13 / 13
終章 誕生
しおりを挟む
1
二〇一四年、六月二十七日 土曜日。
宮城県石巻市駅前北通りの路上にて、トラック同士が衝突する事故が発生した。
原因は、運送トラックを運転していた男の、居眠り運転による信号無視。青信号で渡っていたダンプカーに、減速することなく真横から突っ込んだのだ。
運転手は、双方ともに打撲などの軽傷。
横転することはなく、運送トラックが頭からダンプカーの腹に衝突したという状態のままで止まったため、建物に突っ込むなどの被害は出なかった。
しかし、この事故に巻き込まれて、一人の少女の命が失われた。
減速せずに突っ込んでくるトラックの前に、彼女は自ら飛び込んだのである。
青信号で横断歩道を渡っていた、幼い女の子を助けるために。
目の前での予期しなかった惨劇の到来に、女の子の両親が悲鳴を上げたのとほぼ同時に、歩道を歩いていた少女は肩のバッグを投げ捨てて車道へと飛び出し、その幼い女の子を突き飛ばした。
そしてその瞬間、トラックに跳ね飛ばされ、横切ろうとしていたダンプカーの側面に叩き付けられ、そしてその瞬間に再度トラックが突っ込んで、その少女の身体を押し潰したのである。
数分後には警察、救急車が到着したが、トラックでさえダンプカーと衝突した正面部分がぐちゃぐちゃなのだ、その間に挟まれた人間が助かるはずもなかった。
どう考えても、即死であっただろう。病院で検死の結果を待つまでもなく、全身の骨は粉々に砕け、内蔵も潰れてしまっているはずだ。
少女は、学校の制服姿であった。
事故現場からそれほど遠くないところにある、石巻聖亜女学院高等部の制服だ。
もちろん肉体のみならず、その制服もぼろぼろであった。
全身を完全に押し潰された少女の死体であるが、奇跡的というべきなのか、その顔だけは無傷であり、口元から、つっと一筋の血が伝っているのみであった。
ふんわりと柔らかそうな髪の毛。
少しあどけなさを残した、可愛らしい顔立ち。
両目は閉じているものの、まるで生きているようであった。
通常であれば苦痛や恐怖により凄まじい形相になっていてもおかしくないはずだというのに、その死に顔は実に安らかで、その口元には満足げな微笑みすら浮かんでいた。
すべてに満足をし、自ら永久の眠りについたような、そんな表情であった。
2
一九九八年、十月二十一日。
仙台市宮城野区の東仙台中央総合病院で、一つの生命が誕生した。
待合室で両手を組んで、必死に祈っていた篠原正昭であるが、聞こえてきた産声に、跳ね飛ぶかのような勢いでその顔を上げていた。まるで居眠りを怒鳴られた高校生のように、首や視線をキョロキョロと左右に振った。
ドアが開き、看護婦がひょこりんと顔を出した。正昭の姿を見つけると笑みを浮かべ、ささと素早く擦り足で近寄ってきた。
「おめでとうございます!」
ここは病院だというのに、あまりにもハキハキと朗らかな様子だったものだから、正昭は、まるで何かのくじ引きに当選でもしたかのような錯覚に陥った。
しかし自分がどんな突飛な想像をしようと、それにより起きた現実のほうが変わることはないわけで、先ほどの看護婦さんの言葉は、現在の状況から判断するに、自分が父親になった、とそれ以外の意味は有り得なかった。
多くの父親がそうかも知れないように、やはり正昭にもそのような実感はまだまるでなかったが。
「女の子ですよォ」
部屋に入るなり、後ろからその看護婦が、自分の子でもないのにさも嬉しそうに言葉を投げ掛けてきた。
女の子、か。
正昭は、心の中で呟いていた。
まだ子供が生まれたということ自体が漠然とした感覚に過ぎないというのに、正昭は、女の子であることの嬉しさと、男の子でないことの寂しさを同時に味わっていた。二卵性の双子でもない限り、どうしようもないことなど分かってはいるが。
看護婦に背中を押されて奥へと進むと、妻である恭子が、つい先ほどまで自らの胎内にいたはずの赤子を両腕に抱いていた。
赤子は、元気の良い泣き声を上げている。
その外見は、話によく聞くまさにその通りのものであった。ぶよぶよのしわしわで、色も赤茶で、こんな時にこんなことを思っちゃいけないがまるで何日もプールに浸かっていた水死体だ。
でも、この子は間違いなく生きている。
そして、間違いなく自分の、自分たち夫婦の、子供なのだ。
このような場において、どのような気持ちになればよいものか戸惑っているうちに、恭子がこちらに気付いた。
激しい疲労の色をその顔に浮かべながらも、ブイサインを作った手を小さく上げ、にこりと微笑んだ。
「女の子だって」
「聞いた」
正昭は、にべないことをいう。そんなことよりねぎらいの言葉の一つでもかけてあげればいいのに、と自分の鈍感さに呆れながら。
「抱いてみる?」
恭子が、胸の中の赤子を少し差し出すような仕草を見せた。
「落としそうで怖いな。しっかり支えててよ」
「大丈夫だって」
そういえる根拠はなんだ。正昭はそう疑問に思いつつも、赤子を受け取ると胸にしっかりと抱いた。
首が全然すわっておらず、非常に頼りないものはあったが、確かに大丈夫だった。
しかし本当に首がふらふらだな。原始時代の人間なんか、こんな子を抱いている時に獣に襲われたらどうしてたんだ。
「絶対にねえ、美人になるよぉ、この子は」
と妻はいうが、現時点でしわしわで、ぶよぶよで、赤茶けていて、将来どのような容姿の子になるのかなど、まったく想像が付かない。付くはずがない。
「名前は考えてた?」
正昭は尋ねた。
男の子ならば正昭が、女の子ならば恭子が、それぞれ名付けを担当するよう決めていたのだ。
「うん、たっくさん考えていたんだけどね、いま突然、そのどれでもない、いい名前を思い付いた」
「なに?」
正昭は促すが、恭子はニヤニヤと笑みを浮かべて焦らした。
そして、小さく、はっきりと、嬉しそうに、その名を口にした。
「ゆ、い」
「ゆい?」
はっきり耳に入っていたけれど、正昭は聞き返した。
「そう。ゆい。優しいに衣で、優衣」
「優衣か。いいんじゃないか、とても。うん、凄くいい」
正昭は、胸の中に抱かれた我が娘、優衣へと視線を落とし、微笑んだ。
「マーちゃん。絶対に、幸せにしようね。優衣を」
恭子はゆっくりと手を伸ばし、正昭の腕に触れると、そのまま手を滑らせて、我が子の、まだろくに毛の生えていない頭をそっとなでた。
「なるよ絶対に、優衣は、幸せに」
なるに、決まっている。
「あ、マーちゃん、もし男の子が生まれていたら、名前は?」
「そりゃあもちろん……やっぱり教えない」
「えー。それずるい! あたしは教えたのに!」
「だってそりゃ女の子が産まれたからじゃないか。男の子の名前は、いつか優衣に弟が産まれた時に使うんだから」
正昭は、優衣をぎゅっと抱きしめた。
優衣を見つめる二人のその表情は実に穏やかであった。
希望
未来
幸福
自分たち、そして優衣にとって、きっと、これから素晴らしい人生が待っている。
正昭は微塵の疑いも持たず、そう確信をしていた。
だって、
人は幸せになるために、生まれてくるのだから。
二〇一四年、六月二十七日 土曜日。
宮城県石巻市駅前北通りの路上にて、トラック同士が衝突する事故が発生した。
原因は、運送トラックを運転していた男の、居眠り運転による信号無視。青信号で渡っていたダンプカーに、減速することなく真横から突っ込んだのだ。
運転手は、双方ともに打撲などの軽傷。
横転することはなく、運送トラックが頭からダンプカーの腹に衝突したという状態のままで止まったため、建物に突っ込むなどの被害は出なかった。
しかし、この事故に巻き込まれて、一人の少女の命が失われた。
減速せずに突っ込んでくるトラックの前に、彼女は自ら飛び込んだのである。
青信号で横断歩道を渡っていた、幼い女の子を助けるために。
目の前での予期しなかった惨劇の到来に、女の子の両親が悲鳴を上げたのとほぼ同時に、歩道を歩いていた少女は肩のバッグを投げ捨てて車道へと飛び出し、その幼い女の子を突き飛ばした。
そしてその瞬間、トラックに跳ね飛ばされ、横切ろうとしていたダンプカーの側面に叩き付けられ、そしてその瞬間に再度トラックが突っ込んで、その少女の身体を押し潰したのである。
数分後には警察、救急車が到着したが、トラックでさえダンプカーと衝突した正面部分がぐちゃぐちゃなのだ、その間に挟まれた人間が助かるはずもなかった。
どう考えても、即死であっただろう。病院で検死の結果を待つまでもなく、全身の骨は粉々に砕け、内蔵も潰れてしまっているはずだ。
少女は、学校の制服姿であった。
事故現場からそれほど遠くないところにある、石巻聖亜女学院高等部の制服だ。
もちろん肉体のみならず、その制服もぼろぼろであった。
全身を完全に押し潰された少女の死体であるが、奇跡的というべきなのか、その顔だけは無傷であり、口元から、つっと一筋の血が伝っているのみであった。
ふんわりと柔らかそうな髪の毛。
少しあどけなさを残した、可愛らしい顔立ち。
両目は閉じているものの、まるで生きているようであった。
通常であれば苦痛や恐怖により凄まじい形相になっていてもおかしくないはずだというのに、その死に顔は実に安らかで、その口元には満足げな微笑みすら浮かんでいた。
すべてに満足をし、自ら永久の眠りについたような、そんな表情であった。
2
一九九八年、十月二十一日。
仙台市宮城野区の東仙台中央総合病院で、一つの生命が誕生した。
待合室で両手を組んで、必死に祈っていた篠原正昭であるが、聞こえてきた産声に、跳ね飛ぶかのような勢いでその顔を上げていた。まるで居眠りを怒鳴られた高校生のように、首や視線をキョロキョロと左右に振った。
ドアが開き、看護婦がひょこりんと顔を出した。正昭の姿を見つけると笑みを浮かべ、ささと素早く擦り足で近寄ってきた。
「おめでとうございます!」
ここは病院だというのに、あまりにもハキハキと朗らかな様子だったものだから、正昭は、まるで何かのくじ引きに当選でもしたかのような錯覚に陥った。
しかし自分がどんな突飛な想像をしようと、それにより起きた現実のほうが変わることはないわけで、先ほどの看護婦さんの言葉は、現在の状況から判断するに、自分が父親になった、とそれ以外の意味は有り得なかった。
多くの父親がそうかも知れないように、やはり正昭にもそのような実感はまだまるでなかったが。
「女の子ですよォ」
部屋に入るなり、後ろからその看護婦が、自分の子でもないのにさも嬉しそうに言葉を投げ掛けてきた。
女の子、か。
正昭は、心の中で呟いていた。
まだ子供が生まれたということ自体が漠然とした感覚に過ぎないというのに、正昭は、女の子であることの嬉しさと、男の子でないことの寂しさを同時に味わっていた。二卵性の双子でもない限り、どうしようもないことなど分かってはいるが。
看護婦に背中を押されて奥へと進むと、妻である恭子が、つい先ほどまで自らの胎内にいたはずの赤子を両腕に抱いていた。
赤子は、元気の良い泣き声を上げている。
その外見は、話によく聞くまさにその通りのものであった。ぶよぶよのしわしわで、色も赤茶で、こんな時にこんなことを思っちゃいけないがまるで何日もプールに浸かっていた水死体だ。
でも、この子は間違いなく生きている。
そして、間違いなく自分の、自分たち夫婦の、子供なのだ。
このような場において、どのような気持ちになればよいものか戸惑っているうちに、恭子がこちらに気付いた。
激しい疲労の色をその顔に浮かべながらも、ブイサインを作った手を小さく上げ、にこりと微笑んだ。
「女の子だって」
「聞いた」
正昭は、にべないことをいう。そんなことよりねぎらいの言葉の一つでもかけてあげればいいのに、と自分の鈍感さに呆れながら。
「抱いてみる?」
恭子が、胸の中の赤子を少し差し出すような仕草を見せた。
「落としそうで怖いな。しっかり支えててよ」
「大丈夫だって」
そういえる根拠はなんだ。正昭はそう疑問に思いつつも、赤子を受け取ると胸にしっかりと抱いた。
首が全然すわっておらず、非常に頼りないものはあったが、確かに大丈夫だった。
しかし本当に首がふらふらだな。原始時代の人間なんか、こんな子を抱いている時に獣に襲われたらどうしてたんだ。
「絶対にねえ、美人になるよぉ、この子は」
と妻はいうが、現時点でしわしわで、ぶよぶよで、赤茶けていて、将来どのような容姿の子になるのかなど、まったく想像が付かない。付くはずがない。
「名前は考えてた?」
正昭は尋ねた。
男の子ならば正昭が、女の子ならば恭子が、それぞれ名付けを担当するよう決めていたのだ。
「うん、たっくさん考えていたんだけどね、いま突然、そのどれでもない、いい名前を思い付いた」
「なに?」
正昭は促すが、恭子はニヤニヤと笑みを浮かべて焦らした。
そして、小さく、はっきりと、嬉しそうに、その名を口にした。
「ゆ、い」
「ゆい?」
はっきり耳に入っていたけれど、正昭は聞き返した。
「そう。ゆい。優しいに衣で、優衣」
「優衣か。いいんじゃないか、とても。うん、凄くいい」
正昭は、胸の中に抱かれた我が娘、優衣へと視線を落とし、微笑んだ。
「マーちゃん。絶対に、幸せにしようね。優衣を」
恭子はゆっくりと手を伸ばし、正昭の腕に触れると、そのまま手を滑らせて、我が子の、まだろくに毛の生えていない頭をそっとなでた。
「なるよ絶対に、優衣は、幸せに」
なるに、決まっている。
「あ、マーちゃん、もし男の子が生まれていたら、名前は?」
「そりゃあもちろん……やっぱり教えない」
「えー。それずるい! あたしは教えたのに!」
「だってそりゃ女の子が産まれたからじゃないか。男の子の名前は、いつか優衣に弟が産まれた時に使うんだから」
正昭は、優衣をぎゅっと抱きしめた。
優衣を見つめる二人のその表情は実に穏やかであった。
希望
未来
幸福
自分たち、そして優衣にとって、きっと、これから素晴らしい人生が待っている。
正昭は微塵の疑いも持たず、そう確信をしていた。
だって、
人は幸せになるために、生まれてくるのだから。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
らいむ
かつたけい
青春
広瀬来夢(ひろせらいむ)は高校二年生。サッカーが大好きな女の子。所属していた地元のサッカークラブがなくなってしまい、自主練や、高校の男子サッカー部に混ぜてもらうなどしてサッカーを続けていた。
そんなある日、なでしこチャレンジリーグ所属のとある女子サッカークラブが近くにあることを来夢はテレビで知り興味を抱く。
さっそく練習場所を訪れてみるのだが、小柄であることから小学生と間違われ、それに腹を立ててしまう。
県代表に選ばれた経験を持ち、自信のあった来夢は、
「所詮は二部リーグ、実力を見せて受かってから断ってやる」と、試験に挑んだのであるが、世の中そんなに甘くはなかった。
一対一の勝負に、手も足も出なかったのである。
新ブストサル
かつたけい
青春
山野裕子(やまのゆうこ)は佐原南高校に通う二年生。
女子フットサル部の部長だ。
パワフルかつ変態的な裕子であるが、それなりに上手く部をまとめ上げ、大会に臨む。
しかし試合中に、部員であり親友である佐治ケ江優(さじがえゆう)が倒れてしまう。
エースを失った佐原南は……
佐治ケ江が倒れた理由とは……
ブストサル 第二巻
かつたけい
青春
木村梨乃(きむらりの)はフットサル部の部長。
二年生から三年生に進級し、新入部員も入り、引退の時期も近づいていた。
最後の大会を前に練習をしている中、
副部長である浜虫久樹(はまむしひさき)の様子がおかしくなり、
やたらと部員を怒鳴りつけるようになる。
その理由を知った梨乃は、決意を胸に久樹と約束をする。
大会を、必ず優勝させてやる、と。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
おてんばプロレスの女神たち ~プレジデント日奈子の大勝負・続編~
ちひろ
青春
青春派プロレスノベル『おてんばプロレスの女神たち』の海外版。国境を超えて、世界中のプロレスファンの度肝を抜く日奈子社長が、ついに三国対抗バトルに打って出た。日本のおてんばプロレス正規軍とバンコクおてんばプロレス、ヤンゴンおてんばプロレス。――三国一の幸せ者は一体誰だ!?
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる