ブストサル 第二巻

かつたけい

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第六章 雨粒の涙は雲の下にかなり土砂降り

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 からりと晴れた青空。
 その中を、綿菓子のように濃厚で白い雲が、天の神様がちぎっては放り投げたみたいに、ぽつり、ぽつりと浮かんでいる。

 といっても、けっして爽やかな気候などではない。
 完全な真夏日で、じっとしていても汗のだらだら出てくる、異常とまではいかないが相当な蒸し暑さだ。

 千葉県営船橋レクリエーションセンター。
 その中に、森林を切り開いた広い土地があり、わたしたち佐原南高校女子フットサル部の部員たちは訪れている。

 他にもたくさんの、ユニフォーム姿、ジャージ姿の女の子たちがいる。

 七月十日、土曜日である。
 わたしの住む香取市はまだそれほどでもないのだが、ここはすでに相当に蝉がうるさい。
 集めて積んだらトラック何台分になるんだ、というくらい。

「蝉って、食ったらうまいのかな」

 王子が珍しく真顔でいると思ったら、いきなり衝撃的なことを口に出した。

「やめてよ王子、気持ち悪いこというの。……まずいと、思うよ」
「でも、イナゴの佃煮はうまいですから、ひょっとして」

 そうだな。まずいに決まってるというのは、先入観か。蝉に失礼かどうかはおいといて。
 でも、経験したくもないけどね、蝉なんか。

 わたしの隣で、ゆうが呻き声をあげてしゃがみ込んだ。
 青ざめた顔で、口をおさえている。いまにももどしそうだ。

「サジ、大丈夫? 王子がバカなこといってっからだよ!」

 きっと想像してしまったのだろう。
 油で炒めてどっさり皿に盛られてるとことか。

 しかし、暑いな。蝉が元気に鳴くわけだ。
 照りつける強烈な日差しに、じりじりと肌が焼かれている。
 一日も当たっていたら、絶対に真っ黒になるな。もともと色黒の久樹なんか、どうなってしまうことか。

 ここは屋根のあるところがほとんどないから、試合の合間は木陰にいないと、日差しに全体力を持ってかれてしまう。

 屋外コートでの試合になるなんて、聞かされたのがつい数日前だから、戦い方をいまさら研究する余裕もなく、むしろあえて普段通りの練習をしっかり反復して、今日という日を迎えることになった、のだけど、でもやっぱり、覚悟くらいはしておくべきだったな。

 この暑さ、相当に過酷な大会になりそうだ。
 水分補給は徹底させないと、倒れる者が出ても不思議じゃないな。佐治ケ江なんか特に。

 EVOエブオ・ユースフットサル大会2010。というのが、この大会の名称だ。

 エヴォリューションなんたらという空気清浄機で有名な会社があって、そこが形式上の主催者。運営費など、お金を出してくれているというわけだ。

 埼玉、茨城、千葉、栃木の四県合同の大会で、各県の協会が主導者だ。スポンサーからのお金を使って、大会を実際に運営する役割というわけだ。

 この大会は、数年前までは高校のフットサル部のみを対象としていた。
 現在では、クラブチームも参加可能。
 フットサル部のない学校の方が圧倒的に多いので、その救済措置ということで協会から要請を受けたらしい。

 おそらく、関東で一番有名な大会である関サル、関東高校生フットサル大会との差別化も考えているのだろう。

 クラブチームOKとはいえ、U18つまり十八歳以下に限る。
 以下であればいいので、だから場合により、中学生が混じっていたりして面白い。
 過去には、小学生が参加したこともあるらしいけど、さすがにそれは、本気出せなくて困っちゃうよな。

 年齢以外にも出場に関する条件がある。
 この三年以内に、都道府県大会で優勝したことのあるチーム、またはそれ以上の大会で優勝もしくは準優勝したチーム、は参加が出来ない。

 優勝して当然といったチームを減らすことで、大会を最後まで盛り上げるためだろう。

 三年以内としている理由としては、こういうチームは、一年二年も経つと戦力が大きく変わるからだろう。
 伝統のある私立高校の男子サッカーや野球と違って、たまたまその学校にフットサルをやっている女子が何人もいて、たまたま能力のある子ばかりだったら、そこはその年度に関しては強豪になるということだ。

 例外として、強さが部員を呼んで年々勝手に成長していくようなチームもあるけど。
 千葉県の、ひがしのような。我が部もそうなりたいものだ。

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 今日と明日の二日に分けて行なわれるのは、予選ラウンドだ。

 予選ラウンドの会場は二箇所。
 ここ、千葉県ふなばし市と、埼玉県熊谷くまがや市だ。

 我々は別に、千葉県の学校だから船橋会場になったのではなく、たまたま運がよかっただけ。
 船橋もそう近くはないけれど、熊谷よりは遥かに近いから助かったよ。

 千葉県最南端、南房総のしらはま高校は熊谷会場だと聞いた。かわいそうにな。
 でも、絶対にホテルに宿泊することになるから、それはそれで楽しそうだけどね。

 そもそも、異常に暑いことで有名な熊谷をなぜ夏の大会の会場に選ぶのか理解に苦しむところだ。
 佐治ケ江なんて二分ともたずに倒れてしまうぞ。

 会場の手配だの、色々あるのだろうけど。
 とはいえ、あっちは屋内だから、直射日光が当たることはないだろうけどね。

 まあ、本当はこっちも屋内のはずだったんだけど。

 ここ船橋会場は、このレクリエーションセンターの広大な敷地の中にある複数の体育館を使って、屋内での試合を行なう予定だった。
 しかし、落雷による電源設備の故障により、急遽、外にあるサッカーグラウンドを細かく区切って試合を行うことになったのである。

 予選ラウンドの初戦から決勝ラウンドの決勝戦まで、すべてトーナメント方式。
 負けたら即アウトの一発勝負だ。

 勝ち続ければ、今日は三試合、明日さらに二試合を戦うことになる。

 船橋と熊谷、それぞれの会場で優勝準優勝の計四チームが、一週間後の決勝ラウンドに進出することが出来る。

 決勝ラウンドもまた四チームだけのトーナメントで、そこで二試合勝てば、大会優勝だ。

 つまり、この大会で優勝するためには、勝ちか負けしかない一発勝で七戦全勝しなければならないのだ。

 でも、逆にいえばたかが七戦。
 一試合勝てさえすれば、波に乗れそうな気もする。
 前述した大会規定のせいで、絶対的な強豪チームもいないはずだし。

 わたしたち佐原南高校の、第一試合の相手は、埼玉県立すぎ商業高等学校だ。
 きたかつしかすぎ町という、千葉県に隣接している町にある高校だ。

 先日なんとなく地図を見たら、町が鳥の形をしているのに驚いた。どうでもいい話だけど。

 杉戸商業に勝利することが出来たら、第二試合は、千葉県のながれやまはとがや高等学校対栃木県のTSSCの勝者と対戦することになる。

 TSSCというのは、厄除け大師やラーメンで有名な栃木県市に本部のあるスポーツクラブ。
 単にその頭文字を取って、TSSCだ。
 正式名称は、サッカークラブを意味するSCがお尻について、TSSCSCというらしい。ややこしい名前である。

 そのスポーツクラブのオーナーが元Jリーガーということもあり、サッカーとフットサルには特に力を入れているという話だ。
 選手たちというのは要するにそこのスクール生なのだけど、大会に出場するような選手はやはりかなりレベルが高いらしい。
 地元新聞でよく取り上げられるほど有名な、抜群に上手な中学生もいるという話だ。

 と、このように、第三試合までの、当たる可能性のある相手については、なるべく情報を仕入れている。
 それ以上はキリがないけど、でも多分勝ちあがるであろうチームに関しては注目している。千葉のいん西ざいおろしなど。

 もうすぐ、最初の試合が開始する時間だ。

 屋外サッカー場の、コート四面を使って同時に四試合、計八チームが戦う。
 そのすぐ後に、別の八チームが戦う。と、四回繰り返して第一回戦は終了だ。
 佐原南と杉戸商業の対戦は二回目だから、アップをしつつ、流山はとがや対TSSCの試合を観ることになる。

「マナちゃんいるかなあ」

 アップをしている流山はとがやの選手たちを見ながら、久樹が首をきょろきょろさせている。

「マナちゃん?」

 と尋ねるわたしに、久樹は楽しげな表情で、

「ほら、流山、お母さん、恥ずかしい」

 何故かぶつ切り。

「ああ、思い出した」

 去年の関東高校生フットサル大会で、流山はとがや高校の、とある選手の母親が来ていて、観客席から娘の名前の大絶叫大連呼。
 久樹と顔を見合わせ、親って恥ずかしいよねと話したことがある。その連呼されていた可哀想な子の名前が、マナちゃんなのだ。

「去年、一年生か二年生だったんなら、まだいるんじゃないの? でもさ、マナちゃんよりもお母さんが来てるかの方が気になるよね」

 と、わたしも、ちょっと面白くなってきょろきょろしてしまう。

 残念ながら流山はとがやはあまり選手個々のデータが入手できなくて、誰がいて、誰が何年生で、とかよく分からないのだ。
 だから、マナちゃんがいるのかいないのか分からない。

「うん、あたしもね、マナちゃんが来てるのなら、やっぱりお母さんも来てるのかなって思ってさ」

 久樹とわたしの二人は、選手の中にマナちゃんを探し、客席の中にマナちゃんのお母さんを探し、と、落ち着きなく首を動かしていたが、そんな無駄なことするまでもなかった。

「マナちゃーん! ファイットー!」

 聞き覚えのある声。
 観客席で、太ったおばさんが手を振り回している。
 記憶にあるのとまったく一緒、マナちゃんのお母さんだ。

「ちょっと、やめてよ、お母さん!」

 マナちゃんだ。
 ピッチから、観客席へと近寄りながら、大声で怒鳴っている。

「成長したねえ」

 久樹がニヤニヤ笑っている。

「そうだね」

 去年は、顔を真っ赤にしてうつむいているだけだったのに。
 ショートカットの髪の毛や幼い顔立ちは相変わらずで、見た目には全然変わってないけど。

 わたしはこんなふうに久樹と楽しそうに会話をしているが、それは表面だけ。
 わたしの心臓は、プレッシャーに押し潰されそう。
 もともと織絵や王子なんかと違ってタフな心臓ではないし、単に公式戦というだけでも緊張するというのに、さらに、あの久樹との約束があるからだ。

 ちら、と景子の顔を見る。
 景子はわたしの視線に気が付くと、柔らかな笑みを浮かべた。

 約束を知っているのは、他には景子だけ。
 たぶん、わたしの気持ち、全部分かってくれているのだと思う。

 ちょっと気分、楽になった。
 ありがとう、と、わたしも笑みを返した

 わたしたちにとって、これが高校最後の大会。
 久樹だけじゃない。三年生を、完全燃焼させてあげたい。

 させてあげたい、じゃない、するんだ。
 完全燃焼を。

 だって、優勝するんだから。
 ならば燃え尽きるまで走るのは当然のことだ。

 わたしたちは、
 この大会を、

 久樹や景子、このみ、フサエ、みんなで、必ず優勝、するんだから。

     3
 杉戸商業のベッキであるならびづか寿の、不用意なパスを見逃さずインターセプトしたはまむしひさは、相手ゴレイロの覚悟も定まらないうちに右足を振り抜いていた。

 弾道は真っ直ぐ、正確に枠を捉えており、しかも素早く小さな蹴り足だったわりに球速がある。

 決まってもおかしくないシュートだったけど、ボールはゴレイロほしさとの左腕に当たり、跳ね上がり、惜しくもゴールラインを割った。
 シュートを見切られたというよりは、運良く振り回した手に当たっただけのようだ。

 とにかく、佐原南は開始二分にして、一回目のCKを獲得した。

「いいよ、久樹! みんな、集中して得点狙ってこう!」

 わたしはピッチの外に立ち、手を叩き、声を張り上げた。

 ピッチの中では、相手の主将であるよこかわが、やはり声を張り上げて、味方の守備意識の集中を促している。

 杉戸商業高校女子フットサル部は、一昨年の秋に発足したばかりと聞く。
 以前より男子フットサル部は存在しており、フットサルをやりたい何人かの女子生徒が特別に男子の部へ参加させて貰っていたらしい。
 しかしそれでは公式戦にも出られない。と、その女子生徒らが中心となり、さらに仲間を何人か集めて独立した女子部へと昇格させたのだそうである。

 それから二年が経ち、男子部を経験しているのは、三年生の横川絵奈ただ一人。
 気軽に楽しんでやっている部ということで、レベルはさほど高くないと聞く。
 でも、それがまた厄介だったりもするので、油断は禁物だ。

 とにかく、横川絵奈には要注意だ。
 一年生の時に、毎日男子に囲まれて鍛えられているのだから。

 でもそれをいうなら、結局のところ全員に注意が必要か。
 女子部員数の少なさから、現在でもよく男子と合同練習をしているらしいし。

 しかし、油断さえしなければ、我々がしっかりと力を発揮出来さえすれば、絶対に勝てるはずの相手だ。

 今回、我々はメンバーの欠場が全くない。
 怪我人も怪我人も一人もおらず、誰を登録するか相当に悩んだくらいだ。

 やはり、去年の関サルはばらふじの呪いだったのだろうか。
 あの高校と対戦する相手は、怪我やらなにやら様々なアクシデントが重なりベストメンバーが組めなくなるという噂があり、我々の時も、本当にボロボロな状態で試合にのぞむことになってしまったのだからな。
 勝ったけど。

 さて、佐原南の得たCK、キッカーは久樹だ。
 グラウンダーのボールを入れることの多いフットサルのCKだが、久樹は意表をついて高いボールを入れてきた。

 なつフサエがジャンプし、ヘディング。ボールは杉戸商業のゴレイロ星聡美の手をすり抜けてネットを揺らした。
 佐原南の先制ゴールだ。

 いや、
 フサエがジャンプした際に相手選手を激しく押してしまったということでファールを取られ、残念ながらそのゴールは認められなかった。

「聡美、ポジショニング悪い! ブロック出来たよ!」

 杉戸商業の、横川絵奈主将が怒鳴り声をあげた。
 ゴールは取り消しだったというのに。

 やっぱり、真剣に勝ちに来ている。

「一年生は、ああいう姿勢を見習いなよ」

 わたしは振り返り、ピッチ外のみんなの顔を見た。

 今日ここには、登録メンバーだけでなく、部員全員で来ている。
 椅子をずらりと並べての大所帯だ。

 アップしていたり、地べたにあぐらかいていたり(王子)と、椅子に座っているのは半数くらいだけど。

 なお一年生の中では、いくやまさとづきなしもとさきの三人がメンバー登録されている。

 まだ入りたてだ。
 よほどのことがない限りは、出場することはないだろうけど。

 隣同士に座っている里子と咲は、なにがきっかけか分からないが、一瞬お互いの顔を見つめあった。
 二人ともすぐに視線をそらしたが、里子が、

「ねえ、葉月、席交換してくれない? あ、やっぱりいいや、葉月が可哀想、あたしが我慢するよ」

 そういうと、椅子に深く座りなおした。
 ちょっとお尻を横にずらして、葉月にぴったり肩をくっつけた。つまり、咲とのスペースを取った。

「いいたいことあるんなら、はっきりいってくれないかな。気持ち悪いんで」

 咲が、再び里子の顔に視線を向ける。

「あんたにひとこともいってないでしょ。からまないでくれる? 不愉快だからさあ」

 里子は、咲に一瞥すらくれず、淡々といった。

 挟まれた葉月は、このムードに耐えられずに下を向いて小さくなってしまっている。可愛そうに。

 咲は頭の血管が切れたか、無言で立ち上がると里子へ近寄り、胸倉掴もうと手を伸ばす。

「さわんな!」

 里子は、咲の手を払いのけ、睨み付けた。

 こいつらは、もう……

 わたしは二人の間に割って入り引き離すと、続いて咲のパイプ椅子を取り上げてたたんでしまった。

「里子、あんたも立ちな」
「どうして」
「立て!」

 わたしの怒鳴り声に、里子は渋々とした表情で立ち上がった。
 その椅子も折りたたんでしまう。

「子供じゃあるまいし。くだらないことで喧嘩してんじゃないよ」

 あらためて、椅子をひとつ広げて、地面に置いた。

「この椅子に、二人で座ってな」
「嫌です!」

 寸分の狂いもないタイミングでハモる二人。
 わたしは心の中でおかしみをこらえながらも、なんとか、きつい表情をつくり、

「一生、試合で使ってやんねえぞ!」
「分かりましたよ!」

 二人は怒った表情で、一つの椅子を分け合って座った。

「お尻くっつけてくんなよ!」

 咲が文句をいう。

「そっくりそのまま返す!」

 里子も負けじとやり返す。

 こんなことをしている間にも、ピッチ上では激しい攻防が繰り広げられている。
 ちょうどいま、杉戸商業の主将である横川絵奈の弾丸シュートを武田晶が弾いたところだ。

 こぼれにすっと詰め寄る横川絵奈は、自らねじ込もうとするが、その前にらくやまおりが奪い取った。

 織絵は、すぐさまあぜけいへとパスを出した。

 杉戸商業の背番号2番、アラのふるかわみどりが景子へと走り寄る。

 景子はちらりとフサエの方に視線を向け、その瞬間に逆方向へと動き出し、滑らかなボールタッチで古川みどりをかわしていた。
 すうっ、と静かな柔らかいドリブルで上がると、さらにベッキの並塚寿々子をもかわした。

 飛び出すゴレイロの星聡美。

 景子は真横へとボールを転がした。

 走りこんでいた久樹が、無人のゴールへとシュート。
 だがこれは角度がなさすぎた。
 ボールはゴール前を通り過ぎ、ポストを越えたところでゴールラインを割った。

 景子が詰めていたが、間に合わなかった。

 残念。
 でも、まだまだこれからだ。

 しかし、景子のドリブル、本当に見ていて気持ちいいな。柔らかく腰をちょこっと落として、するすると、滑らかで。なんだか上品さがあって、わたしには絶対に真似出来ない。どっちかといえば王子寄りだからな。まあ、あそこまで下品じゃないけど。

 もっと見ていたいけど、でも、それはあとのお楽しみだ。

「サジ、そろそろいくよ」

 わたしは振り返り、ゆうを見る。

「はい」

 ストレッチをしていた佐治ケ江は、こちらを向くと、小さく頷いた。

「なにもいうことはない。練習通り、久樹と自由にやっていいから。景子、交代!」

 佐治ケ江は、交代ゾーンへと歩いていく。
 畔木景子も、交代ゾーンへと走り寄ってくる。

「任せたよ、サジ」

 景子は手を伸ばす。
 この凄まじいまでの炎天下、何分かしか動いていないというのに、さすがの景子も汗がだらだらだ。

「はい。お疲れさまです」

 佐治ケ江も手を伸ばすと、その手を景子が叩いた。

 前半五分、佐原南、選手交代。

 畔木景子 アウト 佐治ケ江優 イン

 こちらは初の選手交代だが、杉戸商業はさっきのCKの直後に、ピヴォをなかむらおりからへと交代している。

 八ツ田亜希はスピードと強引な突破でぐいぐい前へ行こうとするタイプだが、楽山織絵がベッキとしてしっかり食い止めてくれている。

 現在ピッチ上にいる選手は、次の通りだ。

 杉戸商業 星聡美、横川絵奈、古川みどり、並塚寿々子、八ツ田亜希

 佐原南 武田晶、楽山織絵、佐治ケ江優、夏木フサエ、浜虫久樹

 楽山織絵は、サイドでハイボールを競り合い、マイボールにすると、すぐさま逆サイド前方へと長いパスを送った。

 駆け寄る佐治ケ江。
 ファーストタッチは、すっと前進しながらの腿トラップだった。

 しかし、背後に密着していた主将の横川絵奈が、佐治ケ江の足の間から、強引に自分の足を突き入れ、ボールをかっさらった。
 佐治ケ江の肩を押さえつけているし、ファールだろうと思ったが、笛は吹かれなかった。

 横川絵奈は短くドリブルし、味方であるピヴォの八ツ田亜希へとパスを出しつつ、そのまま前へと走り続ける。

 フサエが、マークをどうすべきか戸惑っているうちに、綺麗なワンツーで横川絵奈は抜け出していた。

 フェイントで楽山織絵もかわされて、ゴレイロ武田晶との一対一を作られてしまう。

 シュートを打たれたが、枠を捉えられずクロスバーを直撃した。

 横川絵奈は諦めず、跳ね上がったボールの落下地点に走り寄り、ヘディングシュートを狙う。

 打たれる直前、武田晶がジャンプしながらキャッチしていた。

 危なかった。

「織絵、集中!」

 わたしは叫んだ。

 晶のキックを、フサエが受けて、丁寧に佐治ケ江へと繋ぐ。

 そして佐治ケ江から久樹へ。

 杉戸商業、古川みどりと横川絵奈の二人掛かりに、久樹は強引に突破を図るが、ちょっと無茶だった。潰されて、ボールを奪われてしまう。

 しかし審判の笛が鳴って、佐原南はFKを得た。

 キッカーは久樹だ。
 グラウンダーで直接ゴールを狙ったが、あと少しのところで枠に届かなかった。
 完全に意表をついたコースで、これは決まったかと思ったのだけど。
 いつも屋内で試合をやっているが、本日は屋外のサッカー場で芝のコート、ということも多分に影響しているのだろう。

 久樹は足を踏み付け悔しがっている。

 杉戸商業ゴレイロ、星聡美のゴールクリアランスだ。

 アラの古川みどりが受けようとするが、軌道に入り込んだ佐治ケ江がインターセプトした。

 佐治ケ江は、すぐに斜め前方のフサエへとパス。しかしフサエはそれをスルーして、

 走り込んでいた久樹がシュートだ!

 ゴレイロ星聡美の足に当たってこぼれたボールを、久樹は瞬時に自分で詰め寄り、ねじ込みにいく。

 しかし残念、その前に、星聡美のキックで大きくクリアされてしまった。

 いい攻めだった。

 その後も、佐原南の攻勢は衰えない。
 佐治ケ江も雰囲気に慣れてきたか、久樹とのコンビネーションで、どんどん相手の守備陣を切り裂いて、前へ前へと出ていくようになった。

 相手は、守備で手一杯だ。
 ゴールも時間の問題か。いや、分からないけど、とにかくそれだけ佐原南が押している。

 そうそう。佐治ケ江、その調子だ。
 だからいつもいっているだろう。自信持ってやれさえすれば、技術は久樹に引けをとらないくらいに凄いんだから。

 しかし、世の中そう上手くはいかないものである。
 佐治ケ江がボールを受けた瞬間、杉戸商業の古川みどりが奪おうと迫って、二人の身体がぶつかりあった。

 足をもつらせて、古川みどりは転んだ。
 第一審判の笛。

 激しい接触ということで、佐治ケ江にイエローカードが出された。

「違う違う、向こうが当たってきたんですよ!」

 ピッチの外から、わたしは叫ぶ。

「どう考えても向こうのファールでしょ。倒れたという結果だけ見て判定しないで、よく見てて下さいよ!」

 久樹も審判へと詰め寄り、抗議する。
 しかし、審判は首を横に振るばかり。判定は覆らなかった。

「サジ、ボケッとしてないで主張しなきゃダメだろ! 自分だけじゃなく、チームに迷惑かかんだぞ!」

 久樹は、佐治ケ江にきつい視線と口調をぶつけた。

「はい」

 溶けて消えそうな声で、小さく頭を下げる佐治ケ江。

 わたしも、佐治ケ江を手招きで呼び、小さな声で、

「過ぎたことは気にしない。でも、サジ、もうイエロー貰えないから、気をつけてプレーしてね。審判、レベル高くないみたいだからさ」
「はい。気をつけます」

 佐治ケ江は、沈んだような顔で頷いた。
 久樹のきつい言葉は関係なく、佐治ケ江はいつもこんな顔だ。
 だから、普段通りなのか落ち込んでいるのか、普通の人には分からないだろう。

 でも、わたしには分かる。
 佐治ケ江は間違いなく動揺している。
 久樹から受けた言葉に。

「じゃ、いってこい。セットプレー、気をつけて」

 わたしは佐治ケ江の背中を叩いた。

「はい」

 自陣ゴール前の守備に戻る佐治ケ江。

 真実は違うが佐治ケ江が与えたことになっているファールのため、杉戸商業の直接FKからリスタートだ。
 キッカーは八ツ田亜希。
 一番技術のある横川絵奈が蹴るものとばかり思っていたので意外だった。

 なにかトリックプレーを使ってくるのかもな……

「久樹」

 わたしは久樹に声をかけると、静かに、足を踏み鳴らすポーズを取り、足を指差した。
 久樹は、指でOKサインを作った。

 キッカーの八ツ田亜希は、短く助走しボールへ迫る。
 思い切り足を振りぬく……と見せ掛け、ちょんと横後ろへ戻すように蹴り出した。

 転がるボールの先には、横川絵奈が待ち構えている。彼女は敵味方の密集の中にいたはずなのに、いつの間に抜け出したんだ。

 でも、その行動、予想通り。

 パスは横川絵奈には届かなかった。
 久樹がインターセプトしていたからだ。

 横川絵奈へパスを出そうとする確立が高そう。そう判断したわたしは、久樹へとサインを送ったのだ。
 久樹は小柄であることを生かし、長身の古川みどりの陰に隠れて横川絵奈から見えにくい場所を取り、不意に飛び出したのだ。
 そのため、横川絵奈の反応は遅れた。
 彼女が、はっと表情を変化させた時、すでに久樹はボールを奪取し、ドリブルに入っていた。

 こうして、あっさりとインターセプトに成功したのだ。

 杉戸商業は、このチャンスになにがなんでも得点するつもりだったのだろう。
 ゴレイロ以外の全員がこのセットプレーによる攻撃に参加していた。そのため、ゴール前にはゴレイロの星聡美しかいない。

 両チームのゴレイロ以外の全員が、杉戸商業ゴールへと向かって走る。

 その遥か前方を、ドリブルで独走するのは久樹。

 だが、少しボールタッチが荒く大きくなってしまったところを、横川絵奈に追いつかれてしまった。
 さらに、正面からゴレイロの星聡美が飛び出してくる。

 久樹は、左へかわす動きをしつつ、右へ、ちょんとボールを蹴り出した。

 後ろから走ってきた佐治ケ江が、そのボールを受けた。

 久樹としては勝負してもよかったのだろうが、より確実な方を選択したのだろう。

 無人のゴール、距離約六メートル、針の穴を通すようなシュート技術を持つ佐治ケ江が外すわけもない。
 ようやく先制だ。

 しかし、

 ゴール真正面からの佐治ケ江のシュートは、ポストの脇をかすめて、ゴールラインを割った。

 嘘だろ……

「どうした、サジ」

 久樹が心配する。

「すみません……」

 うつむいたまま、ぼそりと謝る佐治ケ江。

 ほっと胸を撫で下ろす杉戸商業の選手たち。

 まあ、ミスは誰にでもある。
 チーム力では圧倒しているのだし、これを続けていけば必ず点は入るだろう。

 と、思っていたのに、

 佐原南が、すっかり別のチームになってしまった。

 佐治ケ江が、かみ合っていないのだ。
 連動性を一人で壊してしまっている。個人技でもミスばかりだ。

 久樹は心配そうな、不思議そうな表情を浮かべている。

 わたしは、心の中で苦笑した。
 気付かないんだろうなあ、その男っぽい性格じゃあ。
 さっき久樹の投げつけた言葉が原因だよ、きっと。
 普段ガーッといわれたことないような人に怒られたものだから、それですっかり畏縮し、動揺してしまっているんだ。

 サジもサジ。気にするなっていったのに。本当に気が小さいんだからな。

 しかたない、誰かと代えるか。
 いまのままじゃ、一人少ないよりタチ悪いからな。

「梨乃先輩、選手交代!」

 わたしの耳元で、突然やまゆうが爆音のような大きな声を出した。

「うわ、びっくりさせんな! 交代を決めるのはあたしだ」
「だからいってんですよ。あたしと交代して下さい。あたしと、久樹先輩を」
「久樹と? なにいってんだ……」

 バカなのか? と一瞬思ってしまったけど、

 でも、悪くないかも。
 うん、それかなり悪くない。

「久樹、交代! 王子と!」

 わたしは、ピッチの中の久樹に叫んだ。
 予定より遥かに早い交代だというのに、久樹は特に驚いた表情も見せず、戻ってくる。

「よし、王子、行ってこい!」

 わたしは王子の背中を思い切り叩いた。

「サーイエッサー!」

 王子は、自分のほっぺを両手でバシンバシン引っぱたいて気合を入れると、交代ゾーンへ全力ダッシュ。
 前半九分、佐原南、選手交代。

 浜虫久樹 アウト 山野裕子 イン

「梨乃、あたし下げてくれて、ありがとう」

 久樹は戻ってくるなりそういって、わたしに笑顔を向けた。
 凄まじい暑さと疲労に汗だらだらの、酷い顔だ。

「王子の提案」

 わたしは、手にしていたタオルを渡してやる。

「そうなんだ。さすが王子。分かってるなあ、サジのこと」
「ということは、久樹も分かってたんだ」
「うん。反省してる。サジの気が、やたらちっちゃいこと、よく知ってるはずだったのに」

 運動部なんだし、ほんとはそんなに甘やかす必要もないのだけど、というか甘やかしてはいけないのだけど、でも試合中は、やはり選手をうまく盛り上げていかないとならないからな。

「サジ、表情かたいよ。試合はさ、楽しんだもん勝ちだよ」

 王子は、佐治ケ江の横に立つと肩を叩き、そういって笑みを浮かべた。

「そうだよサジ、練習みたく、気楽にやろ。王子のバカのいう通り、楽しんだもん勝ちだ」

 久樹も笑顔で、佐治ケ江に声を飛ばした。

「バカバカいってる方がバカでーす」
「いえ、どう考えても王子の方がバカでーす」
「なんだ久樹コラア!」
「……あの、試合続けてもいいですか?」

 審判の人が、困った顔をしている。

「あ、す、すいません」

 つっかえ方までぴったりそろえて謝る久樹と王子。

 どっちがバカかはあとで決めてもらうとして、とにかく試合再開だ。

 佐原南の守護神、武田晶のゴールクリアランスだ。

 フサエが頭で受けようとするが、その直前に、杉戸商業の並塚寿々子に間に入られて奪われてしまう。

 だが、並塚寿々子が胸トラップしたボールを足元で落ち着かせるより前に、横から王子がかっさらった。

 そして、ドリブルで前へ。
 杉戸商業主将の横川絵奈が詰め寄ってきていたが、王子はすでにボールを持っていなかった。ヒールで、背後のフサエにパスを出していたのだ。

 横川絵奈が混乱する一瞬の隙に、その脇を王子が駆け抜ける。
 いつの間にか、また王子の足元にはボール。

 フサエとのワンツーで抜けた王子は、走りながら横へボールを転がした。

 佐治ケ江が、ボールを受けた。

 すぐさま、杉戸商業の古川みどりが駆け寄り、奪おうとする。

 しかし、佐治ケ江はルーレットで相手を混乱させて、一瞬にして抜いていた。

 杉戸商業ゴール前には、ゴレイロの星聡美だけだ。

 佐治ケ江の後ろから、古川みどりが凄い勢いで迫る。ファール覚悟でボールを奪おうとしているのが分かる。
 しかし佐治ケ江は、追いつかれる前に右前方、ゴール前へとボールを転がしていた。

 王子がなにやらけたたましい雄叫びをあげて、ゴール前へと走る。

 ゴレイロの星聡美も、クリアしようとダッシュでボールへ迫る。

 王子の方が、先にボールに触れた。
 ボールを蹴り、星聡美の前を駆け抜けると、両腕をばたつかせ急ブレーキをかけながら、無人のゴールへと蹴り込んだ。

 こうして、ようやく杉戸商業のゴールネットが揺れたのだった。

「裕子ちゃん、ビューティフルゴール!」

 やっと、決まったか。
 前半二十分。待ちに待った先制点だ。
 王子らしい不恰好なゴールで。王子の脳内だけでは、美しいゴールのようだけれど。
 不格好でも美しくてもどっちでもいい。とにかく、ありがとう王子。助かった。

 よし、ではここで選手交代だ。

 佐治ケ江優 アウト きぬがさはる イン
 夏木フサエ アウト 畔木景子 イン

 王子のおかげで調子を取り戻した佐治ケ江だけど、技術力はあるものの体力がないから、あまり出し続けることも出来ない。
 フサエも、開始からずっと、攻撃に守備に走り回っていたし。
 だから、この二人を代えた。

 失点に集中力が切れてしまったのか、追い掛ける展開になったためか、おそらく理由は両方だろうが、杉戸商業の組織力が崩壊した。

 佐原南が、いいようにボールを回せるようになった。

 景子のドリブル突破から、ゴール前へパス。
 春奈が右足をうまく合わせて、佐原南、二点目。
 ここで、前半終了の笛が鳴った。

     4
 ハーフタイムでは、特に修正の指示は出さなかった。
 ただ、相手ががむしゃらに来た時が怖いので、合わせることなく自分たちのリズムで戦おう、と。語ったこととしては、これくらいだ。

 後半戦である。
 杉戸商業の選手たちは、ハーフタイムを挟んだおかげか、もう動揺はおさまっているようだ。

 もともと弱小、と開き直ったのか、楽しんでいるような気持ちさえ感じる。

 とはいえ、佐原南としてはセーフティーリードで焦る必要がないことと、相手に比べて基本的な技術力も高いことから、こっちが圧倒し続けている状況に変わりはない。

 楽山織絵 アウト 真砂茂美 イン

 後半三分。ベッキの交代をした。
 織絵を休ませたいのと、茂美に経験を積ませたいという理由だ。

 笛が鳴った。
 王子が、切り返して抜こうとするなかむらおりの足を引っ掛けて転ばせてしまったのだ。
 イエローカードが出された。

「下手だな王子先輩は。あたしの方が上手い」

 里子が、じれったそうに呟く。

「はあ、試合に出てなくてよかったねえ」

 咲だ。
 同じ椅子を分け合っているという情は、まったくないようだ。

「それ、どういう意味?」
「説明しないと分かんない? 頭の回転にぶっ」

 ほんとこいつら、喧嘩ばっかりして。

 でも、こういうのに限って、いざ打ち解けると大親友になってしまったりするんだけどね。

 佐原南は、攻撃の手を緩めることなく、杉戸商業を圧倒し続け、加点していく。
 終盤はわたしもピッチに立ち、久樹のアシストで得点した。

 それから間もなく、試合終了の笛が吹かれた。

 終わってみれば、人もボールもどんどん動く我ながら理想的といえるフットサルで、7-0と圧勝だった。

 うち4点が王子によるもの。
 見ていて全然上手に思えないプレーだというのに、なんだかんだと結果を出す奴だ。

     5
 これは、強いな。

 キックオフ直後にすぐ、そう直感的に思ったものの、なにがどう強いのかが分からなかった。

 超攻撃型の流山はとがやに対して、立ち上がりの一失点しか許さず、その後に六点取っての逆転勝ち。
 その結果を見れば強いのは分かるが、
 実際、この目でその試合を見ていたにもかかわらず、なにがどう強いのかが分からなかった。

 流山はとがやが自滅して勝手に一点また一点と失点していくようにも見えたし、流山はとがやの攻撃をただなんとなく運もあって守りきってしまったようにも思えた。

 強いのは、間違いない。
 なにが、どう強いのか。
 はじめはさっぱり分からなかったけど、こうして直接当たって一分、二分と戦っているうち、だんだんと、その理由が分かってきた。

 個人技、組織力もさることながら、相手を分析、研究した対策を、露骨なまでに、徹底してやってきているんだ。
 しかも、研究した相手に対しての攻めのパターン、守備のパターンを複数持ち、対策される前に切り替えている。
 そう、どういう攻め手を持つチームなのかが曖昧だったから、なにがどう強いのかが分からなかったんだ。

 わたしは、プレーの切れた時に、春奈にそのことを話した。
 しっかり見て、交代でベンチに下がったらハーフタイムまでにしっかり分析するようにお願いした。
 無茶かも知れないけど、春奈ならたぶん大丈夫。とにかく頭の回転が速く、柔軟だから。

 現在行われているわたしたち佐原南の第二回戦の相手は、栃木県のクラブチーム、TSSCである。トチギサノスポーツクラブ、の略称らしい。

 前述のとおり、流山はとがや高校は、このチームに敗れて初戦で散った。
 マナちゃん、ちょっとたくましくなっていた。泥臭く、すべりこみながらの先制ゴールも決めたし。
 結局、大逆転を食らってしまったけど。

 たくましくなっていたけど、相手に笑顔で握手を求めたりして、気持ちの良い、あのすがすがしさは相変わらずだった。

 佐原南とTSSCとの対戦に話を戻そう。
 現在、我々は相当に苦戦を強いられている状況だ。

 個人技が群を抜いているような要注意人物は、現在のところピッチ上にはいない。

 久樹や佐治ケ江の方が、圧倒的に技術力は高いだろう。

 しかし、久樹も佐治ケ江も、TSSCには完全に対策されている。

 それが分かったから、久樹はすぐに交代させた。
 無駄な体力を使って欲しくないし、外から、攻略の糸口を見つけて欲しかったから。

 個人のみならずチーム全体の戦い方に関しても、こちらの攻撃は組織的な守備に完全に対策され、こちらの守備はあちらの組織的かつパターンの豊富な攻撃に苦しめられている。

 網でからめとられて、じわじわと体力を奪われているような感じだ。

 監督が、元Jリーガーらしい。
 サッカー経験は長いのだろうけど、フットサルの指導経験はそれほどでもないだろう。こちらにくらべてそれほど優位ということはないはずだ。
 と、わたしは自分の心を励ます。
 だけど、こうまで劣勢だと、やっぱり自信がなくなってくる。

 現在、前半十一分。
 現在のピッチ上の選手は、

 TSSC だんことせいまつあきさかさなが

 佐原南 たけあきら真砂まさごしげあぜけいなつフサエ、ゆう

 わたしはタッチラインのすぐそばにまで寄り、指示を飛ばしている。

 ちらりと、相手側のベンチに視線を向ける。

 背番号6番のユニフォームを着た、あどけない顔の選手が、試合を見ながらアップをしている。

 地元では天才少女と騒がれているらしい、、確かまだ中学二年生だ。
 かるたみたいな名前のこの天才少女、この大会にはまだ一度も出場していない。

 どんな選手なんだろう。
 ただでさえこの栃木県のクラブチームには苦しめられているというのに、その上、そんな天才が出てきたら……

 先制さえ出来れば、どんなに対策されていようとも、うちの自慢の堅守はそう簡単に崩せるものじゃないのだけど。

 まぐれでもいい。
 やはり先制しないと。
 それか、せめて前半終了まで持ちこたえてくれれば……

 しかし、世の中そううまくいくものじゃない。
 むしろ、試練という意味では、どうしてこうもうまいタイミングで訪れるのか。

 佐原南は、失点した。
 セットプレーの混戦の中から、野間聖華に押し込まれ、決められてしまったのだ。

 抱き合い、喜びを爆発させるTSSCの選手たち。
 はしゃぐのも当然だろう。向こうにしてみれば、優勢に攻めつつも得点を奪えず、じれったい中ようやくにして相手のゴールをこじ開けたのだから。

 佐原南の選手たちには、落胆の色が広がった。
 これもまた当然だろう。全然得点の期待出来そうもない雰囲気の中、なんとか粘ってきていたのに、とうとう失点してしまったから。

 我々にとどめをさすべく、相手はより攻勢を強めてきたが、晶の好判断ファインセーブ連発によりなんとかこれ以上の失点は食い止め、そして審判の笛、長かったような短かったような、そんな前半が終了した。

     6
 とぼとぼとした足取りでピッチから出てくる、佐原南の選手たち。

「みんな、お疲れ。凄くいい勝負してるってのに、なに、みんなのその顔は?」

 わたしは、みんなの肩を叩いていく。

「だって、点、取られちゃって……」

 フサエが、いまにも泣きそうな顔だ。

「この前説明したけど、向こう、元Jリーガーのオーナーが直接監督もやってるんだよね。どんなもんかと思っていたら、まあ対策の完璧なこと。特に、久樹とサジに対して。でもさ、逆に考えると、元Jリーガーにそこまで恐れられているんだよ。これは、自信持っていいんじゃないかな」

 失点してしまってどうしよう、とあたふた動揺していたくせに、考えてもいなかった言葉がすらすらと口をついて出てきた。
 わたし、もしかして嘘つきの才能があるのかもな。

 そして、自分の嘘に、自分自身が慰められてきた。
 気持ちの問題だけじゃない。
 自分自身の嘘に、攻略のヒントを見つけたのだ。

 でもこれはバクチの領域。
 まずは春奈の分析を聞いて、堂々と攻略したい。

「大丈夫、絶対に勝てる! 後半も粘り強く戦っていこう。それじゃ、作戦会議だ。ちゃんと聞いてよね。逆転すんだから。じやあまずは春奈に、状況の説明をしてもらうから。春奈、お願い」
「はい」

 春奈は、相手の戦術や、実際に当たってみた上での選手個々の特徴などを述べた。
 続いて、相手の攻撃のパターンとして、大きく三種類に分け、それぞれに対しての守り方、攻めへの転じ方について、すらすらと述べていく。

 はあ、なるほど、と聞いていていつも感心させられる。
 春奈は本当に高い洞察力を持っている。

 春奈の概念的な説明に対し、具体的に個々がどう動いていけばいいのかを、今度はわたしが説明していく。

 みっちりと、やるべきことを頭の中に叩き込み、そして最後にメンバー全員で円陣を組んだ。

「佐原南、絶対に逆転するぞ!」

 わたしは大声を張り上げた。
 おう、と全員が応え、円陣が解かれる。

 佐原南の選手は、ピッチに散らばった。

 向こうの陣地ではTSSCが、我々に少し遅れて円陣を解き、散らばった。

 審判の笛が鳴り、後半戦がスタートした。

     7
 春奈と考えた後半戦の対策、完璧だと思っていたのに、結局、流れはまったく変わらなかった。

 若干の対策効果は感じられるのだけど、相手は自信を持っていきいきとプレーしており、こちらの考え出した細かな作戦など軽く足蹴にされてしまっている。

 TSSC優位な状況のまま、時間が過ぎていく。
 そんな、我々にとって非常に厳しい状況であるというのに、

 後半四分、
 ついに、TSSCの交代ゾーンに、6番のユニフォーム、が姿を見せた。
 中二、十三才。
 小柄な体格で、年齢より幼く見える顔立ち。
 ほとんどを高校生が占めているこの大会にあって、なんだか小学生が混じっているかのように思える。

 松田秋子と交代で、そのまま右アラとして入ってきた。

 彼女のファーストタッチはシュートだった。
 ピヴォ長戸沙夜のポストプレーから、絶妙なタイミングで飛び出し、右足を振り抜いたのだ。

 勢いのままに蹴っているように見えたが、しっかり枠を捉えている。

 晶が並の反射神経だったら、きっと失点していただろうが、生憎、並の反射神経ではない。
 重心を低くしながら、右足に当て、高く跳ね上がったボールを両手でがっちりとキャッチした。

 伊呂波夏穂の技術も凄いけど、晶も本当にたいしたもんだ。

 さっきは運悪く味方がブラインドになって失点してしまったけど、とにかく安定感がある。

 伊呂波夏穂はまだ十三才、神童だろうと、久樹や佐治ケ江の技術力にはやはりかなわないようだ。
 しかし、自分の力量や、上の年代と戦っているという立場をよく理解しているようで、その上でしっかりと自分の役割をこなしている。
 従って、結局のところ、相当にやっかいな存在であることに違いはない。

 奇抜なプレーや、超人的なことをやってくる選手ではない。
 全体的に優れた技術やセンスを駆使し、当たり前のことを当たり前にこなす。と、そういう選手のようだ。

 そういうところが彼女の非凡な点であり、神童云々は世間が作り出した、誇張歪曲された情報なのだろう。
 でも、抜群に能力の高い選手であること、一瞬の油断も許されない怖さを持っていることには、なんの違いもないけれど。

 伊呂波夏穂は、無理に勝負を仕掛けることはなく、ボールをてきぱきと捌いていく。
 前へ送るべきか、後ろへ戻すべきか、キープすべきか、そういう状況判断が異常に素早く的確だ。

 と思っていたら、彼女に織絵がするっと抜かれてしまった。
 捌いてばかりだったから、まさか仕掛けてくるとは思わなかったのだろう。

 晶との一対一になった。

 シュート。

 晶がなんとかパンチングで弾き出して、ボールはゴールラインを割った。
 TSSCのCKだ。

「織絵先輩、油断しないで下さい!」

 晶は怒鳴った。

「ごめん。でも、あの子、凄いよ」

 確かに、織絵に罪はない。
 織絵自身が体感した通り、伊呂波夏穂の能力が高いのだ。

 TSSCはスポーツクラブだし、スクール生は小学生から大人までいるのだろう。
 伊呂波夏穂はU―18としてプレーしているということは、身体の大きな選手に囲まれて練習していることになる。ミックスで男子ともプレーしているのかも知れない。

 いずれにしても体格に劣る分だけ、普段から相当に頭を働かせてプレーしているのだろう。
 状況判断を素早くしないと、すぐに寄せられ潰されてしまうからだ。

 足元の技術、判断力、パスセンス、敏捷性、などの基本能力の高さを利用して、王道と呼べるセオリー通りのプレーをハイレベルで行なっている。

 おそらく監督からも、しっかりと戦術を叩き込まれているのだろう。

 でも……
 これは、ピンチだけど、チャンスだ。

 あの手、試してみるか。
 どのみち現在リードされている状況なのだし、やるしかない。
 よし。

「王道には邪道だ。王子、入るよ! フサエと交代。6番を徹底的にマーク。仕事をさせるな」

 6番、伊呂波夏穂の背番号だ。

「ブ・ラジャー!」

 アップをしていた王子は、下品な冗談をいいながらピッと敬礼すると、交代ゾーンへと小走りで向かう。
 まったく、大きな声でバカなことをいって、警告貰ったらどうするんだよ。一枚貰ってんだぞ。

 夏木フサエ アウト 山野裕子 イン

「お疲れさん、フサエ先輩」
「まかせた、王子」

 二人はハイタッチ。
 山野裕子は、飛び込むような勢いでピッチへと入った。

 現在のピッチ上の選手は、次の通り。

 佐原南 武田晶 真砂茂美 畔木景子 山野裕子 佐治ケ江優

 TSSC 段田真琴 野間聖華 伊呂波夏穂 逆井伊久美 長戸沙夜

 さて、わたしの策が、吉兆どちらに出るか。

 茂美からのパスを受ける景子。
 すぐさま佐治ケ江へと送ろうとするが、それを読んでいた伊呂波夏穂がすっと走り寄ってボールをカットした。

 本当に、上手な選手だ。
 小柄で身体も柔らかいから、動きも軽やかだし。

 そんな、彼女の背後に、王子が密着した。

 振り向いてのパスを諦めた伊呂波夏穂は、王子に背を向けたままで、右に左にとフェイントで揺さぶる。

 王子はあっさりひっかかった。
 伊呂波夏穂の虚を突いて正面に回り込もうとしていたのだが、右か、左か、と無様に振り回されて、バランスを崩して倒れそうになった。

 音や気配を察する能力、まるで背中に目があるかのごとく、伊呂波夏穂はくるりと回転し、王子の脇を抜け、ドリブルに入る。
 だが、そのボールは横から蹴飛ばされ、こぼれた。

 伊呂波夏穂は、立ち止まり、振り返った。その顔には、驚きの表情が浮かんでいた。
 たぶん、わたしも同じような表情だろう。

 倒れかけた王子が、床に手をついて、腕の力だけで身体を瞬間的に横滑りさせて、ボールを蹴飛ばしたのだ。
 その勢いを利用してそのまま起き上がり、転がるボールを追って走り出した。

 王子、本当に常識で考えられないプレーをする。

 肉体能力もさることながら、考え方が柔軟、縛られていないのだろう。

 しかし王子よりも、伊呂波夏穂がボールに到着する方が早かった。

 ボールキープして様子を見る伊呂波夏穂。
 いや、様子を見るというより、取られないように手一杯というところ。また王子が密着して、ねちねちとプレッシャーをかけているのだ。

 技術は圧倒的に伊呂波夏穂が上に見える。
 でも王子は、異常に余りある体力にものをいわせ、無駄に激しく動き回り、足を伸ばし、腕を広げ、身体で塞ぎ、伊呂波夏穂が味方へパスを出す余裕を与えない。

 三百六十度を塞ぐのは不可能なわけで、最終的には、パスは通ってしまう。
 しかしまた伊呂波夏穂にボールが渡ると、また同じことの繰り返し。

 伊呂波夏穂の使う体力に比べて、王子のそれは五倍も六倍もあるだろう。
 それなのに、王子の動きはいささかも衰えを見せず、反対に伊呂波夏穂は呼吸が荒くなってきている。

 さすが、王子。
 佐原南の、山猿だ。純粋に褒め言葉として、そう思う。

 わたしは今年春に行なった強化合宿でのことを思い出していた。
 技量の遥か上の佐治ケ江優から、体力にものをいわせてボールを奪い取ってしまった時のことを。

 注意して見るまでもなく、TSSC全体の動きに変化が出ていた。

 単純にいうと、上手くボールが回らなくなっている。
 選手たちにその理由が分からないものだから、なんだか不安になっているようだ。

 反対に、佐原南の選手は、自信とはちょっと違うかも知れないけど、なんだか分からないがボールが回るぞ、いけるぞ、という雰囲気になってきているようだ。

 わたしは、自分の読みが正しいことを確信した。

 TSSCは、あまりにも相手を研究して、立てたプランの通りに試合を運びたがるのだ。

 オーナーが監督とはいえ、忙しくてそれほど選手たちと時間を密には出来ていないのだろう。
 だから、伊呂波夏穂のような特殊なのはともかく、自分のところの選手の個性や性格もそれほどは把握しておらず、大会に向けての練習も、入手した情報から自分が打ち立てた戦術を、コーチか誰かに命じて、ひたすら選手たちの頭にインプットさせているのだろう。

 ハマれば強いが、崩れると脆い。

 では、どうすれば崩れるか。
 簡単だ。
 クレイジーな選手を入れればいい。

 その効果が出たのだ。

 ハーフタイムにみんなにそう指示を出そうか迷ったのだけど、狙ってクレイジーになるなんて無理だし、ギクシャクしているところを狙われるだけ。そう判断し、黙っていたのだ。

 とにかくみんなは、相手の混乱に乗じて、普通にパスを繋いでいてくれればいい。
 狙わなくてもクレイジーになれる選手が一人、頑張ってくれているから。

 でも……もう一押し、しておきますか。

「景子、交代!」

 わたしは、交代ゾーンに立った。
 佐原南がFKを得たタイミングで、景子が走り寄って来た。

「相手、なんか別のチームになっちゃってるよ。……梨乃、狙ったでしょ」

 景子は、TSSCゴール前で野獣のような雄叫びをあげて気合を入れている山野裕子の方に、ちらりと視線をやった。

 わたしは、にんまりと笑みを浮かべた。

 手を打ち合わせ、そしてわたしはピッチへと入った。

 FKを蹴るのは佐治ケ江だ。
 小さく助走し、ゴール前の密集地帯目掛けて蹴り込む、かのような勢いに見せかけて、真横へボールを転がした。

 誰もいない空間であったが、しかし王子が、もの凄い瞬発力で密集地帯から抜け出して、ボールを受けていた。

「やると思ってたよ、サジ」

 王子は、すでに前へと走り出している佐治ケ江へとパスを出した。

 がら空きになっているゴール右側を狙って、佐治ケ江はシュートを放った。

 狙いは完璧だったが、ゴレイロ段田真琴が必死に伸ばした手にボールは弾かれ、ポスト直撃。
 跳ね返ったボールは、伊呂波夏穂が大きくクリアした。

 TSSCの長戸沙夜が、全力でボールの落下地点へと走る。つま先で受けると、ほとんど速度を落とさずにドリブルに入った。
 立ち塞がる茂美をもかわしてシュートを打った。
 が、力無く、転がってしまい、武田晶に余裕でキャッチされた。

「カウンター気をつけて!」

 晶は大きな声を出し、招いたピンチを叱咤する。

 心強いな。
 一年生の頃から、試合になると平気で三年生を怒鳴りつけてたからな。
 普段は寡黙なくせに。

 晶はアンダースローでボールを転がす。

 わたしは下がって、それを受けた。

 すぐ長戸沙夜がプレスをかけてくる。逆井伊久美もすっと動いて、わたしのパスコースを塞ぐ。

 普段のわたしなら、ここでフェイントでかわして、前へ行くか、茂美とのワンツーで前に行くか、だよな。

 ならば……

 わたしは後方を確認もせず、唐突に、ヒールでゴールに戻すようにボールを蹴った。
 しかも、かなり強くだ。「ちょっと!」と慌てる晶の声が聞こえたが、わたしは振り返ることもせず、長戸沙夜の横を抜けて、前へと走る。

 横目でちらりと見ると、王子が晶からのボールを受けたようだ。

 王子とマッチアップする伊呂波夏穂がボールを奪おうとするが、王子は簡単に渡さない。王子が凄いのではなく、伊呂波夏穂がもう相当にへたばっているのだ。
 そうさせたのは、王子の無尽蔵な体力なのだけど。

 相手ゴールへ背を向ける格好の王子、ちょんと爪先でボールを浮かすと、逆の足で大きく、背後へと蹴った。
 器用なことするなあ。仕草が不格好だから不器用に見えてしまうけど、色々なことが上手になってきているよな。
 一年前とは雲泥の差だ。

 わたしはその王子のパスを、落下地点へと走りこんで受け取った。

 TSSCベッキの野間聖華が、わたしへともの凄い勢いで突進してくる。

 ええと、わたし、こういう最前線でボール持つと、上がってくる誰かにボール渡すところあるよな。

 それじゃ、

「サジ!」

 駆け上がってくる佐治ケ江にそう叫びながらも、わたしは身体を反転させ、シュートを放っていた。

 TSSCゴレイロ段田真琴の身体にボールは当たり、床に落ちる。

 佐治ケ江が走り込み、スライディングでボールをネットの中に押し込んだ。

 同点?
 ……いや、ゴレイロが倒れている。

 審判の笛が鳴った。

 佐治ケ江が引っ掛けて倒してしまったということで、ゴールは認められなかったようだ。

 残念。
 などと思っていたら、それどころでない事態が。
 なんと審判は、佐治ケ江に向けてイエローカードを高く掲げたのである。

「イエローは酷いんじゃないですか?」

 ピッチの外から、久樹が抗議するが、審判は首を横に振った。
 確かに納得いかないけど、諦めるしかない。

「サジ、いいよ、その調子で」

 わたしは、佐治ケ江が気落ちしないよう励ました。

「はい」

 佐治ケ江は立ち上がった。

 次、出られなくなっちゃったな、佐治ケ江。さっきの試合でも、誤審で警告を受けたから。
 まあ、この試合に勝たないと、次もなにもないのだけど。

 TSSCゴレイロ段田真琴のキックで、プレー再開。ベッキの野間聖華が足元で受ける。

 佐治ケ江が詰め寄り、奪おうとするが、直前でパスでかわされてしまう。

 そのパスを受けるのは伊呂波夏穂だ。
 いや、
 繋がらなかった。

 彼女へと渡る寸前に、パスを読んでいた王子が飛び出して、カットしたのだ。

 しかし、伊呂波夏穂、疲労していても天才は天才ということか、巧みな身体の入れ方で、王子からボールを奪い返していた。
 鋭くターンして、一気に王子のことを抜こうとする。

 王子は、彼女を止めようとするあまり、つい思い切り足を引っ掛けてしまっていた。

 足をもつれさせ、激しい勢いで倒れる伊呂波夏穂。
 いや、先に自ら倒れた王子が、両手を彼女の腰に回して、倒れないよう支えていた。

「大丈夫? ごめんね」

 謝る王子。

「ありがとう」

 伊呂波夏穂も、やっぱりまだ中学生だなあという可愛らしい笑顔を見せた。

 その微笑ましい心の交流をブチ壊す、審判の笛の音。
 王子にイエローカードが出されたのであった。

「あらあ、結局イエローなのね」

 起き上がるや、がっくりと肩を落として残念がる王子。
 まあ、警告も当然か。足を勢いよく突き出して引っ掛けてしまったことに変わりないんだから。

 しかし参った、王子も累積二枚目。
 佐治ケ江に続いて王子までが、次、出場停止か。

 でも、次の試合のことより、まずはこの試合に勝つこと、そのためにはまずは追いつくことだ。

 伊呂波夏穂は王子の執拗なマークに疲労し、交代することになった。

 一度リズムを崩したTSSCは、なかなか立て直すことが出来ず、すっかり防戦一方になっている。

 向こうの監督の指示が聞こえる。
 変に立て直そうとして余計にリズムを狂わすリスクを避けて、防戦一方でも構わないので、とにかく守りきれ。
 要約すると、そういう指示だ。

 向こうはリードしているのだし、もう時間も少ないのだし、堅実な選択か。
 反省は試合が終わったあとにすればいいのだから。

 さらにバクチになるかも知れないけど……やるか。

「久樹、入るよ! 茂美と交代!」
「茂美と?」

 ベンチで、久樹が驚きに目を見開いている。

「そう。久樹は普段通り、ピヴォで。外から見てて思ったこと、自由にやっていいから」
「分かった」

 わたしの指示に、二人は交代した。

 茂美のいたベッキのポジションには、わたしが下がった。
 本来ならば、茂美を交代させるなら楽山織絵とであるはずだ。
 だからこそ、より相手を混乱させられるのではないかと。

 そして、相手が混乱しているのであれば、攻撃の選手がピッチ上に多いほど得点の機会は訪れやすい。
 そう単純なものではないかも知れないけど、とにかくわたしはそう考えたのだ。

 まず、混乱という点では、効果覿面だった。

 わたしがベッキになったことだけではなく、久樹がピッチに入ったことも大きかった。

 久樹は、外からしっかりと相手選手の特徴を分析していたのだろう。春奈とは、別角度から。

 前半は、しっかりと抑えられてしまっていたが、現在の久樹は簡単には抑えられないスーパー久樹だった。二人がかりでないと、ボールを下げさせることが出来ない。

 わたしと春奈とで打ち出した基本戦術を崩さないようにしつつも、久樹独自の判断で巧みに味方を使ってどんどん攻め上がっていく。

 さすが、と思ったのが、先ほどからわたしがやっている、相手の感覚を狂わせるプレー、あれをしっかり理解しており、要所要所で、フェイントに使っていること。
 わたしは一言も、その話はしていないというのに。

 久樹が入ってからの一分間で、バーやポスト直撃のシュートが二本、ゴレイロのファインセーブが一本。

 佐原南が攻守において、圧倒し続けていた。

 現在ピッチに立っている佐原南の選手は、

 佐治ケ江優、浜虫久樹、山野裕子、武田晶、そしてわたし。

 自分でいうのも恥ずかしいが、間違いなくうちの最強メンバー、最強攻撃陣だ。
 TSSCに対し、どんどん押し込み、波状攻撃を仕掛けていく。

 残り時間は、あと五分。

 意表をつくことがこれほど効果があるのなら、生山里子でも出そうか、という考えが脳裏をよぎったが、その考えはすぐに追い払った。
 やはり危険すぎるからだ。
 もの凄く能力の高い、可能性を秘めた選手ではあるけれど、チームプレーがまったく出来ないのは致命傷。へたしたら佐原南が完全崩壊する。
 学習の意味でベンチ入りさせたけど、怖くてまだ使えない。

 だから、このメンバーで、攻め続ける。

 TSSCはクリアするのに手一杯だ。

 クリアボールはすぐに佐原南が拾い、ゴールをこじ開けようと、どんどんパスを回し、シュートを狙う。
 しかし、相手の身体を張った必死の粘りで、全然ゴールを奪うことが出来ない。

 時間がない。
 このままでは、負けてしまう。

 わたしたち三年生にとって、こうした大会はこれが最後。
 来月はもう、引退だ。

 そうしたら、久樹が遠くに行ってしまう。

 懸命にボールを追い、奪い、キープし、シュートを打つ久樹の姿に、わたしはなんだか物悲しい気持ちになっていた。

 久樹とこうしていられるのも、あとほんの少しなのだ。

 って、なに考えてるんだ、わたしは。
 感傷に浸るなんて、あとで思い切りやればいい。
 いや、感傷なんかには浸らん。
 最後まで笑って、久樹を次の人生の舞台へと送り出すんだから。

 だから、この試合、

「絶対に勝つ!」

 わたしは走り、ジャンプした。
 野間聖華のクリアボールを、頭で受けた。

 着地。と同時に走り出し、ドリブルに入った。

 松田秋子が飛び出し、わたしからボールを奪おうとする。

 わたしは右の爪先で小さくボールを浮かすと、左足、右足、とお手玉のように空中でボールを動かし、松田秋子の脇を抜けた。

 最前線、サイドにいる久樹に、パスを出した。

 しかし、読まれていたか、軌道上に野間聖華が入り込んだ。
 久樹ともみ合いになり、ボールは真上へと上がった。

 落下地点に素早く入り込む久樹。

 野間聖華は、ボールを奪おうと、久樹の前へ回りこもうとする。

 久樹は、ボールの落下を待たず、跳躍し、オーバーヘッドキックで、ゴール前へとボールを上げた。

 大混戦のTSSCゴール前に、放物線を描いてボールが落ちて行く。

 TSSCの野間聖華が、ヘディングで跳ね返そうとするが、しかしその前に立つ王子が常人離れしたジャンプ力で頭二つ抜け出して、首を捻り、叩きつけるように、前へとボールを落とす。ゴレイロ、段田真琴の目の前へと。

 段田真琴がキャッチしようと前へ出るが、それよりも佐治ケ江が反応し、飛び出すのが早かった。

 佐治ケ江は倒れ込みながらヘディングシュート。

 ボールは、段田真琴の股の下を抜け、ゴールネットを揺らした。

 追い付いた……
 わたしは審判の方を見る。
 また、ゴール取り消しなんていわないだろうな。

 ゴールが、認められた。

「サジ、やった! 凄い!」

 起き上がろうとしていた佐治ケ江に、王子が飛びついて、押し倒してしまった。

「王子もだよ。ナイスアシスト」

 わたしは両手を伸ばし、王子と佐治ケ江とを引っ張り起こしてやる。

「で、あたしのどこが邪道ですか?」

 王子は、唇をとんがらせている。目元は笑っているけど。

「いったっけ? そんなこと」

 わたしは、すっとぼけた。

 とにかく、これで圧倒的に我々が有利な立場になった。
 追いついた側に勢いがあるのは当然だし、そうなる前から、こちらがずっと押す展開だったからだ。

 得点後も、わたしたち佐原南の波状攻撃は続く。

 TSSCも、時折鋭いカウンターがくるので油断は出来ない。
 だが冷静に、きっちり抑えさえすれば、そのカウンターは、こちらのチャンスでもある。

 わたしは逆井伊久美からボールを奪うと、まだ守備陣の戻りきっていないTSSCゴール目掛けてボールを送った。

 全力で、追いかける佐治ケ江。

 ゴレイロと一緒にゴール前を固めていたベッキの野間聖華も、意表を付くロングボールに慌てて飛び出した。

 佐治ケ江が追いつき、ボールを受けたが、もう眼前に野間聖華が迫っている。佐治ケ江は、野間聖華の足の間にすっとボールを通すと、自身は横を通り抜けた。さすがだ。

 あとはゴレイロだけだ。
 だが、佐治ケ江の体力は、もう限界に達しているのだろう。
 足をもつれさせ、よろけてしまった。

 だが、ただでは転ばない佐治ケ江は、倒れ込みながらもシュートを放っていた。

 しかし、完全に打ち上げてしまったようだ。
 前進守備をしているゴレイロの、遥か頭上を斜め上への角度で飛び、過ぎて行く。

 ……と思ったら、鋭いドライブがかかり、ボールがすとんと落ちた。

 普通ならボールに足を当てるだけで精一杯という状況で、しかもこんな短い距離で、ここまでのカーブをかけることが出来るなんて。

 いったい、どんな蹴り方をしたんだ。
 まるで、魔法だ。

 でも魔法も万能ではない。
 残念ながら、ボールは横へ曲がり過ぎてポストに当たってしまった。

 と思ったら、そこに久樹が走り込んで来ていた。
 跳ね返ったボールを右足一閃、ボレーシュートでゴールへとねじこんだ。

「逆転!」

 久樹はピッチ中央へと戻りながら、片手を天へと突き上げた。
 ここで、試合終了を告げる、長い笛が鳴った。

     7
 じりじりと、容赦なく照りつけてくる太陽。
 いったい今、何度だ?

 こんな、普段とはまったく異質で過酷な環境下で戦っていたというのに、試合中は全然気にもとめていなかった。

 試合会場、屋外なんだよな。
 周囲は広大な森林。

 蝉が、かなりうるさい。
 いっそ、王子に全部食べてもらえば静かになるよな。そんなに味が気になるんならさ。

 タオルで、額の汗を拭う。
 もう、タオルがぐしゃぐしゃだ。
 参ったな。タオルなんて、そう何枚も持って来てないよ。

 わたしたち佐原南高校フットサル部のみんなは、コート周囲の木陰で休んでいる。ここだって凄い暑さなのだけど、同時に、そよそよと吹く緑の風が汗を冷やして心地よくもある。

 すぐ目の前のコート内では、他のチームが第二回戦を行なっている。

 わたしたち、よくあんなオーブンレンジの中みたいなところで試合してたな。

 地べたに座り込んで、大きく呼吸している佐治ケ江。
 その背中に、王子が寄りかかっている。いや、背もたれになってあげているのかな。仲いいな、この二人は。なんか、可愛いな。

「サジ、お疲れ。あの同点ゴールがなかったら、守り切られて負けてたよ。ありがとう。ついでに、王子もお疲れ」

 わたしの言葉に、佐治ケ江は小さく頭を下げた。

「あたしゃ、ついでかよ!」

 ぶすくれる王子。

「いいですよ。梨乃先輩の秘密、ばらしちゃうんだから」
「え? なに、秘密って? いや、やっぱりいうな。こんなとこで」

 ミットとのこと?
 秘密ってんだから、そうなのかな。
 え?
 なに知ってんだよこいつ。
 ちょっと、おい……

「梨乃先輩って、すっげえ音痴!」

 わたしのこと指さして、得意気な顔の王子。

 ドヤ顔で、なにをいってるんだこいつは。

「はあ、そんなことか。なにを今さら。誰でも知ってるよ」

 部活のみんなだけでなく、クラスの子たちだって。
 それを知ってるからこそ、みんなカラオケに行こう行こうと誘って来るわけで。

「もっと凄いこといわれんのかと思った」
「あ、持ってんだ、もっと凄い秘密。よし、じゃあ突き止めてやろ」
「そんな暇あったら勉強しなよ。赤点なんか取ったらフットサルどこじゃないよ」

 そもそも、よくこの高校に受かったもんだよな。
 わたしもだけど。
 あと、久樹も。

 これから行なわれる第三回戦、わたしの目の前で背中合わせて座り込んでいるこの二人、山野裕子と佐治ケ江優が警告の累積で出場停止だ。

 向こうも、主力が一人出場停止らしいから、対等といえば対等なはずだ。

 それに、どのみち佐治ケ江はもうバテバテで、立つこともままならないような状態だし。
 まあこれは、次に出られないことになったから、長時間使い続けたということだけど。

 次の試合に勝てば、明日行なわれる第四回戦に進める。
 佐治ケ江たちには、しっかりと体力を回復してもらおう。
 でもまあ、王子はそんな心配はいらないのかな。

 コート向こう側の木陰で、声を出し合ってストレッチをしている集団が見える。
 埼玉県羽生はにゆう市にある、おう西せい体育大学附属高等学校女子フットサル部の部員たち。
 わたしたち佐原南の、次の対戦相手だ。
 さきほど、向こうの部長であるぬのはらかずと挨拶をかわしたばかりだ。

 照りつける強烈な日差しで、地面にくっきりと木や人の影が出来ていたのに、いつの間にか、ぼやけたうっすらとした影になっていた。

 太陽に、雲がかかっている。

 見上げると、空のほとんどは青。
 しかし、向こうに黒く分厚い雲が浮いており、どうやらそれは、ゆっくりと近づいてきているようだ。

 空が、どんどんと暗くなってきている。

 遠くで、雷の音が聞こえた。

     8
 ピッチ上には十名の選手が、それぞれのポジションにつき、緊張した面持ちで、試合開始の笛を待っている。

  はまむしひさ
  もとこのみ
  なつフサエ
  らくやまおり
  たけあきら

 これが、わたしたち佐原南高校のスターティングメンバーだ。
 基本フォーメーションは、ダイヤモンド型。
 ゴレイロを抜かしたFPの四人が、ひし形状に配置される。
 前の一人がピヴォ、中盤、両翼の二人がアラ、一番後ろがベッキだ。

 対して、桜西体育大学附属高校のメンバーは、

  むらかみ
  じき
  うえひと
  むこうやま
  じんぐうあい

 の五人だ。
 基本フォーメーションは、ボックス型とのことだ。

 陣形などは流動的に変化するものだから、勝敗を直接に左右するほどの要素ではない。
 とはいうものの、ちょっと佐原南が苦手とする陣形だ。

 佐原南は、というか、わたしのこれまで育ててきたチームは、相手が攻撃的に来ることでより真価を発揮できる。
 守備的にこられたり、ベッキの枚数が多いと、攻めあぐねてカウンター一発できれいにやられてしまうことがある。

 ましてやこの対戦相手、桜西附属は守備に関しての評判が相当に高い。
 地元では、強豪校として有名らしい。

 網でからめ捕るかのような、執拗かつ組織的な守備に、相手は攻撃の目を根本から摘み取られてしまうのだ。

 相手にとってどうにも薄気味悪く感じさせるその守備は、地元近辺の高校の間ではサルガッソと呼ばれており、いまや桜西附属の代名詞とのことだ。

 そんな不気味な能力なんかないけど、佐原南だってかなりの堅守を誇るチームに成長している。守備力と守備力の対決、あとはその隙をついて、どう攻撃するかだな。

 王子も佐治ケ江もこの試合は出場停止で出られないし、佐治ケ江は仮に出られたとしても、もう走る体力残ってないし。

 となると結局、頼りになるのは久樹の個人技か。

 わたしの代のうちに、組織での攻撃も完成させたかったのだけど。それは、次の世代に任せるか。
 夢見ても仕方ない。現在持っている力で、戦わないとな。

 しかし、サルガッソだなんて、なんとも不気味な存在だな。
 さらに加えて不気味に思うのが、第二回戦で退場したふかように代わってスタメンになったじきのことだ。

 桟敷由真、この二試合で途中出場すらなかったのに、いきなりスタメンで出てくるなんて。
 やはり、温存していた秘密兵器と考えるべきなんだろうか。
 主力が一人出られなくなったことと、相手が堅守の佐原南であることを考えて、ここで出すことを決めた、と。

 桜西附属と、もしも当たることになったら厄介だな、と前々から気になってはいたのだが、本当に当たることになってしまうとは。

 せめて、桜西附属の試合を事前に見ることが出来ていれば、少しは気持ちに余裕も出来たのかも知れないけど、ちょうど第一回戦も二回戦も、試合時間が重なっていたから見ることが出来なかった。
 それは向こうにもいえることだし、と諦めるしかないのだけど。

 第一審判が笛を口にくわえた。

 いよいよ、はじまる。

 みんな、頼むよ。
 信じてるから。

 わたしはピッチの外に立ち、ぎゅっと拳を握り、笛が鳴るのを待っている。

 桜西附属の、村上利恵が足の裏でそっとボールを押さえている。

 審判が片手を上げた。

 笛の音が鳴った。
 キックオフだ。

 村上利恵は前へ軽くボールを蹴った。

     9
 すっと飛び出した桟敷さじき
 村上利恵の蹴ったボールに追いついた瞬間、ヒールで後ろへと流していた。

 さらに次の瞬間には、後ろから村上利恵がドリブルで飛び出して来ており、並走する桟敷由真へとパスを出していた。

 夏木フサエが正面に立つが、桟敷由真はまったく速度を落とすことなく、いや、むしろ加速させ、うねるような曲線を描いて抜けていく。

 フサエが、「え?」と思う暇もない、一瞬の出来事。

 立ち止まるわけでもなくフェイントを仕掛けるわけでもなく、ただドリブルをすることが、フサエの意表をついて、実質的なフェイントになったのだ。

 今度は楽山織絵が、ボールを奪いにかかる。

「違う織絵、来てる!」

 浜虫久樹の大声が響いたのとほとんど同時に、桟敷由真は、真横へパスを出していた。

 そのボールを受けた村上利恵は、風のような速さで織絵の脇を抜けて行く。
 ゴールまで約五メートル。
 正面には、佐原南のゴレイロである武田晶だけだ。

 村上利恵は、躊躇なく右足を振り抜いた。
 球速はないが、モーションが小さいため充分に意表を突いたタイミングのシュートになった。

 しかし、武田晶はしっかりと見切っていた。
 一歩真横に動いて、胸でブロックする。

 地面にこぼれ落ちたボールを、桟敷由真が押し込もうと詰め寄るが、晶がダイビングしながらボールに飛びつく方がほんのわずかだけ早かった。

 そのまま桟敷由真は、晶の背中の上を飛び越えた。

 危なかった。
 このチーム、守備ばかりが噂されているけど、攻撃もあなどれない。

「集中!」

 わたしは怒鳴った。
 なにもいわなくとも、いまの大ピンチで充分に気は引き締まったと思うけど。

 晶はボールをアンダースローで転がした。

 楽山織絵が受け、ワンタッチでこのみへと繋いだ。

 向山加恵が詰め寄って来るのを確認したこのみは、いったん織絵へとボールを戻す。

 織絵はワンタッチで返し、鋭いVの字、縦のワンツーで再びこのみがボールを受けると向山加恵を背負いながら少しドリブルして、久樹へとパス。

 練習通りの、いい連係だ。

 相手ゴールに背を向けて、ボールを受ける久樹。
 ターンをして前を向こうとするが、桜西附属の田野上仁美が迫っている気配に、練り直しとばかりまた相手ゴールに背を向ける。
 しかしその直後、久樹はボールを失った。向山加恵にボールを奪われていたのだ。

「いいよ、続けてこう!」

 わたしは手を叩き、久樹を、仲間たちを、気落ちすることないよう励ます。
 そうだ。奪って奪われてがフットサルだ。ボールも、得点も。

 桜西附属の向山加恵は、前線にいる味方、村上利恵に長いパスを送った。

 村上利恵はこのみを背負い、桟敷由真の上がりを待って、パスを出した。

 だが、そのパスは届かなかった。
 織絵がインターセプトしたのだ。

 すぐさまフサエへと送る織絵。

 フサエがシザースフェイントで田野上仁美をかわし、ライン際を駆け上がる。こいつ最近、このフェイントお気に入りだな。

 相手のマークをかわして前線から下りてきた久樹が、フサエからのパスを、角度を変えただけといった感じにワンタッチで捌き、今度は根本このみへと繋がった。

 よし。ここで上がれば、絶好のチャンスだ。

 だが、素早い判断で、向山加恵がこのみのほうへ向かっていく。
 反対からは、村上利恵も。

 このみは、攻め上がることを諦めて、久樹へと戻した。
 いや、久樹に届く寸前、飛び出して来ていたゴレイロの神宮愛子にカットされていた。

 神宮愛子は、桟敷由真へとパスを出すと、急いでゴール前へと戻った。

 もどかしいな。
 チャンスの気配は感じるのに。いける、というところで、ボールを奪われてしまう。

 相手の必死の頑張りでというよりも、仕掛けられた罠にまんまとかかってしまったような感じだ。
 そうか、この守備が、サルガッソと呼ばれている所以なんだ。

 サルガッソ海。
 子供の頃に、地球の不思議みたいな本で見たことがある。
 船の墓場だ。
 海流の関係で、水面に藻がたくさん浮いている。
 しかも風の無い海域なものだから、帆船は動くに動けず、藻にからまれ、永遠に抜け出すことが出来なくなってしまう。

 若干ではあるが、押しているのはこちらだというのに。
 でも、いくら押そうが回そうが、サルガッソをなんとか攻略しないと、点が取れない。

 個人技だけで点が取れそうなのが、久樹一人では……
 やっぱり、痛いな。佐治ケ江の出場停止は。

 あと、山野裕子も。
 王子のあの底なしの体力と、なにをするか分からない自由奔放なところ、破壊的なところ、こういう時こそ役に立ちそうなのに。

「久樹こら、頑張れ!」

 その王子は、わたしの横でひっきりなしに、バカでかい声で叫んでいる。
 ピッチに立っていなくても、こういう役には立つかな。とにかく無駄に声が大きいからな。
 他の部員たちも一生懸命に声援を送ってはいるが、全員を合わせたくらいに王子一人の声量があるのだ。

「サジ、こっち!」

 と、対戦相手である村上利恵が叫んだ。

 え?
 いま、なんていった?
 試合、出てないよ、サジは。

 桟敷由真は、詰め寄る久樹をすっとかわすと、村上利恵にパスを送った。

「なあんだ」

 と、王子のすっきりした表情。彼女もわたし同様にびっくりしていたようだ。
 佐治ケ江もだ。きょとんとした顔をしている。

 そうなんだよな。桟敷さじき……さじき、だものな。彼女もサジと呼ばれて不思議ではないものな。

 村上利恵はポストプレーで、織絵を背負い、上がってきた向山加恵へパス、と思わせて、素早く反転しシュートを打った。
 至近距離からの、弾丸のようなシュートだ。

 しかしゴレイロ武田晶の正面。慌てず両手でキャッチ。
 すかさず遠投を見せ、フサエが腿を上げて受ける。

 しかし、地に落ちたところをそのまま桟敷由真に掻っ攫われてしまった。
 奪い返そうとするフサエだが、しかし桟敷由真は彼女に背中を向け、腕や足を巧みに使ってボールをキープする。
 突然ヒールで、斜め後ろへと蹴り、ボールはフサエの脇を抜けた。

 織絵のマークを外して飛び出していた村上利恵が、そのボールを受ける。

「くそ、あっちのサジもすげえなあ」

 苦々しげな王子の台詞。
 わたしの感想も同じだ。
 桟敷由真、佐治ケ江とタイプは異なるが、かなりの技術を持っている。

 視野はそれほど広くないようだけど、個人プレーでの状況判断は素早く的確だ。

 特に秀逸と思ったのが、いま見せたような、相手に背中を向けてのプレー。
 まるで、後頭部に目がついているかのようだ。

 垢抜けていない純朴そうな、ほっぺたも赤くて、おとなしそうな、真面目そうな、そんな言葉を並べたくなるような顔立ちなのに、そんな見た目と裏腹に能力は老獪。
 技術が高いだけでなく、自分自身、なにが長所かをよく理解している。

 やっぱり、温存していたんだ。
 去年の関サルでいう、茂原藤ケ谷のともえかずみたいなものか。

 巴和希には、佐治ケ江を当てて潰したけど、いまはそれが出来るのがいない。
 チームとしてはやや佐原南が押しているけど、彼女個人には、いいようにやられている。

 茂美をアラで使ってみるか。
 いや、織絵との併用は興味あるけど、点が取れなくなる。
 もう少し、様子を見るか。

 桜西附属の村上利恵は、そのままゴールへと突進し、シュートを放った。

 晶は右腕を突き上げ、弾いた。
 ボールは小さく跳ね上がり、地面に落ちる。

 落ちきる直前、桟敷由真が走り込みながらボレーシュート。
 しっかりおさえた、いいシュートだ。
 ボールは枠を捉えている。

 完全に体勢を崩している晶だが、なんとか踏ん張り、ボールに足を当て、ゴールラインの外に出した。

 助かった。
 本当に、晶は頼りになる。

 佐原南は、ちょっと押され始めているな。
 向こうさんのエンジンがかかってきたようだ。

 CKを蹴るのは、桟敷由真だ。
 佐原南ゴール前に、ピッチ上のほとんど全員が集まり、肩をぶつけあっている。

 桟敷由真は短く助走し、ボールを蹴った。
 グラウンダーでもない、ハイボールでもない、低く、速いボール。

 示し合わせの通りなのだろう。村上利恵が慌てることなく、右足を上手く合わせた。

 だけど佐原南も簡単にはやらせない。
 根本このみが、身体を張ってディフェンスし、足に当たってボールは跳ね上がる。

 そのボールをねじ込もうと、長身の田野上仁美が頭を叩きつけた。

 飛び出してキャッチしようとしていた晶は、体勢を立て直し、斜めに突き刺さるように落ちて来るシュートを、パンチで弾いた。
 しかし手を当てた箇所が悪かったか、ちょっと弱く、ボールはすぐ近くの村上利恵へと渡ってしまう。

 村上利恵がシュートかパスか一瞬の迷いを見せている隙に、織絵が、素早く身体を入れてボールを奪った。クリアをさせまいと、背後に田野上仁美と桟敷由真がついた。

 織絵は、もう一度CKに逃れようと思ったのか、自陣ゴールラインへとボールを転がした。

 しかしそのボールは、
 ゴールラインを割るのではなく、自陣ゴールネットの中に入ってしまった。

 わたしは、全身の血の気が一瞬にして引いていくのを感じていた。
 全身が冷たくなるのを感じていた。

 おそらく、佐原南の全員が、そう感じていただろう。

 オウンゴール……
 織絵、やっちゃったよ。

 さすがの晶も、これは防げるはずがない。

 ピッチ内外で、歓喜の雄叫びを上げる桜西附属の部員たち。

 地面に両膝をつく織絵。

 晶が、織絵を励ましているようだが、相手の歓声で全然聞こえない。

 と、その時である。
 ぽつ、とわたしの頬に、冷たいものが当たった。

 雨だ。

 まだ夕方にもなっていないというのに、いつの間にか、空は分厚い雲に覆われて夜のように暗くなっており、そんな雲からは、ぽつり、またぽつり、と大粒の雨粒が落ちて来ていた。
 そしてそれは、あっという間に、本格的な土砂降りになった。

 かっ、と空が真っ白に光った。
 遠くから、ゴゴゴ、と龍の唸りのような低音が、鼓膜を、全身を震わせた。

「切り替え切り替え! まだまだこれから! まずは一点返すよ!」

 わたしは、雨粒のカーテンの向こう側にいる、ピッチ上の部員たちを鼓舞した。ざあざあという音にかき消されて、届いたかどうかは分からない。

 試合は再開された。

 この失点により、完全に佐原南のペースは崩れた。

 まず、織絵が気ばかり焦って、単調なロングボールを蹴るばかりになってしまった。
 織絵も鉄の心臓ではなかったということか。
 失点は個人だけの責任ではないし珍しいことではないけど、オウンゴールなんて初めての経験だろうからな。

 そのロングボールも、一辺倒なものだから、なかなか久樹には渡らない。

 グラウンダーのパスは、田野上仁美や向山加恵ら桜西附属の守備陣に読まれて簡単にカットされてしまうし、ハイボールを上げても背の低い久樹に分が悪い。

 たまに久樹に渡るか、またはフサエたちアラがドリブルで駆け上がっても、すぐに網にかかってボールを失うことになる。
 サルガッソと呼ばれる相手の守備は、先制したことで気持ちが乗ったのか、より勢いが増しているようだ。

 勢いをましているといえば、この雨。
 世界の終わりかというような、大豪雨だ。

 試合……いっそのことやり直しになればいいのに。

 ぐしょぐしょに濡れた髪の毛が、頭にぴったりと張り付いてしまって、気持ちが悪い。

 天から叩きつけるような雨粒に、佐治ケ江も、景子も、ピッチにいるみんなも同じような髪の毛になってる。
 まったく変わっていないのは短髪の王子くらいだ。

「茂美、出番だよ。織絵、交代!」

 真砂茂美に声をかけ、次いで雨粒のカーテンの向こうにいる織絵へと叫んだ。

 細かなダッシュなど、アップをしていた茂美は、無言で交代ゾーンへと向かった。

 二人は、交代。
 茂美がベッキのポジションに着いた。

 交代ゾーンからピッチの外へ出た織絵は、わたしの方へと歩いてきた。

「梨乃、ごめん」
「失点はしょうがないって。織絵、気にしすぎ。それで全然組み立てが出来なくなっちゃってたから、交代させた」

 わたしの言葉に、織絵は苦笑した。
 佐治ケ江から受け取ったタオルで髪の毛を拭くと、彼女はそのままタオルをかぶった。

 わたしは、今度はピッチにいる久樹へと声をかけた。

 久樹と春奈とを交代させた。

 春奈にはアラとして入って貰い、このみをピヴォに上げた。

「久樹は、ちょっと外から見ててよ。完全に対応されちゃっていたし、この水溜りの中でじゃぼじゃぼやってても、体力ばかり失ってくだけだよ」

 そう、この豪雨と、質の悪いでこぼこのグラウンドとで、このピッチのところどころに池のような水溜りが出来てきていたのだ。

「久樹先輩、足が短いからな」

 王子がからかう。
 わたしはさすがにそんなこと、さすがに口が裂けてもいえないが、まあ、そういうことなのだ。
 深い水溜りを歩くのに、巨人と小人、どっちが体力の消耗が少ないか、ってこと。

 ざば、と激しい水しぶきのあがる音。
 久樹が、王子のすぐそばの水溜りを、思い切り踏みつけたのだ。
 王子は顔にしぶきを浴びて、「わおお!」と絶叫した。

「なんだよもう! ……久樹先輩、あの、ひょっとして、本気で怒りました?」

 王子は、久樹の顔を覗き込む。
 久樹は、にっと笑みを浮かべた。

「本気で、怒ってた。自分自身の、不甲斐なさに。でもちょっと、スッとした」
「よく分かんないけど、そりゃよかったですわおおお!」

 王子がまた、久樹の水しぶき攻撃を食らったのだ。

「久樹、てめえぶち殺すぞ!」

 顔を真っ赤にして激怒する王子を、指を差して大笑いしている久樹。

 その久樹の顔に、激しい勢いで水しぶきがかかる。
 王子がやり返したのだ。

 二人して子供のように笑い声を上げ、髪の毛をかき混ぜあい、ばしゃばしゃと水溜りを蹴飛ばしている。
 ようやく落ち着いたか、久樹はわたしの方へ近寄ってきて、隣に立った。

「ああ、すっきりした。……それじゃ、外から見させてもらおうか。サルガッソとやらを」
「頼むよ、久樹。……景子、出て。フサエのとこ入って。フサエ! 交代!」

 交代ゾーンで、夏木フサエと畔木景子が入れ代わった。

 と、その瞬間、また、空が白く光った。
 近くで、雷が落ちたのだ。

 でも試合は続く。
 現在、桜西附属の一方的なペースになっていた。

 桜西附属はサルガッソを基本に、そこからどんどん攻撃に繋げて来ている。
 守備が安定すれば、攻撃力も増すのは当然というわけだ。

 お互い、このぬかるみの中でパスがなかなか繋がらない状態ではある。

 しかし、桜西附属はリードしているせいか、ハイボールでのパス回しを試みるくらいの余裕がある。
 おそらく、ゲームを楽しんでいる。
 楽しんでいるということは、パス、ドリブル、前進、後退、同じことをするにしても疲労度が佐原南とは雲泥の差ということだ。
 本当に、精神力というものは、それくらいに肉体的な部分に対して影響を与えるのだ。

 景子と、向山加恵が激しく競った。

 ボールは、宙へと舞い上がった。
 重力と、叩きつける雨とに押されてボールが落ちてくる。

 桟敷由真が水しぶきをあげながら落下地点に走り寄り、再び、前方へと蹴り上げた。

 佐原南のゴール手前に落ちそうな弾道だ。
 村上利恵と真砂茂美が、それを追って走る。

 ゴールからも、ゴレイロの武田晶が飛び出した。
 しかし、晶が海のようなこのぬかるみに足を取られているうちに、村上利恵が一番先にボールの落下地点へと辿りついて、そのままダイレクトボレー。

 ゴール端ぎりぎりのところを狙う、角度、球速、申し分ない、完璧なシュートだ。

 逆をとられ、よろめく晶のすぐ脇を、ボールはすり抜ける。

 桜西附属の追加点が決まった。

 ……いや、ボールの軌道は急に真上へと角度を変えて、クロスバーに当たった。

 池のような水溜りに、倒れこむ晶。
 激しい水しぶきがあがった。

 雨粒や飛沫ではっきりとは見えなかったけど、晶がシュートの角度を変えていたのだ。
 よろめき倒れつつも、後ろ足でボールを蹴り上げて。

 空手の経験があるという晶だけど、そのおかげだろうか。
 咄嗟の判断力といい、身体能力といい、どちらも、凄すぎだ。

 跳ね返ったボールに村上利恵が詰め寄るが、一瞬早くたどり着いた茂美が大きくクリアした。

 ここで、前半終了の笛が鳴った。

     10
 すべては、わたしのミスだ。

 ほんの数日前に知らされたこととはいえ、屋外での試合であることは事前に分かっていたのだから、こういう天候での戦い方も考えておくべきだったのだ。
 週間天気予報でも直前の予報でも、今日は快晴とのことだったけど、でも真夏なんだし、いきなりの大雨がくることだってあるだろう。

 別に濡れた芝で練習しておくべきだったとまでは思わない。
 ただ、わたしだけでも、あらゆる可能性を考慮して、覚悟をしておくべきではあった。

 それなのにわたしは、なんにも考えていなかった。
 天候と勝敗は関係ないのかも知れないけど、でも、これで最悪な結果になったとしたら、悔やんでも悔やみきれないよ。
 三年生最後の大会だというのに。

 現在、ハーフタイムだ。
 珍しいことに、はまむしひさが、後半の戦い方について説明している。

 幼少の頃よりフットサルをやっている久樹は、ブラジルで現地の子供たちと街中でボールを蹴っていたこともあるくらいで、実に経験豊富だ。酷い足場での試合も、それなりに経験しているのだろう。
 だからわたしは、後半の戦い方については久樹に全権を任せた。

 わたしは、こんな雨の時にどういう試合運びをすればいいのかなんて全然分からないから。
 こんな池のような水溜りの点在する中で、どうボールを持っていけばいいかなんて全然分からないから。

 凄まじい勢いだった雨は、だいぶ小降りになって来ている。
 もう、雷もおさまったようだ。
 分厚い雲には違いないが、それでも、雲の色が幾分か明るくなっている。

 しかし、小降りになろうがやもうが、この水溜りはどうしようもない。

 そろそろ後半戦の開始だ。
 審判が、掛け声で合図をした。

 両チームとも、ピッチに選手が入っていく。
 ぬかるみを避けるように、各ポジションに散らばって行く。

 佐原南は、たけあきら、真砂茂美、畔木景子、衣笠春奈、根本このみ。

 桜西附属は、じんぐうあいむこうやまうえひとえんどうぬのはらかず

「久樹、ありがとう。それと、ごめん」
「天気のこと? それなら悪いのはこっちだよ。あたしだって副部長なんだし、そういうの関係なく、経験だけは長いんだからこういうことも考えとくべきだったんだ」

 久樹はわたしを慰めるように、にっと笑顔を作った。
 でもわたしは、笑顔を返すことができなかった。作ろうとしたが、作れなかったのだ。

 とにかく、久樹への感謝には、結果で応えよう。

 まだ、一点差なんだ。
 絶対に、勝つぞ。

 勝てば、明日に繋がる。
 それにも勝ち進めば、決勝ラウンドに進める。
 そうなれば、さらに一週間、試合のための練習を久樹と一緒に出来るんだ。

 わたしは、拳を握り締めた。

 後半開始の笛が鳴った。

     11
 根本このみがボールを蹴る。
 強めに蹴ったつもりかも知れないが、水溜りのせいで止まってしまう。

 桜西附属の主将、布原和海が奪おうとしぶきを上げて走ってくるが、衣笠春奈の方が早かった。

「景子に戻せ!」

 久樹の声に、春奈はバックパス。

 ボールは凄い速度で地を滑り、景子へと渡った。

 布原和海が、再びしぶきを上げて襲い掛かる。

 ボールキープする景子。

 布原和海が奪おうと右に左に激しく動き、その都度、水が跳ね上がる。

「茂美に!」

 また、叫ぶ久樹。

 景子は、前を向く振りをして急遽反転、ボールを爪先で少し浮かせると、大きく蹴り、水溜りを飛び越えてベッキの茂美へ。

 桜西附属の選手たちは、相手ベッキがボールを持ったことで、一斉に駆け上がる。

 茂美は、一番先頭の遠藤奈美を、ぎりぎりまで引き付けると、横へ一歩かわして、前方へと大きく蹴った。

 桜西附属の選手たちに、少しだけど、苛立ちの表情が浮かんでいる。
 せっかく水しぶきを上げて前進したのに、ロングボールで戻されて、徒労に終わってしまったのだから。

 茂美の蹴ったボールは、水溜りの中に落ちて、高くしぶきを上げ、転がりもせずに停止した。

 根本このみが、楽々そのボールを拾った。

 茂美、なかなか良い精度のボールを蹴るようになったな。

「このみ!」

 景子が、器用に水溜りを避けながら上がって来る。

 それを追うように走る向山加恵、こちらはがっちりした体型ゆえなのか一直線、ばしゃばしゃと水を跳ね上げながら走っている。

 このみから、景子を目掛けたパスが出る。

 しかしやや精度が低かったか。
 景子がほんの二歩ほど寄り道してボールを受けた時、すでに向山加恵に追いつかれていた。

 景子と向山加恵の二人は、くるぶしまでつかるような、深い水溜りへと入り込んでいた。

 景子の本意ではないのだろうが、追いつかれてしまった以上、水溜りを迂回している暇はない。
 この水溜りを抜ければ、シュートが打てる体勢に入れるが、しかし景子は、強引な手に出た。
 先ほどのパスのように、ボールを小さく浮き球にして、ボレーシュートを狙ったのだ。

 だが、シュートはうてなかった。

 危機を察知した向山加恵が、無理矢理に足を突き出してボールを奪おうとして、景子のことを倒してしまったのだ。

 まるで池に飛び込んだかのように、前のめりに倒れた景子。
 間欠泉のごとく激しいしぶきが跳ね上がった。

 笛が吹かれた。

 向山加恵にイエローカードが出された。

「景子、ナイスファイト!」

 わたしは叫んだ。

 景子、ほんとに頑張ってる。
 久樹が遠くに行ってしまうという話、絶対に優勝しようというわたしと久樹との約束、他に知っているのは景子だけ。
 わたしは気にせず普段通りにやるからね、なんていっていたくせに、なんだよ、あの景子らしくない泥臭さは。

 佐原南の直接FK。
 キッカーは、衣笠春奈だ。

 二年生の中で一番経験の浅い彼女だけど、猛練習を行なったためか、なかなかに良いボールを蹴るのだ。

 池どころか海といっても過言ではない桜西附属のゴール前、そこに両チームの選手ほとんどが集まって、団子状態になっている。

 だけど、残念だった。FKはこのみの頭に届こうかという寸前、飛び出した神宮愛子にパンチングでクリアされてしまった。

 ボールは桜西附属、田野上仁美が拾い、すぐさま前線へとパス。
 浮き球にしようとしたのかもしれないが、ボールは転がってしまい、すぐ前の水溜りでとまってしまう。

 田野上仁美は駆け寄って、あらためて大量のしぶきとともに遠くへと飛ばす。

 桜西附属の向山加恵は、また水しぶきをあげて落下地点へとまっしぐらだ。

 その、ちょっと離れたところを並走する景子。
 並走といっても、ちょこちょこと水溜りをよけているので直線ではない。

 回り道で良い足場を選択した景子の方が早かった。
 ボールを奪うと、すぐさま反転し、水害の軽いところを滑るようにドリブルして、春奈へとパスを出す。

 春奈もまずドリブルしようとするが、ボールが少し水溜りに入ってしまい、もたついたところを桜西附属の遠藤奈美に奪われてしまった。

 自ら奪い返そうと、春奈はすぐさま遠藤奈美の背後にぴったり身体を寄せる。

 遠藤奈美はパスコースを探すが、どの選手にも佐原南の選手がぴたりとマークについている。

「このみ!」

 久樹が叫んだ。

 このみが水溜りに足を取られたようによろけて、布原和海へのマークが緩んだ。

「ドゥーこっち!」

 布原和海は、チャンスだとばかり走りながらパスを要求する。
 ドゥーというのは、どうやら遠藤奈美のニックネームみたいだ。エンドゥー、ってことだろう。

 遠藤奈美は桜西附属主将の声に応え、パスを送った。

 受けようとする布原和海であるが、パスの軌道上に真砂茂美が入り込んで、カットした。
 久樹の作戦通りに、上手く相手を罠にはめて、きれいにボールを奪った。

 真砂茂美はロングボールを上げた。

 ボールの落下地点へ、春奈が全力で走る。

 こちらの作戦のせいではあるのだが、桜西附属の選手たちは、少し前がかりになりすぎていた。
 このハイボールを、拾える者がいない。

 春奈がボールを受ければ、これは絶好の得点チャンスだ。

 桜西附属のゴレイロ神宮愛子は、素早く状況を判断をすると、ゴール前を取り囲む海のような水溜りの中に入り、ボールの落下地点へ向けて飛び出していた。

 ラインを越えたら当然ながら手を使ったプレーは出来ないため、蹴飛ばしてクリアするつもりだろう。

 しかし、春奈が落下地点に到着する方が紙一重の差で早かった。

 衣笠春奈と神宮愛子が、ぶつかった。

 真横へと、ボールが飛んだ。

 ぶつかりあってこぼれたのではない。春奈が、ボールに追いついたその瞬間に、横へと蹴飛ばしていたのだ。
 景子が駆け上がって来るのを信じて。

 意識の連動、景子は上がって来ていた。

 濡れた地面を、つるつると転がるボール。

 景子は駆け寄り、後ろへと大きく足を上げ、広がる海の向こうを目掛けて一気に振り抜いた。

 目の前は、無人のゴールだ。

 景子は目立たないが、シュートは上手い。これは、決まったか。

 しかし、軸足がぬかるみにとられてよろけてしまったのか、蹴り損ねて、ボールはグラウンダーになってしまった。
 初めは勢いよく転がるものの、海のような水溜りに入り、ぱしゃ、ぱしゃ、と音を立てながら、すぐに勢いがなくなり、そして止まってしまった。

 駆け戻った神宮愛子に、ボールは拾われた。

 普通のピッチ状態なら、間違いなく決まっていたのに。

 悔しそうな顔で、水溜りの水を蹴る景子。
 プレーがうまくいかなくてイライラする景子なんて、はじめて見る。
 久樹のために、それだけ必死なのだろう。

 後半戦に入り、五分間が経過している。

 得点は0-1で、相変わらず佐原南がリードされている状態だ。

 とはいえ、現在、佐原南ペースで試合は進んでいる。
 早めに追いつければ、充分に勝機がある。

 我々が流れを取り戻せたのは、久樹の作戦によるところが大きい。
 久樹は、ハーフタイムに、こんなことをいったのだ。



 「こんな泥んこプロレスみたいな試合、相手だって慣れちゃいない。楽々プレーしているように見えたけど、リードしていて余裕があっただけだ。
 同点になりさえすれば、一転して、焦るのは向こう。

 とんでもない天気にピッチ状態になっちゃったけど、まあ、せっかくの水溜りだ。徹底的に利用しよう。相手を上手く誘い込んで、動きを鈍くさせよう。それを繰り返して、疲れさせよう。

 ボールを取られたら、やってることそのまま真似されるかもしれないから、とにかくピタリとそれぞれがいやらしいくらいにマンマークについて、相手のミスを待ってボールを奪おう。

 向こうが前半終了間際にやってたことだけど、こっちもハイボールを多く使ってこう。たぶん、うちの方が上手に出来る。

 水溜りは、当然ボールは転がらないけど、そうでない部分は反対にボールがよく伸びる。ここをうまく使い分けよう。
 ハイボール主体の大雑把な攻めでいいけど、相手の油断するタイミングで、縦へグラウンダーのパスを入れていこう。」



 と。
 そうなんだよな。わたしの前の代である、金子部長の時からなんだけど、サッカーでも通用するようにと、ハイボール処理の練習を結構やっているのだ。佐原南は。
 だからうちの選手たちは、ヘディングでボールを繋ぐの結構得意なのだ。

 前半のうちに、そう指示を出せばよかったんだけど。わたしは突然の土砂降りにおろおろするだけで、なにも出来なかったから。

 悔やんでも仕方ない。
 失ったものは、これからのプレーで取り返す。

 後半六分。
 選手交代。

 根本このみ アウト 木村梨乃 イン

 わたしは、交代ゾーンに立った。

 このみが、走って戻ってくる。

「お疲れ」
「任せたよ」

 このみは、わたしの背中を叩いた。

「梨乃先輩、頑張れ!」

 王子の力強い声援を背に受けて、わたしは、ピッチへと入った。

 しかしまあ、ほんとに凄いピッチ状態だな。
 こんなところを走り回っていたら、あっという間に足が動かなくなりそうだ。

 でも、やらなきゃ。
 指示出しのために外にいることが多かったわたしは、体力は充分だ。後先考えず、普段の何倍も走り回ってやる。

 ボールを持つ景子が、パスの出しどころを探している。遠藤奈美がぴったりくっついて、パスを出させまいと圧力をかけているのだ。

 景子、頑張り過ぎだ。
 かなり疲れた顔をしている。

「景子!」

 わたしは手を上げ、走り出した。
 走り、水溜りを飛び越える。
 着地の時につるり滑ってしまうが、なんとか堪えて走り続ける。

 後ろで、強くボールを蹴る音が聞こえた。

 振り返ると、水溜りを飛び越えて、ボールがわたしの方へと飛んで来る。景子が、遠藤奈美をかわしてロングボールを蹴ったのだ。

 わたしは、胸で受けた。

 背中に熱を感じた。桜西附属の田野上仁美が、ピタリとついていた。

 慌てない。
 ポストプレーで、春奈たちの上がりを待ち、

 と思わせて、反転シュートだ!

 意表はつけたが、ボールは田野上仁美の足に当たって横へ転がってしまった。運がなかったか。

 わたしはボールへ素早く駆け寄ったが、スリッピーな芝に、うまくブレーキをかけることが出来ずに滑って転んでしまった。

 田野上仁美が拾い、クリア。

 わたしは起き上がりながら、選手交代の指示を出した。

 畔木景子 アウト 浜虫久樹 イン

 頑張り過ぎて相当に疲労している景子を、久樹に代えた。

 既にこちらのペースになっているところにエースの投入で、これで完全に追撃ムード、同点ゴールも時間の問題だ。
 と、楽観視ではなく、自分の闘志を燃やすために、そう心に呟いた。

 だけど、現実は甘くないどころか、相当に辛かった。

 春奈が相手を突き飛ばして与えてしまった桜西附属のFK、茂美がクリアしようとするが、真上に打ち上げてしまう。
 それに反応した桟敷由真が、素早く走り寄り、見事なボレーシュートを佐原南ゴールネットへと突き刺したのである。

 晶はしっかりとゴール前を守っていたというのに、でも、全然反応出来なかった。

 それだけ桟敷由真のシュートが完璧だったのだ。
 球威、タイミング、コース、すべてが。

 得点が動き、0-2に。桜西附属のリードが広がった。

 残り時間があと七分しかないことを考えると、これは、絶望的な状況だ。

 でも、落ち込んでいる暇はない。
 どんな結末が待っていようが、悔やむのは試合の後だ。

 ここでいじけていたら、起こる奇跡も絶対に起こらない。

 真砂茂美 アウト 楽山織絵 イン

 茂美もかなり疲れているようだから、交代させた。
 織絵も、自分の失点だけではなくなったことで、吹っ切れて、思い切ってやれるだろう。
 まあ、織絵にそんな心配は無用かも知れないけど。

「どんどん攻めるよ!」

 後半は佐原南が支配しており、わたしにいわれるまでもなく、どんどん攻めている。
 自分に気合を入れただけだ。
 どん底の状態からは、もう上しかないんだから。

 織絵が、早速いい仕事した。
 桟敷由真の村上利恵へのパスを、絶好の位置、相手にとって嫌な位置でインターセプトをしたのだ。

 重戦車ドリブルで上がる織絵。
 織絵の足元、水しぶきの中から、ボールが飛び出してきた。わたしは腿を上げてトラップする。

 桜西附属の主将布原和海がわたしにぴたりと身を寄せてくる。

 わたしは、爪先で蹴り上げたボールを、さらに腿で蹴り上げながら、身体を反転させ、布原和海からボールを守る。

 佐治ケ江や久樹にはかなわないけど、わたしだってそれなりにテクニックはあるのだ。

「久樹、行くよ!」

 ヘディングで、久樹の前方へと送る。

 向山加恵のマークを掻い潜り、走り出す久樹。小さい身体を屈伸させ、二メートルはある水溜りを飛び越えた。まるで牛若丸だ。

 わたしも走る。
 久樹を信じて。
 このあとに来る結果を信じて。

 久樹は足を伸ばして爪先でボールを受けた。だが、水溜りを力任せに突破してきた向山加恵に追いつかれてしまう。
 それでも、久樹は冷静だった。
 向山加恵の股を抜き、迫り来る田野上仁美をルーレットでかわすと、ゴール前へとアーリークロスのボールを蹴り上げた。

 わたしはそのボールを追い、走り、海のような水溜りの中へと入り込んだ。ざぶりざぶり、と激しく水しぶきが上がる。

 ゴレイロの神宮愛子は出てこられない。ゴール前で構えている。

 行くぞ!
 わたしは倒れ込みながら、落下して来るボールに渾身の力を込めて、頭を叩きつけていた。

 海が視界一杯に広がり、そして、わたしは落ちた。

 岩を投げ込んだかのような、凄まじい音に、激しい水しぶき。
 つーーという耳鳴りの中に、わたしは味方の爆発するような歓声を聞いた。

「梨乃、ナイスゴール!」

 久樹の声だ。
 わたしは水溜りの中に両手をついて、首を持ち上げた。

 悔しそうな神宮愛子の顔が見えた。
 ネットの中のボールを拾うと、センターサークルの方へと強く放り投げた。

 決まったのか。
 わたしの、ヘディングシュート。

 でも……

「喜んでる暇はない。あと一点、いや、二点取るよ!」

 わたしは立ち上がり、叫んだ。
 佐原南、選手交代。

 衣笠春奈 アウト 根本このみ イン

 残り時間はあと五分。
 もう、やることに迷いはない。
 とにかく攻める。
 それを、徹底的に、力の限り繰り返すだけだ。

 今度は、ゴレイロである武田晶の攻め上がりからチャンスが生まれた。
 晶と織絵とのワンツー。晶は、村上利恵と田野上仁美の間を狙いスルーパスを出した。

 このみが走りながら受けた。
 すぐに、向山加恵にピタリとつかれるが、このみはポストプレーで粘り、そしてヒールで久樹へとパスを出す。

 久樹はそれをスルー、いや、ちょっぴり角度を変えた。
 水溜りと水溜りの間に出来た細い道を、滑るようにボールが転がっていく。
 それ、狙ってやったんなら凄過ぎだ。

 その神がかったコースのパスを受けたわたしは、独走でサイドを駆け上がり、ゴール前へと低く速いマイナスの浮き球を上げた。

 桜西附属のゴール前が海のような状態であることは再三説明しているが、現在その海の中には二人。
 神宮愛子と浜虫久樹だ。

 ボールは、神宮愛子がキャッチした。
 しかし、つるり滑ってグローブの間から勢いボールが良く跳ね上がった。

 膝でそれを奪った久樹は、くるりと神宮愛子へ背中を向けた。
 一度腿で受けてタイミングをずらした刹那、そのまま振り返って、シュート体勢に入った。

 が、その瞬間、久樹はのけぞり、身体を半回転させて、倒れた。

 ざばん、としぶきが上がった。
 後ろから激しく押されて、倒されたのだ。

 笛が鳴った。
 審判が、桜西附属の向山加恵に向けてイエローカードを、続いてレッドカードを掲げた。

 倒れている久樹の傍らで、向山加恵はがくりと肩を落としている。

 覚悟の上でのファールだったのか、ただ勢いを殺せなかっただけなのか、どちらなのかは分からないけど、とにかく彼女はシュート体勢に入った久樹を突き飛ばしてしまい、この試合二度目の警告を受け、退場処分となった。

 PK? と思ったが、FKだ。
 久樹がぎりぎりラインの外だったらしい。

 向山加恵は手を伸ばし久樹を引き起こすと、無言のまま、水溜りをよけもせずざぶりざぶりと一直線にピッチをあとにする。

「気にすんな、カエ。あと数分、絶対に守りきるから!」

 主将の布原和海が、気落ちする向山加恵にそう声をかけた。

 そうだ、あとたったの数分しかない。

 相手が一人少ない状況になったのだし、なんとしてでも、あと一点を取らなくては。

 フットサルは、退場者が出て人数が少なくなっても、二分経過または失点をすることによって人数の補充が出来る。
 二分といえば、もうほとんど試合も終わりだ。
 だから、それまでに必ず追いつかないと。

 久樹が倒されたことで、佐原南はFKを得た。
 相手の、直接FKになるファールは、この後半で六度目。
 だから、佐原南としては第二PKを選択しても良かったのだけど、ゴールまで距離が近いことから、通常のFKにした。

 キッカーは久樹だ。
 まるでグラウンダーに見える低く速い浮き球で、ゴールを直接狙った。
 桜西附属ゴール前が海のような状態なので、転がしてもとまってしまうから。というのは分かるけど、それを軽々と実践出来るなんて、本当に久樹は凄い。

 ボールはFPの間を上手く抜けたけど、でも、残念ながらゴレイロ神宮愛子の守備範囲で、右足で弾かれてしまった。
 惜しい。
 と思ったが、どうやらそれは久樹の狙いだったようだ。

 ボールが小さく、跳ね上がった。
 そうなるように、久樹がスピンをかけていたのだろう。

 そのボールを押し込もうと、わたしとこのみとが素早く詰めるが、コンマ一秒早く、ゴレイロの神宮愛子にキャッチされてしまった。
 せっかくの久樹のアイディア、生かせなかった。ごめん久樹。

 神宮愛子は、間髪入れずにゴールクリアランスでとりあえず遠くに放り投げる。
 誰もいなさそうな、水溜りの深そうな、そんなところへと。
 憎たらしいけど、実に堅実なプレーを選択するゴレイロだ。

「晶も、どんどん上がれ!」

 わたしは振り返り、ゴレイロの武田晶へと叫ぶ。

「はい!」

 晶、相変わらずなにを考えているのかよく分からない表情だけど、とりあえず元気のよい声が返ってきた。
 期待してるよ。

 織絵のドリブルを、桟敷由真が詰め寄り、奪おうとする。
 かわそうとするが、かわしきれず、ボールが跳ね上がった。

 ルーズボールを拾ったのは、わたしの指示で上がっていた武田晶だ。

 周囲に人がいないため、水溜りを避けながらぐんぐんと前へと上がっていく。
 滑りやすいピッチだというのに、非常に正確で速度のあるドリブルだ。
 ゴレイロとして一番優秀だからゴレイロとして使っているけど、FPとしての足元の技術も相当に高いのだ。

 この、ゴレイロの攻め上がりは、パワープレーといってフットサルでは普通に見られる戦術だ。
 奪われて遠目から正確に蹴り込まれたらおしまいなので、非常にリスキーではあるが、サッカーと違ってプレーヤー人数の少ないフットサルでは得点の可能性も格段に増える。
 そのため、現在のように、とにかく得点しないことにはどうしようもないような場合においてよく利用される戦術なのだ。

 ましてや現在、あちらは一人少ない状態。
 そのため、ゴレイロがFPとして前に出れば、こちらは二人も多いことになる。

 サルガッソだろうがなんだろうが、駒が足りていて成り立つもの。力技で、粉砕だ。

 晶は、布原和海を引きつけて、久樹へとノールックパスを出す。わたしはそれに反応し、全力で走る。

 久樹はスルーし、そして、後ろから駆け上がったわたしがシュートを打った。
 普段の練習通りの連係で、完全にフリーな体勢から打つことが出来たが、もう少し工夫すべきだったか。
 久樹のシュートは枠を捉え、隅の、取りにくそうな箇所へと飛んだものの、タイミングが正直過ぎた。

 ゴレイロの神宮愛子は、足を伸ばし、ボールを蹴り出した。

 もうちょっとだけ、タイミングをずらすことが出来ていれば、決まっていたかも知れないのに。

 しかし、ボールはラインを割ったため、佐原南はCKを得た。
 キッカーは久樹だ。

 桜西附属ゴール前は、まるで海のような、広く深い水溜りだ。
 キッカーの久樹と佐原南ゴレイロの晶以外、全員がこの水溜りの中に足首までつかっている。

 久樹は短く助走し、ボールを蹴った。
 高く、海を越えたボールは、弧を描いて、すっと落ちる。

 予想通りの軌道だ。
 わたしは桟敷由真と布原和海の間からすっと抜け出し、落ちてくるボールに頭を叩きつけた。

 感触は完璧。
 しかし、雨の中で全身ずぶ濡れでのゲーム、ということが感覚を狂わせたのだろうか。
 ボールは虚しくもポストに当たり、跳ね返った。

 ゴレイロの神宮愛子がすぐさま大きくクリアした。

 晶がまた大きく上がり、そのボールを拾った。
 右サイドの根本このみへと、大きな浮き球のパス。

 もう桜西附属の選手たちは、全員自陣に引きこもっている。
 ゴール前を、完全に固めている。

 このみは現状打破のため、相手を揺さぶろうと反対サイドにいるわたしへと低く速い浮き球のパスを送ってきた。

 一人、釣られた。
 布原和美が、わたしの方へと飛び出して来た。

 わたしはノートラップでゴール前へと上げた。

 桜西附属の選手たちの中に、するりと入り込んだ久樹が、タイミングを合わせ、渾身の力を込めて右足を振りぬいた。

 ボールは神宮愛子の腕に当たり、跳ね上がり、横へと飛んでいく。いち早くクリアしようと桜西附属の選手が全員、ボールを目指して走り出す。

 しかし、誰よりも早く、短い足でばしゃばしゃと落下地点へと辿り着いたのは久樹であった。
 自分でシュートを打った瞬間、ゴレイロに弾かれることを感じて、誰よりも先に走り出していたのだろう。

 久樹はくるりゴールへ背を向け、その瞬間、オーバーヘッドシュートを放っていた。

 ちょっと精度が悪く、浅い角度でポスト直撃か、というところ、このみが身体を突進させ、胸にボールを当ててそのまま押し込んでいた。
 ゴール!。

 2-2だ。
 土壇場の土壇場、このみのゴールにより、ついに佐原南が追いついた。

「このみ、やった!」

 久樹は、このみへと駆け寄った。
 このみは笑いながらも、苦痛に顔を歪めている。

「どうした?」

 久樹は、心配そうにこのみの顔を見る。

「ちょっと、ポストに肩をぶつけちゃった」

 痛そうに肩を押さえている。

「大丈夫?」
「平気。でもないか。かなり、痛いわ」

 笑顔を作ろうとして、このみはぐっと呻いた。
 ほんとに痛そうだな。

「このみ、ありがとう。……それと、ごめん」

 久樹は小さく頭を下げた。

「ん? ありがとは分かるけど、なんだ、ごめんって」
「練習の時のこと、あたし、真剣にやれだなんだと、えらそうなことばかりいっちゃって」
「その話なら、もう済んだことでしょうが。それとも、もう一回、鼻をぐりんぐりんされたいか……あいてて、やっぱりちょっと無理そうだな」

 このみはまた笑顔を作ろうとしかけ、また顔を歪めた。

 桜西附属のキックオフで試合再開。

「このみ、交代。フサエと」

 交代ゾーンより、根本このみと夏木フサエが入れ代わった。
 桜西附属は、まだ退場者が出てから二分経っていないが、失点したことにより選手補填が許され、遠藤奈美が入った。

 もう試合残り時間はほとんどない。

「戦術は変えない。どんどん攻めるよ!」

 最低でも、延長戦だろう。
 追い上げる側が精神的に有利な立場だし、可能ならば、延長戦に入るより前に点を取ってしまいたい。

 流れはこっちにあるんだ。
 一気に行けば、絶対、点は入る。フットサルは、そういうものだ。

 などと考えて、指示したこと、チームを前掛かりにさせてしまったことが、結果としては失敗だった。

 桜西附属にまだあんなに体力が残っているなんて想像出来たはずもない。
 などと、まったくいいわけにはならない。
 とにかく、すべて、わたしの考えが甘かったのだ。

 佐原南は後半の残り時間、一方的に攻めたのだが、一瞬の隙をつかれてカウンターを受けた。

 桟敷由真がピッチの端から端までを独走し、武田晶の守るゴールの隅に、奇麗にボールを流し込んだのだ。

 桜西附属の選手らは、桟敷由真を取り囲み、抱き合い、喜んでいる。

 勝ったかのように、嬉しそう。
 まあ、勝つのだろう。だって、残り時間が……

 佐原南ボールでキックオフ。
 久樹は、まったく諦めていない。急いで、ボールを蹴った。

 だけどその瞬間、審判が、長い笛を吹いた。
 試合、終了。

 佐原南は、2-3で敗れた。

 いつの間にか、雨はやんでいた。
 雲の小さな隙間から、太陽の光。

 でも、今度はわたしの心の中に雨が降りはじめていた。
 わたしは、ピッチの上で、呆然と立ち尽くしていた。

「……梨乃ってば!」

 目の前に、久樹が立っている。
 何度も、わたしのことを呼び続けていたようだ。

 久樹の、顔を見つめる。
 わたしは、小さく口を開いた。

「約束……守れなかった」

 わたしは、久樹にというより、自分の心へと呟いた。
 心の中のなにかが切れてしまったのか、目頭が熱くなり、涙が出てきた。

「久樹、ごめん。約束したのに、絶対に優勝するって約束したのに。あたし、嘘つきだ。最低の、嘘つきだ」

 大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちてくる。

 なんだよな、この雨がやむタイミング。やむのがもう少し遅ければ、雨粒でごまかせたのに。
 恥ずかしいじゃないか。
 こんなところで泣いたりして。

 久樹が小さな身体を背伸びさせて、わたしに抱きついてきた。

「ありがとう、梨乃」

 吐息のような声で、そういったのである。

 こうして、わたしたち三年生にとっての最後の大会が終わった。
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