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裕子はゆっくりと目を開いた。
夢を見ていた。
なんだか、とても楽しい夢であった。
まだ頭がぼーっとしており、どっちが夢か現か分からない状態ではあるが。
まどろみの中、何気なく、机の上の置き時計を見る。
とろんとしていた裕子の目が、一気に見開かれた。
「やべっ、遅刻!」
眠気は一瞬にして遥か彼方へ吹っ飛んだ。ベッドから飛び起きると、パジャマを脱ぎながら部屋のドアを開けた。
目玉焼きやウインナーを焼いているにおいに、嗅覚を激しく刺激された。
「あのクソ目覚まし、鳴らないんだもんな。お母さあん、なんで起こしてくれないのさ」
大切な日だし思い切り早起きするつもりでいたから先ほどは時計を見て慌ててしまったが、ご飯を食べる余裕くらいは充分にある。
しかし、もう少し起きるのが遅かったら、腹ぺこのまま出掛けなければならないとこだった。
ほんと役に立たない母親だ。
「裸でうろうろしてんじゃないよ。目覚ましは鳴っていたし、お母さんだって起こしたよ」
「起きなきゃ意味ねえ!」
裕子は、昨夜母にアイロン掛けしておいてもらったブラウスを、壁のハンガーから取って腕を通しながら、顔を洗いに洗面所へと向かった。
「あのクソガキ」
母、静江は、フライパンと鍋を両手にそれぞれ持ったまま、洗面所へと躍り込んだ。
ガン、ガン!
と凄まじい音が、ダイニングにまで響いてきた。
そして怒鳴り声。
「他人のせいにばっかりしてんじゃないよ! お前は今日から社会人なんだよ!」
ちょっとすっきりした表情で、静江はキッチンへ戻ってきた。
両手の鍋とフライパン、心なしか陥没しているような……
「朝っからうるさいなあ」
山野家の長男、孝が眠たそうに瞼をこすりながら自室から出てきた。
孝は席に着くと、腕を広げて、大きく欠伸をした。
全くもって存在感はないが、父もこのダイニングにおり、とっくに食卓に着いて、顔を間近に寄せて新聞を読んでいる。
全くもって存在感はないが。
「おう、兄貴、おっす」
裕子が、下着にブラウスを羽織っただけのほとんど裸も同然の格好で洗面所から出てきた。
両手で頭の右と左を、それぞれ痛そうに押さえている。
「おっす」
二人は、ぱんと手のひらを打ち合わせた。
「ご飯もうちょいか。じゃあ、トイレトイレっと」
裕子は食卓の皿の具合を確認すると、くるりとUターン。
「ここでパンツ脱ぐな!」
下着に手をかけ下ろしている裕子を見て、静江が怒鳴った。
どこで脱ごうがおんなじことだろが、などともごもご呟きながら、膝まで下ろした下着を上げて、ダイニングから姿を消す裕子。
「お父さんも注意してくださいよ! まったく誰に似たんだか、あの娘ったら女の子のくせにはしたないんだから」
会社でもいきなりパンツを脱ぎだしたりしないか、心配でしょうがないのだろう。
「すっきりちゃーん」
二分ほどして、裕子が戻ってきた。
「ちゃんと手を洗ったの?」
裕子の顔に、静江は疑惑の眼差しを向けた。
「……。もおお、洗ったに決まってんじゃあん」
踵を返し、そそくさと、なぜか擦り足で洗面所へと戻っていく裕子。
静江は思わず長いため息をついた。
ばしゃばしゃ、と激しい音。
裕子は、ろくに拭いていないようで手から水をぼたぼた滴らせながら洗面所から出てきた。
「はあ、今日も洗った洗った」
どうでもいいことをいいながら、ダイニングを素通りして自室へと入っていった。
ドアが閉まった。
それから三分後、ドアが開いた。
「ダンダンダーンダンダダーーン」
SF映画のBGMのような重厚なメロディを口ずさみながら姿を現した祐子は、紺のスーツ姿になっていた。
タイトスカートに、なんと裕子だというのにストッキングまで履いている。
「セクシーボンバー」
裕子は唇を軽くつぼめ、肩までかかった髪の毛を、両手でかき上げた。
「お、裕子のそんな格好、初めて見た。別にセクシーじゃないけど、でもまあ女性に見えるよ、ほんと。すごいな、服の力って」
「あの、兄貴、褒めてるのかけなしてるのか分からないっつーか、やっぱりけなしてんだろうなって思うけど、でも褒められてることにしとくわ」
そうでないと自暴自棄になって、せっかくここまで伸ばした髪の毛を、これから初出勤だというのにつるつるのスキンヘッドにしてしまいそうで。
別にそれでもいいけど、母にボコボコに殴られるのは間違いないだろう。
「よっこいしょういちっと」
誰から聞いたのか、裕子は古くさい昭和な掛け声で席についた。
狭いテーブルの上には皿やお椀がびっしり並んでいる。
ご飯、大根の味噌汁、目玉焼きと同じ皿にはプチトマトにウインナーにポテトサラダ、味付けのり、焼き魚、ごぼうとニンジンの煮付け。
山野家の朝食は、だいたいこのような和食中心の献立なのである。
「兄貴、さっきのお詫び代わりに目玉焼き半分くれ」
「やなこった。褒められたと思ってるんならいいじゃないか。うわ、なにすんだお前!」
裕子が突然、兄の半熟目玉を箸で突いたのだ。
「ちっくしょう……朝から最悪の気分だ」
半熟目玉好きの孝は、つついて破る醍醐味を奪われて、がっくりうなだれた。
「目玉焼きくらいで、くっだらね」
そう反応するのを知っていて、やったのだけど。
「バカみたいなことばかりやってんじゃないよ。……ほんと、裕子が今日から会社勤めだなんて、まだ信じられない感じだわ」
静江がしみじみと呟いた。
兄の目玉焼きを箸で突き破って喜んでいるのを見れば、そう思うのも当然であろう。
「あたしだって信じらんないよ。うっかりしてたら佐原駅で降りて高校に行っちゃいそう」
「実際、高校の入学式の日も、本当に中学校に行っちゃって、危うく遅刻するとこだったしな」
孝は頬杖つきながら、目玉にちょーっと醤油を垂らしている。
丁度三年前のこと、孝が学校に行こうと自転車をこいで駅に向かっていたところ、卒業した中学校の近くを高校の制服を着て必死に走っている裕子を偶然見つけ、駅まで送ってやったことがあるのだ。
「んな古いこといちいち覚えてて、暗っ。晶か」
その武田晶であるが、彼女は茨城の大学に行くことになり、その近くで一人暮らしをするとのことだ。先日、送別会を開いたばかりだ。
大学で彼氏の一人でも作れればいいけどな。
と、自分のことは棚に上げて勝手に親心。
「しかしあたしと同じくらいバカのくせに、よく大学なんか行くよねー、晶ってば。……なんだかさ、二年後には妹のナオも同じ大学行ってる気がするよ。アパート転がりこんでさ」
そう喋っているつもりであるが、口の中にぎっちり詰め込んで、凄い速度で咀嚼、嚥下をしながらなものだから、もががもががとしか聞こえていないかも知れない。
「まだ余裕あるんだから、ゆっくり食べなさい。ご飯粒飛ばさない!」
静江がさすがに見かねて注意した。
「はーい。ごちそうさまでしたあ」
注意するも既に遅し、裕子は食べ終わっていた。
テーブルに手を付いて、どっこいしょういちと立ち上がった。
「歯を…」
と静江がいいかけると、
「磨くの忘れてませ~ん」
と、かぶせるようにそういって、洗面所へ向かった。
しょこしょか歯を磨きながら出てくると、そのまま自分の部屋へ。
これから通勤に使う黒のショルダーバッグを開いた。
昨夜もしっかりチェックしたので忘れ物はないはずだが、念のために軽く確認。問題なし。
机に置かれている写真立てに、ふと視線を向けた。
二つの、写真立てが置かれている。
一枚は、佐原南高校フットサル部全員の集合写真。
前列の者たちが、「祝 大会制覇!」と、紙を繋ぎ合わせてマジックで書いた段幕を持っている。
もう一枚は、試合が終わった瞬間のもの。
お互いの手を取り合って高々上げている裕子と、西村奈々。
そうだよな。
あの時、これまでの全てが、救われたんだ。
誰の?
よく分からず思い付きで心に唱えてしまってものだから、待てよ、と自問した。
ま、いいじゃないか、誰のだって。
っと、やべやべ、そろそろ出ないと遅刻してしまう。
「だいたいさあ、なんで成田線って一時間に一本か二本しか来ないんだよなあ」
愚痴をこぼしながら自分の部屋を出ると、小走りで洗面所へ向かった。
裕子の走り方は、なんだか奇妙であった。
右足の筋力がまるでないのか、身体を小さく左右へ傾けてバランスを取りながらの、非常にぎこちない足取り。
先ほど見ていた写真の、その大会で、右足を大怪我したことによるものであった。
大会前から、もともと右ふくらはぎの筋の状態が悪かったのだが、かばいつつも相当に激しく動き回ったり、蹴られ転ばされたり、それでも構わず出続けたことにより、筋だけでなく足首の関節までも破壊してしてしまったのである。
歩く分には見ていて分からないが、走ろうとするとこのようになってしまう。
手術と、半年以上におよぶリハビリでここまで回復したものの、これ以上は無理だと医者からはいわれている。
人工関節を入れるなどの措置を行えば、全力疾走までは無理でもある程度は普通にまで走れるようになるとのことだが、しかしそれを裕子は拒否した。
物と自分の身体を交換なんかしたら、もう絶対にそれ以上はよくならない。でも、自分の肉体だけであれば、たとえほんの少しずつであっても、自分の努力と気合でどこまでも治していけそうな気がするから。
「ほんじゃ、行ってまいりまあす!」
定期券入れをちゃんと入れたか確認すると、ショルダーバッグを肩にかけ、トーストを口にくわえ、玄関のドアを開いた。
さあっ、と風が吹き込んできた。
目の前に、小学生くらいの、小さな女の子が立っていた。
赤いランドセルを背負っている。間違いなく、小学生だ。
小さな女の子、だと思っていたのに、それは気のせいだったのか、裕子と同じくらいの背丈であった。
その顔、知っている。
記憶を辿るまでもない。
「田木さん!」
女の子は、裕子のクラスメイト、田木文恵であった。
どうしてここに。え、というか。え? なんで? あれ?
裕子が困惑していると、田木文恵は笑みを浮かべながら、手にした筒を開け、入っていた紙を取り出した。
「じゃじゃーん!」
そういって彼女が広げたのは、小学校の卒業証書であった。
「田木さん、卒業、出来たんだ」
「あったりまえ。だからこうして持ってるんじゃん」
以前は言葉がつっかえつっかえで非常に聞き取りにくかった彼女の声であるが、現在、実に滑らかに、はっきりとしており、とても聞きやすかった。まるで脳に言葉が直接届いているかのように。
「そうか。おめでとう」
「おめでとうじゃないよ! 他人事みたいに。裕子ちゃんこそ、早く貰わないと卒業出来ないよ!」
「え? ああ、そうか。……そうだった!」
自分のことなど、すっかり忘れてしまっていた。
あたし、まだ卒業してなかったんだ。
そんな大事なこと忘れてるなんて、もう、このアホ脳味噌!
卒業証書、早く受け取りに行かないと。
「ねえねえ、お母さん! あたしのランドセルどこ置いたっけ?」
裕子は大声で騒ぎながら奥へ。そして、しばらくすると、赤いランドセルを背負って、玄関へと戻ってきた。
「おっまたせー」
スニーカーを履くと、外へ出た。
「じゃ、行こうか」
「うん」
二人は顔を見合わせ、笑みを浮かべると、どちらからともなく走り出した。
裕子はTシャツに、デニム生地のショートパンツ。学校へ通うのによく着ている、慣れた服装だ。
「裕子ちゃん、早く早く!」
どんどん先に進んでしまう田木文恵。彼女は後ろを振り返り、焦れったさに叫んだ。
「ちょっと待ってよ!」
田木さん、なんだか足が速くなったな。なんだかどこじゃないぞ。あたしよりか速いなんて。
とにかく裕子も負けまいと全力で走った。
田木文恵の背中を追った。
あれ、そういえば。
あたし、普通に走れてる。
怪我、してたはずなのに。
ん?
あれ?
怪我?
どこが?
あたし、どこか怪我なんかしてたっけ?
夢でも、見てたかな。
まあいいや。
走りながら、そんなことを考えていたら、突然、自動車の急ブレーキの音。
ぎぎぎぎぎ、と何かを切り裂くような、鋭い、けたたましい音であった。
角から急に出てきたトラックと、ごつんと正面衝突。裕子は、トラックを遥か地平線の彼方まで跳ね飛ばしてしまった。
「あいたたたあ」
裕子はおでこを押さえた。
大丈夫かな、あのトラック。どこまで飛んじゃったんだろ。
「裕子ちゃあん、早く早く!」
田木文恵が向こうで両手を振っている。
分かってるって。
いまいくよ、そっちに。
裕子は笑みを浮かべると、空を飛んだ。
風になった。
夢を見ていた。
なんだか、とても楽しい夢であった。
まだ頭がぼーっとしており、どっちが夢か現か分からない状態ではあるが。
まどろみの中、何気なく、机の上の置き時計を見る。
とろんとしていた裕子の目が、一気に見開かれた。
「やべっ、遅刻!」
眠気は一瞬にして遥か彼方へ吹っ飛んだ。ベッドから飛び起きると、パジャマを脱ぎながら部屋のドアを開けた。
目玉焼きやウインナーを焼いているにおいに、嗅覚を激しく刺激された。
「あのクソ目覚まし、鳴らないんだもんな。お母さあん、なんで起こしてくれないのさ」
大切な日だし思い切り早起きするつもりでいたから先ほどは時計を見て慌ててしまったが、ご飯を食べる余裕くらいは充分にある。
しかし、もう少し起きるのが遅かったら、腹ぺこのまま出掛けなければならないとこだった。
ほんと役に立たない母親だ。
「裸でうろうろしてんじゃないよ。目覚ましは鳴っていたし、お母さんだって起こしたよ」
「起きなきゃ意味ねえ!」
裕子は、昨夜母にアイロン掛けしておいてもらったブラウスを、壁のハンガーから取って腕を通しながら、顔を洗いに洗面所へと向かった。
「あのクソガキ」
母、静江は、フライパンと鍋を両手にそれぞれ持ったまま、洗面所へと躍り込んだ。
ガン、ガン!
と凄まじい音が、ダイニングにまで響いてきた。
そして怒鳴り声。
「他人のせいにばっかりしてんじゃないよ! お前は今日から社会人なんだよ!」
ちょっとすっきりした表情で、静江はキッチンへ戻ってきた。
両手の鍋とフライパン、心なしか陥没しているような……
「朝っからうるさいなあ」
山野家の長男、孝が眠たそうに瞼をこすりながら自室から出てきた。
孝は席に着くと、腕を広げて、大きく欠伸をした。
全くもって存在感はないが、父もこのダイニングにおり、とっくに食卓に着いて、顔を間近に寄せて新聞を読んでいる。
全くもって存在感はないが。
「おう、兄貴、おっす」
裕子が、下着にブラウスを羽織っただけのほとんど裸も同然の格好で洗面所から出てきた。
両手で頭の右と左を、それぞれ痛そうに押さえている。
「おっす」
二人は、ぱんと手のひらを打ち合わせた。
「ご飯もうちょいか。じゃあ、トイレトイレっと」
裕子は食卓の皿の具合を確認すると、くるりとUターン。
「ここでパンツ脱ぐな!」
下着に手をかけ下ろしている裕子を見て、静江が怒鳴った。
どこで脱ごうがおんなじことだろが、などともごもご呟きながら、膝まで下ろした下着を上げて、ダイニングから姿を消す裕子。
「お父さんも注意してくださいよ! まったく誰に似たんだか、あの娘ったら女の子のくせにはしたないんだから」
会社でもいきなりパンツを脱ぎだしたりしないか、心配でしょうがないのだろう。
「すっきりちゃーん」
二分ほどして、裕子が戻ってきた。
「ちゃんと手を洗ったの?」
裕子の顔に、静江は疑惑の眼差しを向けた。
「……。もおお、洗ったに決まってんじゃあん」
踵を返し、そそくさと、なぜか擦り足で洗面所へと戻っていく裕子。
静江は思わず長いため息をついた。
ばしゃばしゃ、と激しい音。
裕子は、ろくに拭いていないようで手から水をぼたぼた滴らせながら洗面所から出てきた。
「はあ、今日も洗った洗った」
どうでもいいことをいいながら、ダイニングを素通りして自室へと入っていった。
ドアが閉まった。
それから三分後、ドアが開いた。
「ダンダンダーンダンダダーーン」
SF映画のBGMのような重厚なメロディを口ずさみながら姿を現した祐子は、紺のスーツ姿になっていた。
タイトスカートに、なんと裕子だというのにストッキングまで履いている。
「セクシーボンバー」
裕子は唇を軽くつぼめ、肩までかかった髪の毛を、両手でかき上げた。
「お、裕子のそんな格好、初めて見た。別にセクシーじゃないけど、でもまあ女性に見えるよ、ほんと。すごいな、服の力って」
「あの、兄貴、褒めてるのかけなしてるのか分からないっつーか、やっぱりけなしてんだろうなって思うけど、でも褒められてることにしとくわ」
そうでないと自暴自棄になって、せっかくここまで伸ばした髪の毛を、これから初出勤だというのにつるつるのスキンヘッドにしてしまいそうで。
別にそれでもいいけど、母にボコボコに殴られるのは間違いないだろう。
「よっこいしょういちっと」
誰から聞いたのか、裕子は古くさい昭和な掛け声で席についた。
狭いテーブルの上には皿やお椀がびっしり並んでいる。
ご飯、大根の味噌汁、目玉焼きと同じ皿にはプチトマトにウインナーにポテトサラダ、味付けのり、焼き魚、ごぼうとニンジンの煮付け。
山野家の朝食は、だいたいこのような和食中心の献立なのである。
「兄貴、さっきのお詫び代わりに目玉焼き半分くれ」
「やなこった。褒められたと思ってるんならいいじゃないか。うわ、なにすんだお前!」
裕子が突然、兄の半熟目玉を箸で突いたのだ。
「ちっくしょう……朝から最悪の気分だ」
半熟目玉好きの孝は、つついて破る醍醐味を奪われて、がっくりうなだれた。
「目玉焼きくらいで、くっだらね」
そう反応するのを知っていて、やったのだけど。
「バカみたいなことばかりやってんじゃないよ。……ほんと、裕子が今日から会社勤めだなんて、まだ信じられない感じだわ」
静江がしみじみと呟いた。
兄の目玉焼きを箸で突き破って喜んでいるのを見れば、そう思うのも当然であろう。
「あたしだって信じらんないよ。うっかりしてたら佐原駅で降りて高校に行っちゃいそう」
「実際、高校の入学式の日も、本当に中学校に行っちゃって、危うく遅刻するとこだったしな」
孝は頬杖つきながら、目玉にちょーっと醤油を垂らしている。
丁度三年前のこと、孝が学校に行こうと自転車をこいで駅に向かっていたところ、卒業した中学校の近くを高校の制服を着て必死に走っている裕子を偶然見つけ、駅まで送ってやったことがあるのだ。
「んな古いこといちいち覚えてて、暗っ。晶か」
その武田晶であるが、彼女は茨城の大学に行くことになり、その近くで一人暮らしをするとのことだ。先日、送別会を開いたばかりだ。
大学で彼氏の一人でも作れればいいけどな。
と、自分のことは棚に上げて勝手に親心。
「しかしあたしと同じくらいバカのくせに、よく大学なんか行くよねー、晶ってば。……なんだかさ、二年後には妹のナオも同じ大学行ってる気がするよ。アパート転がりこんでさ」
そう喋っているつもりであるが、口の中にぎっちり詰め込んで、凄い速度で咀嚼、嚥下をしながらなものだから、もががもががとしか聞こえていないかも知れない。
「まだ余裕あるんだから、ゆっくり食べなさい。ご飯粒飛ばさない!」
静江がさすがに見かねて注意した。
「はーい。ごちそうさまでしたあ」
注意するも既に遅し、裕子は食べ終わっていた。
テーブルに手を付いて、どっこいしょういちと立ち上がった。
「歯を…」
と静江がいいかけると、
「磨くの忘れてませ~ん」
と、かぶせるようにそういって、洗面所へ向かった。
しょこしょか歯を磨きながら出てくると、そのまま自分の部屋へ。
これから通勤に使う黒のショルダーバッグを開いた。
昨夜もしっかりチェックしたので忘れ物はないはずだが、念のために軽く確認。問題なし。
机に置かれている写真立てに、ふと視線を向けた。
二つの、写真立てが置かれている。
一枚は、佐原南高校フットサル部全員の集合写真。
前列の者たちが、「祝 大会制覇!」と、紙を繋ぎ合わせてマジックで書いた段幕を持っている。
もう一枚は、試合が終わった瞬間のもの。
お互いの手を取り合って高々上げている裕子と、西村奈々。
そうだよな。
あの時、これまでの全てが、救われたんだ。
誰の?
よく分からず思い付きで心に唱えてしまってものだから、待てよ、と自問した。
ま、いいじゃないか、誰のだって。
っと、やべやべ、そろそろ出ないと遅刻してしまう。
「だいたいさあ、なんで成田線って一時間に一本か二本しか来ないんだよなあ」
愚痴をこぼしながら自分の部屋を出ると、小走りで洗面所へ向かった。
裕子の走り方は、なんだか奇妙であった。
右足の筋力がまるでないのか、身体を小さく左右へ傾けてバランスを取りながらの、非常にぎこちない足取り。
先ほど見ていた写真の、その大会で、右足を大怪我したことによるものであった。
大会前から、もともと右ふくらはぎの筋の状態が悪かったのだが、かばいつつも相当に激しく動き回ったり、蹴られ転ばされたり、それでも構わず出続けたことにより、筋だけでなく足首の関節までも破壊してしてしまったのである。
歩く分には見ていて分からないが、走ろうとするとこのようになってしまう。
手術と、半年以上におよぶリハビリでここまで回復したものの、これ以上は無理だと医者からはいわれている。
人工関節を入れるなどの措置を行えば、全力疾走までは無理でもある程度は普通にまで走れるようになるとのことだが、しかしそれを裕子は拒否した。
物と自分の身体を交換なんかしたら、もう絶対にそれ以上はよくならない。でも、自分の肉体だけであれば、たとえほんの少しずつであっても、自分の努力と気合でどこまでも治していけそうな気がするから。
「ほんじゃ、行ってまいりまあす!」
定期券入れをちゃんと入れたか確認すると、ショルダーバッグを肩にかけ、トーストを口にくわえ、玄関のドアを開いた。
さあっ、と風が吹き込んできた。
目の前に、小学生くらいの、小さな女の子が立っていた。
赤いランドセルを背負っている。間違いなく、小学生だ。
小さな女の子、だと思っていたのに、それは気のせいだったのか、裕子と同じくらいの背丈であった。
その顔、知っている。
記憶を辿るまでもない。
「田木さん!」
女の子は、裕子のクラスメイト、田木文恵であった。
どうしてここに。え、というか。え? なんで? あれ?
裕子が困惑していると、田木文恵は笑みを浮かべながら、手にした筒を開け、入っていた紙を取り出した。
「じゃじゃーん!」
そういって彼女が広げたのは、小学校の卒業証書であった。
「田木さん、卒業、出来たんだ」
「あったりまえ。だからこうして持ってるんじゃん」
以前は言葉がつっかえつっかえで非常に聞き取りにくかった彼女の声であるが、現在、実に滑らかに、はっきりとしており、とても聞きやすかった。まるで脳に言葉が直接届いているかのように。
「そうか。おめでとう」
「おめでとうじゃないよ! 他人事みたいに。裕子ちゃんこそ、早く貰わないと卒業出来ないよ!」
「え? ああ、そうか。……そうだった!」
自分のことなど、すっかり忘れてしまっていた。
あたし、まだ卒業してなかったんだ。
そんな大事なこと忘れてるなんて、もう、このアホ脳味噌!
卒業証書、早く受け取りに行かないと。
「ねえねえ、お母さん! あたしのランドセルどこ置いたっけ?」
裕子は大声で騒ぎながら奥へ。そして、しばらくすると、赤いランドセルを背負って、玄関へと戻ってきた。
「おっまたせー」
スニーカーを履くと、外へ出た。
「じゃ、行こうか」
「うん」
二人は顔を見合わせ、笑みを浮かべると、どちらからともなく走り出した。
裕子はTシャツに、デニム生地のショートパンツ。学校へ通うのによく着ている、慣れた服装だ。
「裕子ちゃん、早く早く!」
どんどん先に進んでしまう田木文恵。彼女は後ろを振り返り、焦れったさに叫んだ。
「ちょっと待ってよ!」
田木さん、なんだか足が速くなったな。なんだかどこじゃないぞ。あたしよりか速いなんて。
とにかく裕子も負けまいと全力で走った。
田木文恵の背中を追った。
あれ、そういえば。
あたし、普通に走れてる。
怪我、してたはずなのに。
ん?
あれ?
怪我?
どこが?
あたし、どこか怪我なんかしてたっけ?
夢でも、見てたかな。
まあいいや。
走りながら、そんなことを考えていたら、突然、自動車の急ブレーキの音。
ぎぎぎぎぎ、と何かを切り裂くような、鋭い、けたたましい音であった。
角から急に出てきたトラックと、ごつんと正面衝突。裕子は、トラックを遥か地平線の彼方まで跳ね飛ばしてしまった。
「あいたたたあ」
裕子はおでこを押さえた。
大丈夫かな、あのトラック。どこまで飛んじゃったんだろ。
「裕子ちゃあん、早く早く!」
田木文恵が向こうで両手を振っている。
分かってるって。
いまいくよ、そっちに。
裕子は笑みを浮かべると、空を飛んだ。
風になった。
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