新ブストサル 第二巻

かつたけい

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第二章 ヤニクサイ

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   第二章 ヤニクサイ

     1
 結果としては、庇った挙げ句に自分もいじめを受けるのと、なんら変わらないものとなった。

 ただし、その過程が全く違う。
 同じ辛い目に合うにしても、それが自らの意思で飛び込んだ結果であったならば、どんなによかっただろう。

 たけなおは、走っている。
 放課後の廊下、西にしむらの手を引いて、二人は走っている。

 なんで、こんな時に限って、先生と全然遭遇しない?
 しかも走っている方向、職員室からどんどん遠ざかっているじゃないか。

「待てっつってんだろ!」

 いでけいの怒鳴り声が響く。
 心底怒っているというよりは、おかしみをこらえているような、そんな怒鳴り声。
 それはそうだ。彼女らにとって、これは狩りという遊びなのだから。

「待てよ!」

 無理。
 待たなかったら、もしかして逃げ切れるかも知れない。
 逃げ切れたら、明日にはほとぼりも冷めて、ひょっとして殺されないかも知れない。
 でも、待ったらいま確実に殺される。
 仮に殺されないとしても、痛いの嫌だ。

 直子と奈々は、やまひでたち三人に、追いかけられている。

 理由は、直子からすると不可解かつ理不尽極まりない。しかし、おそらく山田秀美らからすれば至極単純な理論で、直子たちは彼女らの判断基準からすると「調子に乗って」しまったのだ。

 それが、勇気を振り絞った言動からならば、まだよかったのに。
 少なくとも、自分が自分を責め、傷つけることはなかっただろうからだ。

 事は、単なる偶然、というより相手の一方的な思い込みから、起こった。

     2
 少し前に、時間は戻る。

 放課後、たけなおは部活に行く前に、と、教室近くのトイレに寄った。

 なんだか、タバコの臭いがする。

 臭いどころじゃない。
 個室の一つから、狼煙のように小さな白い筋が立ち上っている。

 それどころか、メンソール美味くないだの、値上げがどうとか、完全に喫煙に関する会話が聞こえて来ている。

 やまひでらの声だ。

 彼女らが中で何をしているのか、これ以上会話を聞くまでもない。

 一室空いてはいるけれど、こんな状況で用を足せるものではない。
 他のところで済まそうと、こっそり出ようとしたところ、いきなり個室の扉が開いた。

 一人用に設計された狭い空間だが、そこから山田秀美とあんどうまさの二人が出て来た。

「なに見てんの?」

 安東正江が、冷たい目を直子に向けた。

「あ、べ、別に、なにも」

 直子は、つっかえつっかえで、乾いた声を絞り出した。

「ちくんなよ」

 山田秀美は唇を釣り上げて、いやらしい笑みを浮かべた。

「はい、ちくりません絶対ちくりません! なにがあろうとも決して絶対!」

 直子は、こわばった笑みを浮かべ、ぺこぺこ頭を下げながらトイレを出た。
 えへへへ、と愛想笑いしなが、ドアを閉めると、がくりと肩を落とした。

 長い、ため息をついた。
 生きてこの空間から出られたという安堵のため息のつもりであったが、いつの間にか、自己嫌悪のものに変わっていた。

 ああもう! だいたいなんで、あんな不良がこの学校にいんの?
 しかも、二人は中学の時の友達らしいし、クラス編成した人もうちょっと考えてよ。
 いでさんだって、中学は違うらしいけど、あっという間に仲間になっちゃうしさ。
 なんでうちのクラスだけ。
 分散させてよ、もう。というか、あんなの入学させんな!

 バッグを取りに教室に戻る途中、前を歩いていた男子二人が、

「いまさあ、そこ、ヤニ臭くなかった? 女子トイレのとこ」
「気のせいだろ。入学早々、こんなみんながいるとこで吸う奴がいるかよ」

 などと話している。
 いるんだよ、それがさ。

「ね、ヤニクサイって何? お野菜? ね、何?」

 教室のドアから半身を出した西にしむらが、楽し気な顔を、よりほころばせている。ヤニクサイがなんなのか、頭の中で色々と考えているのだろう。

 しかし全然イメージが湧かなかったか、ちょっとむず痒い表情になった。

「わかんないい。病院の先生が、チューショー的な事を処理する能力は低いっていってたんだ。たぶん、そのせいなんだ。でも、興味はあるんだ、色々なこと、知りたい。ねえ、なんなんだよおお。ヤニクサイって、なんだよおおお」

 開いたドアの戸当たりパッキンに頬を当たまま、奈々はずりずりと下がっていく。

「ヤニ臭いってんだから、ヤニが臭いってこと以外ねえべ」

 男子の一人が、わずらわしそうな顔で答えた。

「ということは食べ物ではない?」
「バーカ」
「ヤニってなんなの」

 戸当りパッキン一番下まで顔が降りて、完全に寝っ転がった姿勢で、西村奈々は尋ねた。スカートがまくれて、パンツが完全に見えてしまっている。

「おい、こいつあれだよ」
「ああ。そうか」

 二人は気味悪そうな表情を奈々へと向け、足早に去って行った。

 と、前のドアでそんなやりとりをしていたため、武田直子は後ろのドアから教室に入った。

 、は酷いよなあ。などと男子生徒の言葉に憤慨しながら。

 直子は、教室後方にあるロッカーから、自分のバッグを引っ張り出した。
 これから、部活に行くのだ。

 放課後の教室には、まだ半数近くの生徒が残っていて、幾つかのグループに分かれて雑談をしている。
 始まったばかりの高校生活、まだすべてが新鮮で、教室で呼吸をしていることそのものが楽しいのだろう。

 気持ちは分かるけど、だからっていつまでも教室にいたって仕方ない。
 高校生活、たったの三年しかないんだ。
 なにかやらなきゃもったいない。
 というわけで、フットサル今日も頑張るぞお。

「ねえ、タケダナオコ!」

 前のドアのところにいた西村奈々が、いきなり直子へと走り寄って来た。
 狭い教室、走っても歩いても時間は変わらないというのに。

「呼び捨てはいいけど、フルネームは違和感あるなあ」

 直子は苦笑した。
 違和感があるだけでなく、タケノコみたいでフルネームは好きじゃない。ちなみにそれは、小学生の頃のあだ名。

「イワカンって?」

 西村奈々は尋ねた。

「変ってこと」
「変というのは、つまりバカってことだな」
「違う違う。そうじゃなくて……」

 などと話していると前のドアが開いて、山田秀美らが入って来た。
 廊下で合流したのか、小出恵子も一緒。三人、フルセットだ。

 さっきの彼女らのいやらしい笑みを思い出して、直子はぞっとした。
 無事に高校生活を送りたいなら、こういうのをいかに巧みにやり過ごすか、だよな。

 しかしながら、直子のそのプランというか思いというかは、むなしく崩れることになる。
 もっともっと、ぞっとさせる出来事が発生したのだ。
 それはなにかというと、西村奈々が楽しそうな顔を直子に近付けて、大きな声でこう叫んだのだ。

「ねえタケダナオコ、ヤニクサイってなんなのお?」

 その瞬間、直子は、ぎゃーーーーーーと天に轟かんばかりの凄まじい絶叫を発していた。

 教室にいる全員が、驚いたように直子へと視線を向けていた。

 はっ、と我に返る直子。

 とん、と肩を叩かれた。
 振り向くと、山田秀美がにっと薄い笑みを浮かべていた。

 どくん。

 直子の心臓が、大きく跳ね上がった。

「ちくんな、っていったよね」

 安東正江は、直子の眼前へと自分の顔を近づけた。ほとんど密着しそうなくらいに。

「あ、あたし、誰にも、話してなんかない」

 自慢出来ることではないけど。

「じゃあ、なんでこいつが知ってんだよ。こいつ、空気の読めないバカだから、いいふらしまくったらどうすんだよ」

 自業自得だよ、そんなの。

 そう思ったけれど、もちろん口には出さなかった。まだ高校生になったばかり、花の十五歳、命は惜しい。

「ね、さっきからなんの話? それよりあたしはヤニを見たいのだ!」
「うるせえバカ! でっけえ声出しやがって。非常識なことしてんじゃねえよ」

 トイレでタバコ吸うのと、それを大きな声で喋ることと、どっちが非常識だよ。

 直子はそう強く思うものの、もちろん思うだけで伝わるわけもなく、しかし口に出そうものなら間違いなく半殺しなわけで。
 だけどもう、口に出さずとも、半殺しにされそうな気配が濃厚なわけで……

 青ざめた顔で、おどおどガタガタぶるぶるの直子。
 怒鳴られた当人である奈々は、安東正江のいう通り微塵も空気を読めておらず、ニコニコそわそわしているだけだというのに。

「ああ、そういうわけか。ちくられたんだ」

 当時、現場にいなかった小出恵子だが、会話から状況を理解したようである(直子からすれば勘違いもはなはだしいが)。

 そして、その彼女のとった行動は、胸ポケットからカッターナイフを取り出すことであった。
 奈々の顔にカッターの先端を突き付けて、カチカチカチと伸ばしたり縮めたりしながら、

「さっきの話を、お前がなんで知ってんの? やっぱり聞いたんだろ、こいつにさあ」

 小出恵子は、カッターを持っていない方の手で直子の髪の毛を掴むと、ちらり西村奈々へ冷たい視線を向けた。

「さっきって? なんの話? いつのさっき?」

 奈々はひときわ大きな声を出した。

「ね、なんのこと? あたしがタケダナオコから、なにを聞いたの? ねえ?」

 西村奈々の無邪気な笑顔、質問に、直子の顔は完全に青ざめていた。
 だって普通に考えて、奈々の言動は彼女らへの挑発でしかないから。

 相手が知的障害者だからって、こういう連中は簡単な常識を働かせたり、理性で自分を抑制なんか出来ないのだから。

 案の定、山田秀美の唇がひきつっている。
 バカにされていると思っているんだ。

 小出恵子が、直子の顔のすぐそばで、カチカチカチカチ、とカッターナイフを伸ばしていく。

 カチ。

 伸びきった。

 そして、
 数秒の沈黙。

 山田秀美が、ぐわっと顔を上げた。
 怒りの形相であった。

「てめえさあ、調子に乗ってんじゃねえぞ!」

 ダン、と床を踏み鳴らすと、奈々を睨みつけ、怒鳴った。
 小出恵子が、直子の髪から手を離すと、カッターナイフをがっと振り上げて、今度は奈々に掴みかかろうと迫った。

 直子は、咄嗟に西村奈々の手を引っ張ると、走り出していた。
 教室を飛び出していた。

 逃げたらどうなるか怖いけど、逃げなかったら、いま確実にここで殺される。
 絶対殺される。
 いや絶対かは分からないけど、八割方間違いない。
 散々火のついたタバコやライターを背中に押し当てられて、あのカッターで身体を切り刻まれて、最後にドラム缶にコンクリート詰めされて海に沈められるんだ。

 逃げ切れさえすれば、他校の番長と喧嘩でもして明日にはすっかり忘れているかも知れないし、または夜の街で補導されて明日学校に来ないかも知れないし、とにかく今は、この場を逃れる事だ。

 といった経緯により、直子は奈々の手を引いて全力で走っていたのであるが、しかし……

     3
 追い詰められた。

 南校舎四階の端にある理科実習室に逃げ込もうとしたのだが、二つあるどちらのドアも鍵がかけられており、開かなかったのだ。

 そのため廊下は完全に袋小路で、階段を登ってきたやまひでにすぐに見つかることとなった。

「無駄な手間をかけさせやがって」
「でけえ声で、タバコのこと喋りやがって」

 山田秀美たち三人は、口々に文句をいっているが、その口元には笑みが浮かんでいた。

「だから、それは違うんだってば」

 たけなおは、ちょっとだけ声を荒らげた。

 どうしてこんな下らないことで、こんな目にあわなければならないんだ。
 だいたいどちらにしたって、悪いのはそっちだろう。

「違くねえだろうが。わけの分かんないこといってんじゃねえ!」

 あんどうまさが叫んだ。

 西にしむらは、まったく状況を飲み込めていないようで、これは客観的に楽しいことなのかそうでないことなのかを決めかねているのか、きょとんとした表情で様子をうかがっていた。

 山田秀美が、すっと一歩前に出た。

「お前たちさあ、調子に、乗っちゃったね」

 山田秀美は、直子へとゆっくり手を伸ばすと、胸倉を掴んでぐいと引き寄せた。

「乗ってない乗ってない乗ってない!」

 直子は涙目で、素早く横に何度も首を振った。

 カチカチ、カチ、

 いでけいが、手にしたカッターナイフの刃を、直子の頬に当て、ゆっくりと押し出していく。

 と、その時であった。

「ナオ!」

 不意に飛び込んできた、第三者の声。
 山田秀美は、直子の胸倉を掴んだまま、振り返った。

     4
「お姉ちゃん!」

 なおの張り詰めていた表情が、少し和らいだ。

 姉のたけあきらと、その友人なのかよく分からないがとにかく同じ部活のやまゆうの姿がそこにあったのだ。

「部活、行こうよ。迎えに行ったら、バッグあるのにいないんだもん。クラスの子に聞いたら、なんだか追われて逃げてったなんて聞いて、探しちゃったよ」

 と、ここまでいうと、晶は視線をちょっとだけ横へ移動させ、

「……あのさあ、事情はよく知らないんだけど、ナオは、妹は、他人を悪くいうことは絶対にない。絶対にね。なんか怒らせたんなら、勘違いだよ」

 普段通り落ち着いた様子で、淡々とそういった。

「へえ」

 晶の言葉に、山田秀美はまったく動じることはなく、むしろ釣り上げる唇の両端が完全に上を向いて、笑みの不敵さ、不気味さが余計に強まっていた。
 上級生への強がりというよりは、心底からおかしいといった、そんな表情であった。

「先輩たちも、調子に乗っちゃってるみたいですね。……三年生に、やまのりってのがいるの知ってます? バカだから、暴力団に知り合いがいるなんてでかい声で喋っちゃってません? あたしの、兄なんですけどね」

 さ、なにかいってみなよ。
 山田秀美の顔には、明らかにそんな表情が浮かんでいた。

 晶の後ろに立っている山野裕子は、少しだけ顔に疑問符を浮かべると、はっとしたように口を開いた。

「ああ、もしかして、おしっこ漏らしの山田則夫のこと?」

 山野裕子の言葉に、山田秀美は微かな困惑の表情を浮かべた。

「そういや、いつもクラス違ってたから、すっかり存在自体を忘れてたけど、あいつこの高校なんだよな。今度挨拶しとこっと。ね、とりあえずさ、『兄貴』がよろしくいってたって伝えといてよ。それと、謝っといて。オムツマンなんて名前広めちゃってさ。どんより落ち込んでたから、ほんと悪いことしたなーって、死ぬほど反省したんだよね、あたし。一週間しないうちさっぱり忘れちゃったけど。三年前のことだから時効だろうけど、一応、謝ってたっていっといてよ。あ、それともいまから一緒に行く?」

 裕子は、にこりと楽しげな笑みを浮かべた。

「なんだよ『兄貴』って」

 晶が尋ねた。
 裕子の過去に普段まるで興味を示さないくせに、そこだけはちょっと気になったようである。

「あたしの中学の時のあだ名。失礼しちゃうよねー」
「ぴったりだよ」
「お前の中学の頃のダンゴムシよりはぴったりじゃないよ」
「あたしのあだ名のことなんか、いまどうでもいいだろ!」

 などと二人が場違いなやり取りを、まったくもって平然とした顔で行なっていると、

「わけ分かんない!」

 山田秀美は、荒っぽく吐き捨てると、直子の胸倉を掴んでいた手を離し、西村奈々を突き飛ばし、わざわざなのか裕子と晶との間に強引に身体を入れて掻き分けて、階段を下りて行った。
 安東正江たちは、慌てて後を追いかけた。

「おしっこ漏らしだの兄貴だの暴力団だのって、どんな中学だよ。……ナオ、大丈夫だった?」

 晶は、直子の両肩に手を置くと、その顔を見つめた。

 直子は、喜怒哀楽その他もろもろ入り混じった恐ろしく複雑な表情で、おずおずと晶を上目遣いで見ると、ひきつったように歪んだ唇を、震わせながら開いた。

「お姉ちゃあん。……あたしが、おしっこ漏らしちゃったよおお」

 本人の口から聞くまでもなく、直子の足元には、海が広がっていた。当然、晶の足元にも。

「ナオ……」

 晶は全く動ずることなく、ただ、直子の顔を見つめていた。

「だってだって! 怖かったんだもん!」

 他に誰もいない静まり返った廊下で、直子は激しく泣き出した。

 晶は、直子の背中に腕を回すと、そっと抱きしめた。

「だってもなにも、誰も責めてないだろ。トイレでジャージに着替えよ。着替え、教室? 王子、悪いけど取って来てくれない? 歩けないからさ。あと、雑巾何枚かよろしく」
「任せとけ」

 裕子は駆け出した。

 姉と二人きりになった廊下で、直子はいつまでも泣き続けていた。

     5
「ご迷惑、かけました」

 トイレでスカートや下着を脱ぎ、ジャージへと着替えたなおは、出てくるとまずやまゆうに深く頭を下げた。

「お姉ちゃんも、ありがとうね」
「なんにもしてないよ」

 晶は少し照れたか、普段以上に愛嬌の無い表情を作った。

「あたしがなんかいったから? あたし、悪い?」

 西にしむらが、ほとんどおでことおでこがくっつきそうなくらい、直子へと顔を近付けてきた。彼女なりに責任を感じているようである。

「全然。西村さんは、悪くないよ」

 悪いのは、勇気のない、わたしなんだ。
 直子は、おでこをおでこにこつんと軽くぶつけると、笑みを浮かべた。

 西村奈々も、歯茎剥き出してにっと笑った。

「あのさあ、あいつらとなにがあったの?」
「実はですね……」

 裕子の質問に、直子は順を追って話していった。
 なんでそんなことで追いかけ回されないとならないのか。それはもう、呆れるしかないという内容だった。

 その話に続けて、直子は、今まで誰にも話したことのない悩みを打ち明けていた。

 どうしていま、他人である裕子にこんな話をしてしまっているのかは分からない。何故だか勝手に口が動いてしまったのだ。

 その悩みというのは、前述した通り、自分に勇気がないということだ。

「なくはないでしょ」

 裕子は、あっけらかんとした顔で答えた。

「奈々ちゃんを連れて逃げて、って、これも凄い勇気だよ。……それに、勇気なんて誰もがそんなにたくさんあるわけじゃない」
「でも、お姉ちゃんなんか、どんな時でも物怖じしなくて……あたしも、高校に入ったらそうなろうと思ってたのに」
「晶はちょっと変わり者だからなあ。でもまあ、あたしも結構物怖じせずにずけずけいうほうなんだけど、それって慣れているから平気なだけで、勇気があるからってわけじゃない。ケツ見られるのが好きな奴がケツ見せたって、ってたとえ悪いか。とにかく、嫌で逃げ出したくて胸が苦しくなってくるようなことに対して、我慢して、実際の行動を起こせることが勇気だよ。それだったら、さっき、そういう勇気を見せたじゃんか。普段はさあ、別に辛いことから逃げててもいいんじゃない? 絶対に譲ってはいけない時、絶対に退いてはいけない時、そういう時だけ、ほんのちょっとの勇気を出せばいいんだ。……考え方の問題でさ、あれも出来ないこれも出来ないじゃなくて、ならばなにが出来るかなんだ。自分にやれることを探していけばいいんだよ」

 いい終わると、裕子は直子の肩を優しく叩いた。

 直子は、晶の方に視線を向けると、

「ねえ、お姉ちゃん……王子先輩って、本当に成績悪いの?」

 あまりに裕子がしっかりとした持論を述べるから、本当に家でいつも姉から愚痴を聞かされている王子先輩なのだろうかと思ったのだ。

「うん。三年生になれたのが奇跡」

 晶はきっぱりといい切った。

「たまに真面目な話してやりゃなんだよ! このジャガイモ顔姉妹が! 煮っ転がすぞ!」

 裕子は床を踏み鳴らし、怒鳴った。

 直子は声をあげて笑った。
 今度は屈託のない、明るい笑顔であった。

     6
 現体制になってからというもの、部活練習中に部長も副部長も共に不在であったことは、かつて一度もなかった。
 つまりはたけあきらが一人、遅刻も病欠もせずに真面目ということなのだが、しかし今日、その記録も途絶えた。
 やまゆうと武田晶の両名が揃って、一時間ほどの遅刻をしたのだ。

「練習、どうなってんかな。ま、想像つくけどねー」

 と山野裕子が不安の微塵も感じられない態度で体育館に入ってみれば、

「亜由美先輩、肩の力を抜かないから蹴り上げちゃうんですよ! よし、それじゃあ一年生は……」

 生山里子が、練習を仕切っていた。

 裕子にすれば案の定というところか。

 生山里子は、二年生。非常に負けん気の強い性格である。
 以前は個人技を磨くことばかりで、周囲がどうなろうと無関心なところがあったが、最近、自分勝手な性格も多分にありつつも他人の事も考えられるようになってきている。
 その結果が、「勝手に部を仕切る」であった。

 部長不在という緊急の事態とはいえ、だからこそ三年生はなにをしているんだ、と思われても仕方ないところではあるが、おっとりタイプばかりの三年生ではそれこそ仕方のないことなのだろう。

「よし、里子、下がってよし。交代」

 しっしっ、と裕子に追いやられる里子。

 なんだよ、どうせなら今日はこのまま任せてくれてもいいのに……

 里子はちょっと不満であったが、諦めて指揮権を裕子に戻し、他の部員たちの中へ戻った。

 いままで里子部長代行の下で行なっていたのは合同の練習メニューで、三年生から入りたての一年生まで、FPもゴレイロも問わず同じものだ。いわゆる基本トレーニングだ。

 入部したばかりの一年生であるが、経験者が多いため、上級生と比べてさほど遜色なく見える。

 本年度が始まってまだ一週間。
 当分の間は体験入部期間が続くので、誰が突然いなくなってもおかしくはない。
 いくら経験者が多いとはいえ。
 反対にいうと、誰が今日いきなりフットサル部の練習に参加したとしてもおかしくはない。
 従って、西にしむらがここでボールを蹴っていること自体、なんら不自然なことではないのである。

「いやいやいやいや、やっぱり不自然でしょ……」

 事情説明を簡単に受けて、奈々の相手を任された生山里子であるが、不満とまではいかないものの、ちょっと納得のいかない気持ちを、小声で呟いていた。

 だって、この子……

 現在、ペアを組んでパス練習をしている。
 里子は、西村奈々へとパスを出した。

 今度こそ、きちんと蹴り返してくれ。少しくらい精度悪くてもいいから。

 そう願いながら。
 しかし。
 奈々は、金切り声のような奇声を張り上げながら、全く違う方向に、しかも小さく助走して全力で蹴っていた。
 精度云々どころか相手へ蹴り返すという気が毛頭ないようだ。

 ボールはぐんと伸びて、反対の端で練習している山野裕子の顔面をバッチンと直撃した。

「てめえ、里子!」

 向こうで、裕子が鼻を押さえながら怒声をあげている。

「あたしじゃない!」

 普段が普段だから、そう疑われてもしょうがないけどね。と心の中で苦笑しつつ、真顔で奈々へと向き直る。

「あのさあ、この距離でのパスなんだから、そんな思い切り蹴ったら受けられるわけないでしょ」

 里子は、奈々にそう指摘するが、いわれた本人は全然分かっていない様子だ。

「誰が?」

 奈々は尋ねた。

「あたしが! だって、あたしとパス練習してんでしょうよ」
「パスってこうでしょ」

 奈々、両手でボールを投げる仕草。

「バスケでしょそれは。フットサルは、足でやんだよ」
「そか、ブトサルは足でやるんだ。でもそれだと、ドリウルが大変そだなあ」

 なんだよドリウルって。

「だからさ、バスケと勘違いしてない? たぶん、いま想像してる通りのドリブルしようってんなら、絶対無理だと思う。そもそもフットサルってボール弾まないし。……って、喋ってないで練習。行くよ」

 どこへ? などと聞かれるかも、と言葉選びを後悔したが、運良くなにもいわれなかった。

 しかし。
 里子のちょんと蹴るパスに、またもや奈々は勢いよくキックしてしまう。

 虹を描いたボールは、隅っこでゴレイロの練習をしているなしもとさきの後頭部にぶち当たった。
 どう、と咲の身体は地に沈んだ。

「だから! あたしにパスを出せ! この距離で助走すんな! 強く蹴るな! 小さく蹴れ! 考えろ! まったくもう」

 里子はため息をついた。
 あんな遠くに蹴ってどうすんだよ。
 わざと当てているのなら、たいしたもんだけど。
 でもまあどっちにしても、咲ザマミロ。

 しかし、どうしたんだろうな、王子先輩。

 里子は、改めて疑問の言葉を心の中で唱えていた。
 西村奈々をここに連れて来たことについてだ。
 簡単に話は聞いた。
 なんでも、他の部での練習を見てて興味を持って、うちで育ててみたいと思っていて、そしたらさっきたまたま偶然出会ったことから誘ってみたのだそうな。

 興味を持ってもなにも、素人でも知ってるような最低限のルールも知らないじゃないか。
 育ててみたいって、育つのか? 絶対に無理だね。
 まあ別にいいけど、でも……短気のわたしなんかとペア組ませるなよな。

「ああ、また変な方向に蹴る! ここ! ここに! あたしの足に! 軽めに、パス! 少なくとも助走やめろ! 分かった?」
「分からん」

 即答され、里子は言葉にならない呻き声をあげた。

 しかし本当に、下手というよりも、ルール知らないというよりも……
 でも、仕方ないのか。
 受け入れ制度だかなんだか、発達障害だって話だし。
 でも、健常者に混じって、出来るのか? フットサル。
 差別は勿論よくないんだろうけど、それとこれとは話が違うよ。障害があることは事実なわけだし、こういう中でやることこそ、そもそも平等じゃない。
 でも、わざわざ受け入れて、普通の子に混じって授業受けさせてんだから、部活にしてもこういう中でやらせないと意味がないのだろうか。
 まあ、わたしがあれこれ考えても仕方ないけどね。
 それにしても……
 楽しそうな顔でボール蹴るなあ、この子。

     7
 午後六時。部活練習終了時間だ。

 下級生が用具の後片付けをしている中、やまゆうは、いくやまさと西にしむらを呼んだ。

「どうだった?」

 裕子は漠然としたいい方で、里子に尋ねる。

「へったくそでした」

 本人が隣にいるというのに、里子の言葉は容赦ない。
 少し里子を知る者ならば、単に事実を事実として語っているだけと分かるだろうが。

「まあそりゃあ、初めてだからな。そんだけ?」

 といわれ、里子はちょっと考えて、

「楽しそうにボール蹴ってるのが、印象的でしたかね」
「そうそう、そうでしょ! 羨ましいくらいに楽しそうだよねえ」

 裕子は嬉々とした表情になって、奈々に視線を向けた。

「ねえ、面白かった?」
「うん。中学ではいつも手でやるバスケやってたけど、足でやるのも面白いね」

 奈々はたどたどしい口調でそういうと、にっと笑った。

「うわ、すっごい発想だな。足でやるバスケか」

 裕子はその表現に、単純に感動していた。

「そうなんですよね、この子。バスケ歴は長いみたいで、なんでもかんでもそれが基準になっちゃってるみたい」

 里子は、壁にあるバスケット目掛けて、片手でボールを投げる仕草をした。

「ね、ハッソーってなに?」
「考えってこと。さっきまでやってたのは、バスケじゃなくてフットサルっていうんだよ」

 裕子は答えた。

「ブトサル。さっきサトコから教わった」

 もう知ってるよ、とばかりに笑みを浮かべる。

「フットサル」

 裕子は訂正した。

「ブトサル?」

 再び尋ねる奈々。

「フットサル」

 再び訂正する裕子。

「ブットサル?」
「……それでいいや、ブットサルで、もう。それよりさ、面白かったんなら、入部、してみない?」
「難しいこといわれても分からん」

 って、ブトサルが難しいの? ニュウブが難しいの? と、悩む裕子。
 まあ、どうでもいい。

「明日も、そのまた明日も、ずっと、ボール蹴らない?」

 裕子は、いい直した。

「明日も、そのまた明日も?」
「そう」
「そのまた明日は?」
「そのまた明日も」
「楽しそうだけど、でも、あたしショウガイ者だよ」

 奈々が、言葉の意味を理解してそう喋っているのかは分からない。

 おそらくこれまでの人生で、親や施設、先生などに、知恵をつけられ、なにかにつけて「障害者だけどいいの?」と尋ねる癖が、染み付いてしまっているのだろう。
 ここは日本、謙虚にしておけば、よけいな恨みを買うことなく、人に親切にして貰えるだろう、と。

「だからなに?」

 そう思えばこそ、裕子はあえてそう答えた。「障害者だけど」という言葉を突っぱねたかった。

「ブットサルは楽しんだもん勝ちなの。障害も何もない。一番楽しんだ者が勝者なの。だから、いっつもつまらなさそうな顔してるこいつは負け組決定」

 と、里子の首を抱えて引き寄せると、ほっぺを拳でぐりぐり。

「それそっちの勝手な価値観でしょ!」

 里子は「負け」という言葉に過剰に反応するのだ。

「おばちゃん怒るとコジワが増えるよ」

 横で、奈々が棒読み調にいう。

「なんだこいつ。もう一回いってみろ!」

 里子は、裕子に取り押さえられたまま、奈々を睨み付けた。

「おばちゃん怒るとコジワが増えるよ。もう一回いったけど、でもコジワってなんだ?」

 奈々は、小首を傾げた。

「ひょっとして、誰かにいえっていわれなかった?」
「うん」向こうでゴレイロ練習しているなしもとさきをさして、「あの姉ちゃんが、サトコ怒ったらそういえば怒るのやめるからって」
「梨本咲、今日こそ殺す」

 里子は、裕子の手をばっと振り解くと、足を激しく踏み鳴らしながら、咲へ向かって一直線に走って行く。

 その後ろ姿を見て、裕子は笑った。

「いまのが、うちで一番怖いおばちゃんだ。仲良く出来そうかな?」
「ダイジョウブ、うちのお母さん怒るともっと怖い」
「じゃ、明日から、毎日ボール蹴ろう。あとで改めてみんなに挨拶してね」

 裕子は手を差し出した。

「握手だ~」

 奈々は、小さく柔らかな二つの手で、裕子の手をしっかりと握り、上下に振った。

 順風満帆な航海になるのかは神のみぞ知るであるが、とにかくこうしてまた一人、フットサル部の新入部員が決まったのである。

     8
 午後六時半。
 西の空は、隠れたばかりの夕日が雲に反射して、まだまだ明るいが、東の空はすっかり群青色になって、一つ二つ、星が瞬いている。

 わらみなみ高校の通学路である県道、その歩道を、ゆうたちは歩いている。

 やまゆうたけあきら、その後ろにたけなお西にしむら

 裕子と晶は改めて、直子から先程の件の詳細を聞いた。
 やまひでたちに追い掛けられることになった経緯をだ。

「聞けば聞くほど、ほんっとくだらない理由なあ。しょうがねえな、あいつら。それにひきかえ、直子ちゃんはやっさしいなあ。ねえ晶ぁ、そう思わない? えらいねえ、妹。聞いてる? 晶ぁ、直子ちゃん、優しいよねえ。えらいよねえ」

 裕子は、直子への褒め言葉を並び立てて、しきりに感心している。

 晶は、ふんと鼻を微かに鳴らした。
 不機嫌になるのも当然だろう。直子をここまで手放しで誉めるなど、晶への当て付けに決まっているからだ。

 どうせわたしは優しくないよ。
 といった、ぶすっとした晶の表情であるが、ぶすっとしているといっても、なんだか普段よりも穏やかであった。

「分かってる。だから、どんなに憎まれ口を叩かれようと、内緒だっていってることぺらぺらと暴露されようと……ナオは、とても純粋で優しいことを知っているから……だから、憎めないんだ」

 ちょっとだけ幸せそうな、柔らかな口調で呟く晶であった。

「え、なに? 暴露しても怒らないんだ」

 直子が、裕子と晶の間にぐいと入り込んで、

「じゃ、お姉ちゃんのテレビ占いシリーズその二! ラッキーアイテムの化粧品や小道具、あたしの勝手に使ってるんですよね~。そのくせ、慣れない格好で恥ずかしくて外に出られないからって、家の中でずーっと姿見を見てるんですよ。それどころか、あたしのよそ行きのスカートまで勝手にはいちゃうんですよぉ。ふりっふりのとか、ミニとかあ」

 裕子は、ぶーっと吹き出した。

「似合わねーー。恥ずかしい。最低人間だ! 外に出なくて正解。出たら絶対に逮捕される。いやあ、晶は鉄仮面のような顔の通り実に冷静な判断力を持ってる。って、持ってたらそんな格好しないかあ。しかし笑える! 苦しい! 肺の空気、全部出ちゃいそう。窒息する!」
「見たことないくせに! 最低人間はいい過ぎだろ。ナオ、お前も余計なこというなよ!」 
「ナオちゃん、余計じゃない、全然。それすっごい貴重な情報だよ。残りの高校生活を楽しく過ごすための」

 腹を押さえながらも、少し落ち着きかけていた裕子であるが、晶の顔を見た途端に、またぶっと吹き出した。

「おっかしい! おかしすぎる! この話、咲に売ろうっと」
「いい加減にしろ!」

 晶は、笑い転げる裕子のお尻をバシンと強く引っぱたいた。
 まったく効果はなく、裕子はいつまでも笑い続けていた。

     9
 足元でトラップしつつ、身体を反転させて、ヒールで後ろへ蹴る、と同時に再び反転、俊敏なステップで一瞬にして自分の蹴ったボールに追いつくと、無駄のない綺麗な流れでドリブルに入っていた。

 かなめとマッチアップしたとうあきであるが、なにがなんだか分からずといったうちに、突破を許してしまっていた。

 こうした、フェイントで相手を抜き去る技術の高さ、効率が見た目の美しさに直結する華麗なプレー、これが久慈要を久慈要たらしめる最大の特徴であった。

 佐藤千秋は、もう素直に舌をまくしかないといった表情。
 同い年とはいえ経験がまるで違うし、素質だって人間平等ではないのだ。

 ここは、トーワなりフットサルクラブ。
 INFIVEインフアイブというアミューズメント関連を広く手掛けている会社が運営しているフットサル専用の施設で、屋内フットサルコートや、フットサルスクールがある。

 彼女らは、スクールのトップチームの者たちである。
 月謝は免除。スポーツクラブを代表して、関東リーグで戦っているのだ。

 現在は、試合形式での練習途中だ。

 久慈要は、真横を並走するはやしえいへとパスを出した。

 普段の練習ですっかり染み付いた素早いリターンで、ボールは再び久慈要に戻った。
 だがその瞬間、横から激しい体当たりを受け、百五十センチしかない久慈要の小柄な身体は吹き飛ばされて、床に転がっていた。

 むくしまよしは、持ち主の不在になったボールを悠々と奪うと、ドリブルを開始した。

 笛の音が響いた。
 審判役のじきが吹いた笛だ。椋島佳美のファールを取ったのだ。

 椋島佳美は、自分が転ばせた相手である久慈要へと近寄ると、すっと手を伸ばした。

 久慈要も、彼女へとゆっくり手を伸した。
 しかし椋島佳美は、手の甲で久慈要の手をパシリと叩いて払いのけた。

「こんな程度で転ばないでくれるかな。弱いなあ、相変わらず」

 椋島佳美は、唇の両端を釣り上げた。
 笑みを浮かべたつもりなのかも知れないが、目付きはまるで怒っているかのようで、だから微塵も笑っているようには見えなかった。

 久慈要は、自力で立ち上がった。

 林英子は、久慈要の横に立つと、そっと顔を寄せ、耳打ちするように囁いた。

「大丈夫だった? 痛くない? あの子、コーチたちがいないと、すぐ本気で身体を当ててくるんだからね。倒されたって倒されなくたってファールだよ、どっちにしろさ」

 確かにそうかも知れないが、いまここでいっていても仕方がない。久慈要は、林英子の肩を軽く叩いた。

「林! こそこそなにいってるの!」

 怒鳴りつけるような、椋島佳美の声が室内中に轟いた。

「なにも、なにもいってないよ」

 林英子は、両手を細かく振りながら、ごまかし笑いを浮かべた。

 練習再開だ。
 しかし、ほどなくしてまた椋島佳美によって中断されることになった。彼女が、守備の連係面のことでフィクソのともをねちねちと攻撃しているところ、久慈要が友田亜美を擁護したことで口論に発展したのだ。

「でも、亜美ちゃんは元々ピヴォなんだし、仕方ないよ」

 久慈要は、いまさっきいったばかりの台詞を、もう一度繰り返した。

「だからこそ、強くいう必要があるんでしょ。期待していればこそ」

 どこが期待しているのか。毎日罵倒ばかりして、やる気をなくさせることばかりいってるくせに。

 と思ったが、ぐっと堪え、

「がみがみ怒ればいいってもんじゃない」
「へー。カナちゃん、そういう考えになったんだ。代表に選ばれなかったからって、ころころ考えを変えないでよね」

 椋島佳美は、また笑みを浮かべた。それは優越感に満ちた。

 反対に、よりどんよりと暗い表情になったのが久慈要である。
 表情だけではない。両手が、唇が、微かに震えていた。

「佳美ちゃん、本気で、いってるのなら、それ、最低だよ」

 久慈要はおもむろに口を開くと、消え入りそうな細い声で、そういった。

「いわれて嫌なら、辞めちゃえば?」

 椋島佳美は間髪入れずに言葉を返した。

「佳美ちゃん……」

 久慈要は、悲しそうな表情でゆっくりと椋島佳美に近寄り、その手を取ろうとする。
 しかし、伸びてきたその手を、椋島佳美は、先ほどよりも激しい勢いで払いのけた。

 二人は、しばらくの間、お互いの顔を見つめ合った。
 椋島佳美は、真っ向から睨みつけるような視線で、久慈要はただ困惑といった顔で。

「おい、お前ら、なにやってんだ! ちょっと目を離すとこれだ。……椋島、またお前か」

 おおたかゆきコーチが、どたどたと走って来て、二人の間に割って入った。

「悪いのは、いつもあたしですか」

 椋島佳美は、吐き捨てるようにいった。

「いや、だってお前、今日はなにが原因だか知らないけど、いつもの自分の言動を冷静に振り返ってみろよ」

 椋島佳美は面白くなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。
 まだ久慈要の視線が向けられていることに気付いた彼女は、

「なあに、その目は? いいたいことがあんなら、いいなよ」

 あらためて、きっと睨みつけた。
 その口元は、挑発的に笑っていたが。 

 久慈要は、二呼吸ほど置くと、顔付きを厳しく変化させ、きっぱりいい切るように、言葉を発した。

「あたし、ここ辞める」

 口調こそはおとなしいが、しかし、はっきりとした決意を感じさせる、そんな久慈要の表情であった。

 その言葉に真っ先に反応したのは大野コーチである。

「おいおい、久慈、本気じゃないよな。うち、リーグ戦もいい調子だし、これから大会だってあるんだし、お前に抜けられちゃ困るんだよ。なにか胸にかかえてるんなら相談してく……」

 その言葉を、椋島佳美の震えるような声が遮った。

「レギュラーになったら絶対に優勝するっていってたよね? なれたのに、でも、逃げちゃうんだ」

 椋島佳美は、それほど声を荒らげていたわけではない。
 しかし、その表情と、一言一言区切るようなはっきりした口調には、なんともいえない迫力があり、大野コーチの言葉も存在も完全に多い隠してしまっていた。

「でも、もう辛くて、耐えられないよ」

 こんな佳美ちゃんを、見ているのが。

「根性なし!」

 椋島佳美は怒鳴った。

 やっぱり、自分の気持ち、佳美ちゃんに伝わっていない。

 実際、伝えられるわけがないのだ。バカにされた、舐められた、と彼女が発狂してしまうのは確実だから。

 椋島佳美の、久慈要を責めるその舌の回転は止まらない。
 いつしか、意味をなさない単なる罵詈雑言へと変わっていた。

 きりがない、とばかりに久慈要は、

「お世話になりました!」

 大きな声を出すと、深く頭を下げた。
 頭を上げると、これまで一緒に技を磨き合ってきた仲間たちを、ちょっと寂しそうな目つきで見回した。

 コート脇に置いてある自分のバッグを取ると、出入口へと向かう。
 通路へのドアを開けた瞬間、すぐ横の壁に、ズバンと激しくボールが投げ付けられた。

 誰が投げたのかなど、振り返って確認するまでもない。
 久慈要は、そのまま練習場を出た。

 更衣室で着替えを済ませると、事務室へ退会の旨を伝えた。
 やはりそこでも止められたが、彼女の気持ちは変わらなかった。もともと、突発的な行動ではないのだ。それが今日であったというだけで。

 エントランスの自動ドアから、建物の外へと出た。

 目の前には、広大な田んぼが広がっている。
 建物の敷地の前を、国道のバイパスが通っている。ダンプカーなど大型車が頻繁に行き来して、絶え間なく地面を振動させている。

「なら辞めちゃえば、なんて自分でいっていたくせになあ」

 ぼそり、と独り言。
 なのに、あんなに怒るなんて酷いよなあ。

 ちょっと鼻がむずむずし、ポケットティッシュを取り出して鼻をかんだ。

 久慈要は花粉症であり、この季節には、いつも苦労する。
 目に、涙がじわりと滲んだ。

 これは鼻水出た時の涙だ。
 自分にそういいきかせた。

 でも……
 未練、あるといえばあるかな。

 やっぱり、このチームで優勝したかったよ。
 わたしと佳美ちゃんとで、ばんばん点を取って。

 でも、このままここにわたしがいると、ますます佳美ちゃんがおかしくなっていくみたいで。
 これで、以前の佳美ちゃんに戻ってくれるといいんだけどなあ。

 自転車置場から、自分の自転車を引っ張り出し、チェーンのロックを外した。
 黒のクロスバイク。どこへ行くにもそこそこ距離のある辺鄙なところに住んでいる高校生としては、自転車は必需品だ。

 でももう、ここに来ることはないのかな。
 多分。

 クロスバイクに跨がった。
 購入時に一番小さなフレームを選んだのだが、それでも小柄な彼女の身体には随分と大きい。

 ゆっくりと、ペダルを踏み込んだ。

     10
 わらみなみ高校前。
 停留所に、バスが停車した。

 アイドリングストップでじっと静かに停まっているバスの中から、ぞろぞろと制服姿の男女が降りて来る。
 停留所の名前の通り、佐原南高等学校の生徒たちだ。

 その人混みに埋もれるように、小柄な体格の女子生徒が降りて来た。もしも制服を着ていなければ、可愛らしい小学生の男の子に間違えられても不思議ではないだろう。

 女子生徒、かなめである。

 彼女は、混雑からようやく開放されたことに、ほっとため息をついた。
 もう入学してから何週間も経つというのに、一向に慣れない。

 これでもこの市営バスは増便したという話だけど、それでも物凄く混んでるよなあ。
 だったら、増便前の混み具合というのは一体どんなだったんだろう。想像もつかないよ。

 些細なことのような、毎日の通学なのだからそれなりに大事でもあるような、そんなことを考えながら、両手に持っていたバッグを遠心力で大きく回して肩に担ぐと、校門に向かって歩き出した。

「カナちん!」

 あれ、なんか聞き覚えのある声……

 後ろを振り返ると、久慈要と同じく佐原南高校の制服を着ている女子生徒が、こちらへと走り寄って来る。
 可愛らしい真ん丸の顔。初々しい真っ赤なほっぺた。

 間違いない。

「ナオ!」

 久慈要は、驚き、叫んだ。

 真ん丸の顔の少女、たけなおは手にしていたバッグを投げ捨て、走り寄り、久慈要に抱き着いた。

「やっぱりカナちんだあ! なんでここにいるの? どうして佐原南の制服着てるの? なりきたに行くっていってたくせに」

 嬉しいような、不思議で解せないような、直子はそんな表情を浮かべている。

「どこでもいいから近場で、って最初は思ってたけど、やっぱり学力に合ったところがいいのかなと思って、ぎりぎりで変えたんだ」
「じゃあそういってよ、カナちん! なんで黙ってんだよお。あたしは前々からここに決めてたんだから、教室に会いに来てくれればよかったのに。家に泊まり合うくらい仲良しだったのに冷たいなあ」

 そういえば確かに、ナオも佐原南といっていたかも知れない。
 自分の志望校とは違うってことくらいで、校名まで覚えてなかった。

「ごめん、ナオ」

 子供をあやすように、直子の頭に手を置いた。しかし、久慈要の方が数センチほど身長が低いので、なんだか小さな妹が姉をあやしているかのようだ。

「いいよ。まあ、こうして会えたんだし」
「それにしても、ナオは、相変わらずだなあ」

 久慈要は、くすりと笑った。
 直子の底抜けの明るさと、愛嬌とに。

「相変わらずって、中学卒業したばかりなのに、まるで久々みたいに」
「あたしが忙しいからっていって、あまり会わなくなってたから、実際久々じゃない?」
「そういやそうかな。でさ、カナちん、フットサルはどうなの?」

 直子は尋ねた。
 久慈要は中学生の頃、学校の部活と地元のフットサルクラブと、両方に所属していた。
 一つに絞りたいから高校生になったら地元のクラブだけにしようと思う、と直子に話したことがある。
 その地元クラブを続けているのか、と直子は尋ねたのだろう。

「色々とあってね。フットサル、辞めようと思っているんだ。実際、もうクラブにも退会手続きしたし」

 久慈要は、淡々と答えた。

「え、どうして? もったいないよ。色々あろうとなかろうと、フットサル自体は続けなきゃ」
「なんだか、やる気がなくなっちゃって」
「いいの? そんなこといって。あたしみたいに、カナちんより遥かに能力低いのに続けている子たちの怨みを買うことになるんだからね。あ、そうそう、そうだ、それじゃあさ、ここのフットサル部に入ればいいじゃん。あたしも入ってんだ」
「へえ、ここフットサル部なんてあるんだ。珍しいな」
「いくら学校の部活に入らないからって、そのくらいは知ってると思ってたよ。じゃあ、今日の放課後、部長のとこに行こ。どうせ帰宅部で、クラブ辞めたんなら家帰ったってやることもないんでしょ?」
「まあ、そうだけど。でも……」
「なんか予定あんの!」
「ありません」
「決定」

 直子はにんまりと笑みを浮かべた。

     11
「久しぶりだね」

 たけあきらは、むすっとしたように見える表情でそういった。

 分かっている。
 機嫌が悪いわけではなく、表情の変化が少ないだけだ。
 ナオのお姉ちゃん、相変わらずだな。
 まあ、わたしも表情に関しては似たようなものだけど。ここまで笑わなくもないけど。

「はい。ほんとにお久しぶりです」

 かなめは、小さく頭を下げた。
 友達の姉ということで、久慈要は何度も晶と顔を合わせたことがある。一昨年だか、武田家に泊まらせて貰ったこともあるくらいだ。

 ここは、女子フットサル部の部室。
 横に長いプレハブ建築の中を、細かく区切った一室だ。
 昔は男子サッカー部の部室だったためかどうか、汗とカビの臭いが酷い。

 現在この室内にいるのは、たけあきらたけなおかなめの三人だ。

「お姉ちゃん、王子先輩は?」

 武田直子が尋ねた。

「さあ。なにやってんだか知らないけど」

 ばん、と部室のドアが勢いよく開いた。

「ごめん、遅くなった。いやー参ったね、さとの奴がさあ」

 王子ことやまゆうが、頭をがりがりとかきながら部室に入って来た。

「毎度毎度ことごとく時間に遅れてくるの、なんとかしろよ」
「お、その子が、ナオのお友達?」

 裕子は、晶の小言など全然聞いていない。
 姿も目に入っていない。
 空気。

「はい。久慈要といいます」

 久慈要は立ち上がると、軽く頭を下げた。

「クジカナメ? はあ、男みたいな名前~」

 会ったばかりで、いきなり失礼なことをいう裕子であるが、あまりにあっけらかんとしているため、むしろ清々しいくらいであった。

「よくいわれますよ」そこまで直球ぶつけられたことはないけど「両親は、性別がどちらでもこの名前で、って決めてたみたいです」
「そっか。えと、あたし山野裕子。ここの部長。よろしく」

 裕子は無造作に机の上に乗っかると、あぐらをかいた。

「入部希望なんだって?」
「そういうわけでも……」
「ああ、ナオが強引に連れて来ちゃったんだ。スポーツクラブでフットサルをやってたって聞いたけど」
「はい」

 久慈要は、何故フットサルクラブを辞めることになったのか、経緯を簡単に説明した。

 仲の良かった子が、代表選出されてからというもの性格が変わってしまった。
 フットサルを楽しむ気持ちを忘れて、とげとげしいだけになってしまった。

 特に自分(久慈要)のことを異常なまでにライバル視しているようで、自分がいると彼女が余計におかしくなってしまう。

 自分が好きだった彼女に戻って欲しくて、自分が好きだったチームに戻って欲しくて、だからクラブを辞めた。と。

 本当はもっと色々と抱えていることはあるのだが、そこまでは話さなかった。

「ふーん。でも自分辞めちゃったら、好きだったチームには戻らないじゃん」

 久慈要もそこにいてこその、「自分の好きだったチーム」だろ。と、山野裕子はそういっているのだ。

「確かにそうですけど、どうしようもなかった。でも……元に戻って欲しいというのは単なるいいわけで、あたし、耐えられずに逃げ出したかっただけかも知れない」
「まあ、そんな雰囲気のところでいつまでも我慢してたって苦痛だろうしね。それにしても、代表だなんだってだけで、そんなギスギスとなって、歯車、狂っちゃうものなのかな? フットサルなんて、楽しんだもん勝ちなのに」

 その言葉に、久慈要は俯きがちだった顔を上げた。

「どうして、楽しんだ者の勝ちだといい切れます?」

 尋ねた。
 「勝たなきゃ意味ないでしょ」「勝てば楽しいんだよ」「ただへらへら、楽しんでたってしょうがない」クラブの仲間にかけるむくしまよしの痛烈な言葉の数々が、久慈要の頭の中を回っていた。

「知らないよそんなこと。……まあ、とにかく、仕事じゃないんだから、面白いと思えなきゃ意味ないじゃん。どう説明すりゃいいんだろ。とにかく、あたしはそう思うんだよ。まず面白いというのが、現在の感情として存在していたり、目指すゴールであったりして、それが励みになって、辛い練習も出来るんじゃないかな、って。競技で、達成感を味わいたいから、なんてよくいうけど、それも結局は楽しむためだろう。楽しい、気持ちいいというのがあるから、骨を折ってまで、筋をぶっちぎってまで、とことんやりたくなるんだよ」

 そう飄々と語る裕子の態度は先ほどから全く変化はない。

 だが、彼女を見つめる久慈要の表情に、大きな変化が現れていた。
 まるで、蕾が開いて花が咲いていくかのような。

「そうなんです。……あたしも、面白くないと意味ないって思っていて、それを、どうしてもその子に伝えたかったんですけど、上手く言葉に出来なくて。なんかいまの、説明も出来ないのに自信を持ってきっぱりいい切っている先輩の姿を見て、いいなって思いました」

 久慈要は、心の奥からじんわりとこみあげてくるものの心地よさに、柔らかな笑みを浮かべていた。

「バカだからな。本能で行動しているだけだから」

 武田晶が水を差す。

「いえ、そんなことないです。というか、本能でいってるだけなら、なおさら凄いです。……山野先輩のいるフットサル部に、入部してみたくなりました」
「分かった。入部希望者がいるってことは顧問のゴリ、たかむら先生に伝えてあるから、明日までに届を書いてきてね」

 などといいながら裕子は、机の上に座ったままで足の裏をぱっしぱっしと打ち付け合っている。
 ふざけているのか自然体なのか、初対面の久慈要にはさっぱり分からない(果たして自然体だったわけだが)。

「はい。……でも、いつまでもは、いないかも知れません」

 なんでわざわざこのようなことをいったのか、自身、分かっていなかった。
 無意識に言葉が出てしまったのだ。

「そっか。うん、それでもいいよ。ナオから、凄い上手って聞いてるから、残念といえば残念だけど」
「そんなたいしたことありません。それじゃあ、明日から、よろしくお願いします!」

 久慈要は、改めて裕子たちに頭を下げた。

 こうしてさらに一人、佐原南高校女子フットサル部に、仲間が加わることになったのである。
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