
「うるせえ。店に殴り込みかけてタコ焼き屋を潰すぞ!」
「せやからタコ焼き屋なんかやっとらんわ! 何度も言わせんなボケが!」
二人は睨み合い、バチバチ火花を散らした。
「ああもう、なんでそうすぐ喧嘩になるかなあ。運命の二人なのにさあ。特に双葉ちゃん、勿体ないよ。せっかく成層圏同盟の出会いと、親子の縁と、二つも素敵な運命に導かれているというのにい。もっと素直にならなきゃあ」
「これがうちの素直さ全開のリアクションや。……でもな良子、これ別に運命やないんちゃう? だってうちの親とこいつの親と、もしも二人が仲良かったんなら、おんなじ時期に子供も出来たことやし名付けのことも相談しおうたかも知れへんやろ。おかんに聞いてみな分からへんけどな」
柚葉を睨みつつも、距離を取る双葉。
「いやあ、どうであれ運命は運命だと思うなあ。でも聞いてみて欲しい気がするけど、確か双葉ちゃんいまお母さんと喧嘩中なんだよねえ」
「あんなあ、良子、その話はやめていうたやろ。あんな女の顔を思い出すだけでも腹立たしいんやから。あんなんから生まれた思うと薄ら寒い気分になっていっそ全身の血を全部入れ替えたくなるわ。どうせならドンちゃんの血がええなあ」
「あたしB型あ」
「ダメやん、ドロドロに固まるやん。うちA型やん。つうか、ほんとにB型なん? ドンちゃん」
「うん」
鈍台洋子はニコニコ笑顔で頷いた。
「なあなあ、こいつさ、お母さんとなんかあったの?」
柚葉が興味津々といった表情で、双葉を親指で差しながら良子へ尋ねた。
「うん、ちょっとね……」
良子は苦笑いを浮かべた。
母親が浮気の常習犯で現在家庭が修羅場だなどと、いえるはずない。
「いうなよいうなよ! 絶対にいうなよ、シャク! 分かったか? ほんま分かったか?」
「はは、はいっ! 分かりました!」
剣幕に押され、良子はびしっと気をつけをして大きな声を出した。
「分かればええんや、シャク」
「それゲームの時だけにしてよお。……ワラちゃん」
「ワラいうな」
「そっちがシャクシャクいうからだよーだ」
なにを話しているのかというと、試合中などで使うコートネームのことだ。
佐原南のフットサル部は、試合、紅白戦などの際にはコートネームを使って声を掛け合う慣習があるのだが、先輩から押し付けられた良子の名がシャクレ略してシャクなのである。
「でも、双葉ちゃんの名前はまだいいよなあ。最初の有力候補より、だいぶ融通してもらってるもん」
「ま、まああれに比べればなんでもええねんけどな」
ふたば - ぶーたん - ぶー
双葉はそんな連想から最初はブーと呼ばれていたのであるが、本人はそれが嫌で嫌で仕方がなく、先輩に掛け合って変更してもらったのだ。
特別に変更を許可されたのであるが、決めるのはまたも先輩。
関西弁だからお笑いでワラ。
これも双葉にとってアイデンティティという存在の根本をバカにされているようで気分の良いものではなかったが、ブーよりましだと受け入れた。これも突っぱねたら反対にもっと酷いのにするぞと先輩に脅されて。
なお芦野留美は、そのままルミである。
あだ名をつけて親しみやすくすることではなく、試合の時の声掛けをスムーズにさせるのがコートネームの目的だ。姓名の中に呼びやすい部分がある場合はそこから取ることが多く、だから留美はルミなのだ。
同様に、鈍台洋子はドンであり、九頭柚葉はユズである。
柚葉は最初、先輩たちのからかいによってクズという名が有力候補として上がったのだが、実際に呼んでみると罵倒しているのか呼んでいるだけなのか紛らわしく、早々に除外されたのだ。
「ねえ、王子って名前がいたるところに出てくるね。木村大先輩の、男子部の憧れの人の名前なのかな? でも、バカだアホだ散々に書かれてるなあ。よく進級出来た奇跡だ、とか」
鈍台洋子が、部長ノートの王子と書かれたところを次々と指差していく。
確かにほぼ毎ページのように、王子という文字がある。
「あ、それは」
双葉と柚葉が、同時に口を開いていた。
「だから関西弁でハモるなって! 聞いとけよな、さっきいったこと。記憶する能力がないのかよ!」
「だから自分基準でものをいうな! つうか、いまの部分に関西弁入ってへんやん!」
「はいはい。じゃあ、そっちから先にいえよタコ焼き屋」
「くそ、腹立たしいなほんま。あ、ほんでな、その王子の話なんやけど、男子やないでドンちゃん。れっきとした女子部員。うちのおかんの一コ下や。遠藤裕子っていってな、あ、いや、この頃は山野裕子いうたかな。おかんの仲良しで、昔からよくうちに遊びにくるで」
「えーっ、裕子さんお前んとこにもくんの?」
驚く柚葉、ちょっと面白くなさそうな顔だ。
「お前呼ばわりされる筋合いないわ」
そういって睨む双葉を、無視するように柚葉は他のみんなに視線を向ける。
「うちさあ、九頭和菓子って店やってんだけどね、裕子さんがこっちに帰省すると必ず寄ってお菓子をどかっと買っていってくれるんだ。でもそれはおまけで、本当の目的はおじいちゃんと雑談することと、お母さんを今度こそ冗談で笑わせられるかチャレンジすることなんだよね」
「笑わせられるか、チャレンジ?」
良子が首を傾げる。
「うん。お母さんってば、家ん中ではお笑い番組でお腹抱えてどったんばったん笑い転げているくせに、家族以外には恥ずかしがって絶対に笑い顔を見せない人だからさあ。裕子さん、いつもあの手この手で笑わせようとするんだ」
笑わせようとする裕子のギャグでも思い出したか、柚葉はふふと笑った。
「なんかさあ、面白そうな人だねえ、ユズちゃんのお母さんもお、その王子大先輩もお」
想像して、良子も楽しげな笑みを浮かべた。
「和菓子もね、とっても美味しいんだよ。今度みんなで行こうか」
鈍台洋子が、口の片端からたりとたれたヨダレを袖で拭いた。
「学校くる道の小江戸の途中にある、あの和菓子屋さんだよねっ。いいねえ、行こう行こう行こーっ!」
良子が賛同し、腕を突き上げた。
「ええなあそれ、値の張るもんをたーっぷり買い込んでお得意さんになったろかあ」
腕を組み、にっと笑みを浮かべる双葉。
「ちょっと、やめろよ! お菓子なら、少しくらい持っていっていいからさあ、買うなよな。買うくらいなら盗め。盗んで捕まれ」
柚葉は双葉の両肩を掴んで、ガタガタ揺らした。
「こっちがお得意になってしまったら、でっかい態度を取れなくなるからなあ」
揺らされながら、双葉はにいっと笑みを浮かべた。
「違う!」
「じゃあ、なんや? いってみ?」
双葉のすっかり形勢逆転といった表情に、柚葉はうーーと唸ると、双葉の肩から手を離した。後ろへ下がりながら、左腕を立ててリストフォンのカメラを双葉へと向けた。
ピピ、とフォーカスロックされた音が鳴った。
双葉はさっと横へ逃げ回り込んで、柚葉の腕を掴んだ。
「他人の写真撮んのは、全国どこの学校も校則で禁止やで」
「じゃあ、撮らないからお前の顔写真をよこせよ。絶対こいつに和菓子売らないようにって、むしろ毎日お土産たっぷり持たせてやれってお祖父ちゃんや従業員に伝えるんだから」
「へーえ、ほな毎日お土産もろとこうかなあ」
「それもムカつくな。お前これから小江戸なんか通らないで、北口に回り込んで帰れよな。それかバスに乗れ」
びしっ、と柚葉は双葉の顔へと油日を突きつけた。
「なんで指図されなならんねん!」
「うるさいなあ。というか、なんでこんな話になってんだよお。そうだよ、ドンちゃんがあたしん家にお菓子買いに行こうとかいうからああ。まったくもう! だいたい、タコ焼き屋は裕子さんの話をしてたんだろ、ドンちゃんにちょっとお菓子の話されたくらいで脱線してんじゃないよ。早く続きを話せよ、バーカ」
だん、と柚葉はイラついたように床を踏み鳴らす。
いわれた双葉もまた、その言葉に腹を立てて強く床を蹴った。
「あああああああったまきたあ! お前がうちの言葉を遮って、裕子さんがお菓子買ってくれるとかいい出したんやろ! 決めた、もう意地でもお前んとこでお菓子を買うたるわ」
「やめろ!」
「きっとめっちゃ美味しいんやろなあ。だって、話を聞いているとお前みたいな娘がいるとは思えないくらいに素晴らしい親みたいだもんな。だって、お前みたいなどうしようもないのがいるっちゅーのに、お店がちゃんとしてるんやもんな。てかお前の話なんか別にどうでもええねん。裕子さんの話しとったのに、クズに邪魔されたわ。裕子さんはな、さっきもいった通りうちのおかんの一コ下のな……」
ようやくにして、双葉は王子こと遠藤裕子のことを語ることが出来たのである。
遠藤裕子。双葉の母より一学年下のフットサル部員。
顔が整っているのに髪の毛が男子なみに短かったから、王子と呼ばれていた。現在は伸ばしており普通の女性のようであるため、どのような感じだったのかは分からないが。
「でな、女子フットサル部が強豪になったのは、うちのおかんが佐治ケ江優の気弱なとこをビシバシ鍛えたことによるものなんやけど、でもおかんは謙遜か知らへんけど、すべては裕子さんから始まってるいっとるんや。実際、個性派揃いの部員たちを強烈な性格でまとめ上げて、初めて佐原南を大会優勝に導いた人なんやて」
「へええええええっ」
良子が、両の拳を握り締めて目を輝かせた。
佐治ケ江優と繋がりのある人物の話に興奮してしまったのだ。
「じゃあ偉いのは裕子さんで、お前が偉そうにいえることなんもないな」
柚葉が茶々を入れる。
「うるさいで、そこのミカンだかカボスだかポンカンだか。そっちかて人のこといえへんやろ」
「いえなくはない。佐原南が全国優勝した時、お前のお母さんはもう卒業していなかったけど、うちのお母さんはその大会の得点王、エースストライカーだからな」
「お、お前が偉そうにいうことじゃないわい。お前はゴール前で気を付けしとればええんや。つうかシュート怖いってぶるぶる震えとればええんや」
形勢逆転また逆転、双葉は顔を真っ赤にして吐き捨てた。
「でもさあ、神様、じゃなくて佐治ケ江先輩は、佐原南が強くなったこととどう関係しているの? 一度も優勝はさせていないんだよね? 強くしたといわれても、よく分からないよ」
良子が、双葉に尋ねた。
「それはな、間接的におおいに関係があんねん。佐治ケ江優の超人プレーに触発されて入部した者や、絶対にあの先輩には負けられへんって努力する者がおって、それで全体が強くなっていったんやな。もう佐治ケ江優はいなかったけれど、裕子さんの代で関東制覇。好成績が人気を呼んで入部希望者もどっと増えて、そんな新入部員である一年の活躍もあって今度は全国制覇。その部長ノートってのが代々しばらく続いたんなら、裕子さんが書いたのもあるんちゃうか?」
双葉の言葉に、良子はノートの束をめくって表紙を確認した。
「ああ、これ……なのかな?」
表紙を見て、良子も他のみんなも、なんだか難しい顔になった。
ぶちおノート 山野裕子 2010
そう書いてあるような気がするのだが、一瞬目を離すともうなんと書かれているのか分からなくなる。まるで暗号、というか目の錯覚を利用した検査だ。
ノートを開いて中身を見ても、やはり軍の機密暗号文書であった。
「へったくそな字」
全員の頭に浮かんだ正直な感想を、柚葉がぽろりと漏らした。
「なんですぐ口に出すねん。いくらほんまのことやからゆうて。いまでも、ほとんど変わってないけどな」
双葉は、裕子の書いた部長ノートをぺらぺらめくった。
どのページも解読にどれだけ時間を労するのだろうという、酷い字であった。
時折イラストが混ぜ込まれている。字の下手さを補おうとしているのかも知れないが、園児の落書きの方が遥かに上等という代物で、それは文字の難解さを倍増させるものでしかなかった。
そんな解読難解な古代文明の文化遺産であるが、それを見る良子の表情は穏やかだった。
「なんだよお前、気持ち悪いな」
柚葉が良子の脇腹を小突いた。
「ん? ああ、いや、なんて書かれているのかよく分からないけど、でもこれらが神様のいたフットサル部の、強くなってきた軌跡なんだなあ、って思って」
そういうと良子は、左腕のリストフォンを操作して、机に置かれたノートの山を写真におさめようとした。
だが、撮影音は聞こえないまま、良子は腕を下ろした。
「どうしたんや、撮らへんの?」
双葉は尋ねた。
「いいんだ。この中に、焼き付けたからさ。部の歴史、重みを」
良子はそっと胸に手を当てた。
「おーっ、かっこいいねえ君。さては未来の主将かなあ」
柚葉はからかった。
「やだ、やめてよユズちゃあん、あたし部で一番下手なのにい。下手なりに、先輩たちが積み上げてきた歴史の前で不真面目でいられなかっただけっていうか、主将とかそんなの考えたことないよ」
当たり前だ。
自分の面倒すら見られない者が、恐れ多い。
いまはとにかく練習を頑張って、みんなの邪魔にならないようにするだけだ。
良子は、もっとフットサルを頑張ろう。と、硬く心に誓った。
「いやあ、ご謙遜をお。新堂軍曹殿お。あ、埃が」
柚葉は良子の服についた糸埃を、摘んで捨てた。
「ユズちゃんはね、単に練習の厳しくなさそうな人に主将になってもらいたいだけなんだよ」
洋子が常にニコやかな顔を少しだけ変化させた。
苦笑しているのだ。
「ご明察う。さすがドンちゃん」
柚葉はパチンと指を鳴らした。
「てめえら、主将を云々など百年早えんだよ!」
部室の扉が少しだけ開いており、そこから荒上先輩が憤怒の表情で覗いていた。
「うわああ、アラジン先輩っ!」
全員声を揃え、ぴょんと飛び上がった。
柚葉もすっかり慌てて、関西弁でハモるななどと文句をいう余裕もなかった。
かくして一同は、掃除時間大幅延長。
月夜の中を五人で仲良く(いや、そのうち二人はどつきあいの大喧嘩か)帰宅することになったのである。
9
高木双葉は、ピッチの外からミニゲームの様子を見ている。
ミニゲームの、というよりも新堂良子の様子を、という方が正しいだろうか。
「ほら、シャクレ」
ピッチの中、須黒笛美先輩が良子をターゲットにしたパスを出した。
受け手を考えた、非常に丁寧なパスだ。
新堂良子は、多田ロカのマークを外してすっとボールの軌道へと入った。
今度こそ、という真剣な表情で転がってくるボールを待ち構え、すっと足を出した。
教本では、ボールが足の裏と床に挟まれてキュッと気持ちの良い音で静止するところ。だが良子はボールを爪先で思い切り弾いてしまった。
ころころ転がるボールを追い掛けて、出した右足で余計に蹴ってしまい、今度は左足先で蹴ってしまい、なんとかボールを止めたいのに努力すればするほどころころころころどこまでも逃げていく。
「あああああああ! イライラすんなあ! よこせ!」
味方のはずの不和先輩が、激しく肩をぶつけて良子から奪い取った。
「相変わらず……酷いな、良子。つうか、日に日に酷くなっとらへんか?」
双葉は腕組みしながら、なんとも困ったような表情を浮かべていた。
「確かに、もう庇うに庇えない……」
隣の芦野留美も、同じような表情であった。
「なんでキャッチすんだよ、てめえ! バーカ!」
武朽先輩の怒鳴り声が轟いた。
せっかく放ったシュートを九頭柚葉に止められたのが癪にさわったようである。
「だってゴレイロが相手のシュート防ぐの当たり前じゃないですか!」
柚葉は、あんたバカ?という表情で先輩を睨み付けた。
「ルーレットで気持ち良く抜いたのにシュートを止められたあたしの気持ちはどうなんだよ!」
「知らねえよ! こっちだって決められたら決められたで、アラジン先輩にどやされるんですから!」
「知らねえよだあ? てめえ、ちょっと用具室に来いやあ!」
「やだああ、もうあそこは嫌だああああ! 言葉使いが気に障ったのなら謝りますからあ!」
「遅いんだよ、ボケ」
武朽先輩は、柚葉の襟をぐいと掴んだ。
「あいつもあいつで、相変わらずやなあ」
双葉は良子を見つめる表情とはまた別のなんともいいようのない顔で、足を掴まれ床をずるずると引きずられていく柚葉の姿を見つめていた。
ちょっと前まで双葉は柚葉のことが大嫌いだった。
あのふてぶてしい顔を見るだけで腹が立って仕方なく、先輩に歯向かって殴られているたびに心の中で拍手喝采ザマアミロであったのだが、最近そういうところを見ても特に嬉しくもなくなってきた。
彼女の豪放磊落脳天気理不尽ぶりは、もう治しようのない天性のものであり、誰に対してもああいった態度であることが分かってきたからだ。
つまり、大喧嘩が耐えないのは自分がつい乗っかってしまっていたのが原因だったのだ。
喧嘩になったところで、あの理不尽な性格はどうしようもなく、ただ自分がイライラするだけ。なら喧嘩にならないようにしておくのが得策というものだ。なにせ相手はあのようにアホなのだから。
最近はそれが行き過ぎて仏の心境に入ってしまったのか、先輩に盾突いている喧嘩になっている柚葉を仲裁に入りたくなるくらいだ。とはいえ実際のところ一度として間に入ったことなどはなく、用具室へ連れていかれていくのを黙って見ているだけであるが。
さて、お仕置き部屋に強制連行された柚葉の代わりに、同じく一年生ゴレイロである桐谷舞がピッチに入り、ゲームは継続中。
「シャク、打てえ!」
ぼけーっとしていた双葉であるが、その須黒先輩の絶叫に、はっとしてピッチへと視線を戻した。
「はい!」
良子が転がるボールへ詰め寄った。
ゴール前の混戦で、ゴレイロ桐谷舞が飛び出しながら大きく弾こうとして失敗、ぽっかり空いたところにこぼしてしまい、近くにいた良子が反応し飛び込んだのである。
ゴレイロはパンチングクリアのために倒れており、良子としては無人のゴールにただ流し込むだけであった。
「ああくそ、やられた!」
桐谷舞は振り返り、自身がぽっかり空けてしまったゴールを見て舌打ちした。
しかし、得点は生まれなかった。
ボールに飛び込んだ良子であるが、自身の速度を殺せずに蹴るタイミングを逃し、ボールの上をまたぐように駆け抜けてゴールの中に飛び込んでしまったのだ。
「なにやってんだよ、シャクレ! このバカ! シャクレアゴ! ペリカン女!」
武朽先輩がドンと床を踏み付け、怒鳴った。
「すみませえん!」
良子の両腕はすっかりネットにからまってしまっており、もがけばもがくほど抜け出せない状態になっていた。
「なんなんだよ今のは。なんて名の必殺プレーだよ。習い始めの小学生だって、あんなことやりゃしないぞ。基礎からやり直せっつーか、いっそ生まれ変われよお前。才能なさ過ぎるんだよ。きっと先天的なんだよ、下手くそ! シャクレアゴ! 辞めちまえバーカ!」
「すみません」
まだおさまらない武朽先輩の、容赦のない暴言罵倒マシンガンにうなだれる良子であるが、でも次の瞬間には、顔を上げ、にんまりとした表情になっていた。
「よし、今度こそ迷惑かけないようちゃんとやるぞお」
ぎゅっと拳を握った。
だがもう、グループ交代の時間であった。
「交代! 今度はB組とE組で!」
荒上副主将の指示に従ってぞろぞろ移動、ピッチ内ががらりと入れ代わった。
良子はニコニコとした顔で、
「頑張って!」
芦野留美や鈍台洋子とハイタッチをしながら、ピッチを出た。
「お疲れさん、良子」
双葉は良子を出迎え、肩を叩いた。
良子は双葉の隣に腰を下ろした。
ピッチに視線を向ける良子であったが、やがて、
「どうかした?」
と、双葉へと顔を向けた。
ついじーっと見つめてしまっていたのに、良子が気づいたのだ。
「あ、いや、なんでもあらへん」
双葉は手を振り、ピッチへと視線を戻した。
なんでもなくはなかった。
なんだか不自然な気がして、それでつい無意識に良子の顔を見つめてしまったのである。
なにが不自然かというと、良子のフットサルの技術が、である。
特に身体に異常があるとも思えない。
よく走るし、体力もしっかりしている。
同じクラスだが、体育の授業でもソフトボールやハードル走など運動能力は高い。正直、羨ましいくらいだ。
なのに、どうしてフットサルだけこうも下手なのか。
「よーーーし、いいよーーー、みんなあ、声出してこーーーっ。そこ! 打てえ! あああっ、留美ちゃん、シュート惜しかったああああああ!」
一休みすると、自らピッチ外周でボール拾いの任に務いた良子。手を叩いて、元気よく声掛けをしている。
その姿を見て、双葉は苦笑し、頭を掻いた。
「なにがなんであろうと、いまの良子が正真正銘のいまの良子やん」
この良子の、どこか間違うとるか?
どこも、間違うてへんやん。
健気で、前向きで、元気で、優しくて。
それでええやん。
「チカラ先輩、後ろ来とる! テバ、ドンちゃん、いまのパスワーク良かったで! ナイスや!」
双葉も立ち上がり、大声を張り上げ手を叩いた。
良子の視線に気づくと、照れたようににかっと歯を見せて笑った。
「よーし、ハイテンションでえ突っ走るぞおおおお!」
新堂良子は元気良く大声を張り上げて、光のアッパーカットで天を打ち抜いた。
「おおーーっ!」
高木双葉と芦野留美が続いたが、直後、双葉は真顔に戻って、
「ついノリで、おーとかなんとか叫んでしまったけど、どんな先輩なんやろかあ、練習きつくないんやろかあ。不安やなあ。中学ん時みたく毎日怒鳴られたり、ボールを顔に投げられたり、背中に飛び蹴り食ろうたり、ジャイアントスイングぶんぶん振り回されてパッと手を離して飛んでけ~みたいなことされへんやろかあ」
そんな双葉に良子はぴたり寄り添いにんまり笑顔。
「双葉ちゃあん、ここは天下の佐原南だよお、そりゃ死ぬほどきついに決まってるよお。怒鳴られるよお。あったりまえさああ」
「うわああ、やっぱりいっ!」
双葉は頭を抱え、うおおおと絶叫した。
「怖がってるってのになに追い打ちかけてんだよ、良子はもう!」
芦野留美が、良子の脇腹を肘で小突いた。
「え、え、うそ、あたしただ元気づけようと思っただけなのにっ!」
「ど こ が や ねん!」
双葉も反対側から良子の脇腹へ肘鉄だ。
「うにいっ、ずんときたあああ!」
良子は身もだえした。
などと騒いでいると、隣に立っているひょろり背の高い一年生が苦笑しつつ話し掛けてきた。
「あんたらさあ、元気がいいねえ」
ちょっと呆れたような、小バカにしたような口調であった。
「そう? まああれやなあ、特別仕様のハイテンション娘が一人おるからなあ。な、良子」
双葉は、良子の後ろに回り込むと頬っぺたをむにゅりと引っ張った。
「だってだってだってだって、これから部活なんだよ。フットサル部なんだよ。あの、佐原南のフットサル部なんだよ。佐治ケ江優の……神様のいたフットサル部なんだよ。これからっ、いよいよっ、始まるっ、そりゃあテンションも上がるってえ! そ、それはそうとっ痛い痛い痛い双葉ちゃん痛あい!」
良子はほっぺの肉を限界まで左右に引き伸ばされていた。
「さっきのお返しや!」
双葉は手を下ろすと、今度は良子の脇腹をくすぐり始めた。
「うわ、ちょっと、くすぐったい、っていうかなんでっ、意味不明っ、さっき二人から肘鉄もらったのあたしなのに、その後に顔をむにゅうううってやられて脇くすぐられて、意味分かんないいい! やり返してくれるっ。必殺くすぐり返し! 受けてみよ双葉っ!」
「ぐわっ、やめや! うち、くすぐりに弱いんや!」
「いいこと聞いたっ! お気に入りに登録だっ!」
「だからやめわははははっ」
などと幼児のような不毛な争いをしている二人であるが、ここは幼稚園ではない。
佐原南高校体育館の片隅である。
高木双葉、新堂良子、芦野留美の三人は先日、約束通り一緒に担任へ部活の願書を出した。そして週が明け、開始日である今日が来たというわけである。
これから一週間は体験入部期間である。願書を出していなくとも気軽に参加出来るし、出した者であっても辞める際に引き止められることはない。体験期間が終わる時点で、どこに正式に入部するかを決めるのだ。
良子は、辞めるつもりなど微塵もなかったが。
まったくの偶然であったとはいえ、せっかくフットサルの神様である佐治ケ江優がその昔に勉学運動に励んだこの佐原南高校に入学し、そして神様が所属していたという歴史のあるフットサル部に入ったのだ。辞めるなどとんでもない。罰が当たるというものだ。
「良子いい加減にせんといい加減におこわははははははあっ!」
まだくすぐり合っている二人。
さて、彼女たちはいまこの体育館でなにをしているのであろうか。
正解は「じゃれあっている」であるが、何故じゃれあっているのかというと、それは暇をもてあましてのものであった。
良子たち三人だけではない。
先ほど双葉に呆れ顔を向けてきたひょろひょろと背の高い女子、それ以外にも十人近くジャージ姿の一年生がおり、先輩たちのやってくるのをずっと待っていた。
みな良子たちの知らない顔ばかり、つまりは他のクラスの生徒のようであった。
もしも同じクラスの子がいたら同盟に誘ったのにな、と良子はちょっと残念そう。
「まあ、そういうの関係なく、同じ部活の仲間だけどね」
だけど体験入部期間が終わって、果たして何人が残るだろうか。
全員、残るといいなあ。
良子は本心から思う。
残った者は試合の出場を競うライバルになるわけだけど、でもそうやって競って成長出来るって素敵なことだと思うし、なによりもフットサルの競技人口が増えるのはいいことじゃないか、と。
フットサル日本女子代表はW杯で奇跡の二連覇を成し遂げた。二度目の優勝は、良子の記憶にも新しい。
連覇達成直後に、もう女性アスリートとしてはかなりの年齢であった佐治ケ江優が引退。
その影響か、それからの女子代表は大会優勝に縁がない。
アジアのカップ戦ですら準優勝に届かず、次のW杯は出場も厳しいといわれている。
佐治ケ江優がその時代に存在したということ、
相手主力に警告累積で出られない者が多かったこと、
終了間際に追いつくような劇的な展開が多かったこと、
こうした点から奇跡のW杯二連覇といわれていた。裏を返せば、日本女子代表の真の実力は世界レベルには到底及ばない、というのが現在の日本国内での評価である。
佐治ケ江のいた常勝黄金時代には、日本代表そのものをベタ褒めする評価ばかりだったのだが。
強さに波があるのは仕方がない。
良子だってそう思う。
競技人口が少ないのだから、谷間の世代が出来てがくっと弱くなってしまうということもあるだろう。
でも競技人口さえ多ければ、必然的に全体的な底上げがなされるわけで、人物がどんどん現れるわけで、二連覇三連覇ごときで奇跡とはいわせない強豪国になれるかも知れない。
だから日本代表の活躍を願ってやまない良子としては、競技人口が増えることは大歓迎なのだ。
トラップもろくに出来ない下手くそなわたしが、そんなことを考えるなどおこがましい限りではあるけれど、誰にだって夢を見る権利くらいあるだろう。
でも、いまはどうしようもなく下手だけど、ガムシャラに練習して絶対に誰よりも上手になってやるぞ。
フットサルが好きだということでは、誰にも負けないんだから。
だから、頑張るぞ。
練習が厳しくたって、わたしには成層圏同盟という心臓捧げた心強い仲間がいるんだから。
などと良子が胸の中で熱意を高めていると、
「来たよっ」
と、誰かの声がした。
向こう、体育館横にある出入口の一つから、上級生と思われるジャージ姿の女子が一人、姿を見せた。
「あれえ、なんだよ、まだ二年三年誰も来てないの?」
けだるそうに髪の毛をかき上げながら、近付いてきた。
「はい! まだ誰も来ていません!」
一年生の一人が答えた。
「そのうち主将たちも来るだろうから、そこで待っててよ。あ、あたし二年の武朽恵美子。よろしく。そいじゃ」
と武朽先輩が用具室へ道具を取りに消えたのと入れ違いに、また一人が体育館へと入ってきた。
そしてまた一人、さらにまた一人。
一年生たちは勝手分からぬままに、誰かの張り上げる声を真似して挨拶の言葉を叫んだ。
運動部は挨拶に関して独自ルールが強いものであるため、入部したばかりの者が戸惑うのはいつの時代も変わらない。
この数分間に一年生が発した言葉だけでも「こんにちは!」「授業後お疲れ様です!」「おはようございます(夕方だけど)」「はじめまして!」「お願いします!」等など千差万別。
そんな一年生を尻目に上級生たちが用具室を行き来していそいそと練習の準備を進めていると、やがてよったよったとした足取りの女子が入ってきた。
「主将かな?」
良子は留美に耳打ちした。
なんだか貫禄のある、偉そうに見える歩き方だったので。
でも、偉そうに歩いているのではなくただ単に太っていてふらついているだけの気もする。
ぽっちゃりどころか、半端じゃなく太っているのだ。
目が細くて、太っていて、まるでお相撲さんだ。
こんなぶるんぶるん揺れるお腹で、フットサルなんか出来るのだろうか。
うーん。
良子は悩んだ。
「無理やろなあ」
と双葉。
どうやら良子とまったく同じことを思っていたようである。
でもとにかく上級生は上級生だ。
良子たちは、みんなと一緒に挨拶をした。
「こんにちはあ!」
「おうっ! こんにちはっ! みんな元気だねっ」
ぶるんぶるんの女子はみんなの挨拶を受け、細い目をさらに細めて満足そうな笑顔で応えた。
「誰だよお前は!」
最初に来た上級生の武朽恵美子が、持っていたボールを放り投げてぶるんぶるん女子へとダッシュし頭をぶん殴った。頭皮の脂肪は普通なようで、ゴツと鈍い音が響いた。
「いたいい、あたし一年三組、鈍台洋子ですう」
太った女子、鈍台洋子は耳の近くの殴られたところを押さえながら答えた。
無茶苦茶痛いのかも知れないが、目が元から細いので相変わらず笑っているようにしか見えない。
「い、一年?」
声を発した双葉だけでなく一年生のほとんどが、昔のコントのようにがくり拍子抜けして倒れそうになっていた。
「一年のくせに生意気な態度とってんじゃねえよ、デブ! 激デブ!」
武朽先輩は、容赦なくもう一発殴った。
「だってえ、遅れてきたら、みんながかしこまって挨拶してくるからあ。なんで遅れて来たかというと、ジャージのお尻がびりっと裂けてえ、同じクラスのエミちゃんから裁縫道具貸してもらって縫っててえ、裁縫不得意というか才能的には得意かも知れないけど太ってて指も太いから上手く出来なくてえ、指ちょっと刺しちゃって血がアアアとかいってとかいってえ」
「裁縫の話なんかどうでもいいよ。そこで一年生みんなで主将たちが来るの待ってろ、この太っちょ! ダンゴ! チャンコ鍋! 拾え、あのボール!」
武朽先輩は自分が放り投げて転がったボールを鈍台洋子に集めるよう命令した。
そんなやりとりを目にしながら、良子はむーーと小声で唸っていた。
体育会系、といえばそれまでだけど、でもなんかみんな荒っぽそうだなあ。いまの先輩を始めとして。
さっき双葉ちゃんにはあんなことをいっておきながらなんだけど。
「ごめん、ユズちゃん、遅くなった」
ボールをすべて集めて先輩に渡した鈍台洋子は、お腹のお肉をぶるんぶるん揺らしながら一年生たちの中に入ってくると、先ほど良子たちに話しかけてきた背の高い女子へと寄った。
「もう、ドンちゃんふざけんなよ、どこ行ってたかと心配したじゃんかよ。ジャージなんか、あたしにいえば縫ってあげたのに」
ユズちゃんといわれたすらりと背の高い一年生は、ほっとしたようなイラついたような表情を浮かべた。
「いいよ、ユズちゃんいつも変な刺繍しちゃうんだもん」
「変な刺繍なんか一度もしたことないよ。可愛らしいのしか」
「うそお、アネッサンドリアのホークスカイが殴られて顔面半分歪んでるとことか、そんなんばっかじゃん」
などとドンちゃんユズちゃんがなんだかマニアックな会話に興じていると、なんだかいきなり空気が変わった。
二年生たちが一斉に引き締まったような表情になり、体育館扉へ視線を向けたのである。
「おっと、主将が来たぞ」
上級生の一人がそう口に出した。
二人、あらたに体育館に入ってきた。
先頭に立つ者が、主将であろうか。
髪が長くて眼鏡をかけている。
背は低いが、ちょっと冷たそうな、なんだか風格を感じさせる顔立ちであった。
数歩ほど下がって、いかつい顔の女子。するとこちらは副主将であろうか。
一年生たちも二年生にならって挨拶をし、二年生にならって主将たちを取り囲んだ。
「主将の花咲蕾です。よろしく」
眼鏡で小柄なのが、やはり主将であった。
2
「主将の花咲蕾です。よろしく」
彼女は一年生へ身体を向け、大きくはないがよく通る声を出すと、小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
良子たち一年生は大声で深く頭を下げた。
「副主将の荒上です」
大柄でいかつい顔の女子の挨拶に、また一年生は頭を下げた。。
「今年は本入部希望の者ばかりなんだよね。だからはなから佐原南の部員として接するから、覚悟してね。それじゃあ端から、一人一人に自己紹介をしてもらおうか」
花咲蕾主将は、冷たい感じの表情を崩すことなくいった。
「え、端? それじゃあ、あたしからだな」
先ほど鈍台洋子にユズちゃんと呼ばれたすらりと背の高い一年生が、体育館の壁際まで出るとくるり振り向いた。
「一年三組、九頭柚葉です! 佐原六中出身」
そういうと彼女は、勢いよく右拳を突き出した。正拳突きだ。
そしてハイキック。
空手をやっているのであろう。突きも蹴りも、空気を焦がしそうなくらいに勢い迫力のあるものであった。
間髪入れずに後ろ回し蹴り、膝蹴り、踵落とし、肘、手刀、受け、ハイキック。
型、というのだろうか。「特技は空手です」といわんばかりの、一連の見事な動きを披露すると、
「特技はいたずらです! あと趣味は食べ歩きです!」
と締め、押忍っと深く礼をした。
「はい、ふざけすぎ。用具室行き」
主将の花咲蕾がぽんと手を叩くと、二年生二人が九頭柚葉の背後に回り込み、がっちりと押さえ付けた。
「え、ちょっと、なに、やだっ、なにすんだ、ちょっと!」
柚葉はもがいたが抵抗むなしくすぐそばの扉の向こう、用具室へと連れ込まれてしまった。
金属の重たい扉が閉じられた。
全部員が見守る中、
「ギャアアアアアアアアアア!」
断末魔のような悲鳴が聞こえてきた。柚葉の声のようだ。
それが一分ほども続いただろうか。
不意に扉が開き、九頭柚葉がげっそりやつれたような顔になって出てきた。
「どうした? ユズちゃん。泣いてるけどどうした? 泣いてるユズちゃんも可愛いな。大丈夫?」
鈍台洋子、心配の言葉はかけているものの、まるで心配していないこと誰の目にも明らかであった。
「思い切り、くすぐられた……」
ふらふらと歩いてきた柚葉は、がくり膝をついた。
「くすぐられただけか。ちょっとされてみたいような、みたくないような」
と呟くのは良子だ。
あれだけげっそりしているのだから一体どんな殺人的なくすぐりだったのだろうと思う半面、くすぐりだけでそんなになるわけないじゃないかという思いもあり、ちょっとだけ受けてみたくなったのだ。
「また葉っぱちゃんかいな」
高木双葉が、ちょっとつまらなさそうな表情でぼやいた。
「なにが?」
良子は小声で尋ねた。
「ほら、良子の妹も葉付きやろ。良子も、うちの名前に紛らわしいとかゆったことあるやん」
「ああ、ごめん。気にしてたのか。でもここはフットサル部。名前より個性で勝負だっ」
「うち、なんだかんだ地味やからな。個性でも、あいつには負けるわ。つうか、あんなんやったら別に勝ちたくもない」
双葉はちらり柚葉を見た。一瞬目が合い、慌ててそらした。
「じゃ、次」
主将の声に、二人目、鈍台洋子が前に立った。
「一年三組、鈍台洋子です。さっきのユズちゃんと……ユズと、いや違うな、柚葉と、いや九頭さん、でなくて柚、柚……」
「オフィシャルな呼び方に迷ってなくていいから、とっとといえよデブ! まだたくさんいるのに。つかえてんのは狭いとこ通る時の身体だけにしとけ!」
上級生の一人がしびれを切らせて怒鳴った。
「いやあ、こりゃ上手いこといわれた。どうもすみません、先輩。いや、あのね、友達だったっていおうと思っただけなんです。ユズちゃんの家はね、佐原駅そばの有名な和菓子屋さんで、あたしはそこの近くにあるどうでもいい金物屋で、幼なじみで一緒に空手を習ってましたからね。ユズちゃんはフットサルもやってて、あたしは空手だけだったんですけど、なんかいつの頃からか太りだしてえ、全然痩せなくてえ、動く以上に食べるからなんですよねえ。常に秋みたいな。フットサルはとにかく走るから痩せるよってユズちゃんがいうんでえ、始めてみようかなと。鈍台ダイエット計画2029カミングスーン! 痩せて美しくなったあたしを見るのは君だ」
「はい、用具室」
主将は面倒くさそうに腕を上げると、指をパチンと鳴らした。
「え、なんでえ?」
心底疑問といった表情の洋子、用具室へさようなら。
「うわあ、凄いわ。ドンちゃんいう子、凄いわ。なにが凄いって、用具室に連行された前例を目の当たりにした直後に、普通出来ひんわあんなん。アホとか天才とかじゃなく、もう悟りや、悟りの境地や!」
双葉は、良子にだけ聞こえるような小声で興奮気味に騒いでいた。
「次」
主将の声。
「吉田理恵です。よろしくお願いします」
ポニーテールでぎゅっと上げているものの、それでも地面につきそうというくらいとんでもなく長髪の、そして病的なくらいにがりがり痩せた一年生。
彼女はそのやつれた顔のイメージのままに、ぼそりとした言葉を発し、紐の切れたマリオネットだか骸骨模型のように、かくりとうなだれるように頭を下げた。
「もっと元気出さないと用具室送り。っていいたいとこだけど、前の二人が酷すぎだから相対的に合格にしとく。次」
「茂満香奈美です! 岡野二中出身! キープ力には自信があります。厳しい練習を頑張って成長したいと思います。よろしくお願いします!」
鼓膜破るような元気な大声で、びしっと締めた。
元からハキハキした喋り方なのか、先ほどの二人のようになりたくないというだけなのか分からないが。
「鈴鹿澄子です! よろしくお願いします!」
「桐谷舞です!」
次々と、前に出て挨拶をしていく。
「茨崎悠希です。三松二中出身です。小学生の頃からずっとイバちゃんと呼ばれてました」
「イバサキ、テバサキ、テバ。じゃあお前、コートネームはテバな」
副主将の荒上先輩が勝手に命名し、ぴっと指を差した。
「えええええ」
焼鳥みたいな呼び名に不満げな茨崎悠希であったが、副主将にじろり睨まれ縮こまった。
続いて、留美の番がきた。
「芦野留美です。久野三中出身です。一応どこのポジションもこなせますが、ここはレベルが高いので最初は足手まといにしかならないかも知れません。練習して、早く先輩たちに追い付いて手助けが出来るよう頑張ります。よろしくお願いします!」
「はは、上手く先輩立ててまとめたもんやな。ほな、次はうちや」
双葉は留美と入れ代わり、前に立った。
「高木双葉いいます。おかん……母の影響で小さな頃からフットサルをやっておったんですけど、あまり上達せんで中学では先輩に怒られてばかりでした。ずっとピヴォやってましたけど、でも、足らんとこあればどこでもやります。精一杯頑張りますんで、よろしくお願いします」
関西弁イントネーションで述べると、深々と頭を下げた。
「ああ、緊張したあ」
双葉はドキドキする胸を押さえながら、良子の隣に戻ってきた。
「なあんで関西弁なのに用具室行きにならないんだよお」
九頭柚葉が不満そうな表情を隠そうともせず、双葉にぐっと顔を寄せてからんできた。
「なんや意味分からんわ! なにいっとるんや、こいつ。つうかどいつもこいつも関西弁イコールお笑いかよ、不真面目人間かよ、って、バカ、見てる見てる!」
「うわ、やば」
双葉と柚葉の二人は、まるで軍人かのようにびしっと気をつけをした。
先輩たちの視線が、自分たち二人に注目していたのである。
やがて先輩たちの注意が他にそれると、二人は安堵のため息をついた。
「二度も連れてかれるとこだったぜい」
九頭柚葉は、おでこに浮かんだ汗を袖で拭った。
「連れてかれちまえばよかうぐっ!」
どすっと、双葉の脇腹に柚葉の肘が減り込んでいた。
「くっそ、あとで覚えとき。ユズだかキンカンだか知らへんが」
ここで騒いだら、自分こそ用具室へ強制連行されてしまう。必死に怒りと肘鉄の吐き気を押さえる双葉であった。
「次は!」
「あ、はい! あたしです!」
良子は短い足をせかせか早足で前に出ると、くるりみんなの方を向いた。
「こんにちはあ、新堂良子でえす!」
笑顔で、大きく甲高い叫び声。
「アニメ声で、なんかヒーローショーのお姉さんみたいなノリやな。みんなあ、げーんきい? みたいなあ」
双葉は自分にしか聞こえないような小声で、突っ込みを入れた。
「ええとお、あたしはあ、この春にこちらへ引っ越してきましたあ。それまでは、生まれた時からずっと宮城県の石巻市っていうところにいました。知るはずもないと思うのでいいませんが、そこの中学でフットサルをやっていました」
「取り合えず、なんていう中学かいってみな。みんな教えてんだから」
副主将の声に良子は頷いた。
「日和ケ丘中学校です」
その言葉に、体育館内は一瞬にしてしんと静まり返っていた。
他の部の者もおり、そちらは変わらず賑やかなのであるが、そう思えるくらいの衝撃が部員全員に落雷していたのである。
一呼吸ほどの後に、今度はどよめきが起きた。
みな、驚いたような表情。
高木双葉も芦野留美も同様であった。
中学の名前をいっただけなのに……
良子は顔に楽しげな笑みを浮かべながらも、なんなんだこの雰囲気は、とすっかり戸惑ってしまっていた。
「うそ……そこ超名門」
上級生の一人が、信じられないといった口調で呟いた。
「ええっ、先輩知ってるんですかあ? でも、東北の田舎ですよお。もしかして偶然知り合いがいるとかあ?」
良子は笑いながら尋ねた。
「お前、とぼけてんのかよ。心の中では、佐原南なんかたいしたことないとかバカにしてんだろ。日和ケ丘中っつったら、強豪中の強豪だろ。中学でフットサルやっていた奴なら、誰だって名前を聞いたことくらいあるっつーの」
「そうだったんですか。強豪校らしいということは知っていたんですけど」
知ってはいたものの、たかだか中学校の部活がそこまで全国区の知名度を誇るようなものであるなど思いもしなかった。
フットサル部など存在していない学校も多いし、少ないが故に強ければすぐ有名になるということなのかな。
「あーあ、レギュラー一人確定かあ」
「さすが佐原南、競争厳しいなあ」
落胆する一年生たち。
「なあ良子、自分そんな凄い中学の出身やったん?」
戻ってきた良子に、双葉がぐっと肩を寄せた。
「……ということになるのかな。あ、でもあたしは下手だよ。超がいくつついても足りないくらい。だから死に物狂いで頑張ろうって思ってるんだから」
良子は苦笑しながら正直に答えた。
しかし周囲の一年生たちは、そうは受け取っていないようであった。
「謙遜しちゃってさあ、エリートは」
「なんか嫌味い……」
「強豪校で、自分が本当の下手だと思ったらもうそこにはいられないって。退部してるって」
3
佐原南高校体育館の片隅では、女子フットサル部のミニゲームが行われていた。
みな紺色のジャージを着ており、片一方のチームは黄色いビブスを着用して区別をつけている。
ピッチに立っているのは一年生だけだ。
先ほど新入部員挨拶が終わったばかりであるが、主将の花咲蕾がみんなの実力を知っておきたいということで発案したものである。
現在ピッチに立つメンバーは次の通り、
Aチーム
吉田理恵、
茂満香奈美、
新堂良子、
高木双葉、
ゴレイロ 桐谷舞
Bチーム
茨崎悠希、
須賀崎桜、
鈴鹿澄子、
村谷咲美、
ゴレイロ 九頭柚葉
「こっちこっちい、理恵ちゃあん!」
新堂良子は会って間もないというのにさっそく下の名前を叫んで、上げた両手をぶんぶんと振り、走り出した。
来た!
吉田理恵からのパスが。巧みなフェイントで須賀崎桜をかわして、すぐさま前線へと蹴ったボールが、こっちへ来た。
タイミング、速度、精度、完璧だ。
凄い。
良子は感心しながらもボールの転がる軌道上へと入り込み、右足でトラップしようとする。
だがパスとは出し手の技量だけでなく受け手あって成立するもの。良子は、ものの見事にトラップを失敗した。
フットサルボールは、軽く踏み付けるだけでキュッと気持ち良い音とともに一瞬にして回転が止まって収まるものなのであるが、一体足のどこに当ててしまったものかころころ転がって、ビブスを着たB組の茨崎悠希に奪われてしまった。
「ごめん、理恵ちゃん! よし、次は上手くやるぞおお」
良子は自分を励ましながら、茨崎悠希の背中を追った。
そんな良子の姿を見ながら、ピッチの中では一年生たちが唖然とした表情で口々に呟いていた。
「まただ……」
「謙遜じゃなかった」
「信じらんない。……一緒の空気吸ってるだけで強くなれるって噂があるくらいの名門中学出身なのに」
と。
ピッチの外でも、上級生たちがやはり同じような反応であった。
「あいつ、ずっと怪我かなにかで、実はボールに触るの生まれて初めてとか」
「うん、その説は一番しっくりくるね」
「そもそも日和ケ丘中出身というのが、大ボラ。ハッタリ」
「その説も、一番しっくりくる」
「極度のあがり症」
「それも一番しっくりくるねえ」
「チカラさあ、一番っつーのは一個なんだよ。なにがしっくりこないかいってみろ逆に」
などと二年生の須黒笛美、武朽恵美子、多田ロカの三人が騒いでいると、横で副主将の荒上真子がガラガラの大声を張り上げた。
「よっし、交代だ! お前はビブス着けてあいつと代わって、お前とお前はビブスなしで、代わるのはあいつとあいつ」
指示に従い芦野留美、高井真矢、山崎芳枝がピッチに入り、新堂良子、高木双葉、須賀崎桜が外へ出た。
「頑張って、留美ちゃん」
良子は留美とハイタッチ。
「でも、人のことより自分のことだ。今度はもっと上手にやれるよう頑張るぞおお」
良子はぐっと握った拳を突き上げた。
「でも良子、一回、惜しいシュートあったやん。あれ絶対に決まったかと思たわ。運悪くクソ女に弾かれたけど、もっともっと練習して今度は顔面ブチ抜いたれ。首がもげてもええわ」
双葉が物騒なことをいう。
なおクソ女とは、九頭柚葉のことである。
あの新入部員挨拶の時から、双葉は柚葉のことが気に入らないようなのである。
「そんな縁起でもないことを。これから三年間一緒に過ごす仲間だよ。でももっともっと練習してってところは確かに双葉ちゃんのいう通りだ。もっと頑張らないとな、あたし」
「せやなあ。ほんま自分でいっとった通りのレベルでびっくりしたわ」
「でしょお」
良子は屈託なく笑った。
「っと、ああっ、いや、いまひょっとして独り言出ちゃった? ごめんな、良子。悪気はないんやけど、つい。でも見てた通りうちもどっこいどっこいやから、気にせんといてや」
先日のこと、良子と双葉は中学校の部活で自分がいかに劣等生であるかを語り合い競い合ったのであるが、双葉は若干の誇張を交えたものであったのに対して良子は自ら語っていたままのレベルであったのである。
友人の双葉としては、負けていなくて嬉しいような、でも少し淋しいような、なんとも複雑な気持ちで、その思いがつい良子の言葉に誘発されて無意識に口をついて出てきてしまったのであろう。
「でも双葉ちゃんはよかったじゃない。シュートだって決めたしさあ」
「偶然や偶然。うちかて、もっと頑張らな。今度、どこかで秘密特訓するで。劣等生同士。ええやろ」
「うん。やろうよ。どうせなら留美ちゃんに教えてもらおうよ。上手だし」
ちょうどその芦野留美が、ひらりひらりと相手をかわしてシュートを決めたところであった。
無抵抗で得点を許すこととなったゴレイロの九頭柚葉が、床をばんばん叩いて悔しがっている。
双葉は、留美を自分に置き換えているのかにんまり笑顔になりながら、
「せやな。下手同士の秘密特訓とはいえ、成層圏同盟の仲間にまで内緒にするのはよくないしな。ほな留美に教えてもらおうか。今度の土曜か日曜にでもな。場所はいい出しっぺのうちが探しとく」
「お願い。なんか、楽しみだねえ。よおおし、やるぞおおおお」
と、良子が天へ拳を突き上げようとした瞬間であった。
「おい! シャクレ、シャクレ!」
武朽恵美子先輩が、なんだか迷惑なくらいの大声で叫んでいる。
誰、シャクレって? 二年? 三年?
良子はきょろきょろ周囲を見回した。
「こら、シャクレアゴ! お前、無視すんなよ!」
足取り荒く近寄ってきた武朽先輩が、良子を睨みつけた。
良子はなにがなんだか分からず、首を傾げながら自分の顔を指差した。
「他に誰がいるんだよ」
「ええええっ、ほんとにあたしっ? 別にしゃくれてなんかないですよおお!」
「アゴの先っちょ、ちょいと突き出してっだろ」
「お母さんが熊本出身だから、ちょっと離れると分からないくらい微妙にささやかにがっしりしているだけです! 大昔のなでしこジャパンにだって、こんな感じの、でもアイドルみたいに可愛い子がいたじゃないですか!」
「知らないよ。どうでもいい。それより、第二審判とタイムキーパーやってよ。シャクレとブーと、他に余ってる一年と分担決めて。分かったか、シャクレ」
「分かりましたよ」
良子はすっかり憮然とした表情で返事をした。
「つうか、あたしブー?」
双葉は自分の顔を指差した。
「フタバっつーんだろ。フタバ、ブータン、ブーだ。文句はアラジン先輩にいえ。じゃあな」
そういい残すと、武朽先輩はくるり背を向け上級生だけの練習に加わった。
なおアラジン先輩とは、副主将の荒上真子のことだ。荒上 ― 荒神 ― あらじん、という連想だ。
「まだブーの方がいい。あたし、最悪だあ」
「うちかて最悪や」
「そっち自分の名前をいじられただけじゃん。あたしなんか、顎がちょっと出てるとかなんとか、気にしてるとこなのにい」
「良子はそこが可愛いとこなんやから、構へんやん。くそう、アラジン先輩め。男と見まごういかつい顔してるくせに、なにが下の名前マコや」
などと二人が愚痴をこぼしていると、
「おーいシャクレ! ちょっと!」
三年の成宮桃子先輩が、手招きしている。
「うにゃあああああああああああああ」
良子は身体をぐにゃんぐにゃん軟体動物のように身体を揺らした。
「そう思ってんのうちだけやなかったってことやな」
双葉も、入学式の日に早々にして失礼ながら良子の顎先について指摘したことがあるのだ。
自分もブーなどと変なあだ名をつけられてしまって、笑うに笑えない状況になってしまったようだが。
「誰の顔だって、神のバランスより少しは狂いがあるわけで、それだけのことでしょ! あたしは別に神の造形じゃないだけなんです! なんですか、この世は神様がデッサンした顔の通りでない限りシャクレなんですかあああああ?」
良子は天の神様だか悪魔だかに不満の限りを叫んだ。
「うるせえな! この世でお前だけだよ、しゃくれてんのは」
良子の後頭部にバチンとなにかが当たった。荒上副主将が、ボールを投げつけたのだ。
神様はどこにいるのか分からないが、少なくとも悪魔は地上に存在するようであった。
「いいんだ。もう」
良子はがくりと肩を落とし、ぼそり呟いた。
嫌なあだ名がついてしまった。
ああ、今日は最悪の日だあ。
もう、嫌。
なんなの、シャクレとかなんとかさあ。
ほんと、最悪。
そういう肉体的欠陥を、平気で他人にいうかね。
とはいえあたしの場合、別にそんなでもないでしょ。
よく見ればそう見えるってだけの話でさあ。
落ち込むなあ。
もう、練習したくない。
帰りたい。
いや……
いやいや。
自分に約束したじゃないか。
三年間、ハイテンションで頑張るぞって。
そうだ、今日が最悪の日というのなら、自分が頑張って最高の日に変えてしまえばいいんだ。
例えば、練習試合でゴール決めるとか。中学の頃なんか、公式戦には出してもらえなかったから当然として練習中のミニゲームですらシュートを決めたこと一回もなかったし。そうだ、決めれば人生ハッピーに変わる。今日が最高の日になる。
「よし、やるぞおおおおっ! 今日を人生最高の日にするんだああああああ!」
かくしてタイムキーパーその他雑用の後、張り切ってゲームに戻った良子であるが、やはり自分自身のレベルは非常に低く、周囲のレベルは非常に高く、その相対性によって生じたのは惨憺たる結果というただそれだけであった。
トラップはもたついて奪われるか、受け損なってラインを割るし。
シュートチャンスに滑って転ぶし。
血迷ったか逆走するし。
ポストに頭直撃するし。
「やっぱり、今日は最悪だああああ!」
頭を抱え、叫ぶ良子。
でも、今日といわず三年間こんなかも知れない。
中学の時はひょっとして強豪校だから自分がダメに感じるだけかも、と淡い期待を描いていたけれど……
佐原南だって強豪だけど、でももうそういう問題じゃない。
自分は、もうどうしようもないくらいに下手くそなのだ。
ハイテンションを維持するのが、こうも難しいとは……
と、その時であった。
「うお!」
目の前のピッチで、高木双葉が床に顔面強打。
相手を抜こうとして、自分の持っていたボールに乗ってしまって前のめりに倒れておでこを強打したのである。
それどころか、逆エビぞりになって足をぶるんと振った時に股関節を痛めたのか、ゴギリと嫌なが音が響き、両手で股を押さえてどったんばったん床をのたうちまわる始末。
「双葉ちゃんは優しいねえ。あたしのこと慰めようとして、そんなことまでしてくれてえ」
友人の真心に心から感謝する良子であった。
「アホウ、誰がわざわざこんなことするかああああ! くそ、いってえええ! 大切なとこがあああああ!」
4
「あたしはさあ、むしろドンちゃんって子の方がちょっと苦手かなああ」
新堂良子はシャープペンを鼻と上唇の間に挟んだまま、器用に声を出した。
「ドンちゃんって、あのクソ女の仲良しやろ? あんな腐れな友達がいるとは思えないくらい、明るくてええ子やん。どこでなにを間違うて、あんなのと友達付き合いしとるんだか分からんけどな」
高木双葉、褒めているのかけなしているのか。
「その明るくていい子ってとこだよ。あたしは別に自分を明るいともいい子とも思ってないけど、でも、なあんかキャラが被るんだよねえ。向こうもそう意識しているような感じがして、接するのにためらってしまうんだ」
「へーえ、良子にも苦手な人なんているんだ」
おどけてみせるのは芦野留美である。
「そりゃあいますよおおおっ。あれえ、なんでこんな話が始まったんだっけ? ああ、そうだ。双葉ちゃんが、柚葉ちゃんの悪口いってたことからだ」
「悪口やなんて、人聞き悪いで。あの女の方こそ、うちがトラップ失敗するたびに鼻で笑うんやで。そんだけならまだええけど、これみよがしにリフティングしてるとこなんか見せ付けてくるし。ゴレイロよりボール捌きが劣るお前ダサッ、て笑うとるわけよ」
双葉は様々と思い出したのか、イラついた顔でふんと鼻息を出した。
「そんなあ、気のせいだよ。あたしには、柚葉ちゃんもいい子に見えるよ。仮にそうだとしても、頑張ろうって発破かけてんじゃないの?」
「自分、他人事やから、そう思えるんや。良子にとっちゃ、どいつもこいつもええ子やろし」
「そうかなあああ」
「いちいち語尾伸ばすな」
「伸ばしてるかなあ? まあそれはいいや。とにかくさ、だからこそ秘密特訓をするんでしょ。笑われてると思っているのなら、上手になって見返してやればいいんだよ。もし柚葉ちゃんとのことが単なる思い過ごしだったとしても、練習して身についたことは無駄にはならない。でしょ?」
「前向きやねんなあ、良子は。でも、それはそれとして、やっぱりあの女、ムカつくわ。ああ、顔を思い出しただけで指先震えてきたあ!」
「まあまあ、双葉ちゃん押さえて。一番実力のないあたしだって、全部良い方へ捉えて頑張ってるんだからさあ。でもあれだよねえ、留美ちゃんはさあ、勉強もフットサルも出来るからあ、自分に自信があってこういった問題が起こらなくていいよねえ。いつも、なんだかどっしり落ち着いている感じだもんねええ。貫禄あるというか」
「ないない、貫禄なんか。背が高くて骨太で、声が低くてお喋りでないだけ。ほおら、それより勉強勉強。今日ここへあたしと双葉が来たのは、なんのためだあ?」
「勉強するため」
「分かってるなら、ほら」
ここは良子の自宅、二階の自室である。
佐原駅西北にある住宅街の外れにある家で、窓からは広大な田園風景が広がっている。
座卓には、教科書やノートが散らばっている。
彼女ら三人はその座卓を囲み、勉強会を開いているところだ。
フットサルの秘密特訓のために、である。
部内での劣等生を自認する良子と双葉は、特訓に付き合ってもらえるよう留美にお願いしたのだが、引き受けるにあたっての条件がこの勉強会であった。
部活外でまでフットサルに夢中になると、学校の勉強がおろそかになることが心配される。だからとりあえず、簡単に授業の予習をしておくことと、これまでの授業で分からなかったところを教え合って、学力レベルの確認と後顧の憂いをなくした上で特訓に臨もう、と。
三十分ほどは真面目にやっていたのだが、だれてしまって、すっかり雑談ばかりになってしまっていたが。
「そういやさあ、さっき良子のお父さんと挨拶したけど、なんの仕事してるの? マッチョな身体して、こんな時間に家にいて」
留美が尋ねた。
「ああ、今日は休日出勤の代休だって。筋肉質なのは、単に趣味。これまではずっと東北の復興に関わる仕事をしてたんだけど、それが終わって石巻からこっちに引っ越してきて、いまはなんの仕事をやってんだろ」
「ああ、復興って、東日本大震災? あれ、とんでもない地震だったらしいよね」
関東、東北を襲い、津波による多数の死者を出した大地震。彼女らが生まれる数年前のことだ。
「たかだか十数年前に東北がムチャクチャになっちゃうような地震が起きたなんて、まったく実感がないなあ。わたしたち世代は、教科書で学んだだけだからね。関東はそれほどの被害は受けてなくてすぐに元通りになったらしいけど、復興っていってるくらいだから東北はだいぶ長引いたのかな」
留美は指の上でシャープペンをくるくると回した。
「どうだろ。あたしが物心ついた時には、もうだいぶ落ち着いていたと思うよ。ただ、至るところに瓦礫の山はあったけどね。仮設住宅に住む人の姿なんかも、うっすら記憶に残っている。支援に来た自分たちが立派なアパートなんかあてがわれていいのかな、なんてお父さんよくいってた。瓦礫除去や施設の建設なんかで、石巻がどんどんどんどん新たに作られていくのは、見ていて気持ちよかったな。震災前を知っている人からすれば、元に戻っただけなんだろうけど。もうあんな地震はきて欲しくないよね。あたし特に地震苦手だからさあ、ほんと大地震の後に生まれてよかったあああ」
「でも関東大地震、まだ来てないよね」
留美が真顔でぼそり。
「うわああああ、石巻に戻りたあああああい! 地震やだああああああああああ! やだあああああ! やだあああああ! あ、そうだっ!」
良子はシャープペンを取ると、がばっと伏せるようにノートと教科書に向かった。
「なんや、いきなり」
面食らったように、双葉が尋ねた。
「いやあ、地震の恐怖を紛らわすために勉強に集中しようと思ってええ。まさに一石二鳥お。でもさあ、佐原南がこんな学力高いとこだなんて、あたし知らなかったよ。半分、近いからってだけで決めたようなもんだからね。おかげで神様のいたフットサル部に入れたし、こうしてみんなとも出会えたわけだけどさあ。廊下歩いてても、みんな優等生のエリートに見えて畏縮しちゃうよね」
「確かに学力高くて、無理して入ったうちもちょっと後悔しとるんやけど、でも優等生ばかりじゃあないで。悪い奴もぎょうさんおるねんで。爆弾テロ未遂のことやって警察に捕まった奴とか。放課後の教室でいかがわしいことしてたカップルもおるとか。おかんがいうとった。不良生徒に写真撮られてて脅されてとんでもないことになったとか。どうせお前自身のことやろゆうたら、殴られたわ」
「ぎゃああああああ! 双葉ちゃん、それ本当? それどこの教室ううううう? ほんとにお母さんのことなのおおおおお?」
良子は生々しい話に、思わず頭を抱え、恥ずかしいような興味あるような表情を作り立ち上がっていた。
「つうか、なんつー話を娘にしてるんだよ双葉のお母さんは!」
留美は頬杖ついて呆れ顔だ。
「まあ、注意しろゆうこっちゃ。注意するわ、バカなおかんのようになりたくないからな」
双葉も留美に続いてどっかと頬杖をついた。
「でもま、双葉のいう通り注意するにこしたことないね。そんなんじゃなくても高校生ともなればいつどんな間違いが起きてもおかしくないからね。あたしは一人の人と普通の恋愛に普通の結婚、普通の出産、普通の老後を希望だから、絶対にそんな変なことに巻き込まれないようにしないとな」
「ああっ、留美ちゃんなんか顔が赤くなってるううううう。好きな誰かのこと想像してんでしょおおお! 絶対にそうだ。どこまで? 想像の中ではその人とどこまで進んでんのお?」
良子はいやらしい笑みを浮かべ、留美の脇腹に肘鉄連打。
「いえないよおお」
「いえよおおおお」
「百万もらっても教えない」
お互いに顔を赤らめながら、胸をどんと突き合う留美と良子。
「ははん、二人とも甘いなあ、高校生になってから恋愛だなんて。しかも一人とだけやなんて」
双葉は、かっこつけてさらり髪の毛を掻き上げた。
「ええっ、双葉ちゃんひょっとしてえええ、あれですかああああ? もうとっくに青春突破ですかああああ! 何人? ねえ、何人っ?」
「せやなあ、五、六人くらいかなあ。七人かなあ。つうか細かい人数なんか、よう覚えとらんわ」
「おおおおおお、すっごおおおおお。おとなあああああああ。みんなあ、集合ーーーっ、ここに大人がいっるよおおおおっ!」
「なんか……ドキドキして鼻血出そう」
好奇の目で双葉を見つめる二人。
「なんやあ、うぶな二人やな」
双葉はちょっと困ったようにちょっと気取ったように肩をすくめてみせた。
「でも、人の恋バナは好きだけど、あたし自身はいいかなあ、まだ。十年、いや二十年、いやいや三十五年は早い」
「五十歳やん! でも、実はおるんやろ? 好きな人が」
「えーーーっ、いないよお」
せっかく勉強のために集まったというのに、こうして恋愛話に花が咲いてそれどころではなくなってしまった成層圏同名の三人であった。
恋愛話といっても、良子も留美も異性との交際経験がないので、幼い恋愛持論を展開したり双葉から実体験を聞き出そうとしたり、そんな程度のものでしかなかったが。
5
茨城県潮来市にあるフットサル場に三人は訪れていた。
三人とはもちろん新堂良子、高木双葉、芦野留美の成層圏同盟である。
田園風景真っ只中に三ヶ月ほど前にオープンした屋外フットサル場であり、あと二週間、オープニング記念の格安価格で使用することが出来る。
双葉が、知り合いからその情報を仕入れ、茨城なら部員にも見つからないだろうと思い、ここを第一回成層圏同盟フットサル秘密特訓の場所として選んだのである。
コートは四面あり、残り三面は若い男女が試合を行っている。
良子たちは、借りたコートのゴール前に立っている。
それぞれ、私服のTシャツにショートパンツ姿だ。
部活でユニフォームを購入しているが、「私的練習を、初めて袖を通す機会には出来ないね」、と三人の意見が一致したためだ。
まだ部活では対外試合を行っていないし、普段の練習はジャージであるため、ユニフォームを公に着用する機会がないままなのである。
「ほな、始めよっか。留美、よろしくな」
「お願いします、先生!」
と、双葉と良子の二人は、留美を見た。
「先生などと呼ばれると照れるよ。自分にとっても特訓なので、こちらこそよろしくお願いします! ……では久々に、同盟のしるしを」
留美は恥ずかしそうに右拳を左胸に持っていき、前へ伸ばし良子へと突き出した。
良子も同様に、双葉へ。
双葉へ、留美へ。
「なんか気が引き締まるなあ。粛々っていうの? 粛々とした気持ちになるねんなあ」
「そうだねえ。よおおおしっ、これから秘密特訓をっ、ハイテンションでええ、やあっるぞおおおおおおおっ。どっかああああああん!」
良子はジャンプしながら、右拳を澄み渡った青空へと突き上げた。
「全然引き締まってへんのがおるわあ。どっかんやないで。叫んでたら、秘密にならへんやん。ほんといつもテンション高いなあ、良子は」
双葉が苦笑している。
「だって、それしか取り柄がないから。それで最初はなにをするの、留美先生」
「だから先生はやめてよ。まずはウォーミングアップ。筋肉を暖め、関節をほぐし。基本だよ。秘密特訓だろうと、準備運動に必殺はない」
三人は留美を先頭に、借りたコートの内周を走り始めた。
五周した後はストレッチ。
必殺はないが、二時間で借りている関係上、早めに。
それから練習開始である。
秘密特訓といっても、特別なことをするわけではない。
まずは基礎の確認。
そして、知っている人間に見られないからこそ出来るのびのびした練習の中から、近所の公園や庭でも実践出来るような有用なもの探っていく。
それが、先生である芦野留美が打ち出した目標である。
まずは、三角パス交換。
距離を縮めたり離したり。
くるり回ってからパスを受ける、など段々と難しくなっていく。
良子がまったくついていかれなくなったところで、今度はトラップ練習だ。
地上空中、あらゆる方向、様々な強さのパスを、足裏で受ける練習だ。
最初は留美が一人でパスを出していたが、そのうち留美ともう一人で。
良子がまったくついていかれなくなったところで、今度は戦術練習。
留美が基本敵になり、時に味方になっての守備と攻撃の練習だ。
だが、練習になっているといっていいのか。
良子のトラップがあまりにも下手すぎて、いちいち中断してしまうのだ。
「オフザボールの動きだけは、結構センスあると思うんだけどなあ」
「中学の部活、きつくてまったく出とらんかったのかなあ」
遥か向こうに飛んでいったボールを良子が追いかけている間に、留美と双葉は小声でぼそり。お互いの独り言にはっと気づくと、慌てたようにお互い顔をそむけた。
他、特筆すべきもののないまま二時間が過ぎた。
終了時間である。
もともと良子と双葉のための秘密特訓であるため、良子一人を無視するわけにいかず合わせるしかなく、ということであまり実のある練習にはならなかった。
6
むしろ特筆すべきは、秘密特訓終了後に起きた。
次にこのコートを借りる者たちから、声を掛けられたのである。
「ミックスで、一緒にやりませんか?」
と。
大学生風の若者が七人。
六人が男性で、一人が女性だ。
「ミックスって、なに?」
良子は双葉にこそっと耳打ちで尋ねた。
甘いお菓子のような響きだが、きっとフットサル用語なのだろう。
「良子、名門出身のくせにミックス知らへんのか。男と女がごっちゃでプレーすることや。フットサル関係なく、スポーツ共通のいい方やん」
「ああ、そうなんだあ。それで、どうしようか。あたしは別に構わないけど」
男性ばかりだったら嫌だけど、女性だっているし。
「うちも別に構へんよ。留美は?」
「やろうよ。楽しそうだし」
三人とも乗り気なのが分かると、最初に声を掛けた男性がそばにいる女性へと肩を組んでぐいと引き寄せた。
「よかった。彼女がさ、見てるだけのはずだったんだけど君らがやっていたのを見て自分もやりたいとかいい出して。でも女子一人じゃあ、バランス悪いからさあ」
「フットサルやったことないけど、よろしくう」
すらり体型の彼女が、彼氏に肩を抱かれながらにっと微笑んだ。
「よろしくお願いしまーす」
良子が元気に応じた。
「ああ、でもここのお金はどうすればええんやろ」
双葉が心配そうに、誰にともなく尋ねた。
「おれらが出すに決まっとるやん。こっちの勝手で付き合ってもらうんやしな」
若者たちの一人が関西弁のイントネーションで答えた。
その瞬間である。双葉の身体がびいんと突っ立ったまま硬直したのは。
「あ、あのっ、か、関西出身のかか、かたですか?」
錆びたブリキの人形のようにカタカタ震えながら、なんとか言葉を絞り出した。
「現役や。吹田市に住んどって、ちょっとこっちに遊びにきただけや」
「あ、そそ、そうなんですかあ」
「なんや自分、関西に知り合いでもおるん?」
「いえっ、ちょっと聞いてみただけで別になにもっ。あたしの知り合い千葉にしかいないですう」
完全にギクシャクとしてしまっている双葉。
良子と留美はそんな態度を怪しみ心配し、双葉の腕を掴んでぐいーっと引っ張って若者たちから距離を置くと、
「双葉ちゃん、どうしたの? なんか態度がおかしいよっ」
良子が双葉の耳元でこそり心配の言を囁いた。
「態度どころか言葉が標準語になってる。双葉があたしなんていうの初めて耳にしたよ」
「ああ、そういえばそうだね。双葉ちゃん、どうしたのお? なんで標準語なの?」
「だってネイティブ関西弁の前で、えせ関西弁なんか話せるわけないじゃないですかああ」
双葉は顔を真っ赤にしながら、良子の肩をぐっと掴んだ。
「おーい、試合、初めてもいいのかな」
若者が、すっかり自分たちの世界に入ってしまっている良子たちを見て苦笑している。
こうして良子たちは、秘密特訓の締めとして、大学生とのミックス試合を経験することになったのである。
7
六人いる男性が三人三人に分かれ、片方に女性と双葉、片方に留美と良子がそれぞれ加わった、五人チーム同士の対戦。
ゴレイロも置いて、通常のフットサルと同じだ。
当然ながら、良子たちの中で一番上手なのは留美であった。
技術だけなら、この大学生たちにも匹敵するのではないか。
だけどそうであればこそ、良子はなんだか悲しい気持ちになるのだった。
だって技術では対等だというのに、実戦では男性とまるで比較にならないほどの差があるのを感じてしまったから。
見た目上は接戦なのだが、自分や双葉は当然のこと留美に対しても明らかに手を抜いているのが分かるのである。
やはり、男性は男性であるというだけで圧倒的に有利なのだ。
強さも、速度も。
自分があまりに酷いのは例外として、世間一般的に女子だってやればもっと戦えるんだと思っていたのに。
だからこそ競技一般は性別で分けて行なうんだと分かってはいても、このなんとも悲しい気持ちをどうすることも出来なかった。
フットサルが初めてというこの女性の方が、良子よりよっぽど上手であるということの方が、よっぽど悲しむべき重大な問題かも知れないが。
交代人員がいないので休みを入れつつのプレーであったが、開始から三十分ほど経過した頃、
「手加減いただきありがとうございました。ちょっと提案があるのですが」
と、留美の提案によって、チーム編成に変更が加えらることになった。
ちょっと加えたどころではない。
男性二人を余らせて、
ゴレイロなしで男性四人。
留美、双葉、良子、女子大生、で四人。
要はミックスではなく、男女別のチームを作ったのである。
ゴレイロがいないため、ロングシュートの応酬にならないようサイドネット内側に当てたら得点というルールで改めてゲームが開始された。
結果は、良子たちチームのボロ負けであった。
女性チームは二人が初心者級の実力なのだ。しかもほとんどが高校生なのに対して、相手はみな大学生。
いくら男性陣が手加減しようにも限界があるのは当然であった。
だがそんな中、ついにというべき瞬間が訪れた。
「良子、こっち!」
と、叫び走る留美の足元へ、良子からこれ以上はないというパスが来たのである。
パスの半分がラインを割ってしまう良子のこと、まったくの偶然であろうが、とにかく留美は急に来たその絶妙なパスに慌てることなく大学生をしっかり背中で食い止めながらダイレクトに浮き球パスを前線へ送った。
するりマークを掻い潜った双葉が、倒れ込みながらボールに頭を叩きつけた。
サイドネットの内側に、ボールが突き刺さった。
「やった、双葉ちゃん!」
良子が叫んだ。
先ほどの秘密特訓で散々と練習した同盟コンビネーションであった。
女性チームは輪になり、抱き合って喜んだ。
良子たちにとって、この達成感を得たことこそが今日一番の成果であったのかも知れない。
この後は一度たりともゴールネットを揺らすことはかなわず、一方的に攻められて十点差以上の大敗をきっしたわけであるが、その結果がその達成感を引き下げることはなかった。
むしろ、こうまで圧倒的な実力を持つ男性という生き物相手に得点を決めたこと、それにより自分たちの可能性を感じ取れたという嬉しさが大きかった。
こうして成層圏同盟の三人は第一回フットサル秘密特訓を終え、それぞれの満足感を胸に鹿島線に乗って香取市への帰路についたのである。
8
じっくりと壁に染み込んだ長年の汗や埃。それらが呼吸するがごとく空気中へと溶け出して、部室はなんとも微妙なカビ臭さに満ち溢れていた。
読書をしろといわれれば特に問題なく出来るのではあろうが、大事な私物をロッカーに入れっ放しにしておくのは躊躇われるような。絶対に食事はしたくないような。
芦野留美。
九頭柚葉。
新堂良子。
鈍台洋子。
高木柚葉。
現在この部室でこのカビ臭さを共有し呼吸している五人である。
彼女たちは、それぞれ道具を手に清掃をしている。させられている、という方が正しいだろうか。
九頭柚葉と高木双葉の軽い口論がいつしかボールを顔にぶつけ合うまでの大喧嘩に発展、それぞれの仲良しが連帯責任を取らされて五人で部室の掃除をさせられているというわけだ。
「まあ、ただの掃除と思えば別に構わないけど、でも普通さあ、連帯責任って班で行動していたり、そこに一緒にいたりする子が負わされるものでしょ? あたしら三人のだあれも、その現場にいなかったのに、仲良しだからなんて納得いかないなあ。先輩たちはよい機会だから一気に綺麗にさせてしまえと思ったんだろうけれど」
芦野留美の発するその言葉は、他意のない単なる疑問なのであろう。
しかし、この状況にうしろめたさを感じているのか、留美の一言一句ごとに双葉の心臓に矢がぶすり一本また一本。ぐっ、うおっ、と呻き声を上げている。
表面上の態度とは裏腹に、気が小さい双葉なのである。
「悪いとは思っとるわ、留美。ごめんな。そやかて、それをうちにいわれてもなあ。連帯や部室掃除やって、全部アラジン先輩の命令やし、そもそもの原因はこいつが自分が悪いくせに食って掛かってくるからやしなあ」
双葉は、床をせっせと雑巾掛けしている九頭柚葉を指差した。
柚葉の、雑巾を持つ手の動きが、ぴたりと止まった。
「そいつはこっちの台詞だよ。冗談にいちいち本気になりやがってよ」
柚葉は立ち上がるなり、雑巾を床に叩き付けた。
そう、双葉のいうとおりこの件の発端ということでいえば、柚葉が双葉の言葉使いをからかったことにあるのだ。
「冗談はその顔だけでたくさんや、このアホんだら」
「あたしの顔のどこが冗談だよ。毎日鏡見てっけど、全然心当たりなんかねえぞ。むしろうっとりするくらいで」
「全部や全部。周囲にまとわりつく空気や小汚いオーラ、いまみたいなことを平気でいえる面の皮の厚さを含めて、存在のすべてがすべてオール冗談や」
「いったなあ、このタコ焼き屋あ!」
「焼いとらへんわ、この柑橘類!」
果たして今度はボールではなく雑巾を顔に投げ合うのであろうか、という一触即発の状態であること誰の目にも明らかであった。
が、あわやというところで、鈍台洋子が自らの肥満した身体を、仲裁すべく二人の間に割り込ませた。
「やめなよ、二人とも!」
いつもニコニコを崩さないその顔であるが、ちょっとだけいつもより目が細く、いつもよりほっぺたが膨らんでいた。
二人が黙ったのをみはからって、洋子は続ける。
「今回のことは、ユズちゃんが悪いと思うな、あたし」
「ええっ、だってちょっとからかっただけじゃん。あんなん責められちゃ呼吸も出来ないぜ」
不満そうな表情の柚葉。
「でもそれで相手が本気で嫌がってるんだったら、じゃあ謝っておいた方がいいんじゃない?」
洋子のいうこと、まさに正論である。
しかし、
「えー」
柚葉は、間違って渋柿を口にしたかのような顔になっている。
「ほらあ。あたしも一緒に謝るからさあ」
「うー」
なおも恥ずかしそうに、身体を左右にぶるんぶるん揺らしている柚葉であったが、親友に真顔で迫られて覚悟を決めたようで、ゆっくりと双葉の方へと向いた。
あくまで身体だけで、顔は半ばそむけた感じであったが。
「……悪かったよ」
仏頂面で、柚葉は尖った唇を微かに開いてもごもごと声を出した。
「ああ……そういわれたらなあ、うちかて悪かったわっていうしかないな。ごめんな、こっちも子供なんで。……しかしドンちゃんは、ほんまええ子やなあ。なんでこんなのと友達なん?」
「こんなのだあ?」
と、憤怒の形相に一変して双葉へ詰め寄ろうとする柚葉を制して洋子、
「ユズちゃんだって、いい子だよ」
「どこがや。今回は特別に許してやったけど、いつも人のことおちょくってばかりで」
「捨てられてる小さな動物を見るとほっておけないしい」
「それ単なるペット好きやろ。マフィアのボスかて膝に猫を乗せとるやん。それでええ子かどうかなんて分からへんやん。ドンちゃんは間違いなくええ子やけどな」
「いい子じゃないよお。食い意地張ってるから、子供の頃からいっつもユズちゃんのおかず奪っちゃうし。だからこんなぶくぶく太っちゃったしね」
「そういやダイエットでフットサル部に入ったゆうとったな。ほんま効果あると思うで。走り回らされるから、嫌でも痩せる。まあゴレイロで走ってないくせに、栄養どこいっちゃったのってくらいガリガリなのもおるがな」
双葉はちらりと柚葉に視線を向けた。
「やんのかあ、お前。受けて立つぞ」
柚葉はボクシングのように右左と素早く拳を繰り出した。
「やめた方がいいよ、喧嘩なんて。ユズちゃんずっと空手やってて、とてつもなく強いから。こんな痩せてても」
「誰がするか、そんな野蛮なこと。別にどこのゴレイロの話かなんてなんもゆうとらんわ。うちはただ、どっかの誰かと違うてドンちゃんええ子やなって話をしていただけや。……ところでドンちゃんって、なんでドンいうん? マフィアのドンか? ステーキのどんが大好きとか?」
その質問に、柚葉がぷっと吹いた。
「なにを笑うんや柑橘類」
「いや、分かっていってるんだろうなと思うんだけど、わざとボケてんなら全然面白くないし、じゃあやっぱり天然? って思ったらおかしくなって。……鈍台のドンに決まってるだろ、バーカ」
「え? あ、ああっ、知ってたわ! 余裕で知ってたわ! たまにはうちかて下らないボケをかますわ! 結婚して苗字変わったらなんて呼ばれたいって会話の前振りや」
「クズちゃんかなあ」
鈍台洋子は、ニコニコ顔のまま即答した。
「なんやそれ! それこいつの名字やん」
「だってあたし、将来ユズちゃんと結婚するんだもん。そしたら名前が九頭洋子になるでしょお。ユズちゃんはもうユズちゃんだから、クズちゃんユズちゃんと呼び合って紛らわしくないしい」
「充分に紛らわしいわ! つうか女同士で結婚出来ひんやろ」
「そうなれるようにいつか法改正の運動を起こすつもりなんだあ。ねえ、ユズにゃん」
洋子はもにょもにょとした胴体を、柚葉にぴたりくっつけた。
「勝手に決めんな!」
「ええっ、結婚しようっていったのユズにゃんの方なのにい」
「それ幼稚園の頃の話だろ。離れろ、勘違いされる」
柚葉はぴたりくっつく肥満体を押し退けようとするが、洋子は地に杭が突き刺さっているかのごとくびくともしない。
「ああ……そうかそうか、二人はそういう仲やねんな。ははあん、そうか、そうなのか。どこまで進んでおるのかなあ」
双葉はにいっといやらしい笑みを浮かべた。
「だから違うって。このタコ焼き屋! 絶対に違うからな。適当なことその関西弁でいいふらすなよ」
「ああ、分かった分かった。真実は、うちとここにいる人間だけの胸ん中におさめといたるわ」
「だからあ、真実じゃな……」
そんな柚葉の困ったような大声を、良子のスカーンと突き抜けた甲高い声が掻き消した。
「おおおおっ、なんかなんかなんかっ、凄いもんみつけたあああああああっ!」
その超音波のような声に、まだ柚葉が雑巾掛けをしていない部分の床からもわっと埃が舞い上がった。
音声による埃分離機能。最新掃除機に搭載されれば売れるのではないだろうか。いやいや、良子の声が特別なだけか。
「どうした、良子」
芦野留美が尋ねた。
「これ。この大学ノート」
机の引き出しの奥から良子が引っ張り出したのは、すっかりボロボロになった、埃を被った大学ノートであった。
「『部長ノート1 2009年』、って書いてある。これ本当かな? もしそうなら二十年もの大昔、創部してまだ数年しか経ってない頃ってことになる。なんだか、凄いものを発見してしまった。この埃のかぶり具合からして、長いこと誰も触ってなかったみたい」
「というか、わたし紙のノートなんて初めて見たよ。そういう作りのノートって大学ノートっていうんだ? 今は全部機械だから、そもそも学校で使う机は引き出しなんかないのが普通だし、だから使われなくて、だからなんとなく開けてみることすらしなかったんだろうね」
留美がノートの埃の理由を、自分なりに想像して語った。
確かに留美のいう通り現在は机上備え付けの端末か、腕時計型のリストフォンを利用して記述閲覧するのが当たり前の時代である。
様々なデータはクラウドつまりは国から割り当てられたサーバーの個人領域内に置かれるため、自宅や旅行先など場所を問わずいつでも記述内容の閲覧が出来るのだ。
「あたしは、お父さんの書斎にこういうのが腐るほどあったから慣れてるけど。……あれえええ? 部長、木村梨乃だって。なんかどこかで聞いた覚えが……」
「うちのおかんや」
疑問に首を傾げる良子を見て、双葉がぼそり呟いた。
「ああ、そうだそうだ。双葉ちゃんのお母さん、ここの部員っていって……」
という良子の声を、九頭柚葉の大声が掻き消した。
「えーーーーーっ、お前の親もこのフットサル部にいたのお?」
信じられないといった表情で、双葉の顔に自分の顔をぐうっと寄せた。
「あんまり顔を寄せんなや! それより、もってなんや?」
「きっとそのノートを見てみれば分かるよ。部長の記録だというんなら、部員の名前も書かれてるんじゃないか?」
柚葉にいわれ、良子はようやくその古いノートの埃を払ってゆっくりと開いた。
このノートは旧姓木村梨乃が書いたと思われる、部長を務めるにあたっての様々なことを記述したものであった。
単なる日記のようでもあり、戦術研究や試合や練習を記録したものでもあり、要は思い付くまま筆を走らせた雑記帳だ。
なんでもかんでもとりあえず記載をしておけば、後でなにかの役に立つかも知れないというような。
「おおおおっ! 佐治ケ江先輩のことが書かれているううううう!」
「やかましわ。いちいち甲高い声で叫ぶな」
双葉が、良子の頭をぐっと押さえつけた。
「ごめん」
と謝った瞬間に、もう良子の表情はにやけ、そして目がきらきらと輝いていた。
佐治ケ江優、二十年前にこの佐原南高校で女子フットサル部に所属していた生徒である。
その後、日本代表に選ばれて主将となり、W杯奇跡の二連覇を成し遂げたその立役者となった、良子が神様と尊敬する人物である。
いつしか佐治ケ江優という存在が自分と運命の糸で繋がっているような、そんな特別な思いを抱いていた良子である。顔がにやけ、目が潤むくらい当然であろう。
そんな良子だけに、佐治ケ江優に関する記述に関しては実に目ざとかった。
『周囲に溶け込む気がなく、本人もそれのどこが悪いと居直っている節がある。
ここに入ったからにはせめてフットサルの楽しさくらいは覚えて欲しいものだが、しかしフットサルはチーム競技。一人でボールを蹴っていることのみを求めている現状を考えると厳しいか。
なんでも過去に酷いいじめを受けていたらしく、それで広島から千葉へ逃げるように転校してきたらしい。それを考えると、誰とも接触したがらないのも仕方ないことなのかな。
ポテンシャルは最高のものを持っているのに惜しいよな。』
部長ノートの、佐治ケ江優についての悩みを綴っている章である。
「神様って、最初はこんなだったんだ……」
良子はぼそり呟いた。
そういえば、以前に双葉にいわれたことがある。双葉の母親である梨乃が、佐治ケ江優という選手を作り出した、と。
いまの文章を読んで、その意味がちょっと理解出来た気がする。
きっと、この続きを読んでいけば、段々と神様が神様に変身していくんだ。
「佐治ケ江優なんかどうでもいいから、早く他の部員のとこ見てよ」
せかす柚葉。
良子は佐治ケ江優についての記述だけを追い掛けたかったのだが、しかたなく素早くぱらぱらページをめくっていった。
今度は一人で掃除しにここへこよう。
などと、佐治ケ江の成長を知る楽しみに胸をワクワクさせながら。
部長ノートのページは進み、木村梨乃は三年生になり、新入部員が入ってきた。
ずらりと部員の名前が並ぶページ。
その中にある一人の名に、良子の目が軽く見開かれていた。良子以外の者もやはり驚いたような表情で、柚葉へと視線を向けていた。
「九頭、葉月って……。これ、ひょっとしてユズちゃんの……」
良子の言葉に、柚葉は頷いた。
「そ、あたしの母親の名前だよ。あたしの名前はそこから一文字貰っているんだ」
柚葉は照れたような笑みを見せた。
「おおおおおおっ、凄い、それ凄いよ、柚葉ちゃんに双葉ちゃん、それ運命だよきっと! あたしもこの高校に入ったことを運命と感じているけど、それと同じでさあ。おんなじ部活に入って知り合った二人の友達が、それぞれの親も同じ時期に同じ高校で同じ部活をやっていたなんて。名前だって、どっちも葉があるし、きっとこれ運命なんだよ運命!」
良子はなんだか興奮したように喜びはしゃいだ。
「友達じゃない!」
「友達やない!」
柚葉と双葉が同時に抗議の怒鳴り声を上げた。
「勝手にハモってくるなよ、タコ焼き屋! ハモりたいんなら、標準語でいえよ。あたしが、やないなんて関西弁使うわけないだろ」
「ハモったのそっちやろ。つうかなんでそうことごとくが自分基準やねん」
「うるせえ。店に殴り込みかけてタコ焼き屋を潰すぞ!」
「せやからタコ焼き屋なんかやっとらんわ! 何度も言わせんなボケが!」
二人は睨み合い、バチバチ火花を散らした。
「ああもう、なんでそうすぐ喧嘩になるかなあ。運命の二人なのにさあ。特に双葉ちゃん、勿体ないよ。せっかく成層圏同盟の出会いと、親子の縁と、二つも素敵な運命に導かれているというのにい。もっと素直にならなきゃあ」
「これがうちの素直さ全開のリアクションや。……でもな良子、これ別に運命やないんちゃう? だってうちの親とこいつの親と、もしも二人が仲良かったんなら、おんなじ時期に子供も出来たことやし名付けのことも相談しおうたかも知れへんやろ。おかんに聞いてみな分からへんけどな」
柚葉を睨みつつも、距離を取る双葉。
「いやあ、どうであれ運命は運命だと思うなあ。でも聞いてみて欲しい気がするけど、確か双葉ちゃんいまお母さんと喧嘩中なんだよねえ」
「あんなあ、良子、その話はやめていうたやろ。あんな女の顔を思い出すだけでも腹立たしいんやから。あんなんから生まれた思うと薄ら寒い気分になっていっそ全身の血を全部入れ替えたくなるわ。どうせならドンちゃんの血がええなあ」
「あたしB型あ」
「ダメやん、ドロドロに固まるやん。うちA型やん。つうか、ほんとにB型なん? ドンちゃん」
「うん」
鈍台洋子はニコニコ笑顔で頷いた。
「なあなあ、こいつさ、お母さんとなんかあったの?」
柚葉が興味津々といった表情で、双葉を親指で差しながら良子へ尋ねた。
「うん、ちょっとね……」
良子は苦笑いを浮かべた。
母親が浮気の常習犯で現在家庭が修羅場だなどと、いえるはずない。
「いうなよいうなよ! 絶対にいうなよ、シャク! 分かったか? ほんま分かったか?」
「はは、はいっ! 分かりました!」
剣幕に押され、良子はびしっと気をつけをして大きな声を出した。
「分かればええんや、シャク」
「それゲームの時だけにしてよお。……ワラちゃん」
「ワラいうな」
「そっちがシャクシャクいうからだよーだ」
なにを話しているのかというと、試合中などで使うコートネームのことだ。
佐原南のフットサル部は、試合、紅白戦などの際にはコートネームを使って声を掛け合う慣習があるのだが、先輩から押し付けられた良子の名がシャクレ略してシャクなのである。
「でも、双葉ちゃんの名前はまだいいよなあ。最初の有力候補より、だいぶ融通してもらってるもん」
「ま、まああれに比べればなんでもええねんけどな」
ふたば - ぶーたん - ぶー
双葉はそんな連想から最初はブーと呼ばれていたのであるが、本人はそれが嫌で嫌で仕方がなく、先輩に掛け合って変更してもらったのだ。
特別に変更を許可されたのであるが、決めるのはまたも先輩。
関西弁だからお笑いでワラ。
これも双葉にとってアイデンティティという存在の根本をバカにされているようで気分の良いものではなかったが、ブーよりましだと受け入れた。これも突っぱねたら反対にもっと酷いのにするぞと先輩に脅されて。
なお芦野留美は、そのままルミである。
あだ名をつけて親しみやすくすることではなく、試合の時の声掛けをスムーズにさせるのがコートネームの目的だ。姓名の中に呼びやすい部分がある場合はそこから取ることが多く、だから留美はルミなのだ。
同様に、鈍台洋子はドンであり、九頭柚葉はユズである。
柚葉は最初、先輩たちのからかいによってクズという名が有力候補として上がったのだが、実際に呼んでみると罵倒しているのか呼んでいるだけなのか紛らわしく、早々に除外されたのだ。
「ねえ、王子って名前がいたるところに出てくるね。木村大先輩の、男子部の憧れの人の名前なのかな? でも、バカだアホだ散々に書かれてるなあ。よく進級出来た奇跡だ、とか」
鈍台洋子が、部長ノートの王子と書かれたところを次々と指差していく。
確かにほぼ毎ページのように、王子という文字がある。
「あ、それは」
双葉と柚葉が、同時に口を開いていた。
「だから関西弁でハモるなって! 聞いとけよな、さっきいったこと。記憶する能力がないのかよ!」
「だから自分基準でものをいうな! つうか、いまの部分に関西弁入ってへんやん!」
「はいはい。じゃあ、そっちから先にいえよタコ焼き屋」
「くそ、腹立たしいなほんま。あ、ほんでな、その王子の話なんやけど、男子やないでドンちゃん。れっきとした女子部員。うちのおかんの一コ下や。遠藤裕子っていってな、あ、いや、この頃は山野裕子いうたかな。おかんの仲良しで、昔からよくうちに遊びにくるで」
「えーっ、裕子さんお前んとこにもくんの?」
驚く柚葉、ちょっと面白くなさそうな顔だ。
「お前呼ばわりされる筋合いないわ」
そういって睨む双葉を、無視するように柚葉は他のみんなに視線を向ける。
「うちさあ、九頭和菓子って店やってんだけどね、裕子さんがこっちに帰省すると必ず寄ってお菓子をどかっと買っていってくれるんだ。でもそれはおまけで、本当の目的はおじいちゃんと雑談することと、お母さんを今度こそ冗談で笑わせられるかチャレンジすることなんだよね」
「笑わせられるか、チャレンジ?」
良子が首を傾げる。
「うん。お母さんってば、家ん中ではお笑い番組でお腹抱えてどったんばったん笑い転げているくせに、家族以外には恥ずかしがって絶対に笑い顔を見せない人だからさあ。裕子さん、いつもあの手この手で笑わせようとするんだ」
笑わせようとする裕子のギャグでも思い出したか、柚葉はふふと笑った。
「なんかさあ、面白そうな人だねえ、ユズちゃんのお母さんもお、その王子大先輩もお」
想像して、良子も楽しげな笑みを浮かべた。
「和菓子もね、とっても美味しいんだよ。今度みんなで行こうか」
鈍台洋子が、口の片端からたりとたれたヨダレを袖で拭いた。
「学校くる道の小江戸の途中にある、あの和菓子屋さんだよねっ。いいねえ、行こう行こう行こーっ!」
良子が賛同し、腕を突き上げた。
「ええなあそれ、値の張るもんをたーっぷり買い込んでお得意さんになったろかあ」
腕を組み、にっと笑みを浮かべる双葉。
「ちょっと、やめろよ! お菓子なら、少しくらい持っていっていいからさあ、買うなよな。買うくらいなら盗め。盗んで捕まれ」
柚葉は双葉の両肩を掴んで、ガタガタ揺らした。
「こっちがお得意になってしまったら、でっかい態度を取れなくなるからなあ」
揺らされながら、双葉はにいっと笑みを浮かべた。
「違う!」
「じゃあ、なんや? いってみ?」
双葉のすっかり形勢逆転といった表情に、柚葉はうーーと唸ると、双葉の肩から手を離した。後ろへ下がりながら、左腕を立ててリストフォンのカメラを双葉へと向けた。
ピピ、とフォーカスロックされた音が鳴った。
双葉はさっと横へ逃げ回り込んで、柚葉の腕を掴んだ。
「他人の写真撮んのは、全国どこの学校も校則で禁止やで」
「じゃあ、撮らないからお前の顔写真をよこせよ。絶対こいつに和菓子売らないようにって、むしろ毎日お土産たっぷり持たせてやれってお祖父ちゃんや従業員に伝えるんだから」
「へーえ、ほな毎日お土産もろとこうかなあ」
「それもムカつくな。お前これから小江戸なんか通らないで、北口に回り込んで帰れよな。それかバスに乗れ」
びしっ、と柚葉は双葉の顔へと油日を突きつけた。
「なんで指図されなならんねん!」
「うるさいなあ。というか、なんでこんな話になってんだよお。そうだよ、ドンちゃんがあたしん家にお菓子買いに行こうとかいうからああ。まったくもう! だいたい、タコ焼き屋は裕子さんの話をしてたんだろ、ドンちゃんにちょっとお菓子の話されたくらいで脱線してんじゃないよ。早く続きを話せよ、バーカ」
だん、と柚葉はイラついたように床を踏み鳴らす。
いわれた双葉もまた、その言葉に腹を立てて強く床を蹴った。
「あああああああったまきたあ! お前がうちの言葉を遮って、裕子さんがお菓子買ってくれるとかいい出したんやろ! 決めた、もう意地でもお前んとこでお菓子を買うたるわ」
「やめろ!」
「きっとめっちゃ美味しいんやろなあ。だって、話を聞いているとお前みたいな娘がいるとは思えないくらいに素晴らしい親みたいだもんな。だって、お前みたいなどうしようもないのがいるっちゅーのに、お店がちゃんとしてるんやもんな。てかお前の話なんか別にどうでもええねん。裕子さんの話しとったのに、クズに邪魔されたわ。裕子さんはな、さっきもいった通りうちのおかんの一コ下のな……」
ようやくにして、双葉は王子こと遠藤裕子のことを語ることが出来たのである。
遠藤裕子。双葉の母より一学年下のフットサル部員。
顔が整っているのに髪の毛が男子なみに短かったから、王子と呼ばれていた。現在は伸ばしており普通の女性のようであるため、どのような感じだったのかは分からないが。
「でな、女子フットサル部が強豪になったのは、うちのおかんが佐治ケ江優の気弱なとこをビシバシ鍛えたことによるものなんやけど、でもおかんは謙遜か知らへんけど、すべては裕子さんから始まってるいっとるんや。実際、個性派揃いの部員たちを強烈な性格でまとめ上げて、初めて佐原南を大会優勝に導いた人なんやて」
「へええええええっ」
良子が、両の拳を握り締めて目を輝かせた。
佐治ケ江優と繋がりのある人物の話に興奮してしまったのだ。
「じゃあ偉いのは裕子さんで、お前が偉そうにいえることなんもないな」
柚葉が茶々を入れる。
「うるさいで、そこのミカンだかカボスだかポンカンだか。そっちかて人のこといえへんやろ」
「いえなくはない。佐原南が全国優勝した時、お前のお母さんはもう卒業していなかったけど、うちのお母さんはその大会の得点王、エースストライカーだからな」
「お、お前が偉そうにいうことじゃないわい。お前はゴール前で気を付けしとればええんや。つうかシュート怖いってぶるぶる震えとればええんや」
形勢逆転また逆転、双葉は顔を真っ赤にして吐き捨てた。
「でもさあ、神様、じゃなくて佐治ケ江先輩は、佐原南が強くなったこととどう関係しているの? 一度も優勝はさせていないんだよね? 強くしたといわれても、よく分からないよ」
良子が、双葉に尋ねた。
「それはな、間接的におおいに関係があんねん。佐治ケ江優の超人プレーに触発されて入部した者や、絶対にあの先輩には負けられへんって努力する者がおって、それで全体が強くなっていったんやな。もう佐治ケ江優はいなかったけれど、裕子さんの代で関東制覇。好成績が人気を呼んで入部希望者もどっと増えて、そんな新入部員である一年の活躍もあって今度は全国制覇。その部長ノートってのが代々しばらく続いたんなら、裕子さんが書いたのもあるんちゃうか?」
双葉の言葉に、良子はノートの束をめくって表紙を確認した。
「ああ、これ……なのかな?」
表紙を見て、良子も他のみんなも、なんだか難しい顔になった。
ぶちおノート 山野裕子 2010
そう書いてあるような気がするのだが、一瞬目を離すともうなんと書かれているのか分からなくなる。まるで暗号、というか目の錯覚を利用した検査だ。
ノートを開いて中身を見ても、やはり軍の機密暗号文書であった。
「へったくそな字」
全員の頭に浮かんだ正直な感想を、柚葉がぽろりと漏らした。
「なんですぐ口に出すねん。いくらほんまのことやからゆうて。いまでも、ほとんど変わってないけどな」
双葉は、裕子の書いた部長ノートをぺらぺらめくった。
どのページも解読にどれだけ時間を労するのだろうという、酷い字であった。
時折イラストが混ぜ込まれている。字の下手さを補おうとしているのかも知れないが、園児の落書きの方が遥かに上等という代物で、それは文字の難解さを倍増させるものでしかなかった。
そんな解読難解な古代文明の文化遺産であるが、それを見る良子の表情は穏やかだった。
「なんだよお前、気持ち悪いな」
柚葉が良子の脇腹を小突いた。
「ん? ああ、いや、なんて書かれているのかよく分からないけど、でもこれらが神様のいたフットサル部の、強くなってきた軌跡なんだなあ、って思って」
そういうと良子は、左腕のリストフォンを操作して、机に置かれたノートの山を写真におさめようとした。
だが、撮影音は聞こえないまま、良子は腕を下ろした。
「どうしたんや、撮らへんの?」
双葉は尋ねた。
「いいんだ。この中に、焼き付けたからさ。部の歴史、重みを」
良子はそっと胸に手を当てた。
「おーっ、かっこいいねえ君。さては未来の主将かなあ」
柚葉はからかった。
「やだ、やめてよユズちゃあん、あたし部で一番下手なのにい。下手なりに、先輩たちが積み上げてきた歴史の前で不真面目でいられなかっただけっていうか、主将とかそんなの考えたことないよ」
当たり前だ。
自分の面倒すら見られない者が、恐れ多い。
いまはとにかく練習を頑張って、みんなの邪魔にならないようにするだけだ。
良子は、もっとフットサルを頑張ろう。と、硬く心に誓った。
「いやあ、ご謙遜をお。新堂軍曹殿お。あ、埃が」
柚葉は良子の服についた糸埃を、摘んで捨てた。
「ユズちゃんはね、単に練習の厳しくなさそうな人に主将になってもらいたいだけなんだよ」
洋子が常にニコやかな顔を少しだけ変化させた。
苦笑しているのだ。
「ご明察う。さすがドンちゃん」
柚葉はパチンと指を鳴らした。
「てめえら、主将を云々など百年早えんだよ!」
部室の扉が少しだけ開いており、そこから荒上先輩が憤怒の表情で覗いていた。
「うわああ、アラジン先輩っ!」
全員声を揃え、ぴょんと飛び上がった。
柚葉もすっかり慌てて、関西弁でハモるななどと文句をいう余裕もなかった。
かくして一同は、掃除時間大幅延長。
月夜の中を五人で仲良く(いや、そのうち二人はどつきあいの大喧嘩か)帰宅することになったのである。
9
高木双葉は、ピッチの外からミニゲームの様子を見ている。
ミニゲームの、というよりも新堂良子の様子を、という方が正しいだろうか。
「ほら、シャクレ」
ピッチの中、須黒笛美先輩が良子をターゲットにしたパスを出した。
受け手を考えた、非常に丁寧なパスだ。
新堂良子は、多田ロカのマークを外してすっとボールの軌道へと入った。
今度こそ、という真剣な表情で転がってくるボールを待ち構え、すっと足を出した。
教本では、ボールが足の裏と床に挟まれてキュッと気持ちの良い音で静止するところ。だが良子はボールを爪先で思い切り弾いてしまった。
ころころ転がるボールを追い掛けて、出した右足で余計に蹴ってしまい、今度は左足先で蹴ってしまい、なんとかボールを止めたいのに努力すればするほどころころころころどこまでも逃げていく。
「あああああああ! イライラすんなあ! よこせ!」
味方のはずの不和先輩が、激しく肩をぶつけて良子から奪い取った。
「相変わらず……酷いな、良子。つうか、日に日に酷くなっとらへんか?」
双葉は腕組みしながら、なんとも困ったような表情を浮かべていた。
「確かに、もう庇うに庇えない……」
隣の芦野留美も、同じような表情であった。
「なんでキャッチすんだよ、てめえ! バーカ!」
武朽先輩の怒鳴り声が轟いた。
せっかく放ったシュートを九頭柚葉に止められたのが癪にさわったようである。
「だってゴレイロが相手のシュート防ぐの当たり前じゃないですか!」
柚葉は、あんたバカ?という表情で先輩を睨み付けた。
「ルーレットで気持ち良く抜いたのにシュートを止められたあたしの気持ちはどうなんだよ!」
「知らねえよ! こっちだって決められたら決められたで、アラジン先輩にどやされるんですから!」
「知らねえよだあ? てめえ、ちょっと用具室に来いやあ!」
「やだああ、もうあそこは嫌だああああ! 言葉使いが気に障ったのなら謝りますからあ!」
「遅いんだよ、ボケ」
武朽先輩は、柚葉の襟をぐいと掴んだ。
「あいつもあいつで、相変わらずやなあ」
双葉は良子を見つめる表情とはまた別のなんともいいようのない顔で、足を掴まれ床をずるずると引きずられていく柚葉の姿を見つめていた。
ちょっと前まで双葉は柚葉のことが大嫌いだった。
あのふてぶてしい顔を見るだけで腹が立って仕方なく、先輩に歯向かって殴られているたびに心の中で拍手喝采ザマアミロであったのだが、最近そういうところを見ても特に嬉しくもなくなってきた。
彼女の豪放磊落脳天気理不尽ぶりは、もう治しようのない天性のものであり、誰に対してもああいった態度であることが分かってきたからだ。
つまり、大喧嘩が耐えないのは自分がつい乗っかってしまっていたのが原因だったのだ。
喧嘩になったところで、あの理不尽な性格はどうしようもなく、ただ自分がイライラするだけ。なら喧嘩にならないようにしておくのが得策というものだ。なにせ相手はあのようにアホなのだから。
最近はそれが行き過ぎて仏の心境に入ってしまったのか、先輩に盾突いている喧嘩になっている柚葉を仲裁に入りたくなるくらいだ。とはいえ実際のところ一度として間に入ったことなどはなく、用具室へ連れていかれていくのを黙って見ているだけであるが。
さて、お仕置き部屋に強制連行された柚葉の代わりに、同じく一年生ゴレイロである桐谷舞がピッチに入り、ゲームは継続中。
「シャク、打てえ!」
ぼけーっとしていた双葉であるが、その須黒先輩の絶叫に、はっとしてピッチへと視線を戻した。
「はい!」
良子が転がるボールへ詰め寄った。
ゴール前の混戦で、ゴレイロ桐谷舞が飛び出しながら大きく弾こうとして失敗、ぽっかり空いたところにこぼしてしまい、近くにいた良子が反応し飛び込んだのである。
ゴレイロはパンチングクリアのために倒れており、良子としては無人のゴールにただ流し込むだけであった。
「ああくそ、やられた!」
桐谷舞は振り返り、自身がぽっかり空けてしまったゴールを見て舌打ちした。
しかし、得点は生まれなかった。
ボールに飛び込んだ良子であるが、自身の速度を殺せずに蹴るタイミングを逃し、ボールの上をまたぐように駆け抜けてゴールの中に飛び込んでしまったのだ。
「なにやってんだよ、シャクレ! このバカ! シャクレアゴ! ペリカン女!」
武朽先輩がドンと床を踏み付け、怒鳴った。
「すみませえん!」
良子の両腕はすっかりネットにからまってしまっており、もがけばもがくほど抜け出せない状態になっていた。
「なんなんだよ今のは。なんて名の必殺プレーだよ。習い始めの小学生だって、あんなことやりゃしないぞ。基礎からやり直せっつーか、いっそ生まれ変われよお前。才能なさ過ぎるんだよ。きっと先天的なんだよ、下手くそ! シャクレアゴ! 辞めちまえバーカ!」
「すみません」
まだおさまらない武朽先輩の、容赦のない暴言罵倒マシンガンにうなだれる良子であるが、でも次の瞬間には、顔を上げ、にんまりとした表情になっていた。
「よし、今度こそ迷惑かけないようちゃんとやるぞお」
ぎゅっと拳を握った。
だがもう、グループ交代の時間であった。
「交代! 今度はB組とE組で!」
荒上副主将の指示に従ってぞろぞろ移動、ピッチ内ががらりと入れ代わった。
良子はニコニコとした顔で、
「頑張って!」
芦野留美や鈍台洋子とハイタッチをしながら、ピッチを出た。
「お疲れさん、良子」
双葉は良子を出迎え、肩を叩いた。
良子は双葉の隣に腰を下ろした。
ピッチに視線を向ける良子であったが、やがて、
「どうかした?」
と、双葉へと顔を向けた。
ついじーっと見つめてしまっていたのに、良子が気づいたのだ。
「あ、いや、なんでもあらへん」
双葉は手を振り、ピッチへと視線を戻した。
なんでもなくはなかった。
なんだか不自然な気がして、それでつい無意識に良子の顔を見つめてしまったのである。
なにが不自然かというと、良子のフットサルの技術が、である。
特に身体に異常があるとも思えない。
よく走るし、体力もしっかりしている。
同じクラスだが、体育の授業でもソフトボールやハードル走など運動能力は高い。正直、羨ましいくらいだ。
なのに、どうしてフットサルだけこうも下手なのか。
「よーーーし、いいよーーー、みんなあ、声出してこーーーっ。そこ! 打てえ! あああっ、留美ちゃん、シュート惜しかったああああああ!」
一休みすると、自らピッチ外周でボール拾いの任に務いた良子。手を叩いて、元気よく声掛けをしている。
その姿を見て、双葉は苦笑し、頭を掻いた。
「なにがなんであろうと、いまの良子が正真正銘のいまの良子やん」
この良子の、どこか間違うとるか?
どこも、間違うてへんやん。
健気で、前向きで、元気で、優しくて。
それでええやん。
「チカラ先輩、後ろ来とる! テバ、ドンちゃん、いまのパスワーク良かったで! ナイスや!」
双葉も立ち上がり、大声を張り上げ手を叩いた。
良子の視線に気づくと、照れたようににかっと歯を見せて笑った。
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