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第十二章 前へ進め!
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1
あれから三日ほど、完全に意識を失っていたらしい。
リーグ戦最終節の、あの日から。
目が覚めたのは、病院のベッドの上であった。
なんとなく目が開いて、薄ぼんやりした視界のまま右に左に目線を動かしているうちに、だんだんと焦点がはっきりしてきて、どうやら病院の個室らしいことが分かった。
身体の感覚がまるでなく、どうすることも出来ずにしかたなく天井を見上げてじっとしていると、やがて看護婦が来て患者が目覚めたことに気付き、医師を呼んだ。
診断を受け、その翌々日には八人部屋に移され、それからさらに四日間、入院し、精密検査を続けた。
そしてようやく退院をして、今日で三日が過ぎた。
意識はもうすっかり回復しているし、身体も自由に動かすことが出来る。体調がほんの少し気だるいという程度であったが、しかしまだサッカーの練習も、学校も休んでいる。
脳に相当な疲労が蓄積されているようだから、とにかく何も考えずに休んだほうがいいという医師の判断によるものだ。
現在は平日の昼、正午を少し過ぎた頃だ。
空は青く、太陽は真上にあって地面を照らし続けているものの、なにせ東北の冬である、寒い。
篠原優衣は現在、旧北上川の河原にきている。
特別な理由は何もない。
暇を持て余していたということと、人の賑わうところが好きでないというだけだ。
ジーンズにジャンパー、マフラーという、しゃれっけの欠片もない、ただ寒くないようにしているというだけの実に簡素な格好で、土手の芝の上に腰を下ろしている。
そよそよとした風が吹き抜けるたびに、緩いウエーブのかかったふんわりと柔らかそうな髪が揺れた。
眼前に広がるのは、のんびりとした、のどかな風景であったが、吹き付ける北風に身の切れるような寒さであった。
こんなに厚着をしているというのに。
快晴の空には輝く太陽。
冬も夏も、太陽自身は宇宙の中にあって同じだけぎらぎらと輝いているというのに石巻はこの極寒。
でも、そんな北風の寒さなど、優衣にはあまり気にならないことだった。
正確には、どうでもいい、もっと正確には、それどころではない。
昨日、所属クラブ経由で代表合宿召集の連絡が届いたのである。
これまでにも経験したことのある世代別ではなく、なんとフル代表だ。まだ高校二年生だというのに、実に稀な大幅飛び級召集であった。
優衣だけではなく、同じクラブから野本茜も一緒に呼ばれたという話であるから、これほど心強いことはなかった。
フロントから連絡を受けた優衣は、とりいそぎ承諾の旨を伝え、電話を切った。
数ヶ月前までの優衣であったならば、動揺し、悩んだ挙げ句、参加することを拒否してしまったかも知れない。フル代表という、その重さに耐え切れず。
しかし現在の自分ならば、例え所属クラブから声のかかったのが自分一人であったとしても、即応で召集を受けていただろう。
そう断言出来るほどに現在の優衣には、自信、と一言では片付けられない不思議なパワーが、胸の奥底だか、全身の細胞からだか、こんこんと沸き上がってきていた。
川原の広くなっているところに作られた小さな広場では、先ほどからずっと、四歳か五歳くらいの男の子が何人か集まって、サッカーボールを蹴って遊んでいる。
つい蹴り損ねてしまったのだろうか。大きく跳ね上がったボールが、風に押されて優衣のほうへ飛んできた。
優衣はそれに気付くと、すぐに立ち上がっていた。
三、四歩と落下地点へ前進し、前へ突き出した左足を軽く引きながら甲で受け、止めると、ちょんと跳ね上げ、右足で蹴り返していた。
ボールはこちらへ飛んできた時とほとんどそのままの軌道を逆戻りして、子供たちの中心に落ちた。
「うわ、すげー」
無邪気な感嘆の声が聞こえてきた。
優衣はまた腰を下ろした。
また、流れる川の水面に視線を向け、そよそよと吹く湿気と幾分かの磯臭さを帯びた風を浴び始めた。
「お姉ちゃん!」
先ほどの子供たちだ。
ボールを脇にかかえ、こちらへと走ってきた。
「サッカー結構上手だね。教えてよ」
一瞬面食らい、まばたきする優衣であったが、なんとも無邪気で憎めないその台詞に、ちょっぴり微笑ましく思う気持ちになっていた。
「いいよ」
また立ち上がると、腿やお尻に付いた土や枯れ草を払った。
「あ、お姉ちゃん、テレビで見たことあるぞ」
子供の一人が疑問の声を上げた。無意識に表情と連動して、顔にしわを作っていかにも考えている風であるのが可愛らしい。
「あれだよ、あれだよ、なでしこ、なでしこ」
横の子が、袖を引っ張りながら教えてあげる。
「へええ、すげー」
「プロ選手だあ」
いや、プロではないのだけど……
と、口を開きかけた優衣であったが、
「必殺技教えてよ!」
「僕も!」
優衣は三人の子供らに手を引かれ、半ば強引にずるずると引きずられていった。
ちょっと弱ったような表情を浮かべてはいたけれど、でもその子供らを見る優衣の目は、とても優しげであった。
2
優衣は、軽快なステップで深貝百合江をかわすと、自ら作り上げたスペースへと単身を踊り込ませる。続いて中田真澄のスライディングを、ボールと自身とを浮かせて飛び越えた。
PA内に入った。
GKの山登真琴が意を決して飛び出してくるのを確認すると、優衣は左足でシュート、と見せ掛けて、足のアウトサイドを使って戻すように転がした。
まだ攻め残っていたボランチの寺田なえが、優衣からの誕生日プレゼントに反応し、無人のゴールへとボールを蹴り込んだ。
ベイスパロウゴール裏サポーターの太鼓の音がどんどんと鳴らされ、歓声が轟いた。
小太りおじさんばかりのサポーター。たった二十名ほどの、でもこの一年間、辛い思い苦しい思いを共有して戦い抜いてきた、選手たちにとって最高の仲間たちだ。
なえは二十歳のバースデーゴールをアシストしてくれた優衣へと駆け寄りハイタッチ、そして抱きしめた。
続いて、サポーターの寺田コールに対してガッツポーズと満面の笑顔とで応えた。
石巻ベイスパロウ 4-0 神戸SC
ベイスパロウは前半戦三十分にして既に、内容だけではなくスコアの上でも圧倒をしていた。
それはほとんど、篠原優衣の活躍によるものといっても過言ではなかった。
本来は出場する予定ではなかった、彼女の。
リーグ戦最終節の終盤に、優衣はゴールを決めたと同時に倒れて、そのまま意識を失った。
その後の医師の判断では、すぐそばで発生した落雷のショックによるものだろうとのことだ。
実際、それは凄まじい雷で、石巻の市街一帯が停電になったほどであった。昼間の試合であったため、なんとか照明無しでも試合が続行出来たのであるが、しかし折り重なった雲により夜と見まごうほどの異常な暗さであった。
優衣は病院に搬送されて、そのまま入院した。
退院後、ずっと練習どころか学校すらも休んでいたというのに、昨日ふらりと練習場に姿を現した優衣は、自分を使えと監督にアピールしたである。
そして優衣は、この試合に出場している。
全日本女子サッカー選手権大会、略して全女と呼ばれている大会、その初戦である。
試合会場は、石巻ベイスパロウのホームスタジアムである石巻臨海陸上競技場。
対戦相手は、初戦にしていきなり優勝候補の神戸SC。
今期リーグ戦で二度戦い、二度目の対戦ではなんとか逆転勝利し、残留に繋げることが出来たものの、一度目の対戦では手も足も出ずに7ー0で負けている相手だ。
そのリーグ戦で神戸SCは、二位以下を大きく引き離してぶっちぎりでの成績で優勝を決めており、弱小クラブであるベイスパロウにとって一度勝ったりとはいえども稀に見る強豪クラブであるのは間違いのない事実。
二度も幸運が続くはずがない。
誰もがそう思っていたはずなのに、蓋を開けてみればなんということだろうか。
前半のうちに四点もの得点を奪うとは。
一点目はカウンターから、二点目はパスで崩して、それぞれFWの辻内秋菜が落ち着いて決めた。
三点目は実合美摘のポストプレーからの反転シュートがあっさりと入ってしまい、そして四点目はいま先ほど寺田なえが決めたばかり。
美摘の得点以外、全てに優衣が絡んでいた。
記録より記憶に残るプレー、とはよくいわれる表現であるが、まさに今日の優衣はそれを体言していた。アシストという記録を作っただけではなく、動きが実に切れており、ピッチ上を縦横無尽に躍動し、相手を翻弄する素晴らしいプレーの数々を観客に披露し続けていた。昨日までずっと、練習を休んでいたというのにかかわらずだ。
むしろ、それによる飢えが、優衣をつき動かしているのであろう。
日本代表選手を多く抱える神戸SCともあろうものが、まだ多分に顔にあどけなさを残している一人の高校生を、まともに止めることが出来なかった。
二人掛かり、またはファール覚悟で、なんとか食い止めている状態であった。それでも止め切れずに、何度も決定的な場面を作られてしまっていた。
そしていまもまた、
優衣は、野本茜からのロングボールを追い、走った。
ゴール前にこもっていた深貝百合江であったが、危機を察知して、飛び出した。
向かい合う二人。
宙からボール。優衣は目測を誤ってしまったのか、それとも走る勢いを殺せなかったのか、自らの背後にボールが落ちていた。
その瞬間、跳ね上がったボールが優衣自身、そして深貝百合江の頭上を飛び越えていた。
誤ってなどはいなかった。
優衣は背後に落ちたボールを、踵を使って蹴り上げていたのだ。
なにがなんだか分からず混乱している深貝百合江の脇を、優衣は駆け抜け、落ちてきたボールを拾い、なおも走ってPA内へと侵入した。
ボランチの沢田麗奈、CBの中田真澄が向かってきた。しっかりと、シュートコースを塞いでいる。優衣にパスを出させて、それを味方にカットさせるつもりなのだろう。
ならば、
と、あえて優衣は二人へと突っ込んでいった。
そして次の瞬間、この試合何度目になるのか、観客席からどよめきが上がった。
優衣がヒールリフトで、二人の間を一瞬にして駆け抜けたのである。まるで障害など無いも同然といわんばかり、実に簡単に。
ヒールリフトとは、ちょこんと浮かせたボールを、背後で、踵を使ってさらに大きく蹴り上げて、頭上を通して前へ送るフェイントの一種だ。難易度があまりにも高く、実戦向きというよりは単なる曲芸といっても過言ではないそんな技を、躊躇なく行い、なおかつ成功させ、一瞬にして二人を抜き去ったのだ。見る者が驚き、興奮するのも当然のことであった。
二枚の壁を簡単に突破されるという予期せぬことに、GKの山登真琴が慌てふためき次の行動への戸惑いを見せた一瞬の隙を狙った優衣の股抜きシュートが決まり、ゴールネットが揺れた。
ベイスパロウ、これで五点目である。
ゴール裏サポーターの歓声。そして太鼓の音が打ち鳴らされた。
股抜きゴールを決められた山登真琴は跪き、両手で地面を何度も叩き、悔しがっている。
「優衣姉の気迫が! 優衣姉の気迫がああ、凄すぎるうううう!」
ベンチ入りを果たした高校一年生の小田静子が、優衣のスーパープレーに思わず立ち上がり、感激して目に涙を滲ませている。
スーパープレーも素晴らしいが、なにより褒めるべきは、その個人技の冴えではなく、また別のところにあった。
試合開始直後から、攻撃にも守備にも一切の集中を切らさず手を抜かない、がむしゃらなプレーを、優衣は見せているのである。先日、フル代表に初選出されたが、それに全くおごり高ぶることなく。
もともとスタミナに難のある選手だというのに初っ端から飛ばし過ぎてしまって、まだ前半戦の途中だというのにかなり息が切れてしまっていたが。
仲間も、優衣の能力や活躍ぶりというよりはその健気な頑張りにこそ多くの刺激を受け、普段の二百パーセントの力を発揮して戦っていた。
そう、きっかけは優衣であるものの、全員が神戸SCの選手に勝るとも劣らない活躍を見せてこその、この誰もが予想もしなかったようなスコアになっていたのである。
前半戦ですっかり体力を消耗してしまった優衣は、後半戦が開始してほどなくして小田静子へと交代させられた。
だがそれでも選手たち個々の自信からくるパスワークや粘りのプレーはまるで衰えを見せることなく、むしろ息切れした相手に、攻守両面一切ペースを握らせることなく圧倒し続けた。
やがて、焦りや屈辱心にすっかり集中を切らした神戸SCから、退場者が一人、二人。
せめて大敗だけは避けたい、そう割り切るしかなくなってガッチリと守備を固める神戸SCであったが、それを嘲笑うかのようにCKから野本茜が、PKから辻内秋菜が、そして小田静子が流れの中からDFを振り切って技ありのループシュートを決め、
九十分が過ぎ去ってみれば8対0、石巻ベイスパロウの文句なしの圧勝であった。
そして、神戸SCは過去、まだ弱小クラブだった頃の四点差負けを遥かに上回る、最高失点記録を更新することになった。
ピッチ上にいる両チームの選手たちによる握手、挨拶が終わると、それぞれ、ゴール裏のサポーターへと向かっていく。
優衣たちもベンチから出て、それに加わった。
ベイスパロウのゴール裏は、信じられない圧勝劇に大騒ぎであった。
ずらりと横に並んだ選手たち。
キャプテンの野本茜が一歩前に出て、手にした拡声器でサポーターへの挨拶の言葉を述べた。
この大会、どこまで勝ち上がれるものかなど分からないが、もうこの石巻で試合をやることはないから、来られないサポーターへこれまでの感謝の気持ちをたっぷりと込めて。
挨拶を終え、引き上げていく選手たち。
その中で、優衣は一人そわそわと落ち着きのない様子を見せていた。
よく見なければ分からないかも知れないが、その顔は少し不満げのようであった。
実際、優衣は不満であった。
わたしだって自信を持ってプレー出来るんだってところを、久子さんに褒めてもらいたかったのに……
そう、西田久子はこれまで不動のスタメンであったというのに今日の試合でベンチにも入っていなかったばかりか、会場のどこにも姿を見付けることが出来なかった。
久子はベイスパロウに欠かせない大切な選手であり、このような重要な試合に出場しないはずがないのに。
そもそも何故メンバー登録すらされていなかったのか、優衣は今朝、監督に理由を尋ねたのであるが、結局はぐらかされて分からなかった。
昨日の夕方、一週間半ぶりにベイスパロウの練習場である石巻ランドを訪れたのだが、その時にも姿を見なかったし。
どこかに、いるのではないか。
優衣はそう思い、きょろきょろと客席やベンチの奥などを見回し続けたが、しかし久子の姿は、どこにも見つけることは出来なかった。
3
「潰せ!」
野本茜の怒鳴り声に椋愛子と久木成美が、篠原優衣の進路を塞ぎつつ、ボールを奪い取ろうと飛び掛かった。
身体ごとぶつけにいくような、それは気迫のこもった守備であった。
優衣はそれを正面から受けて立った。二人へと向かい、むしろ自ら飛び込んでいた。
間合いを詰めるつもりが詰められた椋愛子は、完全にタイミングを狂わされていた。狂わされながらも、優衣が股抜きを狙ってきたのを感じてさっと足を閉じてブロックをしたが、優衣はボールを引き戻すようにしながら横へと転がし、脇を駆け抜けていた。
悔しがる愛子。優衣は、はなから股抜きなど狙っておらず、ただそう思わせることが目的だったのだ。
次いで、抜け出た優衣の持つボールへと久木成美が足を伸ばしていた。
優衣はボールを踏んでブレーキをかけると、右から仕掛けるか左から仕掛けるか、成美を左右に揺さ振った、と、次の瞬間には成美の脇を抜き去っていた。
PA内へと入り込んだ優衣。
ようやく守備に駆け戻ってきた柴野英子が、斜め後ろからボールへとスライディング。
しかし優衣には通用しなかった。ボールを爪先で蹴り上げて浮かせると、自身も小さく跳躍させ、見るも簡単にかわしていたのだ。
着地するのと同時に、落ちてきたボールに右足を合わせ、振り抜いた。
サイドネット内側を目掛けたシュートだ。
ボールは地面に叩き付けられて跳ね上がった。
GKの堂島秀美が反応し、大きな横っ飛びを見せるが、あと数センチ、指が届かなかった。
ボールはポスト内側に当たって跳ね返り、ゴールへと飛び込んだ。
「おー、優衣すっげえじゃん! ゴール数、並ばれちゃったな、くそ」
辻内秋菜は悔しそうな笑みを浮かべながらも、素直に称賛の拍手を送った。
ここは石巻ベイスパロウの練習場、石巻ランド第一グラウンドである。
昨日は全女、全国女子サッカー選手権大会の初戦を戦っているので、主力組は軽い調整のみ、のはずであったのだが、つい紅白戦などを始めてしまったものだから、ふと気が付けば熱く真剣な、火花の散るような白熱したぶつかり合いになってしまっていた。寺田なえなど、足がつって退場したくらいである。
「しかし優衣、ほんっと最近身体が切れてるよね。味方でよかった~って思うくらい。でも……性格、丸くなった?」
秋菜が、何故か優衣のおでこに自分の手を当てる。性格を知るのに熱を見てどうしようというのか。
「もともと丸いです」
優衣は俯き加減に、ぼそりと口を開いた。
「まあ、積極的になったよね」
キャプテンの野本茜が近付いてきた。
「いままでずっと断り続けていた、ガールズスクールの指導役も受けてくれたしさ」
「はい。少しだけですけど、自分に、自信がついたんで……」
「ふーん。……でさ、鍛えてくれたその彼氏は、どこにいったのかな?」
茜は優衣に密着すると、耳元でこそこそっとささやいた。
優衣は跳ね上がるような勢いで身体を真っ直ぐ硬直させたかと思うと、え、え、とうろたえるような声を発した。なにかいおうとするものの、しどろもどろになって、なにもいえなかった。
その反応があまりに可愛らしかったか、思わず茜は声を上げて笑い出していた。
4
「おかえり。遅かったね。頭痛くないか? 具合悪くないか? お腹すいてないか? なにか作ろうか?」
帰宅すると父の正昭が、矢継ぎ早に一方的な質問の言葉をまくし立てながら、玄関まで迎えに出てきた。
「うん、少しお腹すいたかな。でも、わたしが作ろうか?」
「ダメ。優衣は休めっていわれてるだろ」
といわれても、休むどころか昨日などは思い切りボールを追って走り回ってしまったのだけどな。
本日から身体の様子を確かめながら少しずつ練習に参加していく。父に対してそのように説明してあったため、昨日のうちに練習どころか試合にまで出てしまったなどとは、とてもいえない優衣であった。
長いこと練習を休んでしまったお詫びにクラブ事務所を訪問しに行っただけだったのに、まさか試合に出して欲しいなどと直談判してしまうなんて。あの日のことを思い出すと、我ながら信じられない気持ちになる。
「だから優衣は休んでな。美味しいのを作るから」
「……それじゃ、お願いします」
優衣は、軽く頭を下げた。
最近、父は創作料理に凝っている。いつまで続くか分からないけど、まあ好きにさせてあげよう。
料理の基本がまるで出来ていないため、美味しく出来るかそうでないかはその時の運次第というのが深刻な問題点なのだが。
前回の料理が見た目の悪さに反比例して意外と美味しかったから、今日は美味しくない気がする。根拠はなにもないけど、なんとなく。
優衣は、改めて家でもシャワーを浴び、練習の汗や泥臭さを念入りに落とした後、居間の床に腰を下ろしてストレッチをしながらテレビを見ていた。相変わらず民放がどうにも好きでないので、NHKを。
そうしているうちに、次々と、父がテーブルに皿を並べていく。
「出来たぞー」
その言葉に、優衣は顔を上げた。
優衣の表情が、固まった。
ちょっとお父さん、張り切り過ぎだよ……
テーブルの上には、今日の夕食分だというのに二日まるまるかけても食べ切れないのではと思うほどの、和洋折衷様々の料理が、ところ狭しとぎっちりと置かれていたのである。
テレビを消し、二人は食事を開始したわけであるが、しかしながらというべきか、なんというべきか、味はどれもなかなかのものであった。前回今回と、美味しいのが二度も続くなんて珍しい。成長したのだろうか。
「あれ、この唐揚げも美味しいね。タレがなんだか面白い。なんだろこれ」
「それはな、企業秘密だ」
別に隠れて作っているわけではなく、単に優衣が全く見ていなかっただけだが。
しかし本当に、今日のご飯は美味しかった。
黒豆とヨーグルトのオイスターソースがけだけは、さすがに「!」その後「……」であったが。その他はどれも。
料理の品数は実に豊富で賑やかであるが、その分だけ、たった二人きりの慎ましやかな雰囲気の強調される食事になった。
これからも、二人きり。
「でもいつの日か、優衣は結婚し、この家には自分一人だけになるのか。まあ、それが淋しくないわけではないけど、そういう日が来なかったらそっちのほうがもっと淋し……」
正明の独り言が、不意に中断した。
優衣が、ぼーっと考え込んでおり、それが気になったようである。
「優衣?」
呼び掛けた。
何度目かで、ようやく優衣は俯き加減だった顔を上げた。
「なに?」
「あ、いや、ぼーっとしてたからさ」
「そうだった? ごめん」
「別に謝ることはないけども」
ないけども、やっぱりおかしい。優衣の様子や態度がである。と、そんな表情の正明。
口を開きかけ、閉じたのは、優衣の思いを聞きだそうとしたが、ふと思うことがあってあえて待つことにしたのだろう。
後から知ったことであるが、正明は、娘がなにに対して真剣に悩んでいるのか、そんなこととっくに分かっていた。
そんな娘が最近変わって、懸命に自分の殻を破ろうとしているように思えていた。だから口を閉ざし、待ったのだ。
でもそれは別に、今日じゃなくてもいいんだから。
無理することはない。自分はいつまでも、待つつもりだから。と。
「お父さん……」
優衣は父の目を見つめ、意を決したように、口を開いていた。それは消え入りそうな、小さな声、唇の動きではあったが。
「なに?」
正昭は、やさしく返事をした。
「わたし……」
優衣はそれっきり黙ってしまった。
ここまでの流れならば、これまでにもよくあった。
なにかをいおうとして、結局、自分の中に飲み込んでしまうのだ。そして、優衣が辛そうな表情をしているのを見かねて、父のほうから助け舟を出して、会話をはぐらかして打ち切ってしまうのだ。
でも、いまの優衣は、これまでとは違う。
直感的にそう思ったか、正昭ははぐらかすことなく、次の言葉を待った。
そしてついに、殻は破られたのである。
「わたし、お母さんに……会いたい」
消え入りそうな小さな声ではあったが、しかし迷いのない、しっかりとした口調であった。
そう。優衣は常々、母と会ってこれまでのことを語り合いたい、なにか誤解があったのであればそれを解きほぐしたい、と真剣に考えていた。
恨みなどからではなく、全てを信じたいから。前へ、進みたかったから。
ずっと以前から、そういう思いは胸に抱いてはいた。でも、勇気がなくて、ずっと切り出すことが出来ないでいた。
「本気で、そう思っている?」
父の問いに、優衣は無言で頷いた。
「分かった。今度お母さんに連絡を取ってみる」
そういったきり、この会話は終了した。
母が、ということでなく、単に優衣の成長が嬉しくて、なにか褒めてあげようと思ったのだが、成長した娘を子供扱いする失礼な言葉になるような気がして喜び隠して黙っていたそうである。
5
食事と、後片付けを終えた優衣は、階段を上って二階へ。
自室のドアを開いた。
入った正面、窓の横の壁に、四枚張り合わせた半紙に大きくそして下手くそな筆書きの文字。
「前へ進め!」
その下には小さな、やはり下手くそな文字で、
「篠原優衣へ 松島裕司」。
半紙は壁にべったりと張られており、部屋に入るとまずこの毛筆が視覚にどどんと飛び込んでくる。
かつて自分の中に確かに存在していた、野本茜のいうところの「彼」は、自分自身が消え去ってしまうことを予期してこのようなメッセージを残したのだ。
篠原優衣との対話が出来なかったから、ならば少しでも、自分の存在の証を残したくて。また、篠原優衣の人生を本気で応援したくて。
別にこんなこと、しなくても、よかったのに。
優衣は、本気でそう思っていた。
だって自分の心は、ずっと「彼」と共にあったからだ。
それがどれだけ自分を成長させてくれたことか。
下らない殻に閉じこもってうじうじとしていた自分を、どれだけ叱咤激励してくれたか、そして、認めてくれたか。
改めて、半紙に書かれたその汚い文字を見つめていた。
だから……
わたし、
ちょっとは前へ進んだ、のかな。
いつだったか、「お前、おれのファンになれよな」なんていってたことあったよね。
すっかりそうなっていたのかも知れない。
いつの間にか。
6
この物語はもう少しだけ続く。
優衣の所属するサッカークラブである石巻ベイスパロウの、その後について語ろう。
まずは全女、全国女子サッカー選手権大会についてであるが、石巻ベイスパロウは、見事に優勝カップを手に入れた。
全女とは、男子でいう天皇杯に相当する大会である。天皇杯においては、降格決定したJリーグクラブが良いところまで勝ち上がることは珍しいことではないが、実力差の激しいなでしこリーグで残留争いをしていたようなクラブが優勝を決めたことは、実に歴史に残る快挙であった。
初戦で優勝候補の神戸SCを相手に、運も手伝ってか圧勝出来たことが、その後の自信に繋がったのかも知れない。
先制しては突き放し、先制されても追い付き逆転し、誰もが己や仲間の力を信じて、勝ちを重ねに重ねる誰もが予想しなかった快進撃、決勝戦ではやはり優勝候補であった北陸電飾ウインズとの激戦、そしてPK戦を制し、サッカーの聖地国立競技場にて優勝を果たしたのである。
二回戦目の途中から、なかばぶっつけ本番気味に採用した、ワントップスリーシャドウ、実合美摘の後ろに小田静子、辻内秋菜、篠原優衣を配置するという形が思いの他はまって、それにより得た攻撃力をもって守備の安定化に繋げられたのも大きかった。
決勝ではさすがに、相手が強者というだけでなく、相手が決勝まで進んだベイスパロウを見くびらずにしっかりと研究し、対策をしてきたため、非常に苦戦することにはなったが。
では続いて、ちょっと掘り下げて選手たち個々についての、その後を何人か紹介しよう。
先ずはキャプテンの野本茜。
何番目のだかは分からないが、彼氏とよりを戻したという話だ。
数年ぶりに彼氏持ちの身分になったことで、毎日練習を無駄に張り切り過ぎていて、すっかりみんなからは迷惑がられており、辻内秋菜に面と向かって「お願い、別れて~」などと懇願される始末であった。
茜としては、それでチームが強くなれるのだし、自分もラブラブ(死語?)でハッピーだし、秋菜の願いを聞いてやるつもりなど毛頭ないようであったが。
その辻内秋菜は、相変わらずだ。
もうじき二十八になるというのに相変わらずうるさいし、相変わらず彼氏募集中である。
優衣がかつての純情少女に戻ってしまったことで、エロ姉さんぶりも復活。会社でオヤジが女子社員にいおうものなら絶対にセクハラで訴えられそうな発言を、逆らうことの出来ない優衣に投げまくって、優衣が顔を赤らめ黙ってしまうのを楽しんでいる。いきなり丸裸で抱き着いたりするし、やりたい放題である。
まあ、そんなであるから彼氏も出来ないのであろう。
そして西田久子であるが、彼女は現役を引退した。
いや、引退していた。
全女の行われるより前に、既に。
落ち着いたら渡して欲しい、と監督に預けられていた物を、優衣は受け取った。
なにも書かれていない茶封筒。
その中には、一枚の手紙が入っていた。
開いてみると、内容は実に簡潔で、
「ありがとう」
と、たったの五文字だけであった。
でもその中には、優衣への思いの全てが込められていた。
癒えない足の痛みを我慢して内面に押し殺し、どんなに死力を振り絞ろうとも、もがれた翼はかつてのように輝かない。
好きだけれど、好きなほどに辛かったサッカー。
久子はその一種輪廻にも似た苦痛から、ようやく解放されたのだ。
それはただ優衣の成長を見届けたというだけでなく、優衣から本当の勇気を得ることが出来たから。
沼尾妙子も、今シーズンでクラブを去ることが決まった。若いながらも唯一の既婚者であったが、妊娠が分かったのである。
本人は数年後の復帰、そして子供が大きくなってサッカー選手になるまで現役でいることに意欲を見せている。
GKの堂島秀美。
リーグ戦最終節での負傷により交代出場した楠元友子が、勝利して残留に貢献したのみならず、全女でもスーパーセーブの連発でクラブ優勝の立役者の一人になってしまったものだから、正GKの座を奪われるかも知れないという危機感のもと、必死の練習を続けている。
その姿勢はGK組だけではなく、全選手の良い手本になっている。
サルこと小田静子は相変わらず、優衣先輩優衣先輩と、優衣に擦り寄り、まとわりついている。
本人は決して自ら語ることはないが、優衣の技術を間近で盗んで追い抜かすことが、どうやら真の目的のようである。まあ、それはそれで、健全な向上心ではないだろうか。
そうそう、全くの余談ではあるが、彼女は先日、自動販売機でつぶつぶオレンジを見つけたといって喜んでいた。
以上。
7
全身という全身が、疲労や筋肉痛に悲鳴を上げている。
篠原優衣は、そんな身体にムチを打ちながら、学校への道を歩いていた。
静岡県で行なわれた代表合宿で、加減が分からず張り切り過ぎてしまったのだ。
代表の半数以上を占めているのが神戸SCの選手たちである。過去の因縁のため、合宿の最初こそ彼女らに冷たくされ、ろくにパスも回ってこない状態であったが、一緒に参加した野本茜が上手く間に入ってくれた。
おかげで最終的にはある程度打ち解けることが出来たし、監督にもある程度はアピールすることが出来たのではないだろうか。
だから、張り切り過ぎたといっても決して無駄な疲れなどではなく、精神的に非常に充足の出来たものであった。
無事に終えて昨日に帰宅し、今日から久しぶりの学校である。
これまで、クラブの大会参加や、代表合宿召集を理由に、学校を何週間もさぼってしまっていた。
合間合間に、学校に行かれる日などいくらでもあったのに。
サッカーに専念したいから、などというとりあえずの名目の立つ理由などではなく、単に、恥ずかしかったのである。
教室の、みんなに会うということが。
いま密かに考えていることを実行せずに、これまで通りの自分で通すつもりなのであれば、別になんということはなかったが、
でも、
「わたしは、変わりたかったから」
だから……
電車を降りて、改札を抜けて、道を歩き始めるところまではなんということはなかったのであるが、学校への道を歩いているうちに、なんだか心臓の鼓動が速くなってきていた。
聖亜女学院の正門が、近付いてきた。
優衣は女生徒たちの群れに混じり、まるで川の上、水面の木の葉のようにように流されて、門のアーチを抜け、創始者ジョン・ポールソンの像を抜け、校舎玄関へ運ばれた。
上履きに履き変え、廊下を歩き、そして教室のドアの前に立つ頃には、ドキドキがおさまらないどころかむしろ最悪なくらいに酷くなっていた。
いまにも心臓が胸を突き破って飛び出してきそうだ。ちょっとだけ気分が悪いのも、もう口のところまで心臓が上がってきているせいかも知れない。
両手で自分の胸を押さえると、ドキドキが手のひらに伝わってきた。どうやらまだ心臓はここにあるみたいだ。
「勇気、勇気、勇気」
小さな声で、呪文のように唱え、つい俯いてしまっている自分を叱咤した。
手のひらに、人という字を素早く三回書いて、飲み込んだ。
すーーっ、っと、深く、深く、ゆっくりと、息を吸い、そして、止めた。
顔を上げた。
ダン、と足を踏み鳴らした。
教室の扉に手をかけると、勢いよく横へと開いた。
「うおっす!」
力の限りの、絶叫をしていた。緊張と不慣れとに、少し声が裏返ってしまったかも知れない。
バアン、と扉が反動で跳ね返ってきて閉まりそうになるのを、慌てて両手で抑え、再度ゆっくりと開いた。
優衣は、教室の中を見回した。
しーん。
まるでホラー映画のワンシーンだ。つい直前に扉を開けるまでは、遠い廊下にまで響いてくるくらいに賑やかであった教室が、一瞬にして唾を飲む音が聞こえそうなくらいに静まり返っていたのだから。
クラスの女子生徒たちがみなきょとんとした表情で顔を上げ、扉のところに立つ優衣へと視線を向けていた。
「あ、あ、あの……」
優衣の顔が見る見るうちに赤くなっていく。
扉を閉めて、このまま帰ってしまいたい。それくらい、恥ずかしい気持ちだった。
「篠原! めっちゃひっさしぶりやん!」
木村園子が立ち上がり、叫んでいた。生粋の石巻っ子のくせに何故か関西弁で。
「篠原ちゃん、相変わらず元気そうだなあ。元気っつーか、アホっぽいというか」
峰崎三恵子がそういって、嫌味のない笑みを浮かべた。
「優衣、一週間以上も入院してたんでしょ? もう大丈夫なの?」
藤岡望が少し心配そうに尋ねた。
「あ、だ、だいじょう……」
「バカだね、大丈夫だからその後ずっとサッカーで休んだんでしょうが」
麓絵美の言葉に藤岡望は、
「あ、そうか、そうだよね。でも凄いよねえ、優勝しちゃうなんて。代表にも呼ばれたんでしょ? テレビのニュースでちょっとやってたよ、合宿やってるとこ。インタビューでさ、あの沢田麗奈が優衣のこと野放しで褒めてたよ、良い選手だって」
ぺらぺら喋っていると、突然教室の後ろの扉が開いた。
「おー篠原優衣じゃん。久し振りい。相変わらずアホのままかあ?」
教室に入ってきた林田育子が、優衣へと近寄るなり頭をくしゃくしゃに掻き回した。
「授業進んじゃってるよ。よかったらノート見る?」
育子と一緒に入ってきた三田香苗が、小柄な身体で相対的に巨大に見えるバッグをがさりごそり探り始めた。
「優衣はアホだけど頭がいいから大丈夫だよ。それより、サッカーのこと聞かせてよ」
「お、優衣、ひっさしぶりい」
「元気かー」
ふと気が付けば、クラスの生徒のほとんどに取り囲まれていた。
自分を中心にみながざわめいていることに、最初は困ったような表情を隠せない優衣であったが、いつしか自分でも気付かぬうちに笑い出していた。
声を上げ、心の底から。
なにがおかしいのか、理由など自分でも分からない。
分からないけれど、でも、自分を抑えることが出来なかった。
胸の奥からどんどん沸き上がって溢れ出てくるこの不思議な感情に、優衣は、いつまでも楽しげに笑い続けていた。
あれから三日ほど、完全に意識を失っていたらしい。
リーグ戦最終節の、あの日から。
目が覚めたのは、病院のベッドの上であった。
なんとなく目が開いて、薄ぼんやりした視界のまま右に左に目線を動かしているうちに、だんだんと焦点がはっきりしてきて、どうやら病院の個室らしいことが分かった。
身体の感覚がまるでなく、どうすることも出来ずにしかたなく天井を見上げてじっとしていると、やがて看護婦が来て患者が目覚めたことに気付き、医師を呼んだ。
診断を受け、その翌々日には八人部屋に移され、それからさらに四日間、入院し、精密検査を続けた。
そしてようやく退院をして、今日で三日が過ぎた。
意識はもうすっかり回復しているし、身体も自由に動かすことが出来る。体調がほんの少し気だるいという程度であったが、しかしまだサッカーの練習も、学校も休んでいる。
脳に相当な疲労が蓄積されているようだから、とにかく何も考えずに休んだほうがいいという医師の判断によるものだ。
現在は平日の昼、正午を少し過ぎた頃だ。
空は青く、太陽は真上にあって地面を照らし続けているものの、なにせ東北の冬である、寒い。
篠原優衣は現在、旧北上川の河原にきている。
特別な理由は何もない。
暇を持て余していたということと、人の賑わうところが好きでないというだけだ。
ジーンズにジャンパー、マフラーという、しゃれっけの欠片もない、ただ寒くないようにしているというだけの実に簡素な格好で、土手の芝の上に腰を下ろしている。
そよそよとした風が吹き抜けるたびに、緩いウエーブのかかったふんわりと柔らかそうな髪が揺れた。
眼前に広がるのは、のんびりとした、のどかな風景であったが、吹き付ける北風に身の切れるような寒さであった。
こんなに厚着をしているというのに。
快晴の空には輝く太陽。
冬も夏も、太陽自身は宇宙の中にあって同じだけぎらぎらと輝いているというのに石巻はこの極寒。
でも、そんな北風の寒さなど、優衣にはあまり気にならないことだった。
正確には、どうでもいい、もっと正確には、それどころではない。
昨日、所属クラブ経由で代表合宿召集の連絡が届いたのである。
これまでにも経験したことのある世代別ではなく、なんとフル代表だ。まだ高校二年生だというのに、実に稀な大幅飛び級召集であった。
優衣だけではなく、同じクラブから野本茜も一緒に呼ばれたという話であるから、これほど心強いことはなかった。
フロントから連絡を受けた優衣は、とりいそぎ承諾の旨を伝え、電話を切った。
数ヶ月前までの優衣であったならば、動揺し、悩んだ挙げ句、参加することを拒否してしまったかも知れない。フル代表という、その重さに耐え切れず。
しかし現在の自分ならば、例え所属クラブから声のかかったのが自分一人であったとしても、即応で召集を受けていただろう。
そう断言出来るほどに現在の優衣には、自信、と一言では片付けられない不思議なパワーが、胸の奥底だか、全身の細胞からだか、こんこんと沸き上がってきていた。
川原の広くなっているところに作られた小さな広場では、先ほどからずっと、四歳か五歳くらいの男の子が何人か集まって、サッカーボールを蹴って遊んでいる。
つい蹴り損ねてしまったのだろうか。大きく跳ね上がったボールが、風に押されて優衣のほうへ飛んできた。
優衣はそれに気付くと、すぐに立ち上がっていた。
三、四歩と落下地点へ前進し、前へ突き出した左足を軽く引きながら甲で受け、止めると、ちょんと跳ね上げ、右足で蹴り返していた。
ボールはこちらへ飛んできた時とほとんどそのままの軌道を逆戻りして、子供たちの中心に落ちた。
「うわ、すげー」
無邪気な感嘆の声が聞こえてきた。
優衣はまた腰を下ろした。
また、流れる川の水面に視線を向け、そよそよと吹く湿気と幾分かの磯臭さを帯びた風を浴び始めた。
「お姉ちゃん!」
先ほどの子供たちだ。
ボールを脇にかかえ、こちらへと走ってきた。
「サッカー結構上手だね。教えてよ」
一瞬面食らい、まばたきする優衣であったが、なんとも無邪気で憎めないその台詞に、ちょっぴり微笑ましく思う気持ちになっていた。
「いいよ」
また立ち上がると、腿やお尻に付いた土や枯れ草を払った。
「あ、お姉ちゃん、テレビで見たことあるぞ」
子供の一人が疑問の声を上げた。無意識に表情と連動して、顔にしわを作っていかにも考えている風であるのが可愛らしい。
「あれだよ、あれだよ、なでしこ、なでしこ」
横の子が、袖を引っ張りながら教えてあげる。
「へええ、すげー」
「プロ選手だあ」
いや、プロではないのだけど……
と、口を開きかけた優衣であったが、
「必殺技教えてよ!」
「僕も!」
優衣は三人の子供らに手を引かれ、半ば強引にずるずると引きずられていった。
ちょっと弱ったような表情を浮かべてはいたけれど、でもその子供らを見る優衣の目は、とても優しげであった。
2
優衣は、軽快なステップで深貝百合江をかわすと、自ら作り上げたスペースへと単身を踊り込ませる。続いて中田真澄のスライディングを、ボールと自身とを浮かせて飛び越えた。
PA内に入った。
GKの山登真琴が意を決して飛び出してくるのを確認すると、優衣は左足でシュート、と見せ掛けて、足のアウトサイドを使って戻すように転がした。
まだ攻め残っていたボランチの寺田なえが、優衣からの誕生日プレゼントに反応し、無人のゴールへとボールを蹴り込んだ。
ベイスパロウゴール裏サポーターの太鼓の音がどんどんと鳴らされ、歓声が轟いた。
小太りおじさんばかりのサポーター。たった二十名ほどの、でもこの一年間、辛い思い苦しい思いを共有して戦い抜いてきた、選手たちにとって最高の仲間たちだ。
なえは二十歳のバースデーゴールをアシストしてくれた優衣へと駆け寄りハイタッチ、そして抱きしめた。
続いて、サポーターの寺田コールに対してガッツポーズと満面の笑顔とで応えた。
石巻ベイスパロウ 4-0 神戸SC
ベイスパロウは前半戦三十分にして既に、内容だけではなくスコアの上でも圧倒をしていた。
それはほとんど、篠原優衣の活躍によるものといっても過言ではなかった。
本来は出場する予定ではなかった、彼女の。
リーグ戦最終節の終盤に、優衣はゴールを決めたと同時に倒れて、そのまま意識を失った。
その後の医師の判断では、すぐそばで発生した落雷のショックによるものだろうとのことだ。
実際、それは凄まじい雷で、石巻の市街一帯が停電になったほどであった。昼間の試合であったため、なんとか照明無しでも試合が続行出来たのであるが、しかし折り重なった雲により夜と見まごうほどの異常な暗さであった。
優衣は病院に搬送されて、そのまま入院した。
退院後、ずっと練習どころか学校すらも休んでいたというのに、昨日ふらりと練習場に姿を現した優衣は、自分を使えと監督にアピールしたである。
そして優衣は、この試合に出場している。
全日本女子サッカー選手権大会、略して全女と呼ばれている大会、その初戦である。
試合会場は、石巻ベイスパロウのホームスタジアムである石巻臨海陸上競技場。
対戦相手は、初戦にしていきなり優勝候補の神戸SC。
今期リーグ戦で二度戦い、二度目の対戦ではなんとか逆転勝利し、残留に繋げることが出来たものの、一度目の対戦では手も足も出ずに7ー0で負けている相手だ。
そのリーグ戦で神戸SCは、二位以下を大きく引き離してぶっちぎりでの成績で優勝を決めており、弱小クラブであるベイスパロウにとって一度勝ったりとはいえども稀に見る強豪クラブであるのは間違いのない事実。
二度も幸運が続くはずがない。
誰もがそう思っていたはずなのに、蓋を開けてみればなんということだろうか。
前半のうちに四点もの得点を奪うとは。
一点目はカウンターから、二点目はパスで崩して、それぞれFWの辻内秋菜が落ち着いて決めた。
三点目は実合美摘のポストプレーからの反転シュートがあっさりと入ってしまい、そして四点目はいま先ほど寺田なえが決めたばかり。
美摘の得点以外、全てに優衣が絡んでいた。
記録より記憶に残るプレー、とはよくいわれる表現であるが、まさに今日の優衣はそれを体言していた。アシストという記録を作っただけではなく、動きが実に切れており、ピッチ上を縦横無尽に躍動し、相手を翻弄する素晴らしいプレーの数々を観客に披露し続けていた。昨日までずっと、練習を休んでいたというのにかかわらずだ。
むしろ、それによる飢えが、優衣をつき動かしているのであろう。
日本代表選手を多く抱える神戸SCともあろうものが、まだ多分に顔にあどけなさを残している一人の高校生を、まともに止めることが出来なかった。
二人掛かり、またはファール覚悟で、なんとか食い止めている状態であった。それでも止め切れずに、何度も決定的な場面を作られてしまっていた。
そしていまもまた、
優衣は、野本茜からのロングボールを追い、走った。
ゴール前にこもっていた深貝百合江であったが、危機を察知して、飛び出した。
向かい合う二人。
宙からボール。優衣は目測を誤ってしまったのか、それとも走る勢いを殺せなかったのか、自らの背後にボールが落ちていた。
その瞬間、跳ね上がったボールが優衣自身、そして深貝百合江の頭上を飛び越えていた。
誤ってなどはいなかった。
優衣は背後に落ちたボールを、踵を使って蹴り上げていたのだ。
なにがなんだか分からず混乱している深貝百合江の脇を、優衣は駆け抜け、落ちてきたボールを拾い、なおも走ってPA内へと侵入した。
ボランチの沢田麗奈、CBの中田真澄が向かってきた。しっかりと、シュートコースを塞いでいる。優衣にパスを出させて、それを味方にカットさせるつもりなのだろう。
ならば、
と、あえて優衣は二人へと突っ込んでいった。
そして次の瞬間、この試合何度目になるのか、観客席からどよめきが上がった。
優衣がヒールリフトで、二人の間を一瞬にして駆け抜けたのである。まるで障害など無いも同然といわんばかり、実に簡単に。
ヒールリフトとは、ちょこんと浮かせたボールを、背後で、踵を使ってさらに大きく蹴り上げて、頭上を通して前へ送るフェイントの一種だ。難易度があまりにも高く、実戦向きというよりは単なる曲芸といっても過言ではないそんな技を、躊躇なく行い、なおかつ成功させ、一瞬にして二人を抜き去ったのだ。見る者が驚き、興奮するのも当然のことであった。
二枚の壁を簡単に突破されるという予期せぬことに、GKの山登真琴が慌てふためき次の行動への戸惑いを見せた一瞬の隙を狙った優衣の股抜きシュートが決まり、ゴールネットが揺れた。
ベイスパロウ、これで五点目である。
ゴール裏サポーターの歓声。そして太鼓の音が打ち鳴らされた。
股抜きゴールを決められた山登真琴は跪き、両手で地面を何度も叩き、悔しがっている。
「優衣姉の気迫が! 優衣姉の気迫がああ、凄すぎるうううう!」
ベンチ入りを果たした高校一年生の小田静子が、優衣のスーパープレーに思わず立ち上がり、感激して目に涙を滲ませている。
スーパープレーも素晴らしいが、なにより褒めるべきは、その個人技の冴えではなく、また別のところにあった。
試合開始直後から、攻撃にも守備にも一切の集中を切らさず手を抜かない、がむしゃらなプレーを、優衣は見せているのである。先日、フル代表に初選出されたが、それに全くおごり高ぶることなく。
もともとスタミナに難のある選手だというのに初っ端から飛ばし過ぎてしまって、まだ前半戦の途中だというのにかなり息が切れてしまっていたが。
仲間も、優衣の能力や活躍ぶりというよりはその健気な頑張りにこそ多くの刺激を受け、普段の二百パーセントの力を発揮して戦っていた。
そう、きっかけは優衣であるものの、全員が神戸SCの選手に勝るとも劣らない活躍を見せてこその、この誰もが予想もしなかったようなスコアになっていたのである。
前半戦ですっかり体力を消耗してしまった優衣は、後半戦が開始してほどなくして小田静子へと交代させられた。
だがそれでも選手たち個々の自信からくるパスワークや粘りのプレーはまるで衰えを見せることなく、むしろ息切れした相手に、攻守両面一切ペースを握らせることなく圧倒し続けた。
やがて、焦りや屈辱心にすっかり集中を切らした神戸SCから、退場者が一人、二人。
せめて大敗だけは避けたい、そう割り切るしかなくなってガッチリと守備を固める神戸SCであったが、それを嘲笑うかのようにCKから野本茜が、PKから辻内秋菜が、そして小田静子が流れの中からDFを振り切って技ありのループシュートを決め、
九十分が過ぎ去ってみれば8対0、石巻ベイスパロウの文句なしの圧勝であった。
そして、神戸SCは過去、まだ弱小クラブだった頃の四点差負けを遥かに上回る、最高失点記録を更新することになった。
ピッチ上にいる両チームの選手たちによる握手、挨拶が終わると、それぞれ、ゴール裏のサポーターへと向かっていく。
優衣たちもベンチから出て、それに加わった。
ベイスパロウのゴール裏は、信じられない圧勝劇に大騒ぎであった。
ずらりと横に並んだ選手たち。
キャプテンの野本茜が一歩前に出て、手にした拡声器でサポーターへの挨拶の言葉を述べた。
この大会、どこまで勝ち上がれるものかなど分からないが、もうこの石巻で試合をやることはないから、来られないサポーターへこれまでの感謝の気持ちをたっぷりと込めて。
挨拶を終え、引き上げていく選手たち。
その中で、優衣は一人そわそわと落ち着きのない様子を見せていた。
よく見なければ分からないかも知れないが、その顔は少し不満げのようであった。
実際、優衣は不満であった。
わたしだって自信を持ってプレー出来るんだってところを、久子さんに褒めてもらいたかったのに……
そう、西田久子はこれまで不動のスタメンであったというのに今日の試合でベンチにも入っていなかったばかりか、会場のどこにも姿を見付けることが出来なかった。
久子はベイスパロウに欠かせない大切な選手であり、このような重要な試合に出場しないはずがないのに。
そもそも何故メンバー登録すらされていなかったのか、優衣は今朝、監督に理由を尋ねたのであるが、結局はぐらかされて分からなかった。
昨日の夕方、一週間半ぶりにベイスパロウの練習場である石巻ランドを訪れたのだが、その時にも姿を見なかったし。
どこかに、いるのではないか。
優衣はそう思い、きょろきょろと客席やベンチの奥などを見回し続けたが、しかし久子の姿は、どこにも見つけることは出来なかった。
3
「潰せ!」
野本茜の怒鳴り声に椋愛子と久木成美が、篠原優衣の進路を塞ぎつつ、ボールを奪い取ろうと飛び掛かった。
身体ごとぶつけにいくような、それは気迫のこもった守備であった。
優衣はそれを正面から受けて立った。二人へと向かい、むしろ自ら飛び込んでいた。
間合いを詰めるつもりが詰められた椋愛子は、完全にタイミングを狂わされていた。狂わされながらも、優衣が股抜きを狙ってきたのを感じてさっと足を閉じてブロックをしたが、優衣はボールを引き戻すようにしながら横へと転がし、脇を駆け抜けていた。
悔しがる愛子。優衣は、はなから股抜きなど狙っておらず、ただそう思わせることが目的だったのだ。
次いで、抜け出た優衣の持つボールへと久木成美が足を伸ばしていた。
優衣はボールを踏んでブレーキをかけると、右から仕掛けるか左から仕掛けるか、成美を左右に揺さ振った、と、次の瞬間には成美の脇を抜き去っていた。
PA内へと入り込んだ優衣。
ようやく守備に駆け戻ってきた柴野英子が、斜め後ろからボールへとスライディング。
しかし優衣には通用しなかった。ボールを爪先で蹴り上げて浮かせると、自身も小さく跳躍させ、見るも簡単にかわしていたのだ。
着地するのと同時に、落ちてきたボールに右足を合わせ、振り抜いた。
サイドネット内側を目掛けたシュートだ。
ボールは地面に叩き付けられて跳ね上がった。
GKの堂島秀美が反応し、大きな横っ飛びを見せるが、あと数センチ、指が届かなかった。
ボールはポスト内側に当たって跳ね返り、ゴールへと飛び込んだ。
「おー、優衣すっげえじゃん! ゴール数、並ばれちゃったな、くそ」
辻内秋菜は悔しそうな笑みを浮かべながらも、素直に称賛の拍手を送った。
ここは石巻ベイスパロウの練習場、石巻ランド第一グラウンドである。
昨日は全女、全国女子サッカー選手権大会の初戦を戦っているので、主力組は軽い調整のみ、のはずであったのだが、つい紅白戦などを始めてしまったものだから、ふと気が付けば熱く真剣な、火花の散るような白熱したぶつかり合いになってしまっていた。寺田なえなど、足がつって退場したくらいである。
「しかし優衣、ほんっと最近身体が切れてるよね。味方でよかった~って思うくらい。でも……性格、丸くなった?」
秋菜が、何故か優衣のおでこに自分の手を当てる。性格を知るのに熱を見てどうしようというのか。
「もともと丸いです」
優衣は俯き加減に、ぼそりと口を開いた。
「まあ、積極的になったよね」
キャプテンの野本茜が近付いてきた。
「いままでずっと断り続けていた、ガールズスクールの指導役も受けてくれたしさ」
「はい。少しだけですけど、自分に、自信がついたんで……」
「ふーん。……でさ、鍛えてくれたその彼氏は、どこにいったのかな?」
茜は優衣に密着すると、耳元でこそこそっとささやいた。
優衣は跳ね上がるような勢いで身体を真っ直ぐ硬直させたかと思うと、え、え、とうろたえるような声を発した。なにかいおうとするものの、しどろもどろになって、なにもいえなかった。
その反応があまりに可愛らしかったか、思わず茜は声を上げて笑い出していた。
4
「おかえり。遅かったね。頭痛くないか? 具合悪くないか? お腹すいてないか? なにか作ろうか?」
帰宅すると父の正昭が、矢継ぎ早に一方的な質問の言葉をまくし立てながら、玄関まで迎えに出てきた。
「うん、少しお腹すいたかな。でも、わたしが作ろうか?」
「ダメ。優衣は休めっていわれてるだろ」
といわれても、休むどころか昨日などは思い切りボールを追って走り回ってしまったのだけどな。
本日から身体の様子を確かめながら少しずつ練習に参加していく。父に対してそのように説明してあったため、昨日のうちに練習どころか試合にまで出てしまったなどとは、とてもいえない優衣であった。
長いこと練習を休んでしまったお詫びにクラブ事務所を訪問しに行っただけだったのに、まさか試合に出して欲しいなどと直談判してしまうなんて。あの日のことを思い出すと、我ながら信じられない気持ちになる。
「だから優衣は休んでな。美味しいのを作るから」
「……それじゃ、お願いします」
優衣は、軽く頭を下げた。
最近、父は創作料理に凝っている。いつまで続くか分からないけど、まあ好きにさせてあげよう。
料理の基本がまるで出来ていないため、美味しく出来るかそうでないかはその時の運次第というのが深刻な問題点なのだが。
前回の料理が見た目の悪さに反比例して意外と美味しかったから、今日は美味しくない気がする。根拠はなにもないけど、なんとなく。
優衣は、改めて家でもシャワーを浴び、練習の汗や泥臭さを念入りに落とした後、居間の床に腰を下ろしてストレッチをしながらテレビを見ていた。相変わらず民放がどうにも好きでないので、NHKを。
そうしているうちに、次々と、父がテーブルに皿を並べていく。
「出来たぞー」
その言葉に、優衣は顔を上げた。
優衣の表情が、固まった。
ちょっとお父さん、張り切り過ぎだよ……
テーブルの上には、今日の夕食分だというのに二日まるまるかけても食べ切れないのではと思うほどの、和洋折衷様々の料理が、ところ狭しとぎっちりと置かれていたのである。
テレビを消し、二人は食事を開始したわけであるが、しかしながらというべきか、なんというべきか、味はどれもなかなかのものであった。前回今回と、美味しいのが二度も続くなんて珍しい。成長したのだろうか。
「あれ、この唐揚げも美味しいね。タレがなんだか面白い。なんだろこれ」
「それはな、企業秘密だ」
別に隠れて作っているわけではなく、単に優衣が全く見ていなかっただけだが。
しかし本当に、今日のご飯は美味しかった。
黒豆とヨーグルトのオイスターソースがけだけは、さすがに「!」その後「……」であったが。その他はどれも。
料理の品数は実に豊富で賑やかであるが、その分だけ、たった二人きりの慎ましやかな雰囲気の強調される食事になった。
これからも、二人きり。
「でもいつの日か、優衣は結婚し、この家には自分一人だけになるのか。まあ、それが淋しくないわけではないけど、そういう日が来なかったらそっちのほうがもっと淋し……」
正明の独り言が、不意に中断した。
優衣が、ぼーっと考え込んでおり、それが気になったようである。
「優衣?」
呼び掛けた。
何度目かで、ようやく優衣は俯き加減だった顔を上げた。
「なに?」
「あ、いや、ぼーっとしてたからさ」
「そうだった? ごめん」
「別に謝ることはないけども」
ないけども、やっぱりおかしい。優衣の様子や態度がである。と、そんな表情の正明。
口を開きかけ、閉じたのは、優衣の思いを聞きだそうとしたが、ふと思うことがあってあえて待つことにしたのだろう。
後から知ったことであるが、正明は、娘がなにに対して真剣に悩んでいるのか、そんなこととっくに分かっていた。
そんな娘が最近変わって、懸命に自分の殻を破ろうとしているように思えていた。だから口を閉ざし、待ったのだ。
でもそれは別に、今日じゃなくてもいいんだから。
無理することはない。自分はいつまでも、待つつもりだから。と。
「お父さん……」
優衣は父の目を見つめ、意を決したように、口を開いていた。それは消え入りそうな、小さな声、唇の動きではあったが。
「なに?」
正昭は、やさしく返事をした。
「わたし……」
優衣はそれっきり黙ってしまった。
ここまでの流れならば、これまでにもよくあった。
なにかをいおうとして、結局、自分の中に飲み込んでしまうのだ。そして、優衣が辛そうな表情をしているのを見かねて、父のほうから助け舟を出して、会話をはぐらかして打ち切ってしまうのだ。
でも、いまの優衣は、これまでとは違う。
直感的にそう思ったか、正昭ははぐらかすことなく、次の言葉を待った。
そしてついに、殻は破られたのである。
「わたし、お母さんに……会いたい」
消え入りそうな小さな声ではあったが、しかし迷いのない、しっかりとした口調であった。
そう。優衣は常々、母と会ってこれまでのことを語り合いたい、なにか誤解があったのであればそれを解きほぐしたい、と真剣に考えていた。
恨みなどからではなく、全てを信じたいから。前へ、進みたかったから。
ずっと以前から、そういう思いは胸に抱いてはいた。でも、勇気がなくて、ずっと切り出すことが出来ないでいた。
「本気で、そう思っている?」
父の問いに、優衣は無言で頷いた。
「分かった。今度お母さんに連絡を取ってみる」
そういったきり、この会話は終了した。
母が、ということでなく、単に優衣の成長が嬉しくて、なにか褒めてあげようと思ったのだが、成長した娘を子供扱いする失礼な言葉になるような気がして喜び隠して黙っていたそうである。
5
食事と、後片付けを終えた優衣は、階段を上って二階へ。
自室のドアを開いた。
入った正面、窓の横の壁に、四枚張り合わせた半紙に大きくそして下手くそな筆書きの文字。
「前へ進め!」
その下には小さな、やはり下手くそな文字で、
「篠原優衣へ 松島裕司」。
半紙は壁にべったりと張られており、部屋に入るとまずこの毛筆が視覚にどどんと飛び込んでくる。
かつて自分の中に確かに存在していた、野本茜のいうところの「彼」は、自分自身が消え去ってしまうことを予期してこのようなメッセージを残したのだ。
篠原優衣との対話が出来なかったから、ならば少しでも、自分の存在の証を残したくて。また、篠原優衣の人生を本気で応援したくて。
別にこんなこと、しなくても、よかったのに。
優衣は、本気でそう思っていた。
だって自分の心は、ずっと「彼」と共にあったからだ。
それがどれだけ自分を成長させてくれたことか。
下らない殻に閉じこもってうじうじとしていた自分を、どれだけ叱咤激励してくれたか、そして、認めてくれたか。
改めて、半紙に書かれたその汚い文字を見つめていた。
だから……
わたし、
ちょっとは前へ進んだ、のかな。
いつだったか、「お前、おれのファンになれよな」なんていってたことあったよね。
すっかりそうなっていたのかも知れない。
いつの間にか。
6
この物語はもう少しだけ続く。
優衣の所属するサッカークラブである石巻ベイスパロウの、その後について語ろう。
まずは全女、全国女子サッカー選手権大会についてであるが、石巻ベイスパロウは、見事に優勝カップを手に入れた。
全女とは、男子でいう天皇杯に相当する大会である。天皇杯においては、降格決定したJリーグクラブが良いところまで勝ち上がることは珍しいことではないが、実力差の激しいなでしこリーグで残留争いをしていたようなクラブが優勝を決めたことは、実に歴史に残る快挙であった。
初戦で優勝候補の神戸SCを相手に、運も手伝ってか圧勝出来たことが、その後の自信に繋がったのかも知れない。
先制しては突き放し、先制されても追い付き逆転し、誰もが己や仲間の力を信じて、勝ちを重ねに重ねる誰もが予想しなかった快進撃、決勝戦ではやはり優勝候補であった北陸電飾ウインズとの激戦、そしてPK戦を制し、サッカーの聖地国立競技場にて優勝を果たしたのである。
二回戦目の途中から、なかばぶっつけ本番気味に採用した、ワントップスリーシャドウ、実合美摘の後ろに小田静子、辻内秋菜、篠原優衣を配置するという形が思いの他はまって、それにより得た攻撃力をもって守備の安定化に繋げられたのも大きかった。
決勝ではさすがに、相手が強者というだけでなく、相手が決勝まで進んだベイスパロウを見くびらずにしっかりと研究し、対策をしてきたため、非常に苦戦することにはなったが。
では続いて、ちょっと掘り下げて選手たち個々についての、その後を何人か紹介しよう。
先ずはキャプテンの野本茜。
何番目のだかは分からないが、彼氏とよりを戻したという話だ。
数年ぶりに彼氏持ちの身分になったことで、毎日練習を無駄に張り切り過ぎていて、すっかりみんなからは迷惑がられており、辻内秋菜に面と向かって「お願い、別れて~」などと懇願される始末であった。
茜としては、それでチームが強くなれるのだし、自分もラブラブ(死語?)でハッピーだし、秋菜の願いを聞いてやるつもりなど毛頭ないようであったが。
その辻内秋菜は、相変わらずだ。
もうじき二十八になるというのに相変わらずうるさいし、相変わらず彼氏募集中である。
優衣がかつての純情少女に戻ってしまったことで、エロ姉さんぶりも復活。会社でオヤジが女子社員にいおうものなら絶対にセクハラで訴えられそうな発言を、逆らうことの出来ない優衣に投げまくって、優衣が顔を赤らめ黙ってしまうのを楽しんでいる。いきなり丸裸で抱き着いたりするし、やりたい放題である。
まあ、そんなであるから彼氏も出来ないのであろう。
そして西田久子であるが、彼女は現役を引退した。
いや、引退していた。
全女の行われるより前に、既に。
落ち着いたら渡して欲しい、と監督に預けられていた物を、優衣は受け取った。
なにも書かれていない茶封筒。
その中には、一枚の手紙が入っていた。
開いてみると、内容は実に簡潔で、
「ありがとう」
と、たったの五文字だけであった。
でもその中には、優衣への思いの全てが込められていた。
癒えない足の痛みを我慢して内面に押し殺し、どんなに死力を振り絞ろうとも、もがれた翼はかつてのように輝かない。
好きだけれど、好きなほどに辛かったサッカー。
久子はその一種輪廻にも似た苦痛から、ようやく解放されたのだ。
それはただ優衣の成長を見届けたというだけでなく、優衣から本当の勇気を得ることが出来たから。
沼尾妙子も、今シーズンでクラブを去ることが決まった。若いながらも唯一の既婚者であったが、妊娠が分かったのである。
本人は数年後の復帰、そして子供が大きくなってサッカー選手になるまで現役でいることに意欲を見せている。
GKの堂島秀美。
リーグ戦最終節での負傷により交代出場した楠元友子が、勝利して残留に貢献したのみならず、全女でもスーパーセーブの連発でクラブ優勝の立役者の一人になってしまったものだから、正GKの座を奪われるかも知れないという危機感のもと、必死の練習を続けている。
その姿勢はGK組だけではなく、全選手の良い手本になっている。
サルこと小田静子は相変わらず、優衣先輩優衣先輩と、優衣に擦り寄り、まとわりついている。
本人は決して自ら語ることはないが、優衣の技術を間近で盗んで追い抜かすことが、どうやら真の目的のようである。まあ、それはそれで、健全な向上心ではないだろうか。
そうそう、全くの余談ではあるが、彼女は先日、自動販売機でつぶつぶオレンジを見つけたといって喜んでいた。
以上。
7
全身という全身が、疲労や筋肉痛に悲鳴を上げている。
篠原優衣は、そんな身体にムチを打ちながら、学校への道を歩いていた。
静岡県で行なわれた代表合宿で、加減が分からず張り切り過ぎてしまったのだ。
代表の半数以上を占めているのが神戸SCの選手たちである。過去の因縁のため、合宿の最初こそ彼女らに冷たくされ、ろくにパスも回ってこない状態であったが、一緒に参加した野本茜が上手く間に入ってくれた。
おかげで最終的にはある程度打ち解けることが出来たし、監督にもある程度はアピールすることが出来たのではないだろうか。
だから、張り切り過ぎたといっても決して無駄な疲れなどではなく、精神的に非常に充足の出来たものであった。
無事に終えて昨日に帰宅し、今日から久しぶりの学校である。
これまで、クラブの大会参加や、代表合宿召集を理由に、学校を何週間もさぼってしまっていた。
合間合間に、学校に行かれる日などいくらでもあったのに。
サッカーに専念したいから、などというとりあえずの名目の立つ理由などではなく、単に、恥ずかしかったのである。
教室の、みんなに会うということが。
いま密かに考えていることを実行せずに、これまで通りの自分で通すつもりなのであれば、別になんということはなかったが、
でも、
「わたしは、変わりたかったから」
だから……
電車を降りて、改札を抜けて、道を歩き始めるところまではなんということはなかったのであるが、学校への道を歩いているうちに、なんだか心臓の鼓動が速くなってきていた。
聖亜女学院の正門が、近付いてきた。
優衣は女生徒たちの群れに混じり、まるで川の上、水面の木の葉のようにように流されて、門のアーチを抜け、創始者ジョン・ポールソンの像を抜け、校舎玄関へ運ばれた。
上履きに履き変え、廊下を歩き、そして教室のドアの前に立つ頃には、ドキドキがおさまらないどころかむしろ最悪なくらいに酷くなっていた。
いまにも心臓が胸を突き破って飛び出してきそうだ。ちょっとだけ気分が悪いのも、もう口のところまで心臓が上がってきているせいかも知れない。
両手で自分の胸を押さえると、ドキドキが手のひらに伝わってきた。どうやらまだ心臓はここにあるみたいだ。
「勇気、勇気、勇気」
小さな声で、呪文のように唱え、つい俯いてしまっている自分を叱咤した。
手のひらに、人という字を素早く三回書いて、飲み込んだ。
すーーっ、っと、深く、深く、ゆっくりと、息を吸い、そして、止めた。
顔を上げた。
ダン、と足を踏み鳴らした。
教室の扉に手をかけると、勢いよく横へと開いた。
「うおっす!」
力の限りの、絶叫をしていた。緊張と不慣れとに、少し声が裏返ってしまったかも知れない。
バアン、と扉が反動で跳ね返ってきて閉まりそうになるのを、慌てて両手で抑え、再度ゆっくりと開いた。
優衣は、教室の中を見回した。
しーん。
まるでホラー映画のワンシーンだ。つい直前に扉を開けるまでは、遠い廊下にまで響いてくるくらいに賑やかであった教室が、一瞬にして唾を飲む音が聞こえそうなくらいに静まり返っていたのだから。
クラスの女子生徒たちがみなきょとんとした表情で顔を上げ、扉のところに立つ優衣へと視線を向けていた。
「あ、あ、あの……」
優衣の顔が見る見るうちに赤くなっていく。
扉を閉めて、このまま帰ってしまいたい。それくらい、恥ずかしい気持ちだった。
「篠原! めっちゃひっさしぶりやん!」
木村園子が立ち上がり、叫んでいた。生粋の石巻っ子のくせに何故か関西弁で。
「篠原ちゃん、相変わらず元気そうだなあ。元気っつーか、アホっぽいというか」
峰崎三恵子がそういって、嫌味のない笑みを浮かべた。
「優衣、一週間以上も入院してたんでしょ? もう大丈夫なの?」
藤岡望が少し心配そうに尋ねた。
「あ、だ、だいじょう……」
「バカだね、大丈夫だからその後ずっとサッカーで休んだんでしょうが」
麓絵美の言葉に藤岡望は、
「あ、そうか、そうだよね。でも凄いよねえ、優勝しちゃうなんて。代表にも呼ばれたんでしょ? テレビのニュースでちょっとやってたよ、合宿やってるとこ。インタビューでさ、あの沢田麗奈が優衣のこと野放しで褒めてたよ、良い選手だって」
ぺらぺら喋っていると、突然教室の後ろの扉が開いた。
「おー篠原優衣じゃん。久し振りい。相変わらずアホのままかあ?」
教室に入ってきた林田育子が、優衣へと近寄るなり頭をくしゃくしゃに掻き回した。
「授業進んじゃってるよ。よかったらノート見る?」
育子と一緒に入ってきた三田香苗が、小柄な身体で相対的に巨大に見えるバッグをがさりごそり探り始めた。
「優衣はアホだけど頭がいいから大丈夫だよ。それより、サッカーのこと聞かせてよ」
「お、優衣、ひっさしぶりい」
「元気かー」
ふと気が付けば、クラスの生徒のほとんどに取り囲まれていた。
自分を中心にみながざわめいていることに、最初は困ったような表情を隠せない優衣であったが、いつしか自分でも気付かぬうちに笑い出していた。
声を上げ、心の底から。
なにがおかしいのか、理由など自分でも分からない。
分からないけれど、でも、自分を抑えることが出来なかった。
胸の奥からどんどん沸き上がって溢れ出てくるこの不思議な感情に、優衣は、いつまでも楽しげに笑い続けていた。
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