漆黒のピルグリム

ふらっぐ

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Here comes the pupett show

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 日本での滞在先に選んだ、その小さな教会で、ザムエル=ミューラー司祭は、物思いにふけっていた。
「……思い出しましたか、聖女様……。ようやく……ようやく、私のことを」
 自室として選んだ、書斎の窓べりに立ち、赤黒く、不吉な黄昏に染まったままの空を見上げる。その表情は、落ち着いているように見えながら、どこか、その裏に隠しているものがあるように見える。
 喜悦か、恍惚か。
 狂喜か、情動か。
 ――――あるいは、愁い。
 だがすぐに、その表情は歪んだ笑みにとって変わる。
「500年……500年ですよ、聖女様。ああ、それは悠久のごとく永く、同時に一瞬の夢のようでもありました」
 まるで舞台上の役者のごとく、ザムエルは踊るように両手を広げ、謳うように言う。
「あなた様にもう一度、逢いまみえるためだけに、このザムエルは卑しくも、人の禁忌を超えてまで、生きながらえてきたのです。ああ、そこからでもお分かりになりますでしょうか、この愚かな私の胸は、高鳴って高鳴って、今にも張り裂けてしまいそうなのです!」
 もはやその胸の慟哭を抑えることなどできないと言わんばかりの彼の独白を、しかし遮るものがあった。ノックの音と、感情を感じさせない、無機質な声。
 ――――ウィノナだ。
「……ザムエル様。ご報告、献上」
 ザムエルは、苦々しい思いをそのまま表情に表し、舌打ちをする。
「人形風情が……。私のモノローグに、水を差すとは、無粋な」
 小さく一人ごちながらも、ザムエルは扉を開き、彼女を招き入れる。
「いかが致しましたか? ウィノナ」
 その頃にはもう、彼の表情は穏やかで優しげなものへと変わっていた。
「街の者……制御、終了」
 相変わらず無感情な声が、ザムエルの神経を逆撫でする。操り人形としては適切だが、聖女が再びその記憶を蘇らせた今となっては、使い捨ての人形など、もう興味を引かなくなっていた。
 ……この場で、処理してしまうか。思わず、そのような思いが胸に一滴の黒い染みを垂らす。
 だが……いや、と、心の中でザムエルは首を横に振る。
 まだ、この人形には舞台に残ってもらわねばならぬ。こいつらにはこいつらの役割が、まだある。
「そうですか。では、聖女様に言伝を頼みます」
 胸の染みをどうにか押さえ込み、ザムエルはにっこりと笑って見せる。
「街の人間の意思は乗っ取った。街中で殺し合いが始まるのを止めたくば、こちらの招待状をお受け取りください――――とね」
 そういって、ザムエルは懐から一通の便箋を取り出す。まるで童話の、お城の舞踏会への招待状のように装飾されたそれは、彼の描いた脚本の、一つのかけら。
「これで舞台は整いました。後は、主賓をお招きして、舞台を開演するだけです――――頼みましたよ、ウィノナ。あの方はたった一人の、この舞台のお客様にして、次の物語の主演女優でもあるのですから、ね」
 便箋をウィノナに手渡し、ザムエルは堪えきれなくなったように、その穏やかだった笑みをぐにゃりと歪ませた。
「――――御意」
 その変貌にもまるで無感動に、ウィノナが便箋を受け取る。
「――――では、開幕の用意を。500年の永きにわたるこの舞台の、最終幕を始めようではありませんか――――」
 ザムエル=ミューラー司祭は、そう言いながら眼鏡の位置を直しながら、静かに、くく、と笑いを漏らした。



 
 ザムエルの部屋を出、ウィノナ=ヴァイカートは、空虚なそれを演じていた自らの瞳に、鋭い光を戻した。
 足早にザムエルの部屋から遠ざかると、彼女は教会の敷地の隅にある小屋へと向かう。カッシュとティモが目覚める前に安置されていた部屋だ。
 その小屋の地下への扉を後ろ手に閉めると、彼女は小走りで下の部屋へ向かう。その様はまるで、誰かに見られてはいけないと心得ているかのように見える。
 その部屋――――カッシュとティモが待機する部屋にたどり着くと、彼女はすばやくその扉を閉める。
「……ふくたいちょー! 大丈夫だった?」
 彼女を安心したように出迎えるティモに、こくりと一つうなずき、ウィノナは口を開く。
「こちらは問題ない。首尾はどうなっている?」
「万事、問題ナイ。予定通りダ」
 鋭く言うウィノナに、うっそりと、部屋の隅に背を預けたカッシュが答える。
「……よし、計画通りだな」
 その言葉に、ウィノナはにやりと笑って見せる。その表情に、相対する二人も笑う。
「後は、奴が描いた脚本どおりに踊ってやればいい。それだけだ……さて、その時……奴がどんな顔をするのか、今から楽しみだな」
 その言葉とともに、ウィノナ――――黒い修道服の女性は、壮絶な笑みを漏らした。



 
「おいおい、やっと来やがったか。やたら遅いわ、音沙汰もないわで心配したぜ」
 静馬が生前住んでいた家のドアを開けると、そこには心底ほっとした顔の翔悟が立っていた。
「ごめんごめん。実はちょっと、進展があってさ」
 そんな翔悟の安心顔をよそに、紅香はあっけらかんと笑う。
「……ったく。とにかく、入ってくれ。今後の作戦を練ろうぜ」
 翔悟に促され、紅香と静馬は中へと入る。他の二人は、どうやら以前の事件で調べた地下室にいるようだ。
 地下室へと入って行くと、やはりほっとした様子の雪乃と、不機嫌そうな表情の水葉の姿がそこにあった。
「紅香、なにかあったのですか? 遅いので心配したのです」
「へへ……、ごめんごめん。ちょっと、いろいろあって……ね」
 頭を掻く紅香に、水葉だけが冷静に、意味ありげな視線を送る。
「……いろいろ、ですか。なにがあったのか、詳しく聞きたいところね」
 どうやら、水葉はその『いろいろ』イコール『なにかしらの進展』と受け取ったようだ。
「うーん、なにから話したらいいか……」
 紅香は所々、静馬の合いの手も借りながら、先ほどあったことを三人に話す。
 神社にあった奇妙な鏡のこと。そこから現れた、アネッタのこと。どうやらザムエルという人物が、今回の事件の黒幕であるらしいこと。
 そして……自分が、どうやらアネッタの魂を受け継いでいるらしいこと。
「……マジかよ。にわかには信じられん話だな」
 さすがに、翔悟が驚きを隠せないように帽子を被りなおす。
「でも、それでつじつまが合うこともある。紅香がなんのアフターリスクも負わず、邪神の力を使うことができること。それに、聖女との様々な共通点……教会の推測も、あながち的外れではなかったということね」
 腕組みをしながら、水葉が言う。
「確かに……だが、わからん点もある。そのザムエルとやらが黒幕だとして、そいつが生きてた時代は500年前だろ? それがまだ生きてるなんて、おかしいだろ。それに、他の三人はなんなんだ?」
 つられるように腕組みをしながら、翔悟がうめく。
「……これはまだ、推論の段階ですが」
 言いながら、水葉がその瞳をわずかに険しくする。
「そのザムエルという人物、もしや……悪魔と契約したのではないかと」
「……悪魔と?」
 おうむ返しに聞き返す紅香に、水葉がうなずく。
「ええ。私がこの件に関わることになった発端――――それは、悪魔が村を襲った事件でした。それも黒幕が悪魔とつながっているなら、説明がつきます。それに、他の三人も、悪魔の業を使ってのことなら、ありえることです」
「なるほどな。悪魔と契約しているのであれば、500年もの間、生きながらえることもできる……ってわけか。だが……それだけじゃ、ちょっと根拠に欠けやしないか?」
 あごに手をやり悩む翔悟に、水葉がちらりと視線を送る。
「根拠は、もう一つあります。その三人の名前――――ウィノナ=ヴァイカート、カッシュ=グロスコフ、ティモ=パシコスキーと言いましたね? そして、その三人は『セイントアンガー』という部隊に属していたと」
「ああ、それもわからんところだが……お前さん、何か知ってるのか?」
 翔悟のその言葉に、水葉がうなずく。
「教会内では、有名な事件です。ドイツのベルリンで、悪魔による連続殺人事件が起こった。その捜査に当たったのが、その部隊。しかし、彼らはその犯人を突き止めたとの連絡を最後に、消息を絶ちました。その事件で唯一、生還したものの名が――――ザムエル=ミューラー」
「……そうか、生き残りが実は犯人で、悪魔の業を使うもの。そして、その時の被害者が、その業で操られている……となれば、きれいに話がつながるな。そしてそいつは、教会に潜んで、アネッタの魂を持つものが現れるのを待っていた……。こんなところか」
 合点がいったとばかりに、翔悟が手を打つ。
 しかし、紅香はその推理に、どことなく消化不良のようなものを感じていた。確かに、水葉の推理が正しければ、事実はうまくつながる。確たる証拠はないが、限りなく真実にちかいような気がする。
 でも……アネッタの記憶の中では、とてもそんなことをする人物には見えなかった。むしろ悪魔と契約することなど、決してないような――――。
「どうかしましたか? 紅香」
 知らず知らずの間にずいぶんと考え込んでいたらしい。目の前には、怪訝そうな顔をした水葉の姿があった。
「う……ん。なんていうか、あのさ……。水を差すわけじゃないんだけど……そのザムエルって人、悪魔と契約するようには見えなかったなあ……って」
 とはいえ、なにか根拠があるわけではないが。
「紅香、人とは、変わるもの。その人物がアネッタを慕っていたのなら、すれ違いがその心を狂わせたとしても、何も不思議もない」
「うん。確かに、そうなんだけどさ……」
 どうにも、それだけで片付けてしまうのは、釈然としないものがあった。
「ま、それ以上は考えてもしょうがないだろう。どっちにしたって、どうやら黒幕はそいつらしいからな。それよりも、この後のことを考えたほうがいいだろう」
「そうだね。外がああなっている以上、いつまでもここにこもっているわけにもいかない。普通の人たちが操られているのなら、強行突破もできないし」
 翔悟の言葉に、静馬もうなずく。
 そのとき、今までだまっていた雪乃の表情が、ふと変わった。
「……なにか、近づいてくるのです」
「え? なに? なに?」
「この感じは……恐らくあの、ウィノナという女性です」
 にわかに緊張に包まれた室内に、翔悟が吸っていたタバコを灰皿に押し付ける。
「……奴ら、仕掛けてきたか?」
「いえ、それにしては変なのです。他に、誰かがいる気配もない……」
 不意に、静寂がその場を支配する。相手の目的が分からない以上、下手に手を出すのは危険と、その場の全員が理解していた。
 ごくりと、紅香は思わずつばを飲み込む。
「……あれ?」
 気配を探っていたらしい雪乃が、ふと、その表情を緩めた。
「ど、どしたの?」
「玄関まで来たところで……気配が引き返していったのです。まるで、そこで目的を遂げたみたいに……」
 その言葉に、翔悟が動いた。ゆっくりと、地上への階段を上って行く。
「……様子を見てくる。お前らは、そこで待ってろ」
 その姿が、ドアの向こうに消える。が、ものの一分も経たないうちに、彼は戻ってきた。
「……とりあえず危険はない。が、向こうさん、仕掛けてきたことには変わりはないみたいだぜ」
 そう言って、翔悟は一枚の便箋を取り出して見せた。
 そこには大仰な文字で、紅香に当てたらしい言伝が書かれていた。
『親愛なる聖女様。以前の記憶を取り戻されましたこと、大変うれしく思います。つきましては、それを記念し、ささやかながら舞踏会を開催したく思います。ぜひ、ご友人もお誘い合わせの上、前崎教会までお越しくださいませ。なお、ご欠席の場合、住民の方々の安否は保障できかねます。以上をご検討のうえ、今夜12時までに会場にお越しくださいますようお願いいたします。ザムエル=ミューラー』



 時刻は、午後11時をわずかに回ったところ。場所は、前崎市に唯一ある、教会の前。
 紅香たちは、招待状という名の脅迫状に従い、この場所へやってきた。
 辺りは、見通すことができないほどの闇と、不気味なほどの静寂に支配されている。初夏だというのに、肌をちくちくと刺すような冷たい空気が、教会という、普段訪れることのない場所とあいまって、どこか異界めいた妖しい気配を紡ぎだしていた。
「……結局、無策のまま、言われるままに、来るしかなかったか」
 翔悟が、くわえたタバコに火をつけながら、言う。
「しょうがないでしょ。まさか街の人が操られてるのを、指をくわえて待ってるわけにもいかないじゃない」
 教会をにらみ、紅香が歯噛みする。
「……しかし、悪魔の知恵を持つものが相手となれば、どのような狡猾な手段を用いてくるか、予測もできません。冷静さを欠いて、相手の術中にはまることだけは避けなくては」
 水葉が、冷静な口調で腕を組む。やはり、主に悪魔と戦ってきたエクソシストなだけあって、思うところがあるのだろう。その瞳は、油断なく周囲をにらんでいる。
「……そうだね、奴らなら、どんな姑息な手段でも使ってくる。そして、それにはまった人間をあざ笑うんだ」
「……珍しいこともあるのです。紅香が相手の策略を警戒するなんて。いつもだったら、突っ込んで突破なのです」
 妙に冷静な紅香に、雪乃が少々、目を丸くする。
「……なんとなく、ね。そういうことを警戒しなきゃいけない相手って……そんな気がするんだ」
 どこかいつもと違う、なにか過去に思いを馳せるような瞳で、紅香が教会へと視線を送る。
「もしかしたら……聖女とやらの魂の記憶が、そうさせるのかも知れねえな。……さて、そろそろ舞踏会とやらに出席しようぜ。どうせ、なにかしらの仕掛けはあるに違いねえんだ。同じように引っかかるなら、毒を喰らわば皿まで、ってな」
 翔悟を先頭に、紅香たちは教会の中へと入って行く。
 そこは、きらびやかな礼拝堂だった。綺麗に磨かれた石造りの床や壁に、等間隔で並べられた長椅子。奥の祭壇には、木製の説教台。そして、金色に輝く十字架と、複雑な文様を描いた、ステンドグラス。
 それらは天窓からの月光に照らし出され、昼間のそれよりも美しく、しかしどこか妖艶に輝いている。これより起こる戦いの緊張感とあいまって、その光景は幻想的というよりは、どこか不気味な空気をかもし出していた。
 突如、聞きなれない音が、紅香の耳を打った。神聖な雰囲気がありながら、なぜか心の底がざわつくような音――――。
「……オルガンの、音?」
 音の発信源らしい場所に目をやる。
 説教台のさらに右奥――――そこにあるパイプオルガンの音だった。
 ――――刹那、ざわざわと。
 紅香の心に、波が立った。
 それは、郷愁。
 それは、哀愁。
 ――――そしてそれは、恐ろしい、彼の、妄執。
「……ザム、なんだね」
 それは、自分の意思だったか。それとも、自分の中に眠る、アネッタが囁いた言葉だったか。わからないままに、紅香は、そのオルガンを弾く人物に問いかけていた。
 ぴたりと、その人物が演奏をやめる。ゆっくりと立ち上がると、彼は壇上の中央まで、まるで舞台役者のように仰々しく歩み出た。
 それは、司祭服を身にまとった、細身の青年だった。プラチナブロンドの長髪に、丸眼鏡。穏やかな表情で微笑むそれは、絵に描いたような『優しい神父様』といったイメージだった。だが、かすかに……ほんのかすかに。その微笑みはどこかうかがい知れない、底の深い、暗闇めいたものを感じさせた。
「……おお、聖女様。ようやっと……ようやっと、私めの言葉が届いたのですね。私は――――この時を、どれほど待ち焦がれたことか。幾百の言葉で飾りつくそうとて、この心情は語ることなどできませぬ」
 ひどく芝居がかった口調で、青年――――ザムエルは、恭しく礼をする。
「……おっと、感動の再会を邪魔して悪いがな。俺は回りくどいのは苦手でね。ちゃっちゃと本題に入ろうぜ。……てめえの目的は、紅香なんだろ?」
 翔悟が、雪乃を刀に変化させながら言う。
「……聖女様のご友人ながら、無粋な方だ。……まあいいでしょう。その通りです。私の目的は、聖女様を――――手に入れること。私だけのものにすること。私のための、聖女とすること」
 眼鏡の位置を片手で直しながら、ザムエルがにやりと笑う。欲望に歪んだその笑みに、先ほどまでの優しげな神父の面影はない。
「……教会の命で、紅香や私たちを狙ったのではなかったのね」
「ふふふふ、奴らのことなど、私は利用させてもらったに過ぎん。私の人形たちを集めるために、ね。まあ、あちらはあちらで私を利用していたつもりでしょうから、持ちつ持たれつ、といったところかもしれませんが、ね」
 鋭い視線を送る水葉に、ザムエルは歪んだ笑みを返す。
「……ザム、あなたは……そんな人ではなかったのに……」
 うつむき歯噛みする紅香に、一瞬、ザムエルから表情が消える。が、それはすぐにまた歪んだ笑みへと戻る。
「……ふ、ふふふふ。では、どんな人に見えていたのです? 聖女様。無垢で、純粋で、まっすぐな、優しい人? 聖女様、それならば、私はなにも変わっていない。無垢で、純粋であるがゆえに……500年! そう、500年の長きを、あなた様を……あなた様だけを想い、焦がれ、生きながらえてきたのです!」
 そう叫ぶ様は、恍惚と。慟哭と。そして、狂気。
「そして……今こそ! あなた様を、私の……私のものに!」
 それらが混ざり合った、押さえ切れない情動。そう形容するしかないような、彼の叫びだった。
「……あさましい」
「……なに?」
 その様に、紅香がうつむく。
「そのようなことのために、あなたは……多くの人を巻き込み、犠牲にして……」
 そのうめくような声は、どこか……あの鏡に現れた、アネッタと似ていた。が、次の瞬間、きっと顔を上げた紅香は、普段の彼女の顔。
「こんの、500年ストーカー野郎っ! そのためにいろんな人を巻き込んでひどい目に合わせてきた奴に告られたってうれしくないっての! そこに直れっ! その根性、叩きなおしてあげるっ!」
 背後に立ち上る炎を顕現しながら、紅香がその力を現す。彼女の髪と瞳が真紅に染まり、その手に巨大な鉄塊のような大剣を握る。
 一瞬、双方がぽかんと彼女を見る。
「……ふ、ふふ。振られてしまいましたか。ですが聖女様、今宵の舞踏会のダンスパートナーは、こちらのほうで割り振ってしまったのですよ」
 ザムエルが、まるで言うことを聞かない子供に対するかのように、困り顔で肩をすくめて見せた。
「ですから……前口上もこれくらいにしましょう。なあに、聖女様。舞踏会が終わる頃には、あなた様もきっとわかってくださる。この私の想いを」
 囁くように言ったザムエルが、不意に紅香たちに背を向け、仰々しく腕を広げた。途端、奇妙な波動が周囲を駆け巡り、ザムエルを中心に邪悪な何者かの胎動がその鼓動を刻みだす。
「さあ皆様、大変長らくお待たせいたしました! これより、舞踏会の幕を開きます! 各々方、ご自分のパートナーと心行くまでお楽しみください!」
 その言葉が紡がれるたびに、邪悪な気配が強まっていく。奴の行動を阻止しようにも、その気配が身体の自由を奪ったかのように、まるで言うことを聞かない。
「くっ、こいつは……空間を捻じ曲げてやがる! 野郎、マジで悪魔と繋がってるのか!?」
「恐らく……人間では、なんの準備もなしにこのようなことはできません!」
 翔悟のうめきに、水葉が答える。だが、二人も身動きできるわけではないのか、じりじりと前に進むことしかできていない。
 やがて、ゆっくりと、ザムエルが振り向いた。その顔には、あの穏やかな笑みが浮かんでいる。だが彼の本性を知った今は、その笑みがひどく不気味なものにしか思えなかった。
「さて……皆様には、それぞれふさわしい舞台をご用意いたしました。それぞれのパートナーと、ご存分に舞踏会をお楽しみください……」
 そこまで言って、ザムエルは、ふと身体をくの字に折る。かたかたと、何かを堪えるように肩を震わせながら。不意に、身体を折ったまま、彼が顔を上げた。
 そのすべては、歪んでいた。表情も、声も、恐らく、心も。
「そう……死ぬまでなァァ! うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
 そして、仕上げと言わんばかりに、両腕を広げる。ザムエルを中心にした気配が、彼に収束されていく。
「Night at the opera!」
 『オペラの夜』――――その言葉が紡がれるとともに、紅香たち、そしてザムエル自身も、突如現れた闇に吸い込まれるようにして、姿を消した。
 ――――恐らく、彼の言う、『舞台』へと。




 
 翔悟がその瞳を開くと、そこは見たことのない街だった。だが、建物の造りやその街並みを見る限り、日本のそれには思えない。そこはどこか、いつかテレビで見た、西洋の街の景観と似ていた。
 まるで血のように、真っ赤に染まった空以外は。
「……こりゃ、現実じゃねえな。野郎の最後の様子からして、その術中ってとこか」
「はい。辺りから、妖気に似た力の波動を感じるのです」
 右手に持ったままだったらしい、雪乃が翔悟の声に答える。とりあえず状況を整理しようと、辺りを見回す。その視界の端に、自分以外の人影があった。
「……水葉!」
 その声に、こちらに背を向けていた、修道服の少女も振り返る。
「……あなたもここに来ていましたか。どうやらここは、ザムエルの作り出した、虚構の街のようです。どことなく、写真で見た、昔のドイツ――――ベルリンの街に似ている」
 落ち着き払った様子で、水葉が言う。
「夢の海外旅行ってわけかよ。しかし野郎、ダンスのパートナーがどうとか言ってたが、ここでお前と踊ってろってことじゃねえだろうな」
 頭を掻きながら翔悟が言うと、いかにも苦々しげな表情で水葉がじっとりとこちらを見る。
「もしそうならばお断り。人生の中で5本の指に入る、無駄な時間です」
「お前な……もうちょっと言い様ってものはねえのかよ。……ま、だがその心配はしなくて済みそうだぜ。お前には馬鹿でけえジェントルマン、俺には無愛想なレディがお相手してくれるとさ。あと、その他大勢もな」
 翔悟が右手の雪乃を正眼に構えなおすと、同様に水葉がアンセムを構えながら、背を預けてくる。
「……フン。これでは、舞踏会というよりミュージカルね」
 その二人の視線の先には、恐らくザムエルに操られているであろう、教会の僧兵の姿をした人間たち。そしてさらにその奥には、翔悟の前にウィノナ、水葉の前にはカッシュがそれぞれ控えていた。
 二人が戦闘態勢をとったのを確認したかのように、ウィノナが無言で、高々と片手を上げ――――振り下ろすようにして翔悟たちを指した。
「来るぞ。油断すんなよ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
 同時に、二人が地を蹴り、それぞれの相手に向かって行く。
「翔様、気配を探る限り、教会の兵たちは完全なる傀儡なのです。すでに亡くなった方の魂を操っているのです」
「てことは解呪は不可能。解放しか、してやれることはないわけだな……気にいらねえ」
 舌打ちしながら、翔悟が鋭く最奥部にいる人物をにらむ。……ウィノナ・ヴァイカート。
「……はい。残念ですが」
 雪乃の、唇を噛む姿が浮かぶような悔恨の声でスイッチが入ったかのように、翔悟の剣閃が走る。
 こちらに突き出された僧兵の槍の切っ先を真っ向から切り落とし、その勢いのまま、懐へ切り込む。肩口から身体ごとぶつかるようにして剣先を相手に突き刺すと、前蹴りの要領でその腹にかかとを食い込ませ、腕力に任せて引き抜く。
 同時に、抜いた返す刀で脇に迫った僧兵の小手を斬り裂く。それが決まったと見るや、雪乃の力を発動し、ひるんだ相手の胸を氷の刃で貫く。
 一瞬で致命傷を負った二人の敵は、倒れこみながら幻のように消えた。
 再び正眼で構えなおす翔悟を取り囲むように、他の僧兵たちが陣を展開する。その様からして、ただの死霊の寄せ集めではないらしい。あるいは、生前から連携を取っていたものたち――――同じ部隊だったものたちかもしれない。
「……ますます気にくわねえ。奴にとって、こいつらは将棋の駒かよ」
 じりじりと間合いをつめる僧兵たちに、かすかに憐憫のこもった視線を送りながら、翔悟がうめくように言う。だが、だからといって手加減も、哀れむことすらもできない。一歩間違えば、自分も哀れな駒の仲間入りだ。
「――――ったく、笑えねえ……なッ!」
 気合の声と同時に、横薙ぎに刃を一閃。その軌跡をなぞるようにして、雪乃の力が発動する。
「――――氷の楔・断牙!」
 間合いをつめていた僧兵たちがなぎ倒されるのを確認し、翔悟が駆ける。
「雪ッ! 一気に蹴りをつけるぞ!」
「了解なのです!」
 雪乃の言葉と同時に、翔悟が高く飛び上がる。残った僧兵たちが反応できないままに、彼は大きく刀を振り上げると、その中心に飛び込む。
「この白猫のワルツは――――ちょっとばかり、激しいぜ!」
「氷の楔――――爆氷牙ッ!」
 翔悟が着地すると同時に、雪乃の切っ先を地面に突き刺す。その衝撃とともに、地を突き破るようにして、放射状に巨大な氷の槍が顕現した。
「――――――ッ!!」
 それは周囲に存在していた僧兵たちをことごとく吹き飛ばし――――一瞬の後には、すでにそこに立つものはいなかった。
 ――――無感情な瞳でこちらを見つめる、漆黒の修道服に身を包んだ女性以外は。
 女性――――ウィノナは、その半歩ほど脇を、僧兵の一人がかすめるように吹き飛んでいっても身動きどころか、瞬き一つしない。相も変わらず、その表情には一点の感情もない。まるで人形のごとく、あるいはそれ以上に、完全なる、心のない瞳。
「――――死霊化していたとはいえ……今やられたのは、部下だった連中なんじゃないのか――――ええ? 仲間がやられて、なんの感慨もねえのか、てめえは」
 もしも僧兵たちが生前、同じ部隊だったのだとしたら――――恐らくそれは、『セイント・アンガー』。彼女の部隊だったのではないか。連携の取れた動きからのただの推測だが、翔悟にはどこか確信めいた、妙に納得できるところがあった。
 今度の黒幕は、そういう相手だ。その卑劣なやり口に、翔悟はぎりりと、奥歯を軋ませる。
「……………」
 だが、その怒りの表情にも、目の前の女性は眉一つ動かさない。
「どうやら本当に、野郎の人形だな。だったら、遠慮しねえ――――斬る」
 翔悟の様相が、不意に変わる。不動明王のごとき覇気を発していたその表情が、冷徹に、ただ、相手を倒すためのものに。それはまるで、獲物を前に氷の牙を光らせる、静かなる虎。
 そのまとう空気とともに、翔悟の構えが変化した。今まで彼が見せていた正眼――――足を前後に開き、中段に刀を構える基本的なそれから、頭上に構える上段の構えへ。
 それは、構え自体が身体を守る位置にある正眼の構えよりも攻撃的で、なおかつ直線的。頭上に振りかぶるようなその構えは、見た目通り、もはや横に薙ぐことも、身を守ることもしない、相手を真っ向から斬り伏せるための、一刀一殺の構え。
 ウィノナが、その構えを警戒するように間合いを測る。その視線が、周囲の景色と翔悟との距離を巡った。
 翔悟は動かず、ウィノナも構えたまま動かない。
 ――――刹那。
 ウィノナが駆けた。いや――――飛んだ。
 先ほどの僧兵との戦闘中にワイヤーを張っていたのか、猛スピードで空を翔け、翔悟の視界から消える。その姿は彼の脇を抜け、後ろへと飛ぶ。
 だが、翔悟は構えを変えないまま、振り返りもしない。ただ、数歩分、横に動く。
 その立っていた場所を、背後からウィノナが強襲した。紅香との時も使っていた、一度背後に回って反転、猛襲する攻撃だった。
 かわされたとみるや、ウィノナは大きく後ろに跳び、距離を取る。今の一撃を外したことに、その瞳はなんの感慨もなく、ただ暗黒のようにそこにある。
 ゆっくりと、翔悟は上段に刃を構えたまま、ウィノナの方へと向き直る。
 それは、両者、一言も発しない、空気すら斬り裂くような、神経戦の様相を呈していた。
 ――――しかし。
「……こいつ、比喩でなく、マジに人形だ」
 不意に、翔悟が囁いた。
「――――え?」
 その言葉に、雪乃が困惑の声をあげる。
「雪が言ってたろ、なにかこいつはこいつの目的があるんじゃないか、ってな。それが今は、微塵も感じられねえ」
 翔悟がこの構えをする時は、一撃で決着をつけることを決めた時。防御を捨て、あとは振り下ろすだけというシンプルな策であるがゆえに、相手の出方、心理を読むことに神経を削る。
 だが、それでも、目の前のそれはその感情の片鱗さえ見せない。
 すなわち、それは、意思を持たぬ、人形。
「……本物は、別にいると?」
「さあな。まごう事なき人形か、あるいは本物とやらが、完全に人形にされちまったか。どちらにせよ、やることはかわらん」
 どこかぶっきらぼうに、どこか哀れむように、翔悟が言う。
 ――――恐らく、次の一撃で勝敗が決まる。
 翔悟がかもし出す空気に、雪乃が確信した。
 ふいに、すう、と。今まで呼吸のリズムすら見せていなかったウィノナが、息をついた。そして、次の瞬間――――。
 鋭い刃を持ったワイヤーが、空を切り裂きながら駆けた。翔悟のがら空きの胴体を狙った一撃だ。だが、それを翔悟はまたも横に動いてかわす。
「――――――!」
 しかし刃が、攻撃に転ずることはなかった。もう一撃――――ワイヤーがウィノナの袖から撃ちだされる。これまで一発しか撃ってこなかったワイヤーが二発――――この奇襲に賭けたか。
 だが、翔悟のその読みは外れた。ウィノナが右手に持ったナイフを手に、瞬時に眼前に肉薄する。一発目のワイヤーを使っての、二発目とナイフによる強襲。本当の狙いはこの一撃と言わんばかりに、すさまじいスピードでウィノナが迫った。
 ――――刹那。
 ふ、と翔悟が笑った。半歩分だけ身をそらした彼の頬をワイヤーの刃が、脇腹をナイフが抉る。しかしまるでその痛みなど微塵も感じさせないような速さで、彼はその刃を振り下ろした。
 瞬間、ばっと、真っ白な綿と鉄骨が舞い散った。
 その持ち主がどうなったかは、ワイヤーに引かれるままに吹き飛び、動かなくなったそれを見れば、一目瞭然だった。
「――――チ。こんな傷負って勝った相手が、どうやら偽者――――かよ」
 吹き飛んだウィノナを見るに、その瞳には未だ感情がない。本物が操られていたにしろ、市の間際にくらい、感情を覗かせてもいいものだ。
「翔様、傷が――――!」
 刀から人の姿に戻りながら、雪乃が翔悟にすがりつく。
「へっ、どうやらまた一層、男前になっちまったようだな。さっそく雪ちゃんが離してくれそうにねえぜ」
 ふっ、と帽子をずらしカッコをつける翔悟に、雪乃が改めて傷を見る。顔の傷も、脇腹の傷も、出血は派手だが、それほど深くはない。止血の必要はありそうだが、今すぐどうこうということはなさそうだ。
「翔様の馬鹿! 一歩間違ったら、大変なことになっていたのです!」
 思わずぐっと翔悟に抱きつく雪乃に、今度は翔悟が悲鳴をあげる。
「だっ! 雪こら、いくらなんでもそれは痛え! ちょっ、マジだから、わかったから、とりあえず離せ!」
 安堵に涙目になる雪乃と、痛みで涙目になる翔悟だった。




 
「同門の徒と戦うのは意に反しますが――――仕方ない」
 如月水葉は、静かに僧兵たちをにらむ。
「――――アンセム。フォーム・ソード&ボウガン」
「ちっ、それやめろっつってんのに……」
「早くして」
「……すんません」
 最近、恒例になりつつある受け答えをしながら、水葉は剣とボウガンの形態をとる。
 僧兵たちの主な装備は槍や剣だが、銃器を装備しているものもいる。ただ、間合いを取って見る限りは、ずいぶん古い型のもののように見える。そう、目測だが、戦時直後のような。
「……ベルリンの事件の、犠牲者たち……?」
 そうして見ると、彼らは教会の制服のようなものを着ているが、古い型のものだ。
「……相手は、相当の卑屈な根性の持ち主なのね」
 奇しくも翔悟と同じ感想を漏らしながら、水葉がボウガンを構える。
「でも……それなら手加減の必要は、ないわね」
 銃器を装備した僧兵を狙い、水葉はボウガンを連射する。光の矢が次々と充填され、僧兵たちの身体を貫いていく。この矢はアンセムが紡ぎだすものであるため、リロードの必要はない。通常の銃火器相手ならば、速射することで押し切れる。
 銃を装備した僧兵をボウガンで掃討すると、水葉は駆ける。剣を装備した僧兵の懐に飛び込むと、すばやく斬り裂く。
「アンセム、あれを試す」
「あいよっ!」
 倒した相手の向こうに同じく剣を装備した僧兵を確認すると、水葉は指示を出す、左手のボウガンが一瞬、光を放つと、小振りの盾へと姿を変える。
 その眼前に迫った僧兵の剣を、水葉はその盾で打ち払う。バランスを崩した相手の胴を、彼女は容赦なく剣で薙ぐ。
「どうだいお嬢、俺様の新兵器は? これで接近戦にも対応しやすいだろ?」
 アンセムの得意げな声が響くが、水葉の表情はいま一つだ。
「重過ぎる。もう少し重量を軽くするよう改良して」
「……へーい」
 文句を言いながらも、水葉は巧みな盾さばきで敵の剣や槍をかわしていく。やがて、その進路を阻むものは、眼前にはいなくなった。
「……お待たせした。あなたが私のダンスパートナーならば、踊るとしましょうか。もっとも、これでラストダンスにするつもりは毛頭ありませんが」
 水葉が、剣を構えなおしながら言う。
「……………」
 その言葉に、この部隊最後の敵であろう巨漢は、言葉も、表情すらもない。ただ静かに、彼の武器――――そして防具でもあると思われる、巨大な盾を構える。
「……あれは、たしか紅香に砕かれたという話を聞きましたが……」
 雪乃がさらわれた一件は、翔悟から聞いている。その際に、目の前の男はその盾を砕かれたと聞いたのだが。あのような特殊な武器を、いくつも用意しているとも考えづらい。
「……まあ、いいでしょう。得物を持たぬ相手と戦うのも趣味ではありませんし。半世紀前の教会の精鋭が、どの程度の実力を持つのか……見せていただく」
 鋭く相手をにらみながら、水葉は盾をボウガンに持ちかえる。相手の武器と戦法からして、防御に回っても押し切られるだけだろう。防ぐよりも、回避することを考えたほうがいい。
 そう考え、水葉はカッシュを中心に、円を描くように走る。相手の攻撃は直線的――――的を絞らせずに、まずはボウガンで出方をうかがう。
 駆けながら放たれた矢は、カッシュの大盾によって弾かれる。が、向こうも防御に回っている限りは手を出せない。水葉は連続で射撃しながら、急停止、反転、跳躍と様々な挙動を試す。
 だが、そのどれもがカッシュの身長ほどもある盾に弾かれる。
「……射撃に対する防御に隙はない――――。となれば……」
 水葉が大きく跳躍した、その着地の一歩にぐっと力を込める。彼女はそのまま地を蹴り、駆ける方向を変える。今度は間合いをつめるように、カッシュの方へ。
 しかし、これにカッシュが反応した。水葉が間合いに入る直前に大きく前へ踏み込み、大盾を振るう。
「……チッ!」
 歯噛みしながら、水葉は横に跳ぶ。そのすぐ脇を、轟音とともに、その巨大な質量を誇るかのように、盾が駆け抜けていった。
 半ば予測はしていたが、やはり近距離戦に持ち込めば、反応してくる。体の大きさ、武器の大きさから、向こうのほうがリーチの長さが圧倒的に長く、攻撃をかわしても反撃に踏み込めない。
 かといって、遠距離からの攻撃では、あの大盾が相手ではダメージが通らない。
 水葉が回避行動を取る間に、カッシュは再び距離を取っている。こちらが焦れて、間合いに踏み込んでくるのを待っているのだ。
「……やりづらい相手……」
 苦々しくつぶやく水葉が、思わず足を止める。
 次の瞬間、火薬のにおいが鼻をつく。
「…………ッ!」
 それに反応し、水葉がほとんど条件反射で横に跳ぶ。直後、カッシュの巨体がその背後を猛進していった。
「……くっ!」
 瞬時に、水葉は振り返る。
 だが、そこには。視界を覆うほどの、金属の塊。……大盾。
 大盾での猛襲を囮に背後にまわり、攻勢にでたのか。驚愕に身体を硬くする間もなく、ただ、思考のみが妙に冷静に状況を判断した。
 そして、直後に……衝撃。
「……………ッ!!」
 声すら出すことができなかった。全身を襲う痛みに、ただ押し切られ、水葉の身体が宙を舞う。弾丸が射出されるかのごとく、まっすぐに吹き飛ばされた水葉は、そのまま建物の外壁に叩きつけられ、地に落ちる。
「……く……あ……」
 思わず肺から漏れた空気とともに、口の中に鉄くさい味が広がる。なんとか起き上がろうと上半身を起こすが、片足の感覚が痛みで麻痺している。
 その水葉に絶望を突きつけるかのように、がちゃりと、カッシュが大盾の火薬をリロードする。すぐに油断なく、彼は大盾を構える。
 かすかに歯噛みしながら、水葉は腕を支えに、感覚の残った片足でなんとか立ち上がる。ちらりと横目で、もう片方の足を確認する。どうやら折れてはいないようだが、走ることはできそうもない。
 それは、このままではもはや、相手にとって恰好の的でしかないことを暗に示していた。
 再び、火薬のにおいがかすかに漂う。次の瞬間、爆音と同時に、水葉は跳ぶ。感覚の残った片足のばねをフルに使い、横っ飛びにカッシュの突進をなんとかかわす。
 倒れこみながら背後を見ると、水葉が叩きつけられたらしいレンガの壁が、粉々に粉砕されたところだった。
 この状況であんな攻撃を食らったら、敗北は必至だ。唇を噛みながら、水葉はなんとか起き上がる。
「おいっ! お嬢、しゃんとしろよっ! さっきまでのいつもの憎まれ口はどうしたよっ!」
「……うるさい」
 あせったようなアンセムの声に、水葉が返す。だが、その声にいつもの鋭さはない。わずかに、そこには焦りと、痛みを堪えるような震えがある。どこか負けを考えているかのようなその響きに、アンセムがめずらしく、声を荒らげた。
「んだよ、その弱々しい声は! らしくねえ!『片足くらいちょうどいいハンデです』くらいお嬢なら言うと思ってたけどなァ!」
「うるさいと言っている……!」
 歯噛みする水葉の前に、砕いた壁の破片を押しのけ、カッシュが姿を現す。その様子から片足が使えないと見るや、彼は再び盾の火薬をリロードする。
 今度の一撃でとどめを刺すつもりか、盾を突進する際の型に構える。
「おい、ほんとに負けちまうぞ! また負けんのか! 紅香の嬢ちゃんはあいつに勝ったんだろ!?」
「……今、なんて?」
 『紅香』という名前に、水葉の耳がぴくりと動いた。
「紅香の譲ちゃんが勝ったあいつに負けるってことは、嬢ちゃんに負けるようなもんだろうが! また負けてもいいってのか、え!?」
「……誰が」
 ぐっ、と。水葉が奥歯を噛みしめる。
 同時に、三度、火薬のにおいが鼻をついた。直後に、その爆ぜる音とともに、カッシュが飛来する。
 ――――だが。
「いつ、負けたと――――!」
 水葉が、片足で跳んだ。とてもそうは思えない跳躍力で真上に跳び、カッシュの突進をかわすと、ムーンサルトの要領で空中で身体をひねる。半回転し、天地がさかさまになった状態のまま、水葉は無防備になったカッシュのうなじに、至近距離からボウガンを連射した。
「…………ッ!」
 のどを貫かれ、その巨体が猛進を止める。最後の抵抗のように、機械じみた動きで振り返ったそれを――――。
 すでに着地していた水葉の剣が、貫いた。
「――――言うのです、か……」
 そして、貫かれた巨漢は――――引き抜かれたその剣の傷跡と、首の矢の傷から綿を吐き出すと、ゆっくりと、地に倒れた。
「……くっ、傀儡などに、ここまで……」
 がくりと膝をつきながら、水葉は、その苦い勝利に、またも唇を噛んだ。



 
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