秘書のわたし 番外編

ふとん

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秘書のあなたと愛しいあなた

あなたに出会って

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――あとから思えば、それはわたしの運命だった。



(急がなきゃ…!)

 その日、やっともらった面接のチャンスに、わたしはちょっとどころではなく浮かれていたのかもしれない。
 エントリーシートの写しと小論文を何度も確認しているうちに、気が付けば朝だった。 
 ばたばたとリクルートスーツを着て家を出るとき、母の「行ってらっしゃい」の声にもおざなりに答えて慌てて電車に飛び乗り、慌てて面接会場へ向かっていた。

 だから、低速ながらも横断歩道を通り過ぎようとしていた車に気が付かなかった。

――あぶない!

 そんな声が聞こえたかもしれない。
 キキーッという音を上げて車は止まってくれたし、どうにか横断歩道の端に避けたけれど、

「いった…」

 勢いあまって尻餅をついた拍子にかばんはひっくり返っている。大事に持ってきた小論文がばらばらと道路に散らばってしまった。

「ああっ…どうしよう」

 慌てて小論文を拾い集めていると、車から背の高い人が降りてきた。

「大丈夫か!? きみ」

 よくとおる声の人だ。
 わたしは思わず論文を拾うことも忘れてその人に見惚れてしまった。
 最初に思ったように、背の高い男の人だ。きれいな革靴、素人の目にもスラリときれいなスーツ、そして整った顔立ち。男性らしい薄い唇、高い鼻、涼し気な目元、意思をはっきりと伝えるような眉は今は心配そうにひそめられている。大人の男性の雰囲気は軽く整えた黒髪の硬質さも相まって、近寄りがたいほど。
 けれど彼はこちらに駆け寄って、そのまま膝をついた。
 そして彼はわたしを頭から足までたっぷり眺めて、

「見たところ怪我はなさそうだけど、痛いところはあるか?」

 痛いと言えば尻餅をついたけれど、彼の登場ですっかり忘れていた。わたしは「いえ」と答えるけれど、彼は少し心配そうに「そう」と言って、道路に散らばった小論文を拾い上げる。 
 そうやって同じように拾い集めていたのに、この人の何気ないことがとても特別なことみたいに見えた。
 彼の様子をぼうっと見ていたわたしに、彼はくすりと笑う。

「これを集めなきゃいけないんじゃないのか?」

 間近でそう微笑まれて、顔から火を噴きそうになる。

(こんなきれいな人に笑われてしまった)

 わたしは顔を真っ赤にしながら小論文を拾い集めた。
 二人で拾えばあっという間で、なんとか論文をまとめているといつのまにか彼がかばんも拾い上げてくれていた。

「ありがとうございます」

 かばんを受け取ってお礼を言うと、彼はまた笑う。

「謝らないといけないのはこちらの方だよ。危ない目に遭わせて悪かったね」

「いえ! その…わたしも前をよく見ていなかったので…」

「そう言ってくれるとありがたいよ。でも」

と、彼はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出して、名刺を渡してくれる。

「時間が経ってからでも、困ったことがあったら電話して。君の名前を聞いていいかな?」

 名刺をパッとみると、上村湊(うえむらみなと)と書いてあった。

「三澤佳苗といいます。……論文を拾ってくださってありがとうございました。上村さん」

 上村さんは「三澤さん」とにっこりと微笑む。

「ずいぶんと急いでいたようだね。――化粧が崩れてる」

「えっ」

 慌てて家を出てきたのは確かだけれど男性にそんなことを言われたのは初めてで、目を白黒させていると上村さんは「井沢」とわたし越しに名前を呼ぶ。
 するといつの間に立っていたのか、すらりとしたパンツスーツ姿のきれいな女性が「はい」と返事をした。
 背はあまり高くない女性だけれど、スーツもパンプスも手入れが行き届いていて隙のない装いがよく似合う大人の女性だ。
 上村さんは彼女に慣れた口調で指示する。

「彼女の化粧を直してやってくれ」

「そ、そこまでしていただかなくて大丈夫です。それに時間もないし…」

 時間がないのは本当のことだし、出逢ったばかりの人たちにそこまでしてもらう義理もない。

「時間がないんだろう? それに、面接なら第一印象は大事だよ」

 上村さんはそうニヤッと笑って、井沢さんにわたしを預けてしまう。

(あれ、わたし…面接のこと話したかな?)

 井沢さんは別のことに気を取られたわたしを車の後部座席に押し込んで座らせると、

「じっとしていてくださいね」

 彼女の手際は信じられないほど手早かった。わたしのつたないメイクはあっという間に落とされて、瞬く間にわたしは社会人らしく抑え目の、けれどちゃんときれいなメイクを施された。
 井沢さんにお礼を言うと、彼女はにこりと微笑む。

「三澤さんは肌がきれいですから、ちゃんとケアさえしていればきれいなメイクになりますよ」

 そう言って、井沢さんがわたしを残して車を出ると、入れ替わりに上村さんが車に乗り込んできた。そうしている間に井沢さんは助手席に乗り込んでいる。

「じゃあ、柴村商事に向かってくれ」

 上村さんが当然のように運転手さんに言い添える。

「えっ」

 これから面接へ行くはずの会社名を言われてわたしが思わず驚いていると、上村さんはふっと軽く笑う。それは少年がいたずらを成功させたようで、どきりとする。

(こんな素敵なヒトも、こんなカオするんだ)

 どきどきと高鳴る胸の音が彼に届かないか心配で、わたしが目を泳がせながら「あの、どうして柴村商事に…?」と訊ねると上村さんはわたしを見て、

「私も柴村商事に用があってね」

 それに、と彼はにやりと笑う。

「失礼とは思ったけれど、かばんの端からエントリーシートが見えた」

 上村さんは車のシートに背中を預けて言う。

「就職活動中なんだろう? 前途ある学生には頑張ってほしいからね。オジサンのお節介と思って大人しく送られてくれ」

「オジサンなんてそんな…」

 上村さんとは縁遠い言葉にわたしが口ごもると彼は軽く笑い声を上げた。

「オジサンだよ。もう三十二歳だからね」

「え…っ」

「ほら、驚いた」

 上村さんにしたり顔で笑われたけれど、わたしが驚いたのは彼が三十二歳に見えないからだ。けれど、うっかり油断すると同級生の男の子には絶対にない、大人の男性の雰囲気に呑まれそうになる。

 そうやっておしゃべりしている間に柴村商事に着くと、すぐに助手席から立ったらしい井沢さんがドアを開けてくれる。
 彼女にお礼を言って車を見送ろうとすると、車の窓が開いて上村さんが顔を出した。

「面接、頑張りなさい」

 わたしが再びお礼を言っている間に車はさっといってしまって、残されたわたしはしばらくぼうっとしてしまった。

(素敵な人だったな)

 そっと名刺を定期入れにしまい込んで、わたしは気合いを入れ直して面接へと向かった。





――面接は、今までにないほど上手くいった。
 受け答えも、小論文の発表も、まるで魔法にかかったように上手くいった。

 家に帰ったあと、これもあの素敵な出会いのおかげかも、と定期入れにしまった名刺を見てわたしは上村さんの肩書を見て愕然とする。

(植村コーポレーション、社長!?)

 素敵な魔法使いは、とんでもない人だったようだ。  


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