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第三章 石巻ベイスパロウ
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野本茜はタイミングよく足を伸ばし、ボールを奪い取った。
すぐさま横へとドリブルしてパスコースを作り出すと、前線で上手くマークを外した西田久子へとパスを出そうとする。だが、蹴ろうとしたその瞬間、すっと突き出てきた久木成美の足に引っ掛かって、茜は転んでしまった。
「茜、判断遅いからだよ!」
榎戸朱美コーチの怒鳴り声が飛ぶ。彼女は元日本女子代表つまりなでしこジャパンの選手で、現在石巻ベイスパロウのトップコーチと下部組織の監督を兼任している。その指導のあまりの厳しさから、ついたあだ名は鬼軍曹。
「はい!」
茜は片膝に手をついて起き上がると、急いで走り出し、守備へと戻るが、もう間に合わず、FWの徳山神未にシュートまで持ち込まれてしまっていた。
だがCBの谷保絹江がしっかり身体を寄せて、コースを限定させていた。
シュートこそ弾丸のようであったが、タイミングが正直なのと打てるコースが限られているため、GKの楠元友子が、がっちりとキャッチ。胸に抱え込んだ。
「トモ! お前、もうちょっと腰落とせ! あと半歩右な。FWがもっと上手けりゃ、もっと際どいとこにだって飛んでくるぞ。対応出来るようにしとけ!」
高蓮範男GKコーチの指示が飛ぶ。彼は現役時代はやらかし系、ネタ提供係などとファンからからかわれ、また、親しまれていた存在であったが、Jリーグクラブのコーチを経て、現在では立派な女子サッカーの指導者として活躍している。
「はい!」
楠元友子は元気よく返事をすると、ボールへと助走をつけ、強く蹴った。
しかし、見事なまでの蹴りそこね。ラグビーボールではあるまいし何故そのような方向に飛ぶものか、ほとんど真横に飛んで、タッチラインを割ってしまった。
「バカーッ!」
高蓮コーチが、ドスのきいた低音のくせに、なよっと拍子抜けの声で叫んだ。
友子は非常に好調不調の波が激しいGKである。
ノッているときは、そこそこ精度の高いボールを蹴るし、素晴らしいセーブだって見せる。
しかし調子が悪い時は、いま見せたように、キックがどこに飛ぶか分からない。
楽々キャッチング出来るところを、落としてしまったりする。どう考えても飛び出すべきところを躊躇して、やられてしまう。
一言でいうならば、安定感がない。
だから堂島秀美という三十歳をいくつも過ぎているGKから、いつまでもポジションを奪えない。堂島秀美は衰えたりとはいえ元日本女子代表なので、追い越せないのも仕方ないところはあるのだが。
とはいえ友子は長身のためにハイボール処理は常に安定しているし、様々な面において潜在能力がかなり高いことも分かっている。まだ二十五歳でGKとしては伸びしろも期待出来るので、監督や高蓮コーチとしては、なんとか波をなくして正GKの座を奪うくらいに成長して欲しいと願っているのであるが。
非ビブス組のスローイン。投げるのは椋愛子。
布部洋子が足で受けたが、ビブス組の野本ハルに身体を入れられ、奪われてしまった。
それを見た茜は、走り出し、
「ハル、こっち!」
と叫んで、ボールを要求した。
「お姉ちゃん!」
野本ハルは、野本茜を目掛けて強く蹴った。
なおこの二人に血縁関係はまったくない。
たまたま同姓というだけで、年下のハルが勝手に茜を姉呼ばわりしているだけである。
茜は久木成美と競り合いながら、落下地点へ入り込んだ。
目測どんぴしゃり。先に良い位置を占めた茜は、手で成美を押し退けるようにしながら胸でトラップ。地に落ちたところを、近くにいた西田久子へと蹴って預けると、素早く反転して前を向き、成美の横を通り抜けた。
久子からの浮き球のパスを、軽く跳躍しながら膝の内側で受けた。
どっどっ、と激しい足音。柴野英子が猛然とプレスをかけてきた。
茜は反転し、久子へ戻すふりをしつつ、そのままさらに反転、ぐるりルーレット一回転で英子をかわすと、ボールを寺田なえに預け、走り出した。
さて、誠に唐突ではあるが、ここから石巻ベイスパロウの主要な選手について、少しづつ紹介していこう。
まず最初は、チームのキャプテンから。
【野本茜】
背番号 6
身長 百六十三
年齢 二十六
愛称 あかねさん
趣味 カラオケ
特徴 キャプテンになって二年目。対人に強く、危機察知能力の高い、いまやチームに欠かせないボランチ。俊足とはいえないが、動き出しの判断が速くスピード系の相手にもしっかり対応する。フル代表に選出されたこともあるが、試合出場経験はない。自分に妥協を許さぬ厳しい態度で、選手からの信頼も厚い。趣味というか自分癒しのカラオケであるが、相当の音痴であり、聞いている方はぜんぜん癒されないという話である。
茜は、寺田なえを使ったワンツーでSBの布部洋子をもかわし、サイドを一気に駆け上がる。深くえぐり込むと、大きくマイナスのクロスボールを上げた。
だが、ゴール前の実合美摘と合わなかった。茜の上げたボールは、ニアで待っていた美摘とGK堂島秀美の頭上を飛び越えて落ち、そのまま転がってゴールラインを割ってしまった。
茜は、美摘へと近寄った。
「ミツ、あたしがいまみたいな感じに抜け出して上げたら、相手の裏を抜けるようにファーへと飛び込んでよ。本当はアッキーもゴール前に上がってるはずで、彼女にはニアを狙うふりして撹乱してもらうようにしたいから。まあ、クロス精度悪くなってそっちにいっちゃうかも知れないけど、そしたらもちろん、そのまま狙っていいから」
狙った場所へと上手くボールを送ることが出来ただけに、茜としては一言いわずにいられなかったのだろう。
「はい」
美摘は、元気のない小さな声で小さく頷いた。元気なく見えるのは、いつものことである。
なお、いま会話に出てきたアッキーこと辻内秋菜は、仕事で遅れるとのことで、まだ来ていない。
【実合美摘】
背番号 11
身長 百六十六
年齢 二十一歳
愛称 ミツ
趣味 タロット占い。ハムスターの飼育。
特徴 覇気のない性格と同様に、プレーもおっとりしており、それが難点ともいえるが、ポストプレーの質や、シュートの決定力は高い。メンタルが鍛えられれば、かなり将来が期待出来る選手である。
現在このグラウンドで行っているのは紅白戦。チーム内での、試合形式の練習試合だ。
日本女子サッカーリーグに所属するクラブチームである石巻ベイスパロウの、いつもの通りの練習風景である。
ここは、石巻ランドと呼ばれる練習場。
その名前は正式名称ではなく、単に数年前までこの隣の敷地に存在していた遊園地の名前である。
いつしか慣例的に遊園地名で練習場を呼ぶようになり、遊園地の運営会社が倒産して閉園した現在もそのまま呼ばれているというわけだ。
石巻ベイスパロウは、女子のサッカークラブとしては非常に古く、三十年近くの歴史を持っている。
釣り餌大手メーカーの実業団チームである、はちだいFCプラネテスから始まって、別の大手企業へ移管されること二回、そして七年前に現在の市民クラブの形式となった。
創設当初は東北を代表する強豪であったが、現在ではその面影はまるでない。二部落ちの経験こそないが、毎年のように残留争いに巻き込まれている。
年間順位が最下位で本来なら自動降格のところが、翌年からチーム数が増えるために免れたという年もある。
数年前の一過性なでしこブームの影響で増えた一部リーグ十二チームであるが、来年からまた十チームに戻る予定であり、そのため今年は下位二チームが自動降格で、下位から三番目のチームがチャレンジリーグとの入れ替え戦を行なうことになる。
今年こそはベイスパロウの悪運も尽き、残留綱渡りの綱が切れる、などとシーズン前からささやかれていたが、そう予想すること自体はおおかた誤りではなく、実際に現在の順位は残留圏ぎりぎりの九位である。
そんな、いつまでも晴れることのない低迷したチーム状況とは反対に、本日の天気は雲のほとんどない見事なまでの快晴。
とはいうものの、現在七月の午後四時、太陽がぎらぎらとぎらぎらと照り付けてオーブンレンジのように地面を焦がし続けていおり、ちょっと酷過ぎるか。
今日に限らず、ここ三日ほど、凄まじい猛暑が続いている。
じっとしているだけでも汗が止らないくらいの暑さだというのに、彼女らは三時過ぎからずっと走り回っている。
平日は夜七時からの練習のため、ここまで地獄ではない。
しかし夜間だと照明の電気代がかかることもあり、今日のような土日練習は基本的に日中になってしまうのである。
汗がどんどん絶え間なく噴き出してくるが、肌にまとわりつくばかりで全然蒸発していかない。選手たちにとって、不快指数百だ。でも、身体から水分が失われているのは間違いなく、こまめに補給をしないと死んでしまう。
プレーが一時中断した際に、茜は周囲のみんなに給水の指示を出すと、自分もピッチの外に置かれている給水ボトルへと向かった。
ボトルの腹をぐいと押して一口含んだ、その時である。
「ねえ、そこのカッコイイ顔のお姉ちゃん」
不意に、誰かに呼びかけられた。
振り向いた茜は、実に奇妙な質問を受けることになった。
「おれって、まだここに所属してんの?」
と。
フェンスのすぐ向こう側の公道に、まだ十代半ばと思われる少女が立っていた。
2
デニムのショートパンツに、紺のTシャツという簡素な服装。
まるで日に焼けていない色白の、あどけない顔。
ふわっとした肩までの髪。
なんだか折れてしまいそうなくらいに、ほっそりと、そして柔らかそうな身体。
よーく知っている顔、篠原優衣だ。
でも、
「誰? あんた」
野本茜は、いぶかしげな視線を少女に向けると、そう尋ねていた。
容姿に声に、どこをどう考えても優衣であるというのに、でも茜には、そうは思えなかったからだ。
態度が、あまりにも優衣らしくなかったからだ。
「あ、優衣!」
「優衣じゃん」
みんなが茜の周囲、つまり優衣のすぐそばへと集まってきた。
フェンス越しに優衣と対面した。
「もう、大丈夫なの?」
仙田チカが、心配そうな表情を優衣へと向けた。
「おう、大丈夫大丈夫。心配かけたみなの衆。もう、ボール蹴りたくて蹴りたくて。あ、最初にいっとくけど、おれさ、よく分かんないけど、なんかちょっとだけおかしいらしいんだけど、記憶がちょっと変らしいんだけど、事故で一時的なもんらしいから気にしないでね」
優衣はそういうと、フェンスに顔の肉をぐりぐりと押し付け、変顔を作った。
「なんかぁ、記憶どころかそもそもの性格が違う気が」
そう思ったのは、寺田なえだけではないだろう。
「いやいや、二十九年こんな感じよ。江戸の生まれよべらぼーめ」
優衣は唐突に、フェンスの隙間に指をかけてがっしがっしとよじ登り始めた。
それを見て、慌てる茜。
「おい、事情はいちおう分かったから、ちゃんと入口から入んなよ。お偉いさんに見られたらどうすんだよ」
スポンサーの人とかさあ。
まだ多分に解せないところがあるが、それは後回しだ。
「降りろ、こら!」
茜は注意をするが、しかし優衣は構わずてっぺんまで登ってしまった。
「おー、いい眺め」
と、優衣が石巻ランドをぐるり見渡していると、
「すいません、遅れましたあ! いやあ、仕事が長引いちゃってえ」
ベイスパロウ所属選手の一人、辻内秋菜が、正門の方から走ってきた。
沼尾妙子が、その後に続いている。
紺のタイトスカートに白いブラウス、紺のベスト、二人とも同じ服装だ。クラブのスポンサー企業で、一緒に事務などの仕事をやっているのである。
「もう、タエがクレーム起こしちゃうんだもの」
「あたしが起こしたわけじゃないよ! 爆弾があたしの時に爆発しただけ。というか、そもそも仕掛けたのアッキーでしょうが」
サッカー優先の契約なので本来残業はないのだが、お客さんとのやり取りなどにより、たまにはこのように練習に遅れてしまうこともあるのだ。
「えー、覚えてないなあ。……おー、優衣じゃん。もういいんだ? というか、何をやっとるのだお前は?」
秋菜は、フェンスにしがみついてこちら側へ下りてこようとしている優衣を発見すると、走り寄り、両足を掴んで引きずり下ろし、彼女の頭を脇に抱え込みながら、こめかみに拳をぐりぐり。
「いてて! 髪の毛いてて! なにしやがる、この女。いてっ、くそ!」
優衣は突然の理不尽な暴力に悲鳴を上げた。自分も同じようなことを毎日、柴岡にやっていたものであるが。
「じゃ、久し振りにお姉さんたちと一緒に着替えようぜ~。タエ、いこっ」
秋菜は優衣の手をぐいぐいと引っ張って、妙子とともに、向こうに見える平屋のクラブハウスへと姿を消した。
【辻内秋菜】
背番号 9
身長 百五十四
年齢 二十七
愛称 アッキー、エロ姉さん
趣味 ショッピング。と、もう一つは秘密。絶対いえない。
特徴 小柄だが、快速と決定力を誇るストライカー。どんな体勢からも得点を狙えるのが強み。
【沼尾妙子】
背番号 7
身長 百五十六
年齢 二十三
愛称 タエ
趣味 熱帯魚観賞、園芸、小物作り
特徴 トップ下を得意とするが、CB以外のどこでもこなせる万能型。華奢な見た目の通り当たりに強くはないものの、しかし簡単に倒れることもない絶妙なフィジカルバランスを持つ。現在所属する選手の中で、唯一の既婚者。
3
篠原優衣、辻内秋菜、沼尾妙子の三人は、かび臭さのぷんぷん漂う更衣室の中へと入った。
秋菜は、鼻歌混じりに自分のロッカーの前に立つと、無造作に服を脱ぎ始めた。
「え、え」
と、驚き慌てる優衣の前で、彼女はまるで気にすることなく(当たり前だが)、シャツのボタンを外し、スカートをがっと足元まで下げた。というところで、優衣がたまらず、うおおおおおおっと吠えるような悲鳴を上げた。
両手で自分の目を隠しながら、
「いけねえ、いけねえよ! 嫁入り前の娘さんが、平気で男に裸を見せたらおしめえよ」
「どこよ、男って。でもまあ、あたし別に見られてもいいや。いい男になら。ね、タエ」
こんなことばかりいっているから、みんなからエロ姉さんなどと呼ばれてしまうのだ。
「一緒にしないでよ。嫌だよ、あたしは。嫁入り前じゃないけどさ」
沼尾妙子は、二十三歳の若さながら既婚者。去年、高校時代の同級生と六年の交際期間を経てゴールインしたのだ。
「あ、そうかそうか。おれ、いま女なんだ」
じゃあ気にすることないじゃん。
なーーんだ。と、ほっとした表情を浮かべて目隠しを解除する優衣であったが、解除した途端に飛び込んできた衝撃映像にまたしても絶叫し、目を覆った。
「身体が女でも、心は男だったはあああ!」
床に倒れ、悶絶するようにばったんばったんと激しくのた打ち回る優衣。
秋菜と妙子は、思わず顔を見合わせた。
「あのさあ、優衣、やっぱりまだ練習は無理なんじゃない? 病院に行ったら? お熱は大丈夫なのかにゃ?」
秋菜は半裸のまま、倒れている優衣の上に馬乗りになると、顔を接近させ、自分のおでこを優衣のおでこに押し当てた。
「おおおお、シャツのボタンの全部外れたそのかっこのままでくっついてくんなああ! 下着でまたがってくんなああ! そんなことより、病院なんかどうだっていいから、おれはいますぐサッカーがやりてえの! 飢えてんの! どけやあ!」
非力ながら、身をよじってなんとか毒蛾の毒から逃れた優衣。
着替えないことにはサッカーが出来ない。秋菜から逃げるように部屋の隅っこに行くと、二人を見なくて済むよう背を向けて、ようやく服を脱ぎ始めた。
かなり心臓、どきどきしてる。部屋中に聞こえそうなくらいに。
「ほんと、子供みたいな体型だよね優衣って。食べたくなっちゃうなあ」
優衣の背中に、秋菜が密着していた。
耳元に、ふっと熱い息を吹きかけてきた。
ぶつぶつぶつぶつ、と一瞬のうちに優衣の肌全体に鳥肌が立っていた。
「離れろ畜生! 着替えくらいさせろや!」
脱いだズボンをぶんぶん振り回して秋菜を追い払うと、素早くなんとか着替えを済ませた。
これだけで一日分の体力を使ってしまった気がする優衣であった。
「早くしなよお! どうせまた優衣のことからかってんでしょお。久し振りだからって」
ドアの向こうから、寺田なえの大声が聞こえてきた。
「すぐ行くよ!」
秋菜も大きな声で返事をした。
こうしてようやく三人は、ハーフパンツのトレーニングウエアに着替え、更衣室を出たのであった。
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「サッカーじゃあああああ! ボール蹴るぞおらあ! ゴール決めるぞおらあ! 太陽さあん、見ててくれーーっ!」
篠原優衣は両手を天へと突き上げ、ぎらぎら照り付けてくる太陽を見上げ叫んだ。
「まだだよ」
辻内秋菜は、優衣の手をぐいっと引っ張り走り出した。
「まずは練習場を軽くランニングでしょ」
「えー、めんどくせ。まあ、仕方ないか」
優衣は秋菜の手を払い、自分で走り出す。
他のみんながとっくに練習に入っていたものだから、ウォーミングアップのことなどまったく考えてなかった。
鼻歌混じりに走る辻内秋菜、黙々と走る沼尾妙子、蹴りてえ蹴りてえ蹴りてえええ、の優衣。
「うるさいよ、優衣」
自分の鼻歌を棚に上げて、秋菜が怒った顔で振り返る。
早くサッカーやりたいもどかしさのあまり、思いが口をついて出てしまっていたようだ。
ようやくジョギング終了。
でもまだまだだ。
今度は三人で、ストレッチ開始である。
それも終わって、ようやく優衣は、他の選手たちの中に混じることが出来たのであった。
「ええと、じゃあ、タエと優衣はビブスつけて」
野本茜が投げるビブスを、優衣と妙子は受け取った。
優衣が待ちに待った、練習の開始である。
いまやっているのは、狭く密集した中でのボール回しだ。
一瞬の判断力が問われるし、足捌きなども鍛えられる、どこのチームでもやっている基本的な練習だ。
「お嬢ちゃんたちに、いっちょ年季の差を見せてやりますか」
余裕綽々の優衣であったが、いざ開始してみると、その自信はすぐにガラガラと音を立てて崩れることになった。
なんなんだ、この身体!
軟弱そうな身体に見えるけど、でもサッカー選手なのだし、よくは知らんが世代別代表ということだし、身体は女だけどそれは相手だって同じだし、そして何より自分には松島裕司としての長年の経験がある。
こんな基礎練習、もう二十年以上やっている。
だから、そこそこ以上にやれるつもりでいた。
それなのに、頭で考えているような激しい動きが、身体がついてこなくてまるで出来ないのだ。
しかも、異常なまでに当たり弱いし。
相手と身体がちょっと接触するだけで、すぐにバランスを崩して転んでしまう。
と、また、今度は妙子にぶつかって、ころころと転がってしまった。
こいつ、本当に代表だったのか。
ひでえぞ、これ。
魔王の呪いでもかけられてんじゃねえだろうな、この身体。
「優衣、ちゃんとやれ!」
榎戸朱美コーチの怒声に、上体を起こしながら優衣は、誰が叱られてんだろ、ときょろきょろ周囲を見回した。
「お前だよ!」
はっきり指をさされ、優衣はようやく自分のことと気が付いた。
「おいっす!」
立ち上がると、またボールを追って密集の中へと飛び込んだ。
すっかり忘れてたけど、おれいま篠原優衣なんだよな。
おれがいま篠原優衣……って、じゃあ、本当の篠原優衣は、どこに行ってしまったんだろうか。
優衣の中で、松島裕司はそんなことを考えていた。
おれの肉体は、もうこの世から消滅してしまったのだから、よくマンガなんかであるような、お互いの肉体が入れ替わるようなことは起こり得ないわけで……そういう意味では、おれよりも、むしろ彼女のほうこそが死んでしまったということなのだろうか。
もし本当にそうだってんなら、ちょっと気の毒には思うけど、申し訳ないと思うけど、でも、おれだって充分に気の毒な目にあってるよなあ。
だってさ、身体は死んじゃうし、こんな異常に貧弱な身体なんかに入っちまうし。
どうせならセリエAの誰かにでも入りゃ良かったよ。あ、でもイタリア語が喋れなくて困るか。いや、喋れちゃうのかも知れないな。どうでもいいけど。
しかし畜生、ただでさえ女の身体なんかでまともにサッカーなんか出来るかって話なのに、よりにもよって、なんでこんな貧弱な奴に……
だいたいなあ、サッカーっつうのはなあ、男のスポーツなんだよ。
格闘技なんだよ。
殺し合いなんだよ。
ちんこぷらぷらさせてる生き物のスポーツなんだよ。てめえら、やれるもんならやってみやがれ。この女どもが。
「優衣、どうしたぼーっとして」
西田久子が、突っ立ったまま動かない優衣を心配になったのか近寄ってきた。
「サッカーつったら、ちんぽこなんだよ!!」
「いきなり下品なこと叫ぶなバカ!」
顔面に容赦なくボールをぶつけられて、優衣は後ろへ吹っ飛んだ。
「ぐうう……いってえなあ。下品は生れつきだ」
少なくとも、松島裕司にとっては。
【西田久子】
背番号 10
身長 百六十三
年齢 二十三
愛称 ひさこ、きゅうちゃん
趣味 筋トレ
特徴 視野の広さ、判断力、戦術理解、当たりの強さ、足元の技術、などなど様々な能力に秀でた選手である。唯一欠点と呼べる欠点は、とにかく走るのが遅いこと。十代の頃にフル代表選出された逸材であったが、右の足首に大怪我を負い、その影響である。なお、それ以降、代表には呼ばれていない。
ボールを使った練習が終了し、少しの休憩とった後、今度は基礎体力向上メニューに入った。
まずは、千五百メートル×三。
やってやるぜえ、と懸命に頑張る優衣であるが、やはりここでも身体が思うように動いてくれず、三本とも圧倒的最下位に終わった。
別に順位を決めるものではないので、ビリだからどうというわけでもないのだが、他のみんなは集団としてまとまって走っているというのに、一人だけ周回遅れになりそうなくらいにみんなから引き離されてしまっていて、それが恥ずかしいやら悔しいやら。
松島裕司の頃は、走ることに関しては瞬発力も持久力もトップだったというのに。
「ねえ、おれって、いつも持久走こんなもんなの?」
優衣は大股開きで地面に腰を下ろしてぜいぜいはあはあ息をしながら、隣にいる仙田チカに尋ねた。
なおチカは、同じ条件で走り終えたばかりだというのに、全然息切れも見せずに、悠々と全身の筋などを伸ばしている。上がったり下がったりを延々と行なうのがSBである、とにかく持久力がなければやっていけないのだ。
「うん、いつも遅いけど、でも今日はもっともっと遅いかなあ」
チカは答えた。
「そっか」
走れるものとばかり思って、最初飛ばしてしまったからだろうな。
しかし筋力がなきゃ持久力もなくて、ほんとにサッカー選手かよ、こいつ、ていうかおれっつーか、やっぱりこいつ。
「はい、じゃあ乳酸値測定するよ~」
榎戸朱美コーチが、黒いバッグを抱えて近づいてきた。
「うっわあ、抜き打ちか。あたし嫌なんだよなあ、あれ」
辻内秋菜が、両手で自分の肩を抱いて、身体を震わせた。本当に嫌なのだろう。腕や足に、ぶつぶつ鳥肌が立っている。
しかしそれ以上圧倒的に、なんだかとんでもない者が、彼女のすぐ隣にいた。
篠原優衣である。
「乳酸値測定って、あの、指にパチッてやるやつ? え、え、嫌だよおれ! 針、大嫌い! 痛いじゃん、あんなの。なんで指に針なんかやんなきゃならねえんだよ。必要ないって。ほら、いま走ったことでも、おれもう遅いの分かってんじゃん。乳酸だって絶対に最悪な値だと思うよ、測るまでもなく。だから、おれだけ除外。パス。免除。ごめんこうむる。金輪際。おれ、やんねえからな! 絶対やんねえからな! 絶対の絶対のぜええーったいの…」
「はいはい、じゃあお前からね」
と、コーチは表情変えず優衣へと歩み寄った。
踵を返して逃げ出そうとする優衣。
榎戸コーチは素晴らしい瞬発力を見せ、一瞬の後には優衣の腕をしっかりがっちりと掴み、ねじ上げていた。元なでしこジャパンの誇る快速FW、いまだ衰えを見せず。
「さ、観念しな」
「やめてーーーーっ。せめて、せめて肘んとこで採血してくれ。そっちなら、まだ、まだ我慢出来る。指に針なんて、絶対やりたくねえ! やだやだやだやだ!」
振りほどこうと暴れる優衣の細い細い腕を、榎戸コーチはぐいと締め上げた。
「今日ドクターいないんだから、注射針なんか使えるわけないでしょ。秋菜、優衣を押さえ付けといて」
「諦めて我慢しよ、お互いさ」
辻内秋菜は、なんだか身体をくねらすようにいやらしく優衣に密着すると、そのまま後ろに回り羽交い締めにして押さえ付けた。
優衣は、なおも諦めず、泣き叫びながらも必死の抵抗を続けていたが、なにせ非力なこの肉体、運命の前にはいかんともしがたく、パチッと指に打たれてしまったのであった。
「あああああああ! 痛えよおおおお! 畜生、くそ痛えよおおおおお! くっそ痛えええええ!」
「デコピンと同じでいつやられるかって怖さはあるけど、そこまで痛いものでもないでしょうが! ほら、指を出す!」
コーチに両手で指を掴まれて、優衣は血を絞りとられたのである。
松島裕司時代は、いつもなんとか頼み込んで肘にやってもらっていたものだから、指先での採血など十年ぶり。久しくやらない間に恐怖心が数倍増されており、それがどかーんと爆発したものだから、採血が終わってもなおめそめそ泣き続けていた。まるで女子みたいに。
「ねえ茜っち、優衣どうしたの? さっき更衣室でも、男の前で裸になるなああなんて悲鳴あげるしさあ。優衣、本当に大丈夫かあ? おお、よちよち、いい子いい子。つうか、そんくらいで泣いてんじゃねえよバカ!」
秋菜は、足元に泣き崩れている優衣の頭をなでなでしてやったかと思うと、いきなりポカリとぶん殴った。
「更衣室での驚き方も、まるで違ってたよねえ。いつもならさあ、アッキーが裸で抱き着くと、ひって息を飲んで、真っ赤になって下を向いてるだけだったのに、それがまあ、うおおおなんて叫んだかと思ったら、ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー喚きながら床をごろごろごろごろ転げ回ってさ」
沼尾妙子もなんだか不思議そうな顔で、でも他人事だからかちょっぴり楽しそうな顔で、えっくえっく泣いている優衣を見下ろしている。
「ほら、この間の事故の、影響だってさ。……確かに、なんだか男になっちゃってるよね、完全に。自分のこと、おれなんていっているし」
野本茜は説明しながら、優衣を見下ろして苦笑した。
「ああ、そういやそうだねえ。実は、性同一性障害だったのかお前は?」
秋菜は、優衣の顔をまじまじ覗き込んだ。
「ほっとけや。おれはおれだからおれなんだからおれはおれのままのおれでいいんだよ」
優衣はなんだか分からないことをまくしたてながら、立ち上がった。まだ涙目である。
「優衣さあ、お前ほんとに、悪霊にでも憑依されてんじゃないの? あたしさっき更衣室でさあ、も一回病院に行けばっていったんだけど、そんなんよりおれはサッカーをしてえんだ、飢えてんだあ! って。最近、なんか嫌々とサッカーしてる感じだったのに」
「まあ、サッカー熱が復活どころか、そこまでガツガツとしてくれるのなら、それはそれで、いいことなのかな」
茜は、人差し指で自分のほっぺたを軽くかいた。
優衣はこれまで世代別代表の常連であり、そして将来的にはフル代表に選ばれれてもおかしくないくらいの才能がある。
だというのに、どこか淡々としているところがあった。
サッカーにしても、何にしても、おそらくは生き方そのものが。
当の本人は必死に頑張っているつもりなのかも知れないが、他人の目からはどうにも情熱を感じない。
それが茜には、とてももどかしかったのだろう。
せっかく能力があるのに、本人にそれを伸ばす気力がまったくないような気がして。
それが改善されるというのならば、それはそれで歓迎したいところなのであろう。
「でもやっぱり、性格はとっとと元に戻って欲しいけどねー。元気になったところだけ、このままでいいからさあ」
ぼそり呟く茜であった。
さて、順々に採血は終わって、そして少し休憩時間だ。
その間に、
「やってやるぜーーっ!」
優衣も完全復活である。
あくまでも、パチンとやられたショックからだけであって、肉体は相変わらず今日これまでの疲労蓄積がまともに回復していないようであるが。
持久走の次は、筋肉に激しい負荷をかけるトレーニングだ。
まずはラダー。
梯子状の器具を地面に置いて、その上を素早く大きく腿上げをしながら往復する。
みな、足首には五百グラムずつのウエイトが巻かれている。優衣だけ特別に、百グラム。
続いてタイヤ引きダッシュ。前への推進力を養うものだ。
タイヤを引くだけでなく、五キロのウエイト入りのベストを着ている。優衣だけ特別にベストなし。
優衣はハンデを貰っているにもかかわらず、誰より真っ先に息切れ切れだ。
そもそも持久走が終わった時から、ろくに体力が回復していないのだから話にもならない。
「体力、なさすぎるだろ、ほんとに、この身体は、もっと、鍛えて、おけっつーの」
もう、へとへと。
ぶっ倒れそう。
身体の感覚が半分ない。
息が苦しい。
視界がぐるぐる回る。
それでもなんとか根性だけでタイヤを引っ張っていたのだが、ついにはそのタイヤの重みに足が滑るばかりで、ほとんど前進することが出来なくなってしまっていた。
「まだまだあ!」
意識の朦朧とする中、優衣は必死に、みんなに食らいついていこうと自分に活をいれていた。
だってよ、いまやれることをやる。おれには、それしかないじゃないか。
こいつがおれでおれがこいつみたいな、何がなんなのか分からない事態になってしまったわけだけど、とにかくやれることを頑張って、その上で、その先に、なにが待っているか。
なにもしなかったら、もうそこで終わりだ。
なんにも起こらない。
だから。
それにこいつ、この身体、とりあえずこいつなりにはサッカーに打ち込んではいたんだろうから、練習を怠けて身体を鈍らせてしまったりしたら、いつかこいつが本当の自分に戻った時に、悪いしな。
でもまあ、こいつの代わりにっつっても、勉強だけは無理だけど。
だから交換条件、というのも変だけど、とにかくサッカーに関してだけは、しっかり鍛えておいてやるよ。
だから、もしも元に戻ったなら、まあ当面は、机にかじりついて必死に勉強してくれや。
落第しない程度には、おれも頑張ってやるから。
優衣の肉体の中の松島裕司の精神は、どこかにいるかも知れない本当の篠原優衣へと話し掛けていた。
周囲ぐるりと広がる澄み渡る青い空、大の字になって、ぽっかりぽっかり浮かぶ白い雲を見上げながら。
本人も気付かない間に、地面に倒れてしまっていたのだ。
そんな爽やかなことを考えていられる余裕はなくなってきた。
涼しい風でも吹いていれば幾分か気持ちが良かったかも知れないが、今日は無風、しかも相変わらずぎらぎら容赦なく照り付ける七月の太陽、灼熱地獄。
じりじりと、身体が焦がされ焼かれていくようで、たまらなく苦痛になってきた。
しかし大の字のまま、疲労と、感覚麻痺が上回って、この状況に対してあらがおうとすることが出来なかった。
あっちいな畜生。
くそったれ、丸焼けになるならなれ!
そんなことを心の中で叫びながら焦がされながら、あまりの疲労にそのまま目を閉じて眠りについてしまっていた。
「ほんと、どうしちゃったんだかなあ」
どのくらいの時間が経ったのであろうか。
野本茜の楽しげな呟き声に、優衣は現へと意識が戻されていた。
ぼやけている視界。
むにゅむにゅした感触。
なんだか、揺れている。
ああ、おれ暑さに倒れちゃってたんだ……
どうやら優衣は、野本茜にお姫様抱っこをされて、屋根の下へと運ばれるところのようであった。
しかし……篠原優衣の身体がむちゃくちゃ軽いとはいえ、すげえ力だな、茜ちゃん。
意識は完全に戻っていたが、揺られる感じがなんとも心地よく、優衣はそのまま寝たふりをしていた。
4
「うーん」
篠原優衣は腕を組んで、必死の形相であった。
なんだか顔が、ゆでダコのように真っ赤になっている。メーター振り切れて壊れてしまいそうなくらいに、血圧が上昇しているのであろう。
ぬうー、っと唸りながら首を傾げに傾げ、やがて顔を上げた。シンキングタイム終了。
口を開いた。
「分かりません!」
黒板の前で、腰に手をあて大威張りだ。
せっかく血圧を上昇させてまで頑張ってみたというのに、結局、問題に答えることが出来ない優衣であった。
ここは石巻聖亜女学院高等部。二年三組の教室だ。
現在、数学の授業中である。
「お前……これ、小学生でも解ける問題やぞ。ただの分数の掛け算やないか」
数学担当の石狩先生が弱りきったような関西弁で頭を掻くと、教室中にどっと笑いが起きた。
石狩先生は、別に優衣をバカにしているわけではない。
通常の問題を出したところ、理解があまりに酷くさっぱり分かっていなかったので、確かめる意味で問題のレベルを大幅に落としてみたというわけだ。
「じゃ、次の問題な。六たす七は分かるか?」
今度は、本当にバカにされたのかも知れない。
「そんくらい分かるに決まってんだろが! ええと」
優衣は、自分の手の指を一本また一本と折り始めた。
そして、両の指を全部折りきった。
額から、つっと汗がたれた。
「……指の数が足りなくて分かりません」
先生はまるで昭和のコントのように、「ズコーッ」と、後ろへ倒れそうになった。
また、教室がどっと沸いた。
「あれえ、天才少女がすっかりバカになっちゃって」
「ほんっとバカだよねえ」
「もうこれさあ、死んでも治んないんじゃない?」
思い思いに好きなことを口に出す女生徒たち。
これも落雷事故の後遺症、と説明されてはいるものの、しかし、これまでの天才秀才っぷりが気に入らなかった一部の者たちにとっては、からかえる絶好のチャンスということだろう。
「はい、死んでも治りませんでしたー。ざんねーん! って誰がバカだよ畜生! ぶっとばすぞ!」
どん、と足を激しく踏み鳴らした。
優衣、というか松島裕司としては、事故など関係なく単に自分が本当に頭が悪いから答えられないと分かっているだけに、なんとも悔しかった。
こんな毛も生えそろってないような、乳くせえ高校生のガキどもに、こうまでバカにされるとは。
「てめえらは現役だからいいけど、十年も離れてれば、足し算なんか出来なくなって当たり前だろ!」
優衣は拳を振り上げて、名誉と自尊心を守るために強く抗議した。
「ちょっとー、こいつ何いってんの? ほんっとバカ」
「入院しろ」
「こっちがホントの篠原なんじゃない?」
「薬剤投与で一時的に頭が良くなってた、みたいなー」
女子にからかわれまくっている優衣はまた、だんと足を踏み鳴らした。
「うるせえ! 黙れ、女ども! だいたいな、学校の勉強なんて出来なくても立派な大人はいくらでもいるんだよ。てめえら松島裕司ってJリーガー知ってっか。こないだ死んじまったけど、あいつは凄いやつだぞ。足が速いし。顔もまあ悪かないし。震災後の宮城に希望をもたらした大スターだぞ」
「知るか、そん奴」
「な~にいってんだか、バーカ」
コギャルのような外見の吉岡君江にまでいわれてしまったことで、優衣はついに切れた。
自分でぶっちーんなどと叫ぶ昭和生まれ特有のリアクションを取ったかと思うと、自席に戻り、隣の山本里美さんからカッターナイフを借りて、下を向いて一心不乱に消しゴムを細かく刻んで、吉岡君江の背中を目掛けて投げ付け始めた。
「死ね、てめえ死ね! 地獄へ堕ちろ!」
刻んでは投げ、刻んでは投げ、
それから一分後、優衣は一人、廊下に立たされていた。
両手にバケツを持って。
5
「えと、なんだ……夏の野菜ときのこのソースたっぷりハンバーグステーキと、若鶏のなんとかソースホイル蒸し、と、えーと、その他もろもろでございまーす」
スマイル0円、消費税込みで十三円でございまーす。
篠原優衣は、両手でがっちり持ったトレイを、客の待つテーブルの上に置いた。いや、あとちょっとというところで、ついトレイを傾けてしまって、上の物がずるずるっと滑って落ちそうになった。なんとか持ち直し、ことり置くと、ふう、とため息をついて、額の汗を拭った。
「なんだっけ、そう、ごゆっくりどうぞだ。そんじゃっ」
優衣は客に、ピッとおしゃれ敬礼をすると、テーブルから立ち去った。
ちょっとは、慣れたてきたかな。
さっきなんか、料理を思い切りテーブルにぶちまけちまったからなあ。その次なんか、傾いたのを慌てて戻そうとして、今度は自分の服にぶちまけちまったし。
みんなよく、こんなトレイなんかを片手だけで、しかも両手にそれぞれ持って落とさず歩けるよな。どんな体幹の鍛え方をしてるんだよ。バランスボールかなんかやってんのかな、やっぱり。後で誰かに教えて貰おう。
それはいいとして……
優衣は視線を落とすと、改めて自分の着ている服装をじっと見た。
この格好……
「むっちゃくちゃ恥ずかしいよなあ、これは」
思わず顔が赤くなってしまう。
黒を基調とした、白いふりふりの付いた、ちょっとゴシック的な、そして、ちょっと丈が膝上のスカート。
メイド喫茶などの服装と比べれば程遠く地味だが、人によってはそういっても通用しそうな雰囲気を持つ、そんな服装であった。
「スカートなんてただでさえ、すっかすかした感触がどうにも頼りなくて気持ち悪くて大嫌いだってのに、こんな物を学校以外でも履かなきゃならないとは。ったく」
でも、ここはぐっと我慢しねえと。
だってこの身体って、借り物だからな。他人の人生を、他人の時間を、おれが勝手に使ってしまっているだけだからな。
これまで篠原優衣がやってきていたことを、おれが勝手に判断して終らせてしまうわけにはいかない。
いつか返品することになった暁には、より良い状態にしておくか、百歩譲っても現状維持でないと、篠原優衣に申し訳ない。といっても勉強だけは、どうしようもないけれど。
と、そういうところだけは妙に義理堅い松島裕司であった。以前、病院に侵入しようとした時には、こいつが逮捕されようが構わんなどと完全に他人事だったくせに。
ここは東北地方を中心に、全国にも展開しているファミリーレストラン、ガジョレ石巻井内店である。JR陸前稲井駅前を走る県道沿いにある店舗だ。
個人経営のハンバーグレストランが買収され、店舗数が増え、さらに一流大手に買収されてそのままファミリーレストランになったという、ちょっと変わった発展の経緯を持つチェーン店だ。
優衣はここで、ウエイトレスのアルバイトをしているのである。
落雷騒動の後に父親が、娘がしばらく働けないという旨を店に連絡してくれていたらしいのだが、昨夜、忙しくて仕事が回らないから出てくれないかと店長から直々に電話がかかってきた。
その電話で初めて、篠原優衣がアルバイトをしているということを知った。
平日の三日。うち二日は早朝で、一日は夜。それと、土曜か日曜の夜。計四日。
高校に入ってからずっと、サッカーや勉強の間をぬって働いていたようだ。
家計の支えにするため、という目的で始めたらしいのだが、
これは松島裕司の勘だが、ただそれだけではない気がする。
おそらくは、客相手の仕事をすることで自分自身の性格を変えようとする意味もあったのではないだろうか。
心が本人ではないので、そう断定は出来ないが、でも一週間も篠原優衣として生活をしていれば、周囲の反応やら聞く話やら、几帳面に書かれた学習ノートやら綺麗にたたまれた服やら、人物に対してある程度の理解が出来てくるというものである。
しかし、いくら理解出来ようとも、
「やっぱり我慢できねええ! この服、気色悪いいいい!」
精神肉体、内外からぞわりぞわり攻めてくる感触に、優衣は思わず全身をかきむしりたくな衝動にかられた。
ふりっふりがさわっさわで、太ももの感触は妙に気持ち悪いし、見た目もなんともいえず恥ずかしいし。
しかも、仕事はなにがなんだか分からないし。
ただ注文を受けてそこへ運ぶだけかと思ったら、まあ仕組みのゴチャゴチャしてること。やり終えてもいないうちに、次の仕事が来たり、忘れないよう必死に頭ン中で唱えているとこにアホな客が怒鳴り声を投げ掛けてくるし。
皿は落ちるわ割れるわ。
別のテーブルに届けてしまっていると、先輩に引っ張られて裏でお小言くらうし。客も、その場でよく確認しろっつーの。
そんな愚痴を心の言葉で吐き散らしながら歩いていると、
「ねえ、篠原優衣さーん」
客のいるテーブルの間を抜けようとしたところ、いきなり背後から尻を撫でられた。優衣はぐおっ、と悲鳴を上げ、危うくトレイを傾けて落としそうになってしまうのを、片足伸ばして踏ん張ってこらえた。
振り向くと、テーブルに大学生くらいの男たちが四人。
その中の、ちょっと曲がったナスビのような顔の男が、どうやら尻を触わり、声をかけてきた本人のようである。
「なんだてめえは」
声を落とし、凄む優衣。
「どうしたの? 今日はずいぶん強く出るじゃない。へえ、ここって客にそういう態度取るようになったんだあ」
ナスビ顔は、にやり嫌らしい笑みを浮かべた。
「申し訳ございません!」
ウエイトレス仲間の梶昭子が小走りにテーブルへと近寄ってくると、深く頭を下げ、優衣の頭も押さえ付けて強引に下げさせると腕を掴み、「失礼しました!」と、再び頭を下げて、優衣をぐいぐいと奥へ引っ張っていった。
「ああいうタイプのお客さんに、ああいう態度取ったら絶対にダメだってばあ。でも、どうしたの? 篠原ちゃん、これまで怒ったりしたこと一度もなかったのに」
梶昭子は小声で尋ねた。
その言葉から、以前の優衣がどんなだったか容易に想像がつくというものだ。毅然とした態度に出ることが出来ずに、唇きゅっと結んで下を向いて黙っているだけだったのだろう。
「そんな、常に温厚なボクともあろう者が、怒ったりするはずないじゃないですか。それよりさ、なんなのあいつら? おれの名前フルネームで知ってんだけど」
胸のバッジからは、「篠原」としか分からないはずなのに。
「そのことも覚えてないの? 仕事を全部忘れちゃったことに比べれば、たいしたことないけど。あの人たちは、気の小さい篠原ちゃんをからかうのが楽しみの不良大学生だよ。名前は、聞かれるままに自分で教えちゃったんでしょうが。通ってる学校とか、中二までお父さんとお風呂に入ってたとか。……あっちのテーブルはあたしが変わるから、だから篠原ちゃんは五番から十一番をお願いね」
「はあ」
優衣はがりがり頭をかいた。
「頭かかない! ここレストランだよ」
梶昭子はそう注意すると、呼び出しブザーが押されたことに気付き、さっと笑顔へチェンジ、そのテーブルへと向かった。
「ああもう、面倒くせえなあ」
単純に仕事の内容だけでもそう思うのに、職場の人間関係なんかも、ちょっぴりここにいただけで、もう、なんだか色々とごちゃごちゃしたものを見せられる。チーフとサブチーフとの確執とか、女同士特有の対立関係とか、それにさっきみたいなアホな客もいるし。
でもまあ、お金を稼ぐわけだし、仕方ないよな。
Jリーガーとして、サッカーだけをやっていられた頃は単純でよかった。
いつ無職の身になるかという怖さはあったけど、他人との関係なんて、いちいち構築の努力をする必要もなかったし。ただ自分が一番になるために努力をする。それだけだった。
試合に勝つために話し合うことは当然あるけど、誰に気がねすることなく本音をぶつけあっていただけだし。もしそれで人間関係がおかしくなったって、別に構やしなかった。
実際、殴り合い寸前の大喧嘩をしたことだって何度もあったし。
サッカーだけで飯を食えるってのは、思えば本当に幸せだったんだな。
なのにさ、クラブのあいつらは、本当に、よくやってるよなあ。と、石巻ベイスパロウの野本茜や辻内秋菜らの顔が浮かんでいた。
毎日毎日、昼間はずっとこんな感じに仕事をしてて、その日の夜になってようやく練習だもんな。
こんな仕事、ほんの何時間かやっただけで、もう嫌で嫌でたまらんというのに。
その上、サッカーで走り回るんだもんな。
へとへとになった疲れが抜け切れていないうちに、また明日が来て、また仕事して。
すげえよなあ。
などと考えながら歩いていると、ドリンクバーのコーナーから突然子供が飛び出してきて、びっくりしたところ床の出っ張りに蹴つまづき、またしてもトレイの食器を床に全部ぶちまけて粉々に割ってしまったのだった。
5
テレビのサッカー中継を見ていた優衣は、いつの間にやら食べ物の焦げたようなにおいが部屋中に充満していることに気が付いた。
「なんだなんだ、このにおいは! いつからだよ!」
珍しくズンダマーレ宮城がリードしているものだから、それに夢中で全然分からなかった。
においの元は、当然といえば当然だがキッチンからのようである。
創作料理に果敢にチャレンジしていた優衣の父、正昭であったが、油加減を間違ったのか単にぼーっとしていたのか、とにかくフライパンで炒めていた肉や野菜を焦がしてしまったらしい。
「ああもう、なにやってんだ優衣の親父は。どいてな、おれが作ってやっから。男の手料理でも構わないよな」
息子のような娘の態度に、正昭はよく分からないまま、うんうんと頷いた。
優衣は焦げの酷い部分を捨てて、残った部分を皿に移し替えた。
次いで冷蔵庫に入っている食材を確認、取り出し、軽く洗うと、ざっくざっくと切り始めた。
以前の篠原優衣であれば、しっかり下味をつけたり、食材を細かく丁寧に刻んだりしていたのに、今は豪快に、実に豪快に、真っ二つか三つにした程度のものを、どんどん大きなフライパンへとぶち込んでいく。
正昭にとっては不思議な眺めであろう。
ある程度炒めたところで、先ほどの、正昭が失敗させてしまった物も混ぜ込んだ。
肉やら野菜やら炒めているうちに、父上同様にちょっと焦げ臭さが漂い始めてきたが、木ベラでガシガシこそぎ落とすように掻き回すとそのまま料理続行。
塩をばっと振り掛け水戸泉、
バターをちょっ、
醤油をほんのちょろっ、
水溶き片栗粉をほんの少々、
後はさあ、掻き混ぜろ掻き混ぜろ。
火を止めて、
仕上げにスパイスを少々、
ほーら、松島裕ちゃん特製、野菜と肉のなんだかよく分からない炒め、出来ちゃった♪
「完成! 席につけい!」
優衣に促されるままテーブルへと着く父。娘の作った、男の手料理が、大皿にてんこ盛られてどどんと目の前に置かれた。
「そんじゃお父たま、いざ、がっと召し上がれい!」
優衣の、この態度。
中の松島裕司は、持ち前の適応能力で、もうすっかりこの家の生活に溶け込んでいた。
正昭は目の前に置かれた物体を、なんともいえない表情で見つめていた。
なんだか色合いの悪い様々な塊が、より集まって塔を作り上げている。
見たところ、要するに野菜炒めだ。
しかし、一般的に野菜炒めとカレーライスは、適当に作ったとしても少なくとも見た目はまずそうには思えないものであるはずなのに、これは……
ひょっとして、この優衣は偽者で、自分を毒殺しようとしているのでは。
などと思ったかどうかは分からないが、とにかく正昭は、箸を手にしたまま滲み出る躊躇の表情でずっとこの野菜の塔を眺めていた。
いけない、せっかく娘の作った料理だ。と、意を決したか、一つを箸でつまんで、くわっとまなじり広げて一気に口に放り込んだ。
と、その瞬間、渋そうだった彼の表情に変化が起きていた。
「おいしい」
「おう、そうだろそうだろ」優衣はにんまり笑って「ちょっと焦げ焦げのとこもさ、まあイカスミとでも思えばなんてことないっぺ。勿体無いからな。見た目は悪いけどさ、腹に入りゃあなんでも一緒。腹に入るのが一緒なら出てくる物も一緒ってな」
優衣のその下品な口上に、正昭は口の中の物を吹き出しそうになった。
「お前、いくら事故でまだ記憶が戻ってないからって……」
「ああ、ごめんごめん。飯時にするもんじゃないよな、クソの話なんて。それよりサッカーだ。珍しくリードしてんだもんな」
優衣はテレビのほうへと身体の向きを変えると、大きく脚を開いて荒っぽく座り直した。
「よし、ズンダ粘れ! よしよしよし! ナイス。おっし、今日は勝てよお!」
丈のほとんどないショートパンツ姿の優衣は、大股開きで叫んでいたが、しかし、ちょっと油断した途端に、開いていた足が勝手にぴったり閉じてしまった。
ぎりぎりと力を入れて、再び足を開こうとするのだが、今度はなにか見えない力に抵抗されているように、なかなか開いてくれない。
「くそ、強情、だな、てめえは、おれはいま、股をだな、おっぴろげてえんだよ」
優衣は顔を真っ赤にして、真剣に自分の股の関節と戦っていた。
篠原優衣の、DNAレベルにまで染み付いた習慣がそうさせるのか、それとも実は本人の魂がここにいて、懸命に身体をコントロールしようとしているのか、とにかく最近、上品とはいえないような仕草を取ろうとすると、このようにして身体が逆らってくることが多く、窮屈で仕方ない。
だが、困難ありて喜びあり。
優衣はぐぐぐぐっと渾身の力を込めた。
「勝ったぞ、おらあ!」
ばっかんと、百六十度完全に股間を開き切った優衣は、ヒーハーと勝どきの声を上げた。
「おれ様にはむかうなんざ、二十九年はええんだよ畜生。舐めんなよこらあ、ベラボーメ!」
「優衣……」
正昭は僅かにぷるぷると身体を震わせながら、少しもの悲しそうな表情で、娘の顔を見つめていた。まあ、どんな娘の親でもこうなるだろう。
「ん?」
最近、すっかり篠原優衣としての自覚が出て来ており、名前を呼ばれるとすぐに反応するようになった。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが。
「いや……なんでも。……そうそう、この前の話の続きだけど、別に優衣は、無理して母さんに会わなくてもいいんだからな。父さんだって、優衣だけがいてくれればいいんだから」
「ん? なんのこと?」
おれじゃねえ時のことかな。ま、どうでもいいや。それよりズンダだズンダ。
などと他人事に思っている優衣を、突然の衝撃が襲った。
「ぐぅ!」
バリバリッ、と痛みにも似た電撃が頭を突き抜けた。いや、実際それは痛みであった。槍をぶっすりと突き立てられ、こじくられたかのような。
優衣は、びくり痙攣したように跳ね上がったかと思うと、両手で頭を押さえ、激痛に顔を歪めた。
呼気を漏らすかのような短く鋭い悲鳴を吐き出すと、椅子から転げ落ちるように床に四つん這いになった。
「優衣、どうした?」
正昭は素早く立ち上がるとテーブルを回り込み、心配そうな顔で手を差し出した。
「いや、なんでもねえ……」
片手を上げて父を制する優衣であったが、しかしまた、頭を貫く激痛に悲鳴を上げた。
痛み以外の感覚が、やはり突き抜けるように飛び込んできた。
それは、映像であった。
それは、言葉であった。
それは、感情であった。
なんだよ、これは。
なんなんだよ。
混沌としすぎて、飛び込んできたその映像や、言葉を、まったく映像や言葉として認識することが出来なかった。
だが、優衣が認識出来なかろうとも、それは容赦なく、どんどん頭の中になだれ込んでくる。
脳の神経に大量に流れてきたその刺激、情報、これが痛みの正体なのだろうか。
でも、何故、こんなタイミングで。
しかも、情報がどんどん入ってきているらしいのに、それを全然認識出来ないって、どういうことだ、畜生。
がっ、と床を叩いた。
痛みは、徐々におさまってきた。
真っ暗闇の中なのか、真っ白い光の中なのか、どこにいたのかさっぱり分からなかったが、ようやく視界がはっきりしてきた。
さらに痛みもひいて、優衣に正常な思考力が戻ってきた。
ぶるぶる、と頭を横に振った。
「大丈夫か」
父は、優衣の小さな手を取った。
「ああ、ちょっと目眩しただけ。ごめんな、もう大丈夫だから」
「また、発作じゃないだろうな。目、見えるか?」
「見えるよ。もうなんともない」
なんだよ、また発作って。病気持ちかよ、篠原優衣は。
そんなことより、今見えたのは……ほとんど見えてはいないけど、とにかく漠然と感じたのは……どどっとなだれ込んできたのは、きっと篠原優衣の記憶だ。
でも、どうして。
優衣の魂からの伝言なのか、それとも、物理的な、優衣のこの脳から引き出された情報なのか。
確証はないが、前者、篠原優衣の意思である気がする。
多分、入れ替わるべきおれの肉体が死んでしまったことで、彼女は移れずに、この身体の中にいるんだ。
その篠原優衣の魂が、おれに伝えたいことを、ああやって伝えてきたんだ。
でも、どうしておれなんかに……
先ほどまではあまりの激痛にとてもなにかを認識するどころではなかったのだが、冷静に感覚の記憶を辿ってみると、激痛とともにどどっと入り込んできたのは、篠原優衣の、母親に関しての記憶であったのである。
ほんの微かに残っている、母についての記憶。
これまで優衣が生きてきた中での、母への思い。
それらが、頭の中に飛び込んできたのだ。
その情報は、実に断片的なものではあったが、優衣の現状をある程度理解するには充分なものであった。
母親の育児放棄による、両親の離婚。
父親に愛されてはいたものの、でも、淋しかった幼少時代。
最初から母親はいないものとして、これまで生きてきた。
だが、
先日、父が母らしき女性とこっそり会っているところを目撃してしまった。
その態度から考えるに、娘と暮らしたいからと、よりを戻したがっているのは、おそらく母のほう。
父としても、それについてじっくり話し合う用意はあるのだが、しかし、育児放棄をして自分を捨てた母親に、果たして自分が会いたいであろうか、と遠慮しているのであろう。それで、はっきりと優衣に対してこの話を切り出せずにいる。
会っている場を見られてしまったことを、おそらく父は知っている(だから先ほどにしたって、母に会う必要はないなどと、優衣の気持ちを庇うようなことをわざわざいってきたのだろう)。
その密会の場を見てしまったことによるショックで、優衣は、より自分の心を胸の奥へと閉じ込めるようになってしまったようだ。
わざわざ死ぬ気はないけれど、死んだらそれで構わない。
自暴自棄とはちょっと違うが、とにかくすっかり弱り切った精神状態になっていた優衣。
そこに、あの事故が起きた。
そして、その身体に松島裕司の魂が入り込んだ。
篠原優衣は、消えてしまった?
いや、さっきも感じたけど、きっとこの身体の、心の、奥底の奥底に本当の優衣はいる。
でも、いるならなんで出てこない?
おれを押し退けて、この身体の支配権を奪い返そうとしない?
色々なことに立ち向かうのが面倒になったか? 怖じけづいたか?
でも、そもそも育児放棄で両親が離婚って、物心がつくよかずっと前の話だろ。
母ちゃんは最初からいないものとして、親父とずっと暮らしてきた、ただそれだけの話じゃないか。
ほとんど記憶になんかない母親のことで、なんだってそんなに落ち込んだり、びくびくしたりする必要があるんだ。
さっぱり理解出来ねえ。
まだ引き出されていない篠原優衣の記憶、その中に、なにか重大な秘密でもあるのだろうか。
考えるのやめた!
「成る事必然ならば、動ぜずとも事は起こる」
勝手に格言を作った。
そんなことよりズンダだ。いま試合中、こっちのほうが遥かに大事だ。
なんたって、もうすぐ久々の勝利なんだから。
テレビへと視線を向けた。
「あーーーーーっ」
優衣と、実況が同時に叫んだ。
後半ロスタイムに追いつかれたのである。
そして、試合終了。
6
「おーーっす!」
石巻ランドのロッカールームへ、篠原優衣はいつもの(といっても最近のいつもだ)ように大声を張り上げて入ってきた。
現在午後五時半。まだまだ夏の太陽がぎらぎら輝いている時間である。
ボールを蹴りたいから、と早めに来たのであるが、もう既に何人かがおり、椅子に逆向きに座って寄り集まって、談笑などをしていた。
「なになに、なんの話してんの?」
学校帰りにそのままここへ来ている優衣は、重そうなカバンとバッグを置いて一息つくと、端に置かれたパイプ椅子を引っ張り出して輪の中に入った。制服のスカートも気にせず、足を大きく広げて逆向きに座った。
「サッカー選手のことだよ。優衣はさあ、どの選手が好きなん? あ、男子限定ね」
寺田なえが尋ねた。
「おおう、よくぞ聞いてくだすった」
優衣は嬉々とした表情で立ち上がると、片足を椅子の上にどっかと乗せた。
「松島裕司」
なんの躊躇も恥ずかしげも見せずに、即答だ。
「ん? ああ、宮城のね」
彼女らは一年に二回ほどズンダマーレ宮城のボールパーソンをつとめるなど、それなりに関わりもあるため、宮城の選手の名前はそこそこ知っているのだ。
「こないだ死んじゃったじゃん」
「走り回るだけや」
「簡単なシュート外すイメージしかない」
「変だったよあの人。あたし、演歌歌いながらピッチに入っていくの見たことある」
「うわ、それきもっ!」
ここに本人がいるとも知らずに、みんな好き勝手なことを口にしている。
「瞬殺すっぞてめえら!」
やはりというべきか、一瞬にして沸点に達してしまった松島裕司イン篠原優衣であった。
「お、みんな早いねえ」
ドアが開いて、キャプテンである野本茜が疲労困憊の四文字を隠しもせぬ表情で入ってきた。上下とも薄い青の作業着姿だ。
手を当てた右肩を、ぐるぐる回している。
「どうしたん?」
辻内秋菜が尋ねた。
「それがさあ、新人君がさあ、加える調味料をことごとく間違ってて、弁当全部作り直しでさ。みんなで手分けして再配達でさ。それでもガミガミ文句いってくんのいるしさあ。最後に回ったお客さんのとこなんか、土下座までさせられたよ、あたし。ほんっと心身ともに疲れたあ。まあ、こっちが悪いんだから仕方ないんだけどね。ちゃんとしたお弁当を指定時間までに届けられなかったんだからさ」
脱力したように、茜は固く冷たい床の上に寝そべってしまった。
「はあ、そりゃ大変だったな。語尾がさあばかりになってることからも、心くたくたーってのが分かるよ。じゃ、特別に肩でも揉んでやるよ」
話を聞いてちょっとだけ同情した優衣は、学校の制服姿のまま茜の背中に馬乗りになると、両手でそれぞれ左右の肩を揉み始めた。
「おおう、きくう! って嘘、ぜんっぜんきかないよ。ほんと力がないよな、お前」
「おれにいわれたって知るかよ」
とはいえ非力といわれるのはちょっと悔しい。優衣はムキになって、体重をかけて肘で背骨両脇の押しどころをぐりぐりし始めた。
「お、それならききそう。でも、もうちょい強めで。三倍くらい」
「おう、やってやるぜ。つうか茜ちゃん二十代だろ一応。肩凝りなんかになってんじゃねえよ」
優衣は、ぐぐぐぐーっと、思い切りほぼ全体重をかけた。
「なるんだからしょうがない。あと、一応じゃない、まだ二十六。ケアを自腹でやってるから、金がなくて大変だよ。もう貯金すっからかんで、先月から全然行けてないし。だからこんな凝ってんだよ。うお、いいかも、それ。もうちょい下までやって。そうそう、そこ、いい!」
「サッカーのためのケアだろ、なんだよ、ここ年俸も勝利給もないくせに、そんな金まで選手に出させんのかよ。酷えな、掛け合った方がいいぞ」
「お前なあ、もう何年もここにいて、何を見てきたんだよ? みんな、そんなの覚悟の上でやってんだよ。だいたい、クラブのどこにそんな金があると思う?」
一部リーグの中にだって、トップ登録選手にも関わらず遠征費は自腹で、それどころか月々の参加費まで払わせるようなところもあり、ベイスパロウはまだましな方だ。
と、茜は説明した。
「そういわれても、釈然としねえなあ。だってさあJリーガーなんて、まあプロなんだから金をもらえるのは当然で、その上そうしたケアも全部やってもらってたぞ。ズンダなんか専属マッサージがいたし。去年、酸素カプセルなんてくそ高え機械買っちゃったりなんかしてさあ。上に乗っかって遊んでて、扉みたいな透明のとこぶっ壊しちゃったけど」
「はあ、なんで優衣がそんなとこで、そんなことしてんだよ?」
そばで椅子に座って話を聞いていた秋菜が、疑問を口にした。
「あ、いや、こっちの話だ」
しかし、なんでこいつら、そんな劣悪な環境で、そうまでサッカーをやりたいんだよ。さっぱり理解出来ねえ。篠原優衣は、まあ高校生って立場だからまだいいんだけど。
などと考えていると、またドアが開いて他の選手たちがぞろぞろと入ってきた。
もうすぐ、練習の開始時間だ。
優衣たちはトレーニングウエアに着替えると、外へ出た。
ボールを蹴りたくて早く来たっつーのに、つい関係のないことで時間を潰しちまったよ。
7
外へ出た彼女らは、まずはみんなで練習の準備を開始した。
用具置き場から必要な道具を引っ張り出し、コートまで運び、カラーコーンをならべ、数人掛かりでゴールを設置、ラダーを置き、ボールを置いた。
いつの間にか笹本監督、高蓮GKコーチが姿を見せていた。
監督の簡単な挨拶。
そしてトレーニング開始。
まずはジョギングだ。
広大なグラウンドを一周。
続いてストレッチ。
ここから、ようやく本格的な練習に入る。
「よっしゃ、ちょっくら子羊ちゃんどもを可愛がってやりますか」
篠原優衣は、指をぱきぱき鳴らした。
「出たなあ、ニューバージョン優衣の上から目線。頑張って、今日は最後までもたせてね」
寺田なえが、からかった。
ジョギングですっかり息が上がっているくせに強がっている優衣の姿を見て、つい意地悪したくなってしまったのだろう。
ミスター宮城という過去の栄光がそうさせるのかは分からないが、練習前の優衣の態度はいつもこうである。しかし、いざ練習が始まってみると、非常識なほどの体力のなさに、あっという間にへたばってしまう。
今日も、まったくその通りであった。
体力がないだけではない。女子で、しかも世代別とはいえ日本代表のはずなのに、なんだか技術的な面すらもおかしかった。思うようにボールを扱うことが出来ず、監督やコーチからは怒られてばかりだ。
日本代表の器に、ミスター宮城の魂、これでなんでこうなる?
この篠原優衣って奴、実はたいしたことないんじゃないか?
それでトップチームに所属だの、日本代表だのなんていってんだから、とどのつまり所詮は女。女子サッカーのレベルなんて、そんなもんなんだよ。
「優衣! 起きろ! バカ!」
なのに、なんでおれだけ怒られる?
みんなたいしたことないってんなら、なんで、おれだけ?
どういうことなんだ。
監督の怒声に、よろよろと立ち上がる優衣。ボール保持奪取の練習で、沼尾妙子に突っ込んでボールを奪おうとしてかわされ思い切り転んでしまったのだ。
あまりに不様な優衣の姿に、野本茜が見兼ねて近寄ってきた。
「優衣さあ、自分の身体を使いこなせなくなってるよ。自分、どんなプレーが得意なのか思い出してみな。それと、無理に相手に突っ込まなくていい。フィジカル勝負なんか仕掛けるな。優衣から技術を取っちゃったら、体力無ししか残らないんだぞ」
「それ、助言のつもりか?」
でも確かに、いわれてみれば自分は篠原優衣がどういう選手なのかを知らない。
力より技のタイプであるらしい、ということくらいだ。
しかし現在その技すらも、てんで発揮出来ない状態だし、一体なにをどうすれば少しはまともにボールを蹴られるのか。さっぱりだ。
だいたいおれ、センターFW一筋だったし……
ボールを受けて、走って、シュートするだけだったし。
今度は、茜から受けたパスを敵である美摘につい渡してしまった。
「なんでわざわざ相手にパス出すんだよ。お前の新しい趣味か? ふざけてないでいいから、少しは真面目にやれよ!」
今度の怒声の主は監督でもコーチでもなく、西田久子だ。怒声というより罵声というほうが近いかも知れない。
ムカッときた。
上手く身体を動かせないでいるこっちの気も知らねえで、いつも更年期みたいにカリカリしてる根暗クソ女が。
優衣はボールを手前に転がすと、突如助走をし、久子の背中をめがけてシャイニング爆熱シュート! ……しかし優衣のその足は、直前で止まり、ボールをちょんと押しただけだった。
躊躇したわけではない。
練習中のミスにかこつけて、殺意満々嬉々として蹴り足を上げたはずであった。
また、例のごとくなんらかの力が身体に働いて、行動を制限されてしまったのである。
優衣はボールの前で、なんとか再び蹴り足を上げよう、蹴ってやろう、ぶつけてやろう、と悪戦苦闘している。
「ったくもう、またかよこの身体! おい、てめえ優衣か? そこにいんのか? こら。邪魔すんじゃねえよ! 文句あんなら出てこいや! いやいや、まだ引っ込んでろ、邪魔すんな! あのくそ女、むかつくから、ボールぶつけてやんだからよ! ……って、だから邪魔すんなってんだよ! ぶっとばすぞ、てめえ!」
どれだけのせめぎあいが優衣の体内脳内で発生しているのか、真っ赤な顔をしたその必死な表情から想像するしかない。
「なにやってんだ? 優衣は」
「さあ」
辻内秋菜と沼尾妙子が、不思議そうに顔を見合わせている。
8
文字通りに散らばりまくった物々の中心に埋もれるように、あぐらをかき頭をかき途方に暮れていた篠原優衣であったが、ようやく重い腰を上げると作業を再開した。
何をしているのかというと、なんのことはなく、自室の整理をしているところだ。
思い立って始めてみたは良いが、散らかり具合のあまりの酷さに片付けても片付けてもきりがなく、身体よりもむしろ頭が痛くなってきて、ひと休みをしていたのだ。
あの事故の直後、初めてこの部屋に入った時には、片付けるものなど何もないくらいに綺麗だったのだが、一週間もしないうちに足の踏み場もないくらいにグチャグチャな惨状へと変えてしてしまった優衣。
同じクラスの、優衣と友人であるらしいところの麓絵美と小菅洋子が「明日、ひっさびさに優衣ん家に遊びに行ってあげるよ」とやらいい出して、じゃあさすがにちょっとはこの状況をなんとかしないとなあ、という気持ちになったのが部屋片付けを始めた発端である。
その片付けのさなか、机の本棚の端に、日記帳を見つけた。
茶色いハードカバー、錠前付きの日記帳であるが、だが施錠はされていないようだ。まさか書いた当人も、誰か他人が読むなどと思ってもいなかったのだろう。
それとも、父親になら見られても構わないと考えているのだろうか。
ハードカバーの厚みを差っ引いても、かなりの分量がある。本当に日記用途に使用しているのかは分からないが、そうであれば、書き始めたばかりでもない限りは相当な日数分がありそうだ。
単に淡々と日々の出来事を記しているだけの備忘録的な物なのか、それとも自己内面についてなども書いてあるようなものなのか。
もしかしたら、篠原優衣の悩みや、母親についての思いなども、ここから分かるかも知れない。
以前に、母親とのことに関連した篠原優衣の記憶が頭にどっとなだれ込んできたことがあった。それにより色々な事を理解出来た半面、より多くの疑問も発生した。いま手にしているのが篠原優衣のつけている日記帳なのであれば、読んでみることでそうした疑問点が色々と晴れるような気がする。
ゆっくりと手を伸ばし、ロックのかかっていない錠前部分に触れてみた。
また身体が動かなくなるのではないかと思ったが、特に、抵抗されることはなかった。
おれが開ける気がないことを、分かっていたからだろうか。
それとも、読まれても構わないと思っているのか。
結局、日記帳は開かなかった。
机の引き出しの中から鍵を探し出して施錠すると、本棚の元の場所へとそっと戻した。
野本茜はタイミングよく足を伸ばし、ボールを奪い取った。
すぐさま横へとドリブルしてパスコースを作り出すと、前線で上手くマークを外した西田久子へとパスを出そうとする。だが、蹴ろうとしたその瞬間、すっと突き出てきた久木成美の足に引っ掛かって、茜は転んでしまった。
「茜、判断遅いからだよ!」
榎戸朱美コーチの怒鳴り声が飛ぶ。彼女は元日本女子代表つまりなでしこジャパンの選手で、現在石巻ベイスパロウのトップコーチと下部組織の監督を兼任している。その指導のあまりの厳しさから、ついたあだ名は鬼軍曹。
「はい!」
茜は片膝に手をついて起き上がると、急いで走り出し、守備へと戻るが、もう間に合わず、FWの徳山神未にシュートまで持ち込まれてしまっていた。
だがCBの谷保絹江がしっかり身体を寄せて、コースを限定させていた。
シュートこそ弾丸のようであったが、タイミングが正直なのと打てるコースが限られているため、GKの楠元友子が、がっちりとキャッチ。胸に抱え込んだ。
「トモ! お前、もうちょっと腰落とせ! あと半歩右な。FWがもっと上手けりゃ、もっと際どいとこにだって飛んでくるぞ。対応出来るようにしとけ!」
高蓮範男GKコーチの指示が飛ぶ。彼は現役時代はやらかし系、ネタ提供係などとファンからからかわれ、また、親しまれていた存在であったが、Jリーグクラブのコーチを経て、現在では立派な女子サッカーの指導者として活躍している。
「はい!」
楠元友子は元気よく返事をすると、ボールへと助走をつけ、強く蹴った。
しかし、見事なまでの蹴りそこね。ラグビーボールではあるまいし何故そのような方向に飛ぶものか、ほとんど真横に飛んで、タッチラインを割ってしまった。
「バカーッ!」
高蓮コーチが、ドスのきいた低音のくせに、なよっと拍子抜けの声で叫んだ。
友子は非常に好調不調の波が激しいGKである。
ノッているときは、そこそこ精度の高いボールを蹴るし、素晴らしいセーブだって見せる。
しかし調子が悪い時は、いま見せたように、キックがどこに飛ぶか分からない。
楽々キャッチング出来るところを、落としてしまったりする。どう考えても飛び出すべきところを躊躇して、やられてしまう。
一言でいうならば、安定感がない。
だから堂島秀美という三十歳をいくつも過ぎているGKから、いつまでもポジションを奪えない。堂島秀美は衰えたりとはいえ元日本女子代表なので、追い越せないのも仕方ないところはあるのだが。
とはいえ友子は長身のためにハイボール処理は常に安定しているし、様々な面において潜在能力がかなり高いことも分かっている。まだ二十五歳でGKとしては伸びしろも期待出来るので、監督や高蓮コーチとしては、なんとか波をなくして正GKの座を奪うくらいに成長して欲しいと願っているのであるが。
非ビブス組のスローイン。投げるのは椋愛子。
布部洋子が足で受けたが、ビブス組の野本ハルに身体を入れられ、奪われてしまった。
それを見た茜は、走り出し、
「ハル、こっち!」
と叫んで、ボールを要求した。
「お姉ちゃん!」
野本ハルは、野本茜を目掛けて強く蹴った。
なおこの二人に血縁関係はまったくない。
たまたま同姓というだけで、年下のハルが勝手に茜を姉呼ばわりしているだけである。
茜は久木成美と競り合いながら、落下地点へ入り込んだ。
目測どんぴしゃり。先に良い位置を占めた茜は、手で成美を押し退けるようにしながら胸でトラップ。地に落ちたところを、近くにいた西田久子へと蹴って預けると、素早く反転して前を向き、成美の横を通り抜けた。
久子からの浮き球のパスを、軽く跳躍しながら膝の内側で受けた。
どっどっ、と激しい足音。柴野英子が猛然とプレスをかけてきた。
茜は反転し、久子へ戻すふりをしつつ、そのままさらに反転、ぐるりルーレット一回転で英子をかわすと、ボールを寺田なえに預け、走り出した。
さて、誠に唐突ではあるが、ここから石巻ベイスパロウの主要な選手について、少しづつ紹介していこう。
まず最初は、チームのキャプテンから。
【野本茜】
背番号 6
身長 百六十三
年齢 二十六
愛称 あかねさん
趣味 カラオケ
特徴 キャプテンになって二年目。対人に強く、危機察知能力の高い、いまやチームに欠かせないボランチ。俊足とはいえないが、動き出しの判断が速くスピード系の相手にもしっかり対応する。フル代表に選出されたこともあるが、試合出場経験はない。自分に妥協を許さぬ厳しい態度で、選手からの信頼も厚い。趣味というか自分癒しのカラオケであるが、相当の音痴であり、聞いている方はぜんぜん癒されないという話である。
茜は、寺田なえを使ったワンツーでSBの布部洋子をもかわし、サイドを一気に駆け上がる。深くえぐり込むと、大きくマイナスのクロスボールを上げた。
だが、ゴール前の実合美摘と合わなかった。茜の上げたボールは、ニアで待っていた美摘とGK堂島秀美の頭上を飛び越えて落ち、そのまま転がってゴールラインを割ってしまった。
茜は、美摘へと近寄った。
「ミツ、あたしがいまみたいな感じに抜け出して上げたら、相手の裏を抜けるようにファーへと飛び込んでよ。本当はアッキーもゴール前に上がってるはずで、彼女にはニアを狙うふりして撹乱してもらうようにしたいから。まあ、クロス精度悪くなってそっちにいっちゃうかも知れないけど、そしたらもちろん、そのまま狙っていいから」
狙った場所へと上手くボールを送ることが出来ただけに、茜としては一言いわずにいられなかったのだろう。
「はい」
美摘は、元気のない小さな声で小さく頷いた。元気なく見えるのは、いつものことである。
なお、いま会話に出てきたアッキーこと辻内秋菜は、仕事で遅れるとのことで、まだ来ていない。
【実合美摘】
背番号 11
身長 百六十六
年齢 二十一歳
愛称 ミツ
趣味 タロット占い。ハムスターの飼育。
特徴 覇気のない性格と同様に、プレーもおっとりしており、それが難点ともいえるが、ポストプレーの質や、シュートの決定力は高い。メンタルが鍛えられれば、かなり将来が期待出来る選手である。
現在このグラウンドで行っているのは紅白戦。チーム内での、試合形式の練習試合だ。
日本女子サッカーリーグに所属するクラブチームである石巻ベイスパロウの、いつもの通りの練習風景である。
ここは、石巻ランドと呼ばれる練習場。
その名前は正式名称ではなく、単に数年前までこの隣の敷地に存在していた遊園地の名前である。
いつしか慣例的に遊園地名で練習場を呼ぶようになり、遊園地の運営会社が倒産して閉園した現在もそのまま呼ばれているというわけだ。
石巻ベイスパロウは、女子のサッカークラブとしては非常に古く、三十年近くの歴史を持っている。
釣り餌大手メーカーの実業団チームである、はちだいFCプラネテスから始まって、別の大手企業へ移管されること二回、そして七年前に現在の市民クラブの形式となった。
創設当初は東北を代表する強豪であったが、現在ではその面影はまるでない。二部落ちの経験こそないが、毎年のように残留争いに巻き込まれている。
年間順位が最下位で本来なら自動降格のところが、翌年からチーム数が増えるために免れたという年もある。
数年前の一過性なでしこブームの影響で増えた一部リーグ十二チームであるが、来年からまた十チームに戻る予定であり、そのため今年は下位二チームが自動降格で、下位から三番目のチームがチャレンジリーグとの入れ替え戦を行なうことになる。
今年こそはベイスパロウの悪運も尽き、残留綱渡りの綱が切れる、などとシーズン前からささやかれていたが、そう予想すること自体はおおかた誤りではなく、実際に現在の順位は残留圏ぎりぎりの九位である。
そんな、いつまでも晴れることのない低迷したチーム状況とは反対に、本日の天気は雲のほとんどない見事なまでの快晴。
とはいうものの、現在七月の午後四時、太陽がぎらぎらとぎらぎらと照り付けてオーブンレンジのように地面を焦がし続けていおり、ちょっと酷過ぎるか。
今日に限らず、ここ三日ほど、凄まじい猛暑が続いている。
じっとしているだけでも汗が止らないくらいの暑さだというのに、彼女らは三時過ぎからずっと走り回っている。
平日は夜七時からの練習のため、ここまで地獄ではない。
しかし夜間だと照明の電気代がかかることもあり、今日のような土日練習は基本的に日中になってしまうのである。
汗がどんどん絶え間なく噴き出してくるが、肌にまとわりつくばかりで全然蒸発していかない。選手たちにとって、不快指数百だ。でも、身体から水分が失われているのは間違いなく、こまめに補給をしないと死んでしまう。
プレーが一時中断した際に、茜は周囲のみんなに給水の指示を出すと、自分もピッチの外に置かれている給水ボトルへと向かった。
ボトルの腹をぐいと押して一口含んだ、その時である。
「ねえ、そこのカッコイイ顔のお姉ちゃん」
不意に、誰かに呼びかけられた。
振り向いた茜は、実に奇妙な質問を受けることになった。
「おれって、まだここに所属してんの?」
と。
フェンスのすぐ向こう側の公道に、まだ十代半ばと思われる少女が立っていた。
2
デニムのショートパンツに、紺のTシャツという簡素な服装。
まるで日に焼けていない色白の、あどけない顔。
ふわっとした肩までの髪。
なんだか折れてしまいそうなくらいに、ほっそりと、そして柔らかそうな身体。
よーく知っている顔、篠原優衣だ。
でも、
「誰? あんた」
野本茜は、いぶかしげな視線を少女に向けると、そう尋ねていた。
容姿に声に、どこをどう考えても優衣であるというのに、でも茜には、そうは思えなかったからだ。
態度が、あまりにも優衣らしくなかったからだ。
「あ、優衣!」
「優衣じゃん」
みんなが茜の周囲、つまり優衣のすぐそばへと集まってきた。
フェンス越しに優衣と対面した。
「もう、大丈夫なの?」
仙田チカが、心配そうな表情を優衣へと向けた。
「おう、大丈夫大丈夫。心配かけたみなの衆。もう、ボール蹴りたくて蹴りたくて。あ、最初にいっとくけど、おれさ、よく分かんないけど、なんかちょっとだけおかしいらしいんだけど、記憶がちょっと変らしいんだけど、事故で一時的なもんらしいから気にしないでね」
優衣はそういうと、フェンスに顔の肉をぐりぐりと押し付け、変顔を作った。
「なんかぁ、記憶どころかそもそもの性格が違う気が」
そう思ったのは、寺田なえだけではないだろう。
「いやいや、二十九年こんな感じよ。江戸の生まれよべらぼーめ」
優衣は唐突に、フェンスの隙間に指をかけてがっしがっしとよじ登り始めた。
それを見て、慌てる茜。
「おい、事情はいちおう分かったから、ちゃんと入口から入んなよ。お偉いさんに見られたらどうすんだよ」
スポンサーの人とかさあ。
まだ多分に解せないところがあるが、それは後回しだ。
「降りろ、こら!」
茜は注意をするが、しかし優衣は構わずてっぺんまで登ってしまった。
「おー、いい眺め」
と、優衣が石巻ランドをぐるり見渡していると、
「すいません、遅れましたあ! いやあ、仕事が長引いちゃってえ」
ベイスパロウ所属選手の一人、辻内秋菜が、正門の方から走ってきた。
沼尾妙子が、その後に続いている。
紺のタイトスカートに白いブラウス、紺のベスト、二人とも同じ服装だ。クラブのスポンサー企業で、一緒に事務などの仕事をやっているのである。
「もう、タエがクレーム起こしちゃうんだもの」
「あたしが起こしたわけじゃないよ! 爆弾があたしの時に爆発しただけ。というか、そもそも仕掛けたのアッキーでしょうが」
サッカー優先の契約なので本来残業はないのだが、お客さんとのやり取りなどにより、たまにはこのように練習に遅れてしまうこともあるのだ。
「えー、覚えてないなあ。……おー、優衣じゃん。もういいんだ? というか、何をやっとるのだお前は?」
秋菜は、フェンスにしがみついてこちら側へ下りてこようとしている優衣を発見すると、走り寄り、両足を掴んで引きずり下ろし、彼女の頭を脇に抱え込みながら、こめかみに拳をぐりぐり。
「いてて! 髪の毛いてて! なにしやがる、この女。いてっ、くそ!」
優衣は突然の理不尽な暴力に悲鳴を上げた。自分も同じようなことを毎日、柴岡にやっていたものであるが。
「じゃ、久し振りにお姉さんたちと一緒に着替えようぜ~。タエ、いこっ」
秋菜は優衣の手をぐいぐいと引っ張って、妙子とともに、向こうに見える平屋のクラブハウスへと姿を消した。
【辻内秋菜】
背番号 9
身長 百五十四
年齢 二十七
愛称 アッキー、エロ姉さん
趣味 ショッピング。と、もう一つは秘密。絶対いえない。
特徴 小柄だが、快速と決定力を誇るストライカー。どんな体勢からも得点を狙えるのが強み。
【沼尾妙子】
背番号 7
身長 百五十六
年齢 二十三
愛称 タエ
趣味 熱帯魚観賞、園芸、小物作り
特徴 トップ下を得意とするが、CB以外のどこでもこなせる万能型。華奢な見た目の通り当たりに強くはないものの、しかし簡単に倒れることもない絶妙なフィジカルバランスを持つ。現在所属する選手の中で、唯一の既婚者。
3
篠原優衣、辻内秋菜、沼尾妙子の三人は、かび臭さのぷんぷん漂う更衣室の中へと入った。
秋菜は、鼻歌混じりに自分のロッカーの前に立つと、無造作に服を脱ぎ始めた。
「え、え」
と、驚き慌てる優衣の前で、彼女はまるで気にすることなく(当たり前だが)、シャツのボタンを外し、スカートをがっと足元まで下げた。というところで、優衣がたまらず、うおおおおおおっと吠えるような悲鳴を上げた。
両手で自分の目を隠しながら、
「いけねえ、いけねえよ! 嫁入り前の娘さんが、平気で男に裸を見せたらおしめえよ」
「どこよ、男って。でもまあ、あたし別に見られてもいいや。いい男になら。ね、タエ」
こんなことばかりいっているから、みんなからエロ姉さんなどと呼ばれてしまうのだ。
「一緒にしないでよ。嫌だよ、あたしは。嫁入り前じゃないけどさ」
沼尾妙子は、二十三歳の若さながら既婚者。去年、高校時代の同級生と六年の交際期間を経てゴールインしたのだ。
「あ、そうかそうか。おれ、いま女なんだ」
じゃあ気にすることないじゃん。
なーーんだ。と、ほっとした表情を浮かべて目隠しを解除する優衣であったが、解除した途端に飛び込んできた衝撃映像にまたしても絶叫し、目を覆った。
「身体が女でも、心は男だったはあああ!」
床に倒れ、悶絶するようにばったんばったんと激しくのた打ち回る優衣。
秋菜と妙子は、思わず顔を見合わせた。
「あのさあ、優衣、やっぱりまだ練習は無理なんじゃない? 病院に行ったら? お熱は大丈夫なのかにゃ?」
秋菜は半裸のまま、倒れている優衣の上に馬乗りになると、顔を接近させ、自分のおでこを優衣のおでこに押し当てた。
「おおおお、シャツのボタンの全部外れたそのかっこのままでくっついてくんなああ! 下着でまたがってくんなああ! そんなことより、病院なんかどうだっていいから、おれはいますぐサッカーがやりてえの! 飢えてんの! どけやあ!」
非力ながら、身をよじってなんとか毒蛾の毒から逃れた優衣。
着替えないことにはサッカーが出来ない。秋菜から逃げるように部屋の隅っこに行くと、二人を見なくて済むよう背を向けて、ようやく服を脱ぎ始めた。
かなり心臓、どきどきしてる。部屋中に聞こえそうなくらいに。
「ほんと、子供みたいな体型だよね優衣って。食べたくなっちゃうなあ」
優衣の背中に、秋菜が密着していた。
耳元に、ふっと熱い息を吹きかけてきた。
ぶつぶつぶつぶつ、と一瞬のうちに優衣の肌全体に鳥肌が立っていた。
「離れろ畜生! 着替えくらいさせろや!」
脱いだズボンをぶんぶん振り回して秋菜を追い払うと、素早くなんとか着替えを済ませた。
これだけで一日分の体力を使ってしまった気がする優衣であった。
「早くしなよお! どうせまた優衣のことからかってんでしょお。久し振りだからって」
ドアの向こうから、寺田なえの大声が聞こえてきた。
「すぐ行くよ!」
秋菜も大きな声で返事をした。
こうしてようやく三人は、ハーフパンツのトレーニングウエアに着替え、更衣室を出たのであった。
4
「サッカーじゃあああああ! ボール蹴るぞおらあ! ゴール決めるぞおらあ! 太陽さあん、見ててくれーーっ!」
篠原優衣は両手を天へと突き上げ、ぎらぎら照り付けてくる太陽を見上げ叫んだ。
「まだだよ」
辻内秋菜は、優衣の手をぐいっと引っ張り走り出した。
「まずは練習場を軽くランニングでしょ」
「えー、めんどくせ。まあ、仕方ないか」
優衣は秋菜の手を払い、自分で走り出す。
他のみんながとっくに練習に入っていたものだから、ウォーミングアップのことなどまったく考えてなかった。
鼻歌混じりに走る辻内秋菜、黙々と走る沼尾妙子、蹴りてえ蹴りてえ蹴りてえええ、の優衣。
「うるさいよ、優衣」
自分の鼻歌を棚に上げて、秋菜が怒った顔で振り返る。
早くサッカーやりたいもどかしさのあまり、思いが口をついて出てしまっていたようだ。
ようやくジョギング終了。
でもまだまだだ。
今度は三人で、ストレッチ開始である。
それも終わって、ようやく優衣は、他の選手たちの中に混じることが出来たのであった。
「ええと、じゃあ、タエと優衣はビブスつけて」
野本茜が投げるビブスを、優衣と妙子は受け取った。
優衣が待ちに待った、練習の開始である。
いまやっているのは、狭く密集した中でのボール回しだ。
一瞬の判断力が問われるし、足捌きなども鍛えられる、どこのチームでもやっている基本的な練習だ。
「お嬢ちゃんたちに、いっちょ年季の差を見せてやりますか」
余裕綽々の優衣であったが、いざ開始してみると、その自信はすぐにガラガラと音を立てて崩れることになった。
なんなんだ、この身体!
軟弱そうな身体に見えるけど、でもサッカー選手なのだし、よくは知らんが世代別代表ということだし、身体は女だけどそれは相手だって同じだし、そして何より自分には松島裕司としての長年の経験がある。
こんな基礎練習、もう二十年以上やっている。
だから、そこそこ以上にやれるつもりでいた。
それなのに、頭で考えているような激しい動きが、身体がついてこなくてまるで出来ないのだ。
しかも、異常なまでに当たり弱いし。
相手と身体がちょっと接触するだけで、すぐにバランスを崩して転んでしまう。
と、また、今度は妙子にぶつかって、ころころと転がってしまった。
こいつ、本当に代表だったのか。
ひでえぞ、これ。
魔王の呪いでもかけられてんじゃねえだろうな、この身体。
「優衣、ちゃんとやれ!」
榎戸朱美コーチの怒声に、上体を起こしながら優衣は、誰が叱られてんだろ、ときょろきょろ周囲を見回した。
「お前だよ!」
はっきり指をさされ、優衣はようやく自分のことと気が付いた。
「おいっす!」
立ち上がると、またボールを追って密集の中へと飛び込んだ。
すっかり忘れてたけど、おれいま篠原優衣なんだよな。
おれがいま篠原優衣……って、じゃあ、本当の篠原優衣は、どこに行ってしまったんだろうか。
優衣の中で、松島裕司はそんなことを考えていた。
おれの肉体は、もうこの世から消滅してしまったのだから、よくマンガなんかであるような、お互いの肉体が入れ替わるようなことは起こり得ないわけで……そういう意味では、おれよりも、むしろ彼女のほうこそが死んでしまったということなのだろうか。
もし本当にそうだってんなら、ちょっと気の毒には思うけど、申し訳ないと思うけど、でも、おれだって充分に気の毒な目にあってるよなあ。
だってさ、身体は死んじゃうし、こんな異常に貧弱な身体なんかに入っちまうし。
どうせならセリエAの誰かにでも入りゃ良かったよ。あ、でもイタリア語が喋れなくて困るか。いや、喋れちゃうのかも知れないな。どうでもいいけど。
しかし畜生、ただでさえ女の身体なんかでまともにサッカーなんか出来るかって話なのに、よりにもよって、なんでこんな貧弱な奴に……
だいたいなあ、サッカーっつうのはなあ、男のスポーツなんだよ。
格闘技なんだよ。
殺し合いなんだよ。
ちんこぷらぷらさせてる生き物のスポーツなんだよ。てめえら、やれるもんならやってみやがれ。この女どもが。
「優衣、どうしたぼーっとして」
西田久子が、突っ立ったまま動かない優衣を心配になったのか近寄ってきた。
「サッカーつったら、ちんぽこなんだよ!!」
「いきなり下品なこと叫ぶなバカ!」
顔面に容赦なくボールをぶつけられて、優衣は後ろへ吹っ飛んだ。
「ぐうう……いってえなあ。下品は生れつきだ」
少なくとも、松島裕司にとっては。
【西田久子】
背番号 10
身長 百六十三
年齢 二十三
愛称 ひさこ、きゅうちゃん
趣味 筋トレ
特徴 視野の広さ、判断力、戦術理解、当たりの強さ、足元の技術、などなど様々な能力に秀でた選手である。唯一欠点と呼べる欠点は、とにかく走るのが遅いこと。十代の頃にフル代表選出された逸材であったが、右の足首に大怪我を負い、その影響である。なお、それ以降、代表には呼ばれていない。
ボールを使った練習が終了し、少しの休憩とった後、今度は基礎体力向上メニューに入った。
まずは、千五百メートル×三。
やってやるぜえ、と懸命に頑張る優衣であるが、やはりここでも身体が思うように動いてくれず、三本とも圧倒的最下位に終わった。
別に順位を決めるものではないので、ビリだからどうというわけでもないのだが、他のみんなは集団としてまとまって走っているというのに、一人だけ周回遅れになりそうなくらいにみんなから引き離されてしまっていて、それが恥ずかしいやら悔しいやら。
松島裕司の頃は、走ることに関しては瞬発力も持久力もトップだったというのに。
「ねえ、おれって、いつも持久走こんなもんなの?」
優衣は大股開きで地面に腰を下ろしてぜいぜいはあはあ息をしながら、隣にいる仙田チカに尋ねた。
なおチカは、同じ条件で走り終えたばかりだというのに、全然息切れも見せずに、悠々と全身の筋などを伸ばしている。上がったり下がったりを延々と行なうのがSBである、とにかく持久力がなければやっていけないのだ。
「うん、いつも遅いけど、でも今日はもっともっと遅いかなあ」
チカは答えた。
「そっか」
走れるものとばかり思って、最初飛ばしてしまったからだろうな。
しかし筋力がなきゃ持久力もなくて、ほんとにサッカー選手かよ、こいつ、ていうかおれっつーか、やっぱりこいつ。
「はい、じゃあ乳酸値測定するよ~」
榎戸朱美コーチが、黒いバッグを抱えて近づいてきた。
「うっわあ、抜き打ちか。あたし嫌なんだよなあ、あれ」
辻内秋菜が、両手で自分の肩を抱いて、身体を震わせた。本当に嫌なのだろう。腕や足に、ぶつぶつ鳥肌が立っている。
しかしそれ以上圧倒的に、なんだかとんでもない者が、彼女のすぐ隣にいた。
篠原優衣である。
「乳酸値測定って、あの、指にパチッてやるやつ? え、え、嫌だよおれ! 針、大嫌い! 痛いじゃん、あんなの。なんで指に針なんかやんなきゃならねえんだよ。必要ないって。ほら、いま走ったことでも、おれもう遅いの分かってんじゃん。乳酸だって絶対に最悪な値だと思うよ、測るまでもなく。だから、おれだけ除外。パス。免除。ごめんこうむる。金輪際。おれ、やんねえからな! 絶対やんねえからな! 絶対の絶対のぜええーったいの…」
「はいはい、じゃあお前からね」
と、コーチは表情変えず優衣へと歩み寄った。
踵を返して逃げ出そうとする優衣。
榎戸コーチは素晴らしい瞬発力を見せ、一瞬の後には優衣の腕をしっかりがっちりと掴み、ねじ上げていた。元なでしこジャパンの誇る快速FW、いまだ衰えを見せず。
「さ、観念しな」
「やめてーーーーっ。せめて、せめて肘んとこで採血してくれ。そっちなら、まだ、まだ我慢出来る。指に針なんて、絶対やりたくねえ! やだやだやだやだ!」
振りほどこうと暴れる優衣の細い細い腕を、榎戸コーチはぐいと締め上げた。
「今日ドクターいないんだから、注射針なんか使えるわけないでしょ。秋菜、優衣を押さえ付けといて」
「諦めて我慢しよ、お互いさ」
辻内秋菜は、なんだか身体をくねらすようにいやらしく優衣に密着すると、そのまま後ろに回り羽交い締めにして押さえ付けた。
優衣は、なおも諦めず、泣き叫びながらも必死の抵抗を続けていたが、なにせ非力なこの肉体、運命の前にはいかんともしがたく、パチッと指に打たれてしまったのであった。
「あああああああ! 痛えよおおおお! 畜生、くそ痛えよおおおおお! くっそ痛えええええ!」
「デコピンと同じでいつやられるかって怖さはあるけど、そこまで痛いものでもないでしょうが! ほら、指を出す!」
コーチに両手で指を掴まれて、優衣は血を絞りとられたのである。
松島裕司時代は、いつもなんとか頼み込んで肘にやってもらっていたものだから、指先での採血など十年ぶり。久しくやらない間に恐怖心が数倍増されており、それがどかーんと爆発したものだから、採血が終わってもなおめそめそ泣き続けていた。まるで女子みたいに。
「ねえ茜っち、優衣どうしたの? さっき更衣室でも、男の前で裸になるなああなんて悲鳴あげるしさあ。優衣、本当に大丈夫かあ? おお、よちよち、いい子いい子。つうか、そんくらいで泣いてんじゃねえよバカ!」
秋菜は、足元に泣き崩れている優衣の頭をなでなでしてやったかと思うと、いきなりポカリとぶん殴った。
「更衣室での驚き方も、まるで違ってたよねえ。いつもならさあ、アッキーが裸で抱き着くと、ひって息を飲んで、真っ赤になって下を向いてるだけだったのに、それがまあ、うおおおなんて叫んだかと思ったら、ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー喚きながら床をごろごろごろごろ転げ回ってさ」
沼尾妙子もなんだか不思議そうな顔で、でも他人事だからかちょっぴり楽しそうな顔で、えっくえっく泣いている優衣を見下ろしている。
「ほら、この間の事故の、影響だってさ。……確かに、なんだか男になっちゃってるよね、完全に。自分のこと、おれなんていっているし」
野本茜は説明しながら、優衣を見下ろして苦笑した。
「ああ、そういやそうだねえ。実は、性同一性障害だったのかお前は?」
秋菜は、優衣の顔をまじまじ覗き込んだ。
「ほっとけや。おれはおれだからおれなんだからおれはおれのままのおれでいいんだよ」
優衣はなんだか分からないことをまくしたてながら、立ち上がった。まだ涙目である。
「優衣さあ、お前ほんとに、悪霊にでも憑依されてんじゃないの? あたしさっき更衣室でさあ、も一回病院に行けばっていったんだけど、そんなんよりおれはサッカーをしてえんだ、飢えてんだあ! って。最近、なんか嫌々とサッカーしてる感じだったのに」
「まあ、サッカー熱が復活どころか、そこまでガツガツとしてくれるのなら、それはそれで、いいことなのかな」
茜は、人差し指で自分のほっぺたを軽くかいた。
優衣はこれまで世代別代表の常連であり、そして将来的にはフル代表に選ばれれてもおかしくないくらいの才能がある。
だというのに、どこか淡々としているところがあった。
サッカーにしても、何にしても、おそらくは生き方そのものが。
当の本人は必死に頑張っているつもりなのかも知れないが、他人の目からはどうにも情熱を感じない。
それが茜には、とてももどかしかったのだろう。
せっかく能力があるのに、本人にそれを伸ばす気力がまったくないような気がして。
それが改善されるというのならば、それはそれで歓迎したいところなのであろう。
「でもやっぱり、性格はとっとと元に戻って欲しいけどねー。元気になったところだけ、このままでいいからさあ」
ぼそり呟く茜であった。
さて、順々に採血は終わって、そして少し休憩時間だ。
その間に、
「やってやるぜーーっ!」
優衣も完全復活である。
あくまでも、パチンとやられたショックからだけであって、肉体は相変わらず今日これまでの疲労蓄積がまともに回復していないようであるが。
持久走の次は、筋肉に激しい負荷をかけるトレーニングだ。
まずはラダー。
梯子状の器具を地面に置いて、その上を素早く大きく腿上げをしながら往復する。
みな、足首には五百グラムずつのウエイトが巻かれている。優衣だけ特別に、百グラム。
続いてタイヤ引きダッシュ。前への推進力を養うものだ。
タイヤを引くだけでなく、五キロのウエイト入りのベストを着ている。優衣だけ特別にベストなし。
優衣はハンデを貰っているにもかかわらず、誰より真っ先に息切れ切れだ。
そもそも持久走が終わった時から、ろくに体力が回復していないのだから話にもならない。
「体力、なさすぎるだろ、ほんとに、この身体は、もっと、鍛えて、おけっつーの」
もう、へとへと。
ぶっ倒れそう。
身体の感覚が半分ない。
息が苦しい。
視界がぐるぐる回る。
それでもなんとか根性だけでタイヤを引っ張っていたのだが、ついにはそのタイヤの重みに足が滑るばかりで、ほとんど前進することが出来なくなってしまっていた。
「まだまだあ!」
意識の朦朧とする中、優衣は必死に、みんなに食らいついていこうと自分に活をいれていた。
だってよ、いまやれることをやる。おれには、それしかないじゃないか。
こいつがおれでおれがこいつみたいな、何がなんなのか分からない事態になってしまったわけだけど、とにかくやれることを頑張って、その上で、その先に、なにが待っているか。
なにもしなかったら、もうそこで終わりだ。
なんにも起こらない。
だから。
それにこいつ、この身体、とりあえずこいつなりにはサッカーに打ち込んではいたんだろうから、練習を怠けて身体を鈍らせてしまったりしたら、いつかこいつが本当の自分に戻った時に、悪いしな。
でもまあ、こいつの代わりにっつっても、勉強だけは無理だけど。
だから交換条件、というのも変だけど、とにかくサッカーに関してだけは、しっかり鍛えておいてやるよ。
だから、もしも元に戻ったなら、まあ当面は、机にかじりついて必死に勉強してくれや。
落第しない程度には、おれも頑張ってやるから。
優衣の肉体の中の松島裕司の精神は、どこかにいるかも知れない本当の篠原優衣へと話し掛けていた。
周囲ぐるりと広がる澄み渡る青い空、大の字になって、ぽっかりぽっかり浮かぶ白い雲を見上げながら。
本人も気付かない間に、地面に倒れてしまっていたのだ。
そんな爽やかなことを考えていられる余裕はなくなってきた。
涼しい風でも吹いていれば幾分か気持ちが良かったかも知れないが、今日は無風、しかも相変わらずぎらぎら容赦なく照り付ける七月の太陽、灼熱地獄。
じりじりと、身体が焦がされ焼かれていくようで、たまらなく苦痛になってきた。
しかし大の字のまま、疲労と、感覚麻痺が上回って、この状況に対してあらがおうとすることが出来なかった。
あっちいな畜生。
くそったれ、丸焼けになるならなれ!
そんなことを心の中で叫びながら焦がされながら、あまりの疲労にそのまま目を閉じて眠りについてしまっていた。
「ほんと、どうしちゃったんだかなあ」
どのくらいの時間が経ったのであろうか。
野本茜の楽しげな呟き声に、優衣は現へと意識が戻されていた。
ぼやけている視界。
むにゅむにゅした感触。
なんだか、揺れている。
ああ、おれ暑さに倒れちゃってたんだ……
どうやら優衣は、野本茜にお姫様抱っこをされて、屋根の下へと運ばれるところのようであった。
しかし……篠原優衣の身体がむちゃくちゃ軽いとはいえ、すげえ力だな、茜ちゃん。
意識は完全に戻っていたが、揺られる感じがなんとも心地よく、優衣はそのまま寝たふりをしていた。
4
「うーん」
篠原優衣は腕を組んで、必死の形相であった。
なんだか顔が、ゆでダコのように真っ赤になっている。メーター振り切れて壊れてしまいそうなくらいに、血圧が上昇しているのであろう。
ぬうー、っと唸りながら首を傾げに傾げ、やがて顔を上げた。シンキングタイム終了。
口を開いた。
「分かりません!」
黒板の前で、腰に手をあて大威張りだ。
せっかく血圧を上昇させてまで頑張ってみたというのに、結局、問題に答えることが出来ない優衣であった。
ここは石巻聖亜女学院高等部。二年三組の教室だ。
現在、数学の授業中である。
「お前……これ、小学生でも解ける問題やぞ。ただの分数の掛け算やないか」
数学担当の石狩先生が弱りきったような関西弁で頭を掻くと、教室中にどっと笑いが起きた。
石狩先生は、別に優衣をバカにしているわけではない。
通常の問題を出したところ、理解があまりに酷くさっぱり分かっていなかったので、確かめる意味で問題のレベルを大幅に落としてみたというわけだ。
「じゃ、次の問題な。六たす七は分かるか?」
今度は、本当にバカにされたのかも知れない。
「そんくらい分かるに決まってんだろが! ええと」
優衣は、自分の手の指を一本また一本と折り始めた。
そして、両の指を全部折りきった。
額から、つっと汗がたれた。
「……指の数が足りなくて分かりません」
先生はまるで昭和のコントのように、「ズコーッ」と、後ろへ倒れそうになった。
また、教室がどっと沸いた。
「あれえ、天才少女がすっかりバカになっちゃって」
「ほんっとバカだよねえ」
「もうこれさあ、死んでも治んないんじゃない?」
思い思いに好きなことを口に出す女生徒たち。
これも落雷事故の後遺症、と説明されてはいるものの、しかし、これまでの天才秀才っぷりが気に入らなかった一部の者たちにとっては、からかえる絶好のチャンスということだろう。
「はい、死んでも治りませんでしたー。ざんねーん! って誰がバカだよ畜生! ぶっとばすぞ!」
どん、と足を激しく踏み鳴らした。
優衣、というか松島裕司としては、事故など関係なく単に自分が本当に頭が悪いから答えられないと分かっているだけに、なんとも悔しかった。
こんな毛も生えそろってないような、乳くせえ高校生のガキどもに、こうまでバカにされるとは。
「てめえらは現役だからいいけど、十年も離れてれば、足し算なんか出来なくなって当たり前だろ!」
優衣は拳を振り上げて、名誉と自尊心を守るために強く抗議した。
「ちょっとー、こいつ何いってんの? ほんっとバカ」
「入院しろ」
「こっちがホントの篠原なんじゃない?」
「薬剤投与で一時的に頭が良くなってた、みたいなー」
女子にからかわれまくっている優衣はまた、だんと足を踏み鳴らした。
「うるせえ! 黙れ、女ども! だいたいな、学校の勉強なんて出来なくても立派な大人はいくらでもいるんだよ。てめえら松島裕司ってJリーガー知ってっか。こないだ死んじまったけど、あいつは凄いやつだぞ。足が速いし。顔もまあ悪かないし。震災後の宮城に希望をもたらした大スターだぞ」
「知るか、そん奴」
「な~にいってんだか、バーカ」
コギャルのような外見の吉岡君江にまでいわれてしまったことで、優衣はついに切れた。
自分でぶっちーんなどと叫ぶ昭和生まれ特有のリアクションを取ったかと思うと、自席に戻り、隣の山本里美さんからカッターナイフを借りて、下を向いて一心不乱に消しゴムを細かく刻んで、吉岡君江の背中を目掛けて投げ付け始めた。
「死ね、てめえ死ね! 地獄へ堕ちろ!」
刻んでは投げ、刻んでは投げ、
それから一分後、優衣は一人、廊下に立たされていた。
両手にバケツを持って。
5
「えと、なんだ……夏の野菜ときのこのソースたっぷりハンバーグステーキと、若鶏のなんとかソースホイル蒸し、と、えーと、その他もろもろでございまーす」
スマイル0円、消費税込みで十三円でございまーす。
篠原優衣は、両手でがっちり持ったトレイを、客の待つテーブルの上に置いた。いや、あとちょっとというところで、ついトレイを傾けてしまって、上の物がずるずるっと滑って落ちそうになった。なんとか持ち直し、ことり置くと、ふう、とため息をついて、額の汗を拭った。
「なんだっけ、そう、ごゆっくりどうぞだ。そんじゃっ」
優衣は客に、ピッとおしゃれ敬礼をすると、テーブルから立ち去った。
ちょっとは、慣れたてきたかな。
さっきなんか、料理を思い切りテーブルにぶちまけちまったからなあ。その次なんか、傾いたのを慌てて戻そうとして、今度は自分の服にぶちまけちまったし。
みんなよく、こんなトレイなんかを片手だけで、しかも両手にそれぞれ持って落とさず歩けるよな。どんな体幹の鍛え方をしてるんだよ。バランスボールかなんかやってんのかな、やっぱり。後で誰かに教えて貰おう。
それはいいとして……
優衣は視線を落とすと、改めて自分の着ている服装をじっと見た。
この格好……
「むっちゃくちゃ恥ずかしいよなあ、これは」
思わず顔が赤くなってしまう。
黒を基調とした、白いふりふりの付いた、ちょっとゴシック的な、そして、ちょっと丈が膝上のスカート。
メイド喫茶などの服装と比べれば程遠く地味だが、人によってはそういっても通用しそうな雰囲気を持つ、そんな服装であった。
「スカートなんてただでさえ、すっかすかした感触がどうにも頼りなくて気持ち悪くて大嫌いだってのに、こんな物を学校以外でも履かなきゃならないとは。ったく」
でも、ここはぐっと我慢しねえと。
だってこの身体って、借り物だからな。他人の人生を、他人の時間を、おれが勝手に使ってしまっているだけだからな。
これまで篠原優衣がやってきていたことを、おれが勝手に判断して終らせてしまうわけにはいかない。
いつか返品することになった暁には、より良い状態にしておくか、百歩譲っても現状維持でないと、篠原優衣に申し訳ない。といっても勉強だけは、どうしようもないけれど。
と、そういうところだけは妙に義理堅い松島裕司であった。以前、病院に侵入しようとした時には、こいつが逮捕されようが構わんなどと完全に他人事だったくせに。
ここは東北地方を中心に、全国にも展開しているファミリーレストラン、ガジョレ石巻井内店である。JR陸前稲井駅前を走る県道沿いにある店舗だ。
個人経営のハンバーグレストランが買収され、店舗数が増え、さらに一流大手に買収されてそのままファミリーレストランになったという、ちょっと変わった発展の経緯を持つチェーン店だ。
優衣はここで、ウエイトレスのアルバイトをしているのである。
落雷騒動の後に父親が、娘がしばらく働けないという旨を店に連絡してくれていたらしいのだが、昨夜、忙しくて仕事が回らないから出てくれないかと店長から直々に電話がかかってきた。
その電話で初めて、篠原優衣がアルバイトをしているということを知った。
平日の三日。うち二日は早朝で、一日は夜。それと、土曜か日曜の夜。計四日。
高校に入ってからずっと、サッカーや勉強の間をぬって働いていたようだ。
家計の支えにするため、という目的で始めたらしいのだが、
これは松島裕司の勘だが、ただそれだけではない気がする。
おそらくは、客相手の仕事をすることで自分自身の性格を変えようとする意味もあったのではないだろうか。
心が本人ではないので、そう断定は出来ないが、でも一週間も篠原優衣として生活をしていれば、周囲の反応やら聞く話やら、几帳面に書かれた学習ノートやら綺麗にたたまれた服やら、人物に対してある程度の理解が出来てくるというものである。
しかし、いくら理解出来ようとも、
「やっぱり我慢できねええ! この服、気色悪いいいい!」
精神肉体、内外からぞわりぞわり攻めてくる感触に、優衣は思わず全身をかきむしりたくな衝動にかられた。
ふりっふりがさわっさわで、太ももの感触は妙に気持ち悪いし、見た目もなんともいえず恥ずかしいし。
しかも、仕事はなにがなんだか分からないし。
ただ注文を受けてそこへ運ぶだけかと思ったら、まあ仕組みのゴチャゴチャしてること。やり終えてもいないうちに、次の仕事が来たり、忘れないよう必死に頭ン中で唱えているとこにアホな客が怒鳴り声を投げ掛けてくるし。
皿は落ちるわ割れるわ。
別のテーブルに届けてしまっていると、先輩に引っ張られて裏でお小言くらうし。客も、その場でよく確認しろっつーの。
そんな愚痴を心の言葉で吐き散らしながら歩いていると、
「ねえ、篠原優衣さーん」
客のいるテーブルの間を抜けようとしたところ、いきなり背後から尻を撫でられた。優衣はぐおっ、と悲鳴を上げ、危うくトレイを傾けて落としそうになってしまうのを、片足伸ばして踏ん張ってこらえた。
振り向くと、テーブルに大学生くらいの男たちが四人。
その中の、ちょっと曲がったナスビのような顔の男が、どうやら尻を触わり、声をかけてきた本人のようである。
「なんだてめえは」
声を落とし、凄む優衣。
「どうしたの? 今日はずいぶん強く出るじゃない。へえ、ここって客にそういう態度取るようになったんだあ」
ナスビ顔は、にやり嫌らしい笑みを浮かべた。
「申し訳ございません!」
ウエイトレス仲間の梶昭子が小走りにテーブルへと近寄ってくると、深く頭を下げ、優衣の頭も押さえ付けて強引に下げさせると腕を掴み、「失礼しました!」と、再び頭を下げて、優衣をぐいぐいと奥へ引っ張っていった。
「ああいうタイプのお客さんに、ああいう態度取ったら絶対にダメだってばあ。でも、どうしたの? 篠原ちゃん、これまで怒ったりしたこと一度もなかったのに」
梶昭子は小声で尋ねた。
その言葉から、以前の優衣がどんなだったか容易に想像がつくというものだ。毅然とした態度に出ることが出来ずに、唇きゅっと結んで下を向いて黙っているだけだったのだろう。
「そんな、常に温厚なボクともあろう者が、怒ったりするはずないじゃないですか。それよりさ、なんなのあいつら? おれの名前フルネームで知ってんだけど」
胸のバッジからは、「篠原」としか分からないはずなのに。
「そのことも覚えてないの? 仕事を全部忘れちゃったことに比べれば、たいしたことないけど。あの人たちは、気の小さい篠原ちゃんをからかうのが楽しみの不良大学生だよ。名前は、聞かれるままに自分で教えちゃったんでしょうが。通ってる学校とか、中二までお父さんとお風呂に入ってたとか。……あっちのテーブルはあたしが変わるから、だから篠原ちゃんは五番から十一番をお願いね」
「はあ」
優衣はがりがり頭をかいた。
「頭かかない! ここレストランだよ」
梶昭子はそう注意すると、呼び出しブザーが押されたことに気付き、さっと笑顔へチェンジ、そのテーブルへと向かった。
「ああもう、面倒くせえなあ」
単純に仕事の内容だけでもそう思うのに、職場の人間関係なんかも、ちょっぴりここにいただけで、もう、なんだか色々とごちゃごちゃしたものを見せられる。チーフとサブチーフとの確執とか、女同士特有の対立関係とか、それにさっきみたいなアホな客もいるし。
でもまあ、お金を稼ぐわけだし、仕方ないよな。
Jリーガーとして、サッカーだけをやっていられた頃は単純でよかった。
いつ無職の身になるかという怖さはあったけど、他人との関係なんて、いちいち構築の努力をする必要もなかったし。ただ自分が一番になるために努力をする。それだけだった。
試合に勝つために話し合うことは当然あるけど、誰に気がねすることなく本音をぶつけあっていただけだし。もしそれで人間関係がおかしくなったって、別に構やしなかった。
実際、殴り合い寸前の大喧嘩をしたことだって何度もあったし。
サッカーだけで飯を食えるってのは、思えば本当に幸せだったんだな。
なのにさ、クラブのあいつらは、本当に、よくやってるよなあ。と、石巻ベイスパロウの野本茜や辻内秋菜らの顔が浮かんでいた。
毎日毎日、昼間はずっとこんな感じに仕事をしてて、その日の夜になってようやく練習だもんな。
こんな仕事、ほんの何時間かやっただけで、もう嫌で嫌でたまらんというのに。
その上、サッカーで走り回るんだもんな。
へとへとになった疲れが抜け切れていないうちに、また明日が来て、また仕事して。
すげえよなあ。
などと考えながら歩いていると、ドリンクバーのコーナーから突然子供が飛び出してきて、びっくりしたところ床の出っ張りに蹴つまづき、またしてもトレイの食器を床に全部ぶちまけて粉々に割ってしまったのだった。
5
テレビのサッカー中継を見ていた優衣は、いつの間にやら食べ物の焦げたようなにおいが部屋中に充満していることに気が付いた。
「なんだなんだ、このにおいは! いつからだよ!」
珍しくズンダマーレ宮城がリードしているものだから、それに夢中で全然分からなかった。
においの元は、当然といえば当然だがキッチンからのようである。
創作料理に果敢にチャレンジしていた優衣の父、正昭であったが、油加減を間違ったのか単にぼーっとしていたのか、とにかくフライパンで炒めていた肉や野菜を焦がしてしまったらしい。
「ああもう、なにやってんだ優衣の親父は。どいてな、おれが作ってやっから。男の手料理でも構わないよな」
息子のような娘の態度に、正昭はよく分からないまま、うんうんと頷いた。
優衣は焦げの酷い部分を捨てて、残った部分を皿に移し替えた。
次いで冷蔵庫に入っている食材を確認、取り出し、軽く洗うと、ざっくざっくと切り始めた。
以前の篠原優衣であれば、しっかり下味をつけたり、食材を細かく丁寧に刻んだりしていたのに、今は豪快に、実に豪快に、真っ二つか三つにした程度のものを、どんどん大きなフライパンへとぶち込んでいく。
正昭にとっては不思議な眺めであろう。
ある程度炒めたところで、先ほどの、正昭が失敗させてしまった物も混ぜ込んだ。
肉やら野菜やら炒めているうちに、父上同様にちょっと焦げ臭さが漂い始めてきたが、木ベラでガシガシこそぎ落とすように掻き回すとそのまま料理続行。
塩をばっと振り掛け水戸泉、
バターをちょっ、
醤油をほんのちょろっ、
水溶き片栗粉をほんの少々、
後はさあ、掻き混ぜろ掻き混ぜろ。
火を止めて、
仕上げにスパイスを少々、
ほーら、松島裕ちゃん特製、野菜と肉のなんだかよく分からない炒め、出来ちゃった♪
「完成! 席につけい!」
優衣に促されるままテーブルへと着く父。娘の作った、男の手料理が、大皿にてんこ盛られてどどんと目の前に置かれた。
「そんじゃお父たま、いざ、がっと召し上がれい!」
優衣の、この態度。
中の松島裕司は、持ち前の適応能力で、もうすっかりこの家の生活に溶け込んでいた。
正昭は目の前に置かれた物体を、なんともいえない表情で見つめていた。
なんだか色合いの悪い様々な塊が、より集まって塔を作り上げている。
見たところ、要するに野菜炒めだ。
しかし、一般的に野菜炒めとカレーライスは、適当に作ったとしても少なくとも見た目はまずそうには思えないものであるはずなのに、これは……
ひょっとして、この優衣は偽者で、自分を毒殺しようとしているのでは。
などと思ったかどうかは分からないが、とにかく正昭は、箸を手にしたまま滲み出る躊躇の表情でずっとこの野菜の塔を眺めていた。
いけない、せっかく娘の作った料理だ。と、意を決したか、一つを箸でつまんで、くわっとまなじり広げて一気に口に放り込んだ。
と、その瞬間、渋そうだった彼の表情に変化が起きていた。
「おいしい」
「おう、そうだろそうだろ」優衣はにんまり笑って「ちょっと焦げ焦げのとこもさ、まあイカスミとでも思えばなんてことないっぺ。勿体無いからな。見た目は悪いけどさ、腹に入りゃあなんでも一緒。腹に入るのが一緒なら出てくる物も一緒ってな」
優衣のその下品な口上に、正昭は口の中の物を吹き出しそうになった。
「お前、いくら事故でまだ記憶が戻ってないからって……」
「ああ、ごめんごめん。飯時にするもんじゃないよな、クソの話なんて。それよりサッカーだ。珍しくリードしてんだもんな」
優衣はテレビのほうへと身体の向きを変えると、大きく脚を開いて荒っぽく座り直した。
「よし、ズンダ粘れ! よしよしよし! ナイス。おっし、今日は勝てよお!」
丈のほとんどないショートパンツ姿の優衣は、大股開きで叫んでいたが、しかし、ちょっと油断した途端に、開いていた足が勝手にぴったり閉じてしまった。
ぎりぎりと力を入れて、再び足を開こうとするのだが、今度はなにか見えない力に抵抗されているように、なかなか開いてくれない。
「くそ、強情、だな、てめえは、おれはいま、股をだな、おっぴろげてえんだよ」
優衣は顔を真っ赤にして、真剣に自分の股の関節と戦っていた。
篠原優衣の、DNAレベルにまで染み付いた習慣がそうさせるのか、それとも実は本人の魂がここにいて、懸命に身体をコントロールしようとしているのか、とにかく最近、上品とはいえないような仕草を取ろうとすると、このようにして身体が逆らってくることが多く、窮屈で仕方ない。
だが、困難ありて喜びあり。
優衣はぐぐぐぐっと渾身の力を込めた。
「勝ったぞ、おらあ!」
ばっかんと、百六十度完全に股間を開き切った優衣は、ヒーハーと勝どきの声を上げた。
「おれ様にはむかうなんざ、二十九年はええんだよ畜生。舐めんなよこらあ、ベラボーメ!」
「優衣……」
正昭は僅かにぷるぷると身体を震わせながら、少しもの悲しそうな表情で、娘の顔を見つめていた。まあ、どんな娘の親でもこうなるだろう。
「ん?」
最近、すっかり篠原優衣としての自覚が出て来ており、名前を呼ばれるとすぐに反応するようになった。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが。
「いや……なんでも。……そうそう、この前の話の続きだけど、別に優衣は、無理して母さんに会わなくてもいいんだからな。父さんだって、優衣だけがいてくれればいいんだから」
「ん? なんのこと?」
おれじゃねえ時のことかな。ま、どうでもいいや。それよりズンダだズンダ。
などと他人事に思っている優衣を、突然の衝撃が襲った。
「ぐぅ!」
バリバリッ、と痛みにも似た電撃が頭を突き抜けた。いや、実際それは痛みであった。槍をぶっすりと突き立てられ、こじくられたかのような。
優衣は、びくり痙攣したように跳ね上がったかと思うと、両手で頭を押さえ、激痛に顔を歪めた。
呼気を漏らすかのような短く鋭い悲鳴を吐き出すと、椅子から転げ落ちるように床に四つん這いになった。
「優衣、どうした?」
正昭は素早く立ち上がるとテーブルを回り込み、心配そうな顔で手を差し出した。
「いや、なんでもねえ……」
片手を上げて父を制する優衣であったが、しかしまた、頭を貫く激痛に悲鳴を上げた。
痛み以外の感覚が、やはり突き抜けるように飛び込んできた。
それは、映像であった。
それは、言葉であった。
それは、感情であった。
なんだよ、これは。
なんなんだよ。
混沌としすぎて、飛び込んできたその映像や、言葉を、まったく映像や言葉として認識することが出来なかった。
だが、優衣が認識出来なかろうとも、それは容赦なく、どんどん頭の中になだれ込んでくる。
脳の神経に大量に流れてきたその刺激、情報、これが痛みの正体なのだろうか。
でも、何故、こんなタイミングで。
しかも、情報がどんどん入ってきているらしいのに、それを全然認識出来ないって、どういうことだ、畜生。
がっ、と床を叩いた。
痛みは、徐々におさまってきた。
真っ暗闇の中なのか、真っ白い光の中なのか、どこにいたのかさっぱり分からなかったが、ようやく視界がはっきりしてきた。
さらに痛みもひいて、優衣に正常な思考力が戻ってきた。
ぶるぶる、と頭を横に振った。
「大丈夫か」
父は、優衣の小さな手を取った。
「ああ、ちょっと目眩しただけ。ごめんな、もう大丈夫だから」
「また、発作じゃないだろうな。目、見えるか?」
「見えるよ。もうなんともない」
なんだよ、また発作って。病気持ちかよ、篠原優衣は。
そんなことより、今見えたのは……ほとんど見えてはいないけど、とにかく漠然と感じたのは……どどっとなだれ込んできたのは、きっと篠原優衣の記憶だ。
でも、どうして。
優衣の魂からの伝言なのか、それとも、物理的な、優衣のこの脳から引き出された情報なのか。
確証はないが、前者、篠原優衣の意思である気がする。
多分、入れ替わるべきおれの肉体が死んでしまったことで、彼女は移れずに、この身体の中にいるんだ。
その篠原優衣の魂が、おれに伝えたいことを、ああやって伝えてきたんだ。
でも、どうしておれなんかに……
先ほどまではあまりの激痛にとてもなにかを認識するどころではなかったのだが、冷静に感覚の記憶を辿ってみると、激痛とともにどどっと入り込んできたのは、篠原優衣の、母親に関しての記憶であったのである。
ほんの微かに残っている、母についての記憶。
これまで優衣が生きてきた中での、母への思い。
それらが、頭の中に飛び込んできたのだ。
その情報は、実に断片的なものではあったが、優衣の現状をある程度理解するには充分なものであった。
母親の育児放棄による、両親の離婚。
父親に愛されてはいたものの、でも、淋しかった幼少時代。
最初から母親はいないものとして、これまで生きてきた。
だが、
先日、父が母らしき女性とこっそり会っているところを目撃してしまった。
その態度から考えるに、娘と暮らしたいからと、よりを戻したがっているのは、おそらく母のほう。
父としても、それについてじっくり話し合う用意はあるのだが、しかし、育児放棄をして自分を捨てた母親に、果たして自分が会いたいであろうか、と遠慮しているのであろう。それで、はっきりと優衣に対してこの話を切り出せずにいる。
会っている場を見られてしまったことを、おそらく父は知っている(だから先ほどにしたって、母に会う必要はないなどと、優衣の気持ちを庇うようなことをわざわざいってきたのだろう)。
その密会の場を見てしまったことによるショックで、優衣は、より自分の心を胸の奥へと閉じ込めるようになってしまったようだ。
わざわざ死ぬ気はないけれど、死んだらそれで構わない。
自暴自棄とはちょっと違うが、とにかくすっかり弱り切った精神状態になっていた優衣。
そこに、あの事故が起きた。
そして、その身体に松島裕司の魂が入り込んだ。
篠原優衣は、消えてしまった?
いや、さっきも感じたけど、きっとこの身体の、心の、奥底の奥底に本当の優衣はいる。
でも、いるならなんで出てこない?
おれを押し退けて、この身体の支配権を奪い返そうとしない?
色々なことに立ち向かうのが面倒になったか? 怖じけづいたか?
でも、そもそも育児放棄で両親が離婚って、物心がつくよかずっと前の話だろ。
母ちゃんは最初からいないものとして、親父とずっと暮らしてきた、ただそれだけの話じゃないか。
ほとんど記憶になんかない母親のことで、なんだってそんなに落ち込んだり、びくびくしたりする必要があるんだ。
さっぱり理解出来ねえ。
まだ引き出されていない篠原優衣の記憶、その中に、なにか重大な秘密でもあるのだろうか。
考えるのやめた!
「成る事必然ならば、動ぜずとも事は起こる」
勝手に格言を作った。
そんなことよりズンダだ。いま試合中、こっちのほうが遥かに大事だ。
なんたって、もうすぐ久々の勝利なんだから。
テレビへと視線を向けた。
「あーーーーーっ」
優衣と、実況が同時に叫んだ。
後半ロスタイムに追いつかれたのである。
そして、試合終了。
6
「おーーっす!」
石巻ランドのロッカールームへ、篠原優衣はいつもの(といっても最近のいつもだ)ように大声を張り上げて入ってきた。
現在午後五時半。まだまだ夏の太陽がぎらぎら輝いている時間である。
ボールを蹴りたいから、と早めに来たのであるが、もう既に何人かがおり、椅子に逆向きに座って寄り集まって、談笑などをしていた。
「なになに、なんの話してんの?」
学校帰りにそのままここへ来ている優衣は、重そうなカバンとバッグを置いて一息つくと、端に置かれたパイプ椅子を引っ張り出して輪の中に入った。制服のスカートも気にせず、足を大きく広げて逆向きに座った。
「サッカー選手のことだよ。優衣はさあ、どの選手が好きなん? あ、男子限定ね」
寺田なえが尋ねた。
「おおう、よくぞ聞いてくだすった」
優衣は嬉々とした表情で立ち上がると、片足を椅子の上にどっかと乗せた。
「松島裕司」
なんの躊躇も恥ずかしげも見せずに、即答だ。
「ん? ああ、宮城のね」
彼女らは一年に二回ほどズンダマーレ宮城のボールパーソンをつとめるなど、それなりに関わりもあるため、宮城の選手の名前はそこそこ知っているのだ。
「こないだ死んじゃったじゃん」
「走り回るだけや」
「簡単なシュート外すイメージしかない」
「変だったよあの人。あたし、演歌歌いながらピッチに入っていくの見たことある」
「うわ、それきもっ!」
ここに本人がいるとも知らずに、みんな好き勝手なことを口にしている。
「瞬殺すっぞてめえら!」
やはりというべきか、一瞬にして沸点に達してしまった松島裕司イン篠原優衣であった。
「お、みんな早いねえ」
ドアが開いて、キャプテンである野本茜が疲労困憊の四文字を隠しもせぬ表情で入ってきた。上下とも薄い青の作業着姿だ。
手を当てた右肩を、ぐるぐる回している。
「どうしたん?」
辻内秋菜が尋ねた。
「それがさあ、新人君がさあ、加える調味料をことごとく間違ってて、弁当全部作り直しでさ。みんなで手分けして再配達でさ。それでもガミガミ文句いってくんのいるしさあ。最後に回ったお客さんのとこなんか、土下座までさせられたよ、あたし。ほんっと心身ともに疲れたあ。まあ、こっちが悪いんだから仕方ないんだけどね。ちゃんとしたお弁当を指定時間までに届けられなかったんだからさ」
脱力したように、茜は固く冷たい床の上に寝そべってしまった。
「はあ、そりゃ大変だったな。語尾がさあばかりになってることからも、心くたくたーってのが分かるよ。じゃ、特別に肩でも揉んでやるよ」
話を聞いてちょっとだけ同情した優衣は、学校の制服姿のまま茜の背中に馬乗りになると、両手でそれぞれ左右の肩を揉み始めた。
「おおう、きくう! って嘘、ぜんっぜんきかないよ。ほんと力がないよな、お前」
「おれにいわれたって知るかよ」
とはいえ非力といわれるのはちょっと悔しい。優衣はムキになって、体重をかけて肘で背骨両脇の押しどころをぐりぐりし始めた。
「お、それならききそう。でも、もうちょい強めで。三倍くらい」
「おう、やってやるぜ。つうか茜ちゃん二十代だろ一応。肩凝りなんかになってんじゃねえよ」
優衣は、ぐぐぐぐーっと、思い切りほぼ全体重をかけた。
「なるんだからしょうがない。あと、一応じゃない、まだ二十六。ケアを自腹でやってるから、金がなくて大変だよ。もう貯金すっからかんで、先月から全然行けてないし。だからこんな凝ってんだよ。うお、いいかも、それ。もうちょい下までやって。そうそう、そこ、いい!」
「サッカーのためのケアだろ、なんだよ、ここ年俸も勝利給もないくせに、そんな金まで選手に出させんのかよ。酷えな、掛け合った方がいいぞ」
「お前なあ、もう何年もここにいて、何を見てきたんだよ? みんな、そんなの覚悟の上でやってんだよ。だいたい、クラブのどこにそんな金があると思う?」
一部リーグの中にだって、トップ登録選手にも関わらず遠征費は自腹で、それどころか月々の参加費まで払わせるようなところもあり、ベイスパロウはまだましな方だ。
と、茜は説明した。
「そういわれても、釈然としねえなあ。だってさあJリーガーなんて、まあプロなんだから金をもらえるのは当然で、その上そうしたケアも全部やってもらってたぞ。ズンダなんか専属マッサージがいたし。去年、酸素カプセルなんてくそ高え機械買っちゃったりなんかしてさあ。上に乗っかって遊んでて、扉みたいな透明のとこぶっ壊しちゃったけど」
「はあ、なんで優衣がそんなとこで、そんなことしてんだよ?」
そばで椅子に座って話を聞いていた秋菜が、疑問を口にした。
「あ、いや、こっちの話だ」
しかし、なんでこいつら、そんな劣悪な環境で、そうまでサッカーをやりたいんだよ。さっぱり理解出来ねえ。篠原優衣は、まあ高校生って立場だからまだいいんだけど。
などと考えていると、またドアが開いて他の選手たちがぞろぞろと入ってきた。
もうすぐ、練習の開始時間だ。
優衣たちはトレーニングウエアに着替えると、外へ出た。
ボールを蹴りたくて早く来たっつーのに、つい関係のないことで時間を潰しちまったよ。
7
外へ出た彼女らは、まずはみんなで練習の準備を開始した。
用具置き場から必要な道具を引っ張り出し、コートまで運び、カラーコーンをならべ、数人掛かりでゴールを設置、ラダーを置き、ボールを置いた。
いつの間にか笹本監督、高蓮GKコーチが姿を見せていた。
監督の簡単な挨拶。
そしてトレーニング開始。
まずはジョギングだ。
広大なグラウンドを一周。
続いてストレッチ。
ここから、ようやく本格的な練習に入る。
「よっしゃ、ちょっくら子羊ちゃんどもを可愛がってやりますか」
篠原優衣は、指をぱきぱき鳴らした。
「出たなあ、ニューバージョン優衣の上から目線。頑張って、今日は最後までもたせてね」
寺田なえが、からかった。
ジョギングですっかり息が上がっているくせに強がっている優衣の姿を見て、つい意地悪したくなってしまったのだろう。
ミスター宮城という過去の栄光がそうさせるのかは分からないが、練習前の優衣の態度はいつもこうである。しかし、いざ練習が始まってみると、非常識なほどの体力のなさに、あっという間にへたばってしまう。
今日も、まったくその通りであった。
体力がないだけではない。女子で、しかも世代別とはいえ日本代表のはずなのに、なんだか技術的な面すらもおかしかった。思うようにボールを扱うことが出来ず、監督やコーチからは怒られてばかりだ。
日本代表の器に、ミスター宮城の魂、これでなんでこうなる?
この篠原優衣って奴、実はたいしたことないんじゃないか?
それでトップチームに所属だの、日本代表だのなんていってんだから、とどのつまり所詮は女。女子サッカーのレベルなんて、そんなもんなんだよ。
「優衣! 起きろ! バカ!」
なのに、なんでおれだけ怒られる?
みんなたいしたことないってんなら、なんで、おれだけ?
どういうことなんだ。
監督の怒声に、よろよろと立ち上がる優衣。ボール保持奪取の練習で、沼尾妙子に突っ込んでボールを奪おうとしてかわされ思い切り転んでしまったのだ。
あまりに不様な優衣の姿に、野本茜が見兼ねて近寄ってきた。
「優衣さあ、自分の身体を使いこなせなくなってるよ。自分、どんなプレーが得意なのか思い出してみな。それと、無理に相手に突っ込まなくていい。フィジカル勝負なんか仕掛けるな。優衣から技術を取っちゃったら、体力無ししか残らないんだぞ」
「それ、助言のつもりか?」
でも確かに、いわれてみれば自分は篠原優衣がどういう選手なのかを知らない。
力より技のタイプであるらしい、ということくらいだ。
しかし現在その技すらも、てんで発揮出来ない状態だし、一体なにをどうすれば少しはまともにボールを蹴られるのか。さっぱりだ。
だいたいおれ、センターFW一筋だったし……
ボールを受けて、走って、シュートするだけだったし。
今度は、茜から受けたパスを敵である美摘につい渡してしまった。
「なんでわざわざ相手にパス出すんだよ。お前の新しい趣味か? ふざけてないでいいから、少しは真面目にやれよ!」
今度の怒声の主は監督でもコーチでもなく、西田久子だ。怒声というより罵声というほうが近いかも知れない。
ムカッときた。
上手く身体を動かせないでいるこっちの気も知らねえで、いつも更年期みたいにカリカリしてる根暗クソ女が。
優衣はボールを手前に転がすと、突如助走をし、久子の背中をめがけてシャイニング爆熱シュート! ……しかし優衣のその足は、直前で止まり、ボールをちょんと押しただけだった。
躊躇したわけではない。
練習中のミスにかこつけて、殺意満々嬉々として蹴り足を上げたはずであった。
また、例のごとくなんらかの力が身体に働いて、行動を制限されてしまったのである。
優衣はボールの前で、なんとか再び蹴り足を上げよう、蹴ってやろう、ぶつけてやろう、と悪戦苦闘している。
「ったくもう、またかよこの身体! おい、てめえ優衣か? そこにいんのか? こら。邪魔すんじゃねえよ! 文句あんなら出てこいや! いやいや、まだ引っ込んでろ、邪魔すんな! あのくそ女、むかつくから、ボールぶつけてやんだからよ! ……って、だから邪魔すんなってんだよ! ぶっとばすぞ、てめえ!」
どれだけのせめぎあいが優衣の体内脳内で発生しているのか、真っ赤な顔をしたその必死な表情から想像するしかない。
「なにやってんだ? 優衣は」
「さあ」
辻内秋菜と沼尾妙子が、不思議そうに顔を見合わせている。
8
文字通りに散らばりまくった物々の中心に埋もれるように、あぐらをかき頭をかき途方に暮れていた篠原優衣であったが、ようやく重い腰を上げると作業を再開した。
何をしているのかというと、なんのことはなく、自室の整理をしているところだ。
思い立って始めてみたは良いが、散らかり具合のあまりの酷さに片付けても片付けてもきりがなく、身体よりもむしろ頭が痛くなってきて、ひと休みをしていたのだ。
あの事故の直後、初めてこの部屋に入った時には、片付けるものなど何もないくらいに綺麗だったのだが、一週間もしないうちに足の踏み場もないくらいにグチャグチャな惨状へと変えてしてしまった優衣。
同じクラスの、優衣と友人であるらしいところの麓絵美と小菅洋子が「明日、ひっさびさに優衣ん家に遊びに行ってあげるよ」とやらいい出して、じゃあさすがにちょっとはこの状況をなんとかしないとなあ、という気持ちになったのが部屋片付けを始めた発端である。
その片付けのさなか、机の本棚の端に、日記帳を見つけた。
茶色いハードカバー、錠前付きの日記帳であるが、だが施錠はされていないようだ。まさか書いた当人も、誰か他人が読むなどと思ってもいなかったのだろう。
それとも、父親になら見られても構わないと考えているのだろうか。
ハードカバーの厚みを差っ引いても、かなりの分量がある。本当に日記用途に使用しているのかは分からないが、そうであれば、書き始めたばかりでもない限りは相当な日数分がありそうだ。
単に淡々と日々の出来事を記しているだけの備忘録的な物なのか、それとも自己内面についてなども書いてあるようなものなのか。
もしかしたら、篠原優衣の悩みや、母親についての思いなども、ここから分かるかも知れない。
以前に、母親とのことに関連した篠原優衣の記憶が頭にどっとなだれ込んできたことがあった。それにより色々な事を理解出来た半面、より多くの疑問も発生した。いま手にしているのが篠原優衣のつけている日記帳なのであれば、読んでみることでそうした疑問点が色々と晴れるような気がする。
ゆっくりと手を伸ばし、ロックのかかっていない錠前部分に触れてみた。
また身体が動かなくなるのではないかと思ったが、特に、抵抗されることはなかった。
おれが開ける気がないことを、分かっていたからだろうか。
それとも、読まれても構わないと思っているのか。
結局、日記帳は開かなかった。
机の引き出しの中から鍵を探し出して施錠すると、本棚の元の場所へとそっと戻した。
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