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The merciless anthem2 ~side Mizuha~
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教会には、村の生き残りの数十名が集まっていた。中には、水葉が救出した村人の姿も見て取れた。村長やトニオ、ルシアの姿もそこにある。どの顔も、不安や焦燥に満ちている。
水葉は、柱に寄りかかりながら、外の様子を回想していた。
外は、悪魔の使い魔で満ち溢れていた。トニオたちの両親、他の数人の生き残りをここに先導するだけで精一杯なほどに。フェイクヘッドのほかにも、中級、上級の使い魔が村中を跋扈しており、それだけの人数を助け出せただけでも僥倖と言えた。
しかし……水葉は唇を噛む。人を助け出せないことが……目の前で失われていく命に、手を差し伸べることすらできないことが、こんなにも歯がゆいものだと、改めて知った。ただ目の前のものを滅ぼしつくそうとしていたあの頃のミッションよりも……よほどそれは重く、困難なことだった。
――――これでは、私がここに派遣されてきた意味などないではないか。
人知れず、組んだ腕の手のひらに力が入る。私は――――無力だ。あの頃も、そして、今も。
「……お姉ちゃん」
不意に、一人歯噛みする水葉に、声をかけるものがあった。ルシアという、あの少女だ。側には、トニオと、その両親も立っている。
「ありがとう。お父さんとおかあさんを助けてくれて」
少女が、はにかんだ様子を見せながらも、にっこりと笑う。
「……私は……仕事だから、あなたたちを助けただけ。お礼を言う必要など……ない」
しかし水葉は、少女の笑顔から目をそらす。自分には、できなかったことのほうが多い。お礼など、言われるほどのことではないと、そう思っていた。
「いえ、私たちからも、お礼を言わせてください。もう、生きて子どもたちと会えることなどないと、あきらめておりました。本当にありがとう。ありがとう……」
そう言って水葉の手を握り、礼を言うルシアの両親を見、水葉は言葉を失う。不意に、脳裏を焼かれた故郷と、家族の記憶がよぎる。
だが、彼女の口から言葉が出ることはなかった。感謝されることには慣れていない。これまでいつでも、水葉は己の仇を討つためだけに戦ってきたのだから。
「あなたはまるで、聖女様の再来だ。かつてこの村をお救い下さった、聖女様の……」
ルシアの父親が泣きながら言った言葉に、水葉はなにか引っかかるものがあった。
「……聖女様?」
「はい。この村の教会の信仰対象です。かつて、この村を救うために命がけで悪魔と戦ったという……」
きっと、彼が言っているのは、村の教会にあった、山頂付近にあるという教会に祭られている聖人のことだろう。もしかしたら……悪魔たちの狙いは、そこにあるのではないか?
使い魔たちの襲撃があってから、水葉はずっと気になっていたことがある。それは、使い魔たちの数と、この村の規模の大きさが割に合わないことだ。数百人規模のこの村なら、何十体もの使い魔を送り込む必要はない。村の破壊が目的なら、せいぜい5、6体もいれば間に合うはず。ならば彼らの目的は、別にあるのではないか? そもそも、悪魔たちがこの村を標的にする理由も、よくわからないのだ。
「なにか、ありましたかな? 教会のシスター様」
話を聞きつけてか、水葉らの元にやってきたのは、村長のアルヴァロだった。
「……村長、ひとつお聞きしたいことがあります。この村から、山頂方向へ上ったところに、古い教会がありますね?」
水葉の言葉に、村長はあごに手をやり、感心したようにうなずく。
「はあ、よくご存知で。確かに、中世よりあるという教会が建っておりますが、それがどうかいたしましたかな?」
「……そこに伝わる話などがあれば、お聞きしたいのですが」
「それは、今回の事件となにか関係が?」
「……わかりません。ただ、可能性はあるかと」
正直なところ、これは勘に近いものだった。今回の事件……悪魔たちの狙いは、この村自体ではないように思える。ここ自体でないのなら、今のところ考えられるのは、山頂付近にあるという教会だけだ。
もしも、やつらの目的がその教会であるのなら、そこに突破口があるかもしれない。ひとつひとつ、可能性をつぶしていくよりほかはない。……どちらにせよ、外があの状況では、一人ですべての敵を殲滅することも不可能だ。本部に応援を呼ぼうにも、この村は電波が届かないのか、通信の類は外界と遮断されているといってもいい状況だった。
「ふむ……あの教会は、かつて村を救ったという聖女を祭ったものです。そして、そこには今も、聖女が悪魔を滅ぼす際に使ったという剣が納められている、と聞いたことがあります」
「聖女が使った剣……」
その言葉に、水葉は考え込む。村の教会の資料によれば、件の教会が建立されたのは五百年もの昔のはず。それを今になって、躍起になって欲するものだろうか?
「その聖女に関しては、諸説ありましてな。どうやら一所にとどまることができない性分だったらしく、この辺りの村や町には似たような逸話がたくさん残っているのですよ。ただ、そのどれもが後世になって作られたものらしく、真にその当時から残るものと断定されたのは、この村のものだけ……それもつい最近のことなのです」
村長の言葉に、水葉はさらに考える。聖女の剣……それが本物だと断定されたのはつい最近のこと。さらに、この辺りには似たような伝説が各所に残されている。
……ということは、悪魔たちがこの村にあるものが本物ということを知ったのも、つい最近、ということか。
水葉は、村が襲われてから、一つの疑問を持っていた。それは、村の中でも教会に使い魔が現れたのがもっとも早かったということだ。教会は、村の中心部にある。すなわち、襲われるとすれば、地理的に考えるなら一番最後ということになる。
しかし、水葉が教会の鐘を鳴らしたときには、まだ本格的な襲撃は始まっていなかった。それはつまり、一番最初に、この教会目指して使い魔たちが動き出したということだ。だがそれも、教会が目的地だったとすれば、説明がつく。
それに、もしもその剣が目的だとすれば、水葉がこの村にやってきたことで大規模な行動に出たのも、うなずける。奴らからすれば、教会の人間が剣を回収にきたと考えてもおかしくはない。教会の手に渡る前に、なんとか剣を手に入れようとしたのかもしれない。
「……アンセム」
「へいへい、なんでございますか、おじょーさま」
「あなた、剣だけなら自分から離れたところにも顕現させられる?」
水葉の言葉に、アンセムが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「げっ、お嬢、またなんかめんどくせェことさせようとしてんだろ。わかるぞ、その顔見りゃーよ」
「できるかどうか聞いている」
若干、鋭さを増す水葉の瞳に、アンセムが舌を出す。
「へいへい、できますよ。で、俺様はなんだ? いい子でお留守番してろってか?」
「いい勘してるじゃない。私は山頂の教会に行って、その剣を調べてくる。あなたはここを使い魔から守ってて。……それと」
にっこりと笑って、しかし有無を言わさぬ迫力をかもし出しながら、水葉はアンセムの肩をぽんと叩いた。
「あん?」
「悪魔たちの気配は、常に探っていて。奴ら、大きく動くかもしれない」
アンセムの肩に手を置いたまま、その耳もとで囁くように、水葉が言う。
「……はあ。上にこき使われるのに嫌気が差して地上に降りてきたってェのに、これじゃー天使やってた頃のがまだましだったぜ。地上の仕事なんてめんどくせェことばっかだァ」
「悪いわね。人間は天使ほど優しくないの」
額に手をやり、嘆くように言うアンセムに背を向けながら、水葉は村長に向き直る。
「……村長。ここから山頂の教会までは、どれほどかかりますか?」
「そうですな……ここから先はかなり険しい山道になりますので……片道二時間ほどは……」
片道二時間……現地での調査の時間も考えると、時間がかかりすぎる。いくらアンセムにここの守りを任せるとはいっても、それではここがもたない。
「いや……お待ちください。たしか、有事の際に山頂の教会の安置物を守るために、ここから山頂への隠し通路があったはずです。そこを通ればあるいは……」
「隠し通路……」
村長の言葉に、水葉は考え込む。
「たしか、それは地下室にあったはず。そこからトンネル状の通路が山頂まで続いているはずです」
「……ずいぶんと、詳しいのですね」
水葉の言葉に、村長はうなずく。
「……ええ。私の祖父が神父をしていたもので。子供の時分に、その話はよく聞いたものです」
「わかりました。その隠し通路まで、案内をお願いできますか?」
「もちろんです。こちらへ……」
歩き出す村長に、水葉は着いていく。その足は、まっすぐにあの地下への階段へ向かっている。
その後ろを歩く水葉は、ふと、違和感に顔をしかめる。
……それは、においだ。先ほどまで気づかなかったが、強いコロンの香りが辺りに漂っている。それは、地下へ降りても消えることはなく、むしろ強まっていた。村長がつけているのだろうか。
「……この、奥です」
やがて村長が示したのは、あのどんでん返しのような扉の奥だった。
「これは、たしか以前の教会の神父が作ったものだったのでは?」
この奥にあった日記には、確かにそう書かれていたはずだ。
「ふむ……彼は殺害される数日前から、なにやら錯乱していましてな。狙われているのを知って追ったのかも知れません。だから、日記にそのようなことを書いてしまったのかも……かわいそうに。実際は、この通路は彼がここに来る以前からあったのです」
水葉は黙って、その奥へと進む。その後に、村長が続いた。
「この本棚の裏に……山頂へ続く通路があるはずです」
その言葉とともに、村長は一番端の本棚を横へとずらした。
確かに、その奥には通路があった。だが、それは通路というのは名ばかりの、固い岩盤をくりぬいただけの、洞窟のようなもの。この暗闇の中に空いたそれは、まるで怪物がぱっくり開けた口のようだ。どれほど長い間、使われていなかったのか、湿った冷たい風が、水葉の頬を撫でていった。
「……ありがとうございます。では、ここからはお任せください」
「お待ちください」
一人、洞窟の中へと進もうとする水葉に、村長が声をかける。
「私も、お供させていただけませんか? 村に伝わる伝承なども、この先、役に立つやもしれません。それに……村の長として、できることはしたい」
その言葉に、振り返らぬまま、水葉はかすかにその目を細める。
「……わかりました。しかし、もしも悪魔の類が現れたら、私の後ろを離れないように」
「ありがとうございます。では……灯りは私が」
ランプを手に、村長が前を歩いていく。
洞窟は、ややきつい上り坂となっていた。山頂へと続く道なのだから、当然だ。村から目視した際、山頂まではそれほどの距離はなかったように思える。ただ、通常の地上ルートを行くとなると、急斜面である分、迂回したり、急勾配を越えたりといったところに時間がかかるのだろう。となれば、確かに地中を行くこのルートはかなり時間の短縮が図れるだろうことは予想がついた。
「ところでシスター様。お連れのあの方は、教会の神父なので?」
不意に、村長が口を開いた。
「……なぜ?」
「いえ、失礼ながら、とてもそうは思えなかったもので」
申し訳なさそうな顔で、村長が半身をこちらに向けて笑う。
「……彼は、私の守護天使。……まあ、『元』天使と言ったほうが正確かもしれないけれど」
「……すると、堕天使で?」
いぶかしげな表情を作る村長に、水葉はふ、とかすかに笑って見せる。
「大丈夫です。天から堕ちたとはいえ、彼は悪魔の類ではないから」
魔を狩る組織、教会のヨーロッパ本部では、悪魔に対してもっとも相性のいい、キリスト教系のエクソシストが大多数だ。そのキリスト教においては、天から堕落した天使が、地獄の悪魔の祖となったとされている。ゆえに、堕天使を連れ歩くエクソシストなど、そうはいない。奇異の目で見られるのも当然だろう。
「いえいえ、そのようなことを考えているわけでは……」
愛想笑いでごまかす村長だが、実際のところは思うところはあるのかもしれない。なにしろ、今、その『とても天使には見えない堕天使』が村人たちの守りを担っているのだから。
正直なところ、自分が逆の立場でも、あんなチャラチャラした男が教会から派遣されてきたら、怪しむだろう。
その後、しばらくは沈黙が続いた。
それほど道幅のない通路の中を、二人の足跡だけが反響していく。やがてそれは新たな足音と重なり合い、怪物のいななきのような不協和音を奏でる。時折吹き込む風だけが、ここが間違いなく、どこかへと通じているということを知らせてくれる。
風が撫でる感触や耳障りな反響を聞きながら、水葉は考えていた。
この先がもし、使い魔たちの目的地であるのなら、この先はまだ、奴らの侵入は許していないことになる。
だが……ここから先は何があるかわからない。油断は禁物だ。人の心の隙に付け込むのが奴ら――――悪魔の常套手段なのだから。
「……おや、はしご……ですな」
不意に、村長が前方にランプをかざした。その先には、確かに鉄製と思しきはしごがある。
水葉はゆっくりとはしごに近づくと軽く拳で叩く。その手ごたえから察するに、古びてはいるが、まだ十分な強度はありそうだ。
そのはしごを視線でなぞるようにして、水葉は上を見上げる。かなり長いはしごだ。切り立った崖を越えるためのものらしく、恐らく数十メートルは続いている。
「……ここから先は、危険かもしれません。私が先に行きます」
「し、シスター様が!?」
言うが早いか、はしごに手をかけた水葉に、村長があわてたように返す。
「なにか問題が?」
「あ、いえ、その……なんでもありません」
なぜか赤面する村長をいぶかしがりながら、水葉ははしごを上っていく。やがてしばらく間を置いてから、村長もはしごを上りだした。
もしも……と、水葉は考える。もしも、奇襲をしかけてくるなら、ここほど適した場所はないだろう。もし、悪魔たちがすでにここまで達していたとしたら、こちらに迎え撃つ手段はない。
ぎゃあ、と不気味な声をあげて、カラスがそばを飛んでいった。悪魔の気配は感じないものの、警戒してついそちらを見てしまう。使い魔よりも上位の種である悪魔は、その気配をほぼ隠すことができる。手練ならば、エクソシストはもちろん、天使でさえ欺くものもいるのだ。
だが、今回はその心配は杞憂に終わったようだった。水葉がはしごを上りきるまで、枯らすの鳴き声以外は、ついに聞こえることはなかった。下を見ると、村長ははしごの長さに少々腰が引けたか、まだ半分ほどしか上れていないようだ。
「――――ん?」
不意に、水葉の懐から音が響いた。この音は、教会の通信機だ。
『――――シスター・ミズハ。応答せよ。こちら教会本部――――』
「……こちら水葉」
懐から取り出した通信機に、ぶっきらぼうに答える。村が襲われてから、通信はずっと阻害されていた。定時連絡もできなかったのだ。また小言がありそうだ。
『定時連絡はどうした? 後発隊を送ることも検討されていたのだぞ』
高圧的な声が耳に刺さる。この任務の指揮者である、上司の司教だ。
「申し訳ありません。村が襲撃に遭いました。同時に村内は何者かにより通信が阻害されている模様です。現在、村人十数名、守護者アンセムが教会に篭城。私は事件の発端と見られる剣を追い、もう一つの教会へと向かっています」
淡々と報告する水葉の声に、通信機の向こうの上司がため息をつく。
「……まあいい。しかし、状況は思ったより良くないようだな。その剣とやらを奪取できたところで、事態は収拾できまい」
「はい。村には中級使い魔が相当数。さらに、事件の裏には上位の悪魔が存在していると思われます」
「そうか……。わかった。村の掃討のために援軍を送る。君は引き続き、その剣の確保と、裏にいると思われる悪魔の招待を探れ。以上だ」
その言葉を最後に、通信が切れる。
と同時に、水葉はもう一つ、懐でなっているものに気がついた。携帯だ。普段ならばこのような仕事の際には持ち歩かないのだが、今回は休暇が明けてすぐの急な任務だったため、そのまま持ってきてしまっていた。
着信相手は――――。
「……須佐、翔悟……」
他の人間だったら仕事中には出ないのだが、あの人が仕事以外で自分にかけてくることもないだろう。なにしろ、苦手な元恋人の妹なのだから。
「……もしもし」
仕方無しに、水葉は電話に出る。その声は、先ほどの通信よりもさらにぶっきらぼうだった。
同時刻。須佐翔悟探偵事務所。
「お? ……おお、つながったぞ、つながった!」
須佐翔悟は、まるで少々高額の宝くじでも当たったかのように、電話を肩口にはさんだまま、手をたたいて笑った。
「……さっさと用件を言うつもりがないのなら、切りますが」
電話どころか、もし目の前にいたら腹でも切らされそうに思えるほど、電話の相手――――如月水葉は不機嫌そうに言った。
「あー待て待て、ちゃんと用件がある。しかし、そっちも仕事中か? 何日もつながらなかったが」
「ええ、ちょっと面倒な仕事中です。なので、用件は手短にお願いしたいのですが」
丁寧ながら、有無を言わさぬ口調に、翔悟は額の汗を拭う。やはり、過去の負い目もあって、水葉には今でも頭が上がらない。まあ、それでも以前に比べればかなりマシになったと言えるが。
なにしろ、自分は水葉の姉――――雪乃を守れなかった男なのだ。本当ならば、今でも恨まれていても仕方がない。だが、一ヶ月前の事件での共闘以来、その関係は以前よりは修復されていた。
……当の雪乃は、今はテレビの前でグルメリポートで紹介されている海鮮丼に釘付けでしっぽまで立てているが。
「そうか、悪かったな。だが、こっちもちょっと面倒なことになっててな。だもんで、単刀直入に言うぜ。紅香が、教会に狙われている。なにか心当たりはないか?」
電話の向こうで、かすかに息を飲むような気配がした。水葉も態度は冷たいながら、一ヶ月前、ともに戦った紅香のことは憎からず思っているようだ。まあ、それ以上に数度、紅香との戦いで土を付けられていることによるライバル意識のほうが強いのかもしれないが。
「……いえ。それ以前に、紅香のことを教会が知っていること自体、おかしいはずです。報告には、紅香のことは伏せていたはず」
「やっぱりそうか。……じゃあ、もう一つだけ聞かせてくれ。『グレイヴディガー』という言葉に聞き覚えは?」
その言葉がでた途端、水葉がわずかの間、沈黙した。その短い静けさのどこかに、翔悟は妙に剣呑な空気を感じ取っていた。
「……どこで、その言葉を?」
「紅香が言うには、襲ってきた教会のやつを撃退した際、最後にその言葉を残していったらしい。なんのことだか、お前ならわかるんじゃないか?」
水葉の言葉と沈黙は、問いかけるまでもなく、その答えを物語っていた。だが、あえて言葉でもう一押ししたのは、それが、恐らくは簡単に口に出すには重い言葉であると、確信したためだ。
「……教会が、いくつもの支部に分かれているのは知っていますね? ヨーロッパを本部とし、北米、南米、アジア、日本など……」
「ああ。果てはアフリカ、東南アジアまで支部があったな」
『教会』とは一言に言っても、その支部は多岐に渡る。また、それらは純粋に魔を狩るための有するものたちの集団であり、宗教の比率ははその支部によって様々だ。例えば、日本では『教会』といっても属するのは仏教の僧や陰陽師が大半であり、水葉の属するヨーロッパ本部とは逆に、キリスト教の神父や牧師は少ない。
「その中でも、支部にはそれぞれ、様々な事態に対応するための部署があります。事件の調査や捜査を専門とする部署や、緊急時に迅速に対応するための部署など……。それぞれには、正式な名称のほかに、いわゆる通称が存在します」
そこで水葉は、いったん言葉を切る。重い、一瞬の逡巡の後、再び、彼女は言葉をつむぐ。
「『グレイヴディガー』とは……教会内でも、かねてからその名しか……それも一部のものにしか知られていない、極秘の部署の名です」
「……なるほどな。だんだんと、きな臭いにおいがしてきたぜ」
肩口で携帯を支えながら、翔悟はタバコをくわえ、火をつける。
「……私も、その部署に対して明確な情報を持っているわけではありません。ただ、私が知っているのは、『グレイヴディガー』は教会にとって都合の悪いものを消すための部署……悪魔、人、どちらも問わず、闇に葬るための暗殺専門の部署……という話だけです」
「要するに、教会の暗部ってわけだ。だがわからんのは、なんでそんな奴らがわざわざヨーロッパから出向いてきて、紅香を殺す必要があるのか、だ」
紫煙を吐きながら言う翔悟に、電話の向こうの声がふと疑問の色を帯びた。
「……邪神の関係ではないのですか?」
「奴らが言うには、邪神は目的じゃないんだとよ。本当のことを言ってるかどうかはわからんがな」
だが、だとすればますますわからない。邪神の件以外で、教会が紅香の命を狙わねばならない理由など、正直、想像もつかない。
「……しかしお前さん、そんな極秘事項を漏らしちまってよかったのか? 教会内でも重大な機密なんだろ?」
「……仕方ないでしょう。友人が命を狙われているとあっては、協力しないわけにもいきません」
翔悟は水葉のその言葉に、一瞬、ぽかんとした表情を作る。が、次の瞬間には、思わず声をひそめて笑っていた。
「くくく……そうか……。友人、な」
「……なにか、おかしいですか?」
虫の居所がよろしくないらしい、今日の水葉の声の中でももっとも不機嫌そうな声に、思わず翔悟は笑みを浮かべる。まったく、あの紅いのは、本人も知らないうちにずいぶんと人の心を変えるもんだ、と。
「いーや、なんにもおかしかないぜ。友達は、大事だもんな」
「……フン。用件はそれだけですか? ほかに何もないのであれば、仕事に戻りたいのですが」
あくまで冷たい声で返す水葉に、翔悟はふと思いついたように言う。
「あ、ちょっと待て。そっちが今、抱えてる仕事ってのは、なんだ?」
「……あまり、仕事の内容を外に漏らすわけにもいかないのですが。……簡単に言えば、とある村を使い魔が占拠しているのです」
その言葉に、思わず前回の事件で調査した山奥の村を思い出す。
「……マジか。お前、よく電話に出れたな」
「だから手短に、とお願いしたでしょう? ……なぜ、聞くのです?」
大きく紫煙を吐き出し、翔悟は頭を掻く。
「これはただの勘なんだが……前回の事件から一ヶ月程度しかたたないうちに、その当事者が別々の事件で動いてる……ってのも、なんだか妙な気がして、な」
「二つの事件は、関係性があると?」
「そこまでは言わん。が……なんとなく作為めいたもんがあるような気がしてな。それと……」
そこまで言って、翔悟はいったん言葉を切る。
「雪が、お前さんのこと、心配してるからな。『ぜんぜん連絡もよこさないのですー』ってよ」
その言葉に、かすかに電話の向こうで笑ったような息づかいが聞こえた。
「……わかりました。この件が片付いたら、ゆっくり話でもさせてもらいます」
「ああ。そうしてやってくれ。じゃあ、またな。ちゃんと無事に帰ってこいよ」
タバコを灰皿に押し付けながら、翔悟は電話を切る。
「さて……ちっとばかり、仕事ができたようだな」
椅子から立ち上がり、翔悟はいつもの黒いテンガロンハットをかぶる。その様子に、テレビに夢中になっていた雪乃が気づき、じっとりとした視線で振り返る。
「翔様、でかけるのですか? まだ事務仕事はいっぱいあるのですよ」
「あー、悪いが適当にごまかして、締め切り延ばしといてくれ。明日中には戻ってくるからよ。じゃっ、よろしく!」
目をそらしながら早口で言い切ると、翔悟は戦闘のときでもそこまではすばやく動かないような速さで、風のごとく事務所から走り去った。
「えっ!? ちょっ、翔様!」
雪乃が声を出すまでには、翔悟は愛車に飛び乗っていた。すぐにエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。
「……ふう。あいつにゃ、居心地のいい場所じゃねえからな、あそこは。連れてくわけにもいかねえ。ま、俺もできれば避けて通りたかったが……いつまでもそうも言ってられんしな」
懐から、タバコをとりだし、火を着ける。あそこの門をくぐるのは、何年ぶりだったか。
「……行くか。教会日本支部へ」
大きく紫煙を吐き出すと、翔悟は鋭く前を見据えた。
携帯の通話を切り、水葉はその先にある建物を見る。
切り立った崖に前後を挟まれた、朽ちかけた教会。村のそれと大差のない、質素な材質で作られたその建物は、しかしその端々に丁寧に作られた意匠が施されており、そこに祭られたものへの、人々の思いを感じさせる。
「ふう、ふう……お待たせしました。このような高い場所のはしごなど、上ったことがないもので……」
声を出すのもやっと、という感じで村長がはしごを上り終えた。
「いえ。こちらも定時連絡がありましたから、問題ありません」
言うが早いか、水葉は教会へと歩を進める。その入り口――――石造りのアーチの前で、彼女は足を止める。
「どうかいたしましたかな?」
村長の問いには答えず、水葉はアーチを見上げる。車でも悠々と通れそうな巨大なアーチには、こちらも丁寧に装飾が施されている。所々が破損しているため、すべては確認できないが、剣や武具など、やけに物々しい装飾だ。教会というより、まるで砦だ。それに……。
水葉が、軽くその観音開きの扉に手を触れる。瞬間、パチッという、軽い電流が流れるような感触が手のひらを走った。
「……結界が、張られている……」
それも、ひどく厳重だ。例えそれなりの位を持つ悪魔でも、そうは簡単に突破できないほどの。
「どうやら、ここが敵の狙いで正解……ね」
その様子を確認した水葉はしばしの間、逡巡する。結界が張られているなら、このまま安置したほうがいいか……? しかし彼女は、その考えを頭を軽く振り、否定する。
元はこの結界ももっと強度があったのだろうが、今では当時より強度が落ちている。それに、村にはまだ、かなりの数の使い魔がいる。あれらに総当りで来られたら、さすがにもつまい。
やはり剣は回収すべきと結論付け、水葉はその結界を解く。ゆっくりと大きなアーチの扉を開くと、そこは数百年ぶりに開かれた場所とは思えないほど、清純な空気に満ちていた。
あくまで質素なつくりのその教会は、その建物自体が一つの礼拝堂であるらしかった。村の教会と構造が似ているのは、あちらがここを模して作られたためだろう。しかし、村のそれよりも新しくすら見えるのは、ここが本当の聖域であるからだろうか。
本来ならば説教台が座しているはずのその場所に、件の剣と思しきものがあった。床に切っ先をねじ込んだかのように、それは雄々しく突き刺さっている。しかし、ここから見てもわかるほど、ずいぶんと大きな剣だ。
水葉が剣に近づこうと歩く横を、村長が足をもつれさせながら駆けていく。そのまま剣の刺さった床にひざまづき、彼は剣を見上げる。
「おお……これが……これが……」
水葉はゆっくりと、村長の脇に立つ。……そして。
「……………っ!? なに、を……なされるのですか? シスター様……」
己の剣の切っ先を、村長の喉元に突きつけた。
「あなた自身が、一番よく分かっているはず。……悪魔め」
鋭く、冷たく、酷薄に、水葉は村長をねめつける。
「わっ……私が、剣を狙う悪魔だと? じょ、冗談はおやめください! な、なにを根拠にそのようなことを……」
両手を上げ、首を振る村長に、しかし水葉の視線は変わらない。
「……一番最初にあなたを怪しんだのは、無傷で教会に避難することができたこと。あなたの家がある、村の北側は壊滅的な被害状況だった。その中で、あなたは傷一つ負うことなく、教会に現れた」
「そっ、それは、運よく、偶然……」
村長の反論にも、水葉が動じる気配はない。ただ、冷徹な口調でたんたんと論破していく。
「もう一つ、あなたは強い香りのコロンを着けている。以前、昼間に会ったときにはつけていなかった。なぜ深夜に、昼間つけたりしないコロンを着けていたの? この緊急事態に」
「いや……それ、は……」
言いよどむ村長に、水葉は続ける。
「この事件で不可解だったのは、村人の遺体が一体たりとも見つかっていないこと。しかし、悪魔の中には人間を食らうものも存在する。神父の日記の内容からして、犯人はその類の悪魔。となれば……納得のいく答えはひとつ」
「……………」
村長の首筋を、一筋の汗が流れていく。
「あなたが悪魔で、あの襲撃のときに、北側の人間を殺害し……食らった。そしてその血や脂のにおいをごまかすために、強い香りのコロンを着けた。とすれば、壊滅的な被害状況も、あなたが無傷だったことも、不自然につけられたコロンも、すべて説明がつく」
「……すべて、想像ではないですか。証拠もない……」
その言葉とは裏腹に、村長のその声色はかすかに剣呑な色を帯びていく。上げられていた手の震えも、いつの間にか収まっている。
「もうひとつ。あなたは村の教会で、こう言った。『以前いた神父は錯乱していたために、日記に書いてしまったのでは』と」
「……それが、なにか?」
「なぜ、あなたが他人の家の、それも隠し通路の奥にある日記の内容を知っていたのですか?」
その言葉に、村長の顔から表情が消える。
「それは、あの日記の最後に書かれた言葉……『ごちそうさま』という言葉を、あなたが書いたからです。そのときに、日記の内容を、あなたは見た」
「……いや、神父の事件があった際、私はあの日記を見て……」
途切れ途切れに言う村長の言葉を、しかし水葉のセリフが斬り裂く。
「では、私があなたの家を訪れた際、そのことについて触れなかったのはなぜです?」
「……それは! そのときはつい忘れていて……!」
ゆっくりと、水葉が村長の後ろへとまわる。油断なくその背に剣を向けながら、床に突き刺さった巨大な剣を見上げた。
「ならば、その剣に触れてみるがいい。これは、未だ、聖なる力を纏っている。あなたが潔白で、人間であるなら、触れても問題ないはずです。しかし、悪魔ならば、剣はあなたの身を焼くでしょう」
先ほどまでおののき震えていた村長の動きが、変わる。その震えが恐れからなにに変わったのかは、彼の喉から漏れるくぐもった笑い声を聞けばなんなのかは、火を見るより明らかだった。
「くッ……くくくくケケケケケケ……大したシスター様だよォ……。まさか、ずうっと疑われてなんて、気がつかなんだ……」
ごきごきと、その身体が不気味な音をたてて変わっていく。服をその肉体が突き破り、巨大なこうもりのような羽がその背から鋭く突き出す。
水葉は舌打ちとともに後ろへ下がり、槍の一撃のようなそれをかわす。
「だがよォ、シスター様ァ……あんたやっぱり、甘ちゃんだよォ……そこまでわかってて、俺様をここまで連れてきてくれちまうんだからなァ……。教会の結界まで解いてくれて、ありがとうよォ。お礼に、骨も残さず食ってやるよォ。へへ、シスター様はさぞかし甘くて、やわらけえんだろうなァ……」
ゆっくりと、先ほどまで村長アルヴァロだったものが振り返る。それは、見るも醜悪な、悪魔そのものだった。水葉の倍以上の、巨躯。腐った肉のような黄土色の肌。でっぷりと肥った腹や腕。人間の面影はもうないその顔は、半分以上が巨大な口で、そこからはだらりと長い舌をだらしなく垂らしている。
「フン。あの場であなたの正体を暴いて、これ以上、村に被害を出したくなかっただけ。勘違いしないで。私は、あなたを処刑場に連れてきただけ……」
冷徹に言い放った水葉は、酷薄な笑みをアルヴァロに向ける。それは手にした剣の刃のように……あるいはそれ以上に、鋭い。
「ぐへへ、いつまでそんなツラァしてられるかなァ!?」
アルヴァロが体勢を低く構え、水葉に向かって突進する。地を揺らしながら迫るそれを、水葉は後ろへ大きく跳んでかわす。
そのまま、両者はアーチの外へと飛び出す。
あえて水葉が後ろへ避けたのは、外へ出るためだ。あの巨体をせまい屋内で相手するのは、いささか骨が折れる。
広い外へ飛び出したところで、水葉はアルヴァロの突進を横にかわし、同時に剣を上段に構えた。
「……………っ!?」
が、アルヴァロの横腹に突きを繰り出そうとしたところで、その動きを止め、後ろへ跳んだ。
その眼前で、突如現れた巨大な口が、がちんと音をたてて閉じた。だが、アルヴァロはあくまで横を向いたまま、こちらを見てはいない。
「ああァ? 食えなかったかァ?」
今度は、じろりとその顔がこちらを見た。
「……どこまでも、食い意地の張った奴……」
その顔を睨み返しながら、水葉が歯噛みする。
「ぐへへ、いいだろォ? この身体。どの部分ででも、ものが食えるんだぜェ? こんな……風にさァ!」
今度は、アルヴァロが水葉に向かってその手を伸ばす。
水葉はこれも下がってかわすが、その手のひらから突如現れた巨大な口が、伸び上がるようにして彼女を追撃する。まるで口蓋が飛び出してきたような真っ赤なそれは、まさに悪魔のものだ。それを着地と同時に横っ飛びにかわすが、その牙がわずかに修道服を裂く。
「くっ!」
「ぐへへへ、活きがいいなァ、きっと新鮮でうまいぞォ!」
受身を取りながら起き上がる水葉を見ながら、アルヴァロは余裕の表情で舌なめずりをしている。
その様子を睨みながら、水葉は小さく舌打ちする。万能性を考慮して剣を装備してきたが、裏目に出たか。ボウガンならば、鈍重なアルヴァロ相手には有利だったろうが。だが、いないものを当てにしても仕方がない。
水葉は余計な考えを振り切り、駆ける。
あの口での一撃を受けるわけにはいかない。ならば、こちらはスピードで撹乱するしか、ダメージを与える方法はない。
水葉を迎え撃つようにして、アルヴァロの手が迫る。そこから現れた口の一撃を横に駆けてかわす。水葉はそのまま、アルヴァロの前腕に斬りつける。
「んんぅ?」
だが、不思議そうに己の腕を見つめるその様子を見る限り、ダメージが通ったとは思えない。
「浅かった……」
その様子を睨みながら、水葉はアルヴァロの間合いから退避する。先ほどの斬撃―
―――ぶよぶよで、まるで手ごたえがなかった。ほとんど脂肪の塊だ。実際、斬りつけた剣にはてかてかと油が混じったような血液が付着している。
不快げな表情で、水葉は剣に着いた血を振り払う。あの様子から見るに、腕や腹など、脂肪をたっぷり含んだ部分を攻撃しても効果はあるまい。
「シスター様ァ、ちょっと生意気だぞォ? 餌はさァ、餌らしくしなきゃあよォ。腹が減ってるんだよォ、俺様はさァ」
鈍重な動きで、アルヴァロは水葉ににじりよる。
その様子を、水葉は凛とした瞳で見返す。
「あの方が『いっぱい食っていい』って言うから喜んできたのにィ、ジジイやババアばっかりでさァ。まずいんだぜェ? あれ。でもまァ、シスター様が若い女の子でよかったよォ。あつらも、メインディッシュの前菜くらいにはなったからさァ」
だらだらとよだれを垂らしながら歩くアルヴァロを、水葉は現せる限りの嫌悪感を込めて見つめる。
「……本物の村長も、あなたがやったのね」
「そうだよォ、すり替わるために必要だったからねェ。でも最悪。最悪の味だったよォ。証拠を残すなって言われたから、無理して食べたんだよォ?」
おどけた調子で言うアルヴァロを見て、水葉は剣を握る手に力を込める。
「口直しが必要だよォ。ああ、そうだ。シスターの後に、村に帰ってデザートを食べようゥ。あの、ルシアって子なんて、きっとやわらかくて、デザートに最高だァ」
刹那、水葉の表情が変わった。今までのような、嫌悪感を帯びたまなざしではなく――――前崎市で悪魔を狩ったときのような、黒い意思を持った瞳。
「――――ろす」
「えぇ?」
「悪魔は……殺す」
その言葉を聞いたアルヴァロが、腹を抱えて笑い出す。
「ぐへへへへへ! なにを言い出すかと思ったら……シスタァー様ァ~、餌なんだから、餌らしくゥ……」
己の間合いまで入り込んでいたアルヴァロが、言葉の途中で突如、腕を伸ばした。今までよりも、速い。
「しないとさァ!」
だが。その口が、水葉を捉えることはなかった。
「んんゥ!?」
「脂肪が剣戟を吸収するのなら……それが少ない部分を狙えばいいだけのこと」
その姿は、伸びきった口のすぐ横にあった。
「それは……ここだ!」
そして、情けも容赦もなく、飛び出した口蓋のようなそれを……斬りおとした。
べちゃっという不快な音とともに、アルヴァロの口が地面に落ちる。
「んん、ぎゃアアアァァァァァッ!?」
予期しなかった苦痛に、アルヴァロが立ったまま身をよじる。その混乱のためか、あるいは躍起になって水葉を捕らえようとしているのか、全身に口を顕現させ、叫び声を上げる。
「馬鹿ね……今、弱点を教えてあげたばかりなのに」
ため息をつき、水葉がこれまでにない速さで駆ける。瞬く間にアルヴァロの脇をすり抜け、剣を振るう。
「私は教会第64師団『葬送の剣』所属、『無慈悲なる聖歌』如月水葉。塵は塵へ、灰は灰へ帰るがいい」
刹那、光の刃が、アルヴァロの全身の口という口を刺し貫き――――爆ぜた。
「んげああああああああッ!!」
断末魔の叫びをあげ、血を噴き出しながら、アルヴァロは倒れた。
「ぐ、ぐ、ぐへ、ぐへへへ……」
だが、どう見てもすでに致命傷のそれは、醜悪に笑う。
「シスタァ~、あんたも、あんたも死ぬんだよォ……今、村にいた使い魔、みんなこっちに向かってるゥ……もう……来るんだよォ……」
水葉がその気配に、顔を上げる。先ほど上ってきたはしごの上空……そこに、空を飛ぶ使い魔たちの姿があった。その数、数十体。
「ぐへへへ……殺せぇっ!」
アルヴァロの咆哮とともに、使い魔たちの口内から火球が生まれる。
だが、水葉は動かない。ただ無機質に使い魔たちを睨んでいたその瞳が、火球が放たれる寸前、かすかに、不敵に笑った。
次の瞬間。
突如現れた光の矢が、すべての使い魔を一瞬で貫いた。
「ぶえっ!?」
水葉の背後で、アルヴァロが驚愕する。
「おおっと、俺様、サイッコーにカッコいいタイミングで来ちゃったんじゃね? おいお嬢、惚れるなよォ?」
落ちていく使い魔たちの背後で浮遊するのは、守護天使、アンセムの姿だった。
「来るのが遅い」
だが、その傍らに着地するアンセムに対する水葉の反応は最高に冷たかった。
「うそォ!? そりゃねぇよ、お嬢―」
がっくりとうなだれるアンセムに、水葉は容赦がない。
「そもそも、こうなることを予期していたから、使い魔の気配を常に探るように言っていたのです。あの程度の数、事前に撃墜するのが当然。ギリギリのタイミングになった時点で怠慢です」
「もう……天界に帰りたい、俺様……」
しれっと言う水葉に、アンセムは本気で泣きそうな顔をしている。
「……フン。まあ、結果は出たのですから、及第点くらいはあげてもいいですが。さて……」
水葉が、無言ですさまじい迫力を発しながら、アルヴァロを見下ろす。
「ぐひぃぃっ!」
情けない悲鳴をあげながらアルヴァロが這いずるが、体中の脂肪が邪魔をしてまったく進んでいない。その眼前に、ダン、と足を踏み鳴らし、水葉がその顔をのぞきこむ。
「あなたが口を滑らせた、『あの方』とやらのことを教えてもらいましょうか」
「ひ、ひぎいいぃぃっ! 勘弁してくれぇっ! しゃべったら……しゃべったら……」
いやいやをするように首を横に振るアルヴァロに、水葉は剣の切っ先を突きつける。
「話す気がないのなら、このまま教会本部に連行した上で、簡単に死ねないその身体を呪いたくなるくらいの拷問にかけてでも聞き出すまでですが?」
「わ、わ、分かったァ! 分かったよォォ!」
静かに威圧する水葉に、アルヴァロが悲鳴をあげる。
「……俺様、悪魔に生まれなくてほんとによかったなァ……」
心底ほっとした表情で胸をなでおろすアンセムを一睨みしてから、水葉はアルヴァロに向き直る。
「まず、あなた方の目的はなんだったのです? やはり、あの剣ですか?」
「そ、それもあるけど、一番の目的は、し、シスター、アンタなんだよォ。あ、あんたを殺せって言われたんだァ」
「私を、殺せと?」
水葉の表情が疑問に険しくなる。
「そ、そうだよォ。邪神の件に関わった人間、みんな殺せって……」
「なんですって? なぜ?」
「それは、あの教会の……聖……げええっ!?」
そこまで言ったアルヴァロが、突然、血を吐いた。
「あ、あの方が、あの方が怒ってるよォォォ……げっ!? げぶっ!? ば、バルヴェ……さ、ま……ぐげぶうっ!!」
一際大きな吐血とともに、アルヴァロの姿が、一瞬にして灰となった。
「……呪い、だな。こりゃァ」
囁くように、アンセムが残った灰を見て言う。
「特定の物事をしゃべろうとしたら、発動するようになってやがったんだ。全部ぶちまけられる前に、始末できるように仕組まれてたっつーこった。半分、捨て駒だったんだな、こいつぁーよ。お気の毒さま」
「しかし……少しは黒幕のことがわかった。目的は……邪神の件に関わったものの、排除。……紅香が狙われているのも……恐らく。でも、なぜあの件に関わったものを……?」
そこまで考え、水葉は顔を上げる。そこには、かつての聖人を祭ったという、教会がある。
「アルヴァロが最後に言った言葉……そのこと?」
再び、水葉は教会に足を踏み入れる。先ほどは戦いのために詳しく調べることができなかった教会の内部を調べるためだ。
まずは、聖人が使ったとされる剣……。
「……これは?」
それは、見覚えのあるものだった。反射的に、水葉は顔を上げる。そこには、この教会に祭られている聖人の像が、朽ちることなく、今でも残っていた。
「おい、お嬢……こいつァ……」
珍しくあっけにとられた様子のアンセムに、水葉がうなずく。
「……ええ……。急いで行く必要があるようね……」
踵を返し、水葉は教会の外へと向かう。
「……日本、前崎市……あの子のところへ」
水葉は、柱に寄りかかりながら、外の様子を回想していた。
外は、悪魔の使い魔で満ち溢れていた。トニオたちの両親、他の数人の生き残りをここに先導するだけで精一杯なほどに。フェイクヘッドのほかにも、中級、上級の使い魔が村中を跋扈しており、それだけの人数を助け出せただけでも僥倖と言えた。
しかし……水葉は唇を噛む。人を助け出せないことが……目の前で失われていく命に、手を差し伸べることすらできないことが、こんなにも歯がゆいものだと、改めて知った。ただ目の前のものを滅ぼしつくそうとしていたあの頃のミッションよりも……よほどそれは重く、困難なことだった。
――――これでは、私がここに派遣されてきた意味などないではないか。
人知れず、組んだ腕の手のひらに力が入る。私は――――無力だ。あの頃も、そして、今も。
「……お姉ちゃん」
不意に、一人歯噛みする水葉に、声をかけるものがあった。ルシアという、あの少女だ。側には、トニオと、その両親も立っている。
「ありがとう。お父さんとおかあさんを助けてくれて」
少女が、はにかんだ様子を見せながらも、にっこりと笑う。
「……私は……仕事だから、あなたたちを助けただけ。お礼を言う必要など……ない」
しかし水葉は、少女の笑顔から目をそらす。自分には、できなかったことのほうが多い。お礼など、言われるほどのことではないと、そう思っていた。
「いえ、私たちからも、お礼を言わせてください。もう、生きて子どもたちと会えることなどないと、あきらめておりました。本当にありがとう。ありがとう……」
そう言って水葉の手を握り、礼を言うルシアの両親を見、水葉は言葉を失う。不意に、脳裏を焼かれた故郷と、家族の記憶がよぎる。
だが、彼女の口から言葉が出ることはなかった。感謝されることには慣れていない。これまでいつでも、水葉は己の仇を討つためだけに戦ってきたのだから。
「あなたはまるで、聖女様の再来だ。かつてこの村をお救い下さった、聖女様の……」
ルシアの父親が泣きながら言った言葉に、水葉はなにか引っかかるものがあった。
「……聖女様?」
「はい。この村の教会の信仰対象です。かつて、この村を救うために命がけで悪魔と戦ったという……」
きっと、彼が言っているのは、村の教会にあった、山頂付近にあるという教会に祭られている聖人のことだろう。もしかしたら……悪魔たちの狙いは、そこにあるのではないか?
使い魔たちの襲撃があってから、水葉はずっと気になっていたことがある。それは、使い魔たちの数と、この村の規模の大きさが割に合わないことだ。数百人規模のこの村なら、何十体もの使い魔を送り込む必要はない。村の破壊が目的なら、せいぜい5、6体もいれば間に合うはず。ならば彼らの目的は、別にあるのではないか? そもそも、悪魔たちがこの村を標的にする理由も、よくわからないのだ。
「なにか、ありましたかな? 教会のシスター様」
話を聞きつけてか、水葉らの元にやってきたのは、村長のアルヴァロだった。
「……村長、ひとつお聞きしたいことがあります。この村から、山頂方向へ上ったところに、古い教会がありますね?」
水葉の言葉に、村長はあごに手をやり、感心したようにうなずく。
「はあ、よくご存知で。確かに、中世よりあるという教会が建っておりますが、それがどうかいたしましたかな?」
「……そこに伝わる話などがあれば、お聞きしたいのですが」
「それは、今回の事件となにか関係が?」
「……わかりません。ただ、可能性はあるかと」
正直なところ、これは勘に近いものだった。今回の事件……悪魔たちの狙いは、この村自体ではないように思える。ここ自体でないのなら、今のところ考えられるのは、山頂付近にあるという教会だけだ。
もしも、やつらの目的がその教会であるのなら、そこに突破口があるかもしれない。ひとつひとつ、可能性をつぶしていくよりほかはない。……どちらにせよ、外があの状況では、一人ですべての敵を殲滅することも不可能だ。本部に応援を呼ぼうにも、この村は電波が届かないのか、通信の類は外界と遮断されているといってもいい状況だった。
「ふむ……あの教会は、かつて村を救ったという聖女を祭ったものです。そして、そこには今も、聖女が悪魔を滅ぼす際に使ったという剣が納められている、と聞いたことがあります」
「聖女が使った剣……」
その言葉に、水葉は考え込む。村の教会の資料によれば、件の教会が建立されたのは五百年もの昔のはず。それを今になって、躍起になって欲するものだろうか?
「その聖女に関しては、諸説ありましてな。どうやら一所にとどまることができない性分だったらしく、この辺りの村や町には似たような逸話がたくさん残っているのですよ。ただ、そのどれもが後世になって作られたものらしく、真にその当時から残るものと断定されたのは、この村のものだけ……それもつい最近のことなのです」
村長の言葉に、水葉はさらに考える。聖女の剣……それが本物だと断定されたのはつい最近のこと。さらに、この辺りには似たような伝説が各所に残されている。
……ということは、悪魔たちがこの村にあるものが本物ということを知ったのも、つい最近、ということか。
水葉は、村が襲われてから、一つの疑問を持っていた。それは、村の中でも教会に使い魔が現れたのがもっとも早かったということだ。教会は、村の中心部にある。すなわち、襲われるとすれば、地理的に考えるなら一番最後ということになる。
しかし、水葉が教会の鐘を鳴らしたときには、まだ本格的な襲撃は始まっていなかった。それはつまり、一番最初に、この教会目指して使い魔たちが動き出したということだ。だがそれも、教会が目的地だったとすれば、説明がつく。
それに、もしもその剣が目的だとすれば、水葉がこの村にやってきたことで大規模な行動に出たのも、うなずける。奴らからすれば、教会の人間が剣を回収にきたと考えてもおかしくはない。教会の手に渡る前に、なんとか剣を手に入れようとしたのかもしれない。
「……アンセム」
「へいへい、なんでございますか、おじょーさま」
「あなた、剣だけなら自分から離れたところにも顕現させられる?」
水葉の言葉に、アンセムが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「げっ、お嬢、またなんかめんどくせェことさせようとしてんだろ。わかるぞ、その顔見りゃーよ」
「できるかどうか聞いている」
若干、鋭さを増す水葉の瞳に、アンセムが舌を出す。
「へいへい、できますよ。で、俺様はなんだ? いい子でお留守番してろってか?」
「いい勘してるじゃない。私は山頂の教会に行って、その剣を調べてくる。あなたはここを使い魔から守ってて。……それと」
にっこりと笑って、しかし有無を言わさぬ迫力をかもし出しながら、水葉はアンセムの肩をぽんと叩いた。
「あん?」
「悪魔たちの気配は、常に探っていて。奴ら、大きく動くかもしれない」
アンセムの肩に手を置いたまま、その耳もとで囁くように、水葉が言う。
「……はあ。上にこき使われるのに嫌気が差して地上に降りてきたってェのに、これじゃー天使やってた頃のがまだましだったぜ。地上の仕事なんてめんどくせェことばっかだァ」
「悪いわね。人間は天使ほど優しくないの」
額に手をやり、嘆くように言うアンセムに背を向けながら、水葉は村長に向き直る。
「……村長。ここから山頂の教会までは、どれほどかかりますか?」
「そうですな……ここから先はかなり険しい山道になりますので……片道二時間ほどは……」
片道二時間……現地での調査の時間も考えると、時間がかかりすぎる。いくらアンセムにここの守りを任せるとはいっても、それではここがもたない。
「いや……お待ちください。たしか、有事の際に山頂の教会の安置物を守るために、ここから山頂への隠し通路があったはずです。そこを通ればあるいは……」
「隠し通路……」
村長の言葉に、水葉は考え込む。
「たしか、それは地下室にあったはず。そこからトンネル状の通路が山頂まで続いているはずです」
「……ずいぶんと、詳しいのですね」
水葉の言葉に、村長はうなずく。
「……ええ。私の祖父が神父をしていたもので。子供の時分に、その話はよく聞いたものです」
「わかりました。その隠し通路まで、案内をお願いできますか?」
「もちろんです。こちらへ……」
歩き出す村長に、水葉は着いていく。その足は、まっすぐにあの地下への階段へ向かっている。
その後ろを歩く水葉は、ふと、違和感に顔をしかめる。
……それは、においだ。先ほどまで気づかなかったが、強いコロンの香りが辺りに漂っている。それは、地下へ降りても消えることはなく、むしろ強まっていた。村長がつけているのだろうか。
「……この、奥です」
やがて村長が示したのは、あのどんでん返しのような扉の奥だった。
「これは、たしか以前の教会の神父が作ったものだったのでは?」
この奥にあった日記には、確かにそう書かれていたはずだ。
「ふむ……彼は殺害される数日前から、なにやら錯乱していましてな。狙われているのを知って追ったのかも知れません。だから、日記にそのようなことを書いてしまったのかも……かわいそうに。実際は、この通路は彼がここに来る以前からあったのです」
水葉は黙って、その奥へと進む。その後に、村長が続いた。
「この本棚の裏に……山頂へ続く通路があるはずです」
その言葉とともに、村長は一番端の本棚を横へとずらした。
確かに、その奥には通路があった。だが、それは通路というのは名ばかりの、固い岩盤をくりぬいただけの、洞窟のようなもの。この暗闇の中に空いたそれは、まるで怪物がぱっくり開けた口のようだ。どれほど長い間、使われていなかったのか、湿った冷たい風が、水葉の頬を撫でていった。
「……ありがとうございます。では、ここからはお任せください」
「お待ちください」
一人、洞窟の中へと進もうとする水葉に、村長が声をかける。
「私も、お供させていただけませんか? 村に伝わる伝承なども、この先、役に立つやもしれません。それに……村の長として、できることはしたい」
その言葉に、振り返らぬまま、水葉はかすかにその目を細める。
「……わかりました。しかし、もしも悪魔の類が現れたら、私の後ろを離れないように」
「ありがとうございます。では……灯りは私が」
ランプを手に、村長が前を歩いていく。
洞窟は、ややきつい上り坂となっていた。山頂へと続く道なのだから、当然だ。村から目視した際、山頂まではそれほどの距離はなかったように思える。ただ、通常の地上ルートを行くとなると、急斜面である分、迂回したり、急勾配を越えたりといったところに時間がかかるのだろう。となれば、確かに地中を行くこのルートはかなり時間の短縮が図れるだろうことは予想がついた。
「ところでシスター様。お連れのあの方は、教会の神父なので?」
不意に、村長が口を開いた。
「……なぜ?」
「いえ、失礼ながら、とてもそうは思えなかったもので」
申し訳なさそうな顔で、村長が半身をこちらに向けて笑う。
「……彼は、私の守護天使。……まあ、『元』天使と言ったほうが正確かもしれないけれど」
「……すると、堕天使で?」
いぶかしげな表情を作る村長に、水葉はふ、とかすかに笑って見せる。
「大丈夫です。天から堕ちたとはいえ、彼は悪魔の類ではないから」
魔を狩る組織、教会のヨーロッパ本部では、悪魔に対してもっとも相性のいい、キリスト教系のエクソシストが大多数だ。そのキリスト教においては、天から堕落した天使が、地獄の悪魔の祖となったとされている。ゆえに、堕天使を連れ歩くエクソシストなど、そうはいない。奇異の目で見られるのも当然だろう。
「いえいえ、そのようなことを考えているわけでは……」
愛想笑いでごまかす村長だが、実際のところは思うところはあるのかもしれない。なにしろ、今、その『とても天使には見えない堕天使』が村人たちの守りを担っているのだから。
正直なところ、自分が逆の立場でも、あんなチャラチャラした男が教会から派遣されてきたら、怪しむだろう。
その後、しばらくは沈黙が続いた。
それほど道幅のない通路の中を、二人の足跡だけが反響していく。やがてそれは新たな足音と重なり合い、怪物のいななきのような不協和音を奏でる。時折吹き込む風だけが、ここが間違いなく、どこかへと通じているということを知らせてくれる。
風が撫でる感触や耳障りな反響を聞きながら、水葉は考えていた。
この先がもし、使い魔たちの目的地であるのなら、この先はまだ、奴らの侵入は許していないことになる。
だが……ここから先は何があるかわからない。油断は禁物だ。人の心の隙に付け込むのが奴ら――――悪魔の常套手段なのだから。
「……おや、はしご……ですな」
不意に、村長が前方にランプをかざした。その先には、確かに鉄製と思しきはしごがある。
水葉はゆっくりとはしごに近づくと軽く拳で叩く。その手ごたえから察するに、古びてはいるが、まだ十分な強度はありそうだ。
そのはしごを視線でなぞるようにして、水葉は上を見上げる。かなり長いはしごだ。切り立った崖を越えるためのものらしく、恐らく数十メートルは続いている。
「……ここから先は、危険かもしれません。私が先に行きます」
「し、シスター様が!?」
言うが早いか、はしごに手をかけた水葉に、村長があわてたように返す。
「なにか問題が?」
「あ、いえ、その……なんでもありません」
なぜか赤面する村長をいぶかしがりながら、水葉ははしごを上っていく。やがてしばらく間を置いてから、村長もはしごを上りだした。
もしも……と、水葉は考える。もしも、奇襲をしかけてくるなら、ここほど適した場所はないだろう。もし、悪魔たちがすでにここまで達していたとしたら、こちらに迎え撃つ手段はない。
ぎゃあ、と不気味な声をあげて、カラスがそばを飛んでいった。悪魔の気配は感じないものの、警戒してついそちらを見てしまう。使い魔よりも上位の種である悪魔は、その気配をほぼ隠すことができる。手練ならば、エクソシストはもちろん、天使でさえ欺くものもいるのだ。
だが、今回はその心配は杞憂に終わったようだった。水葉がはしごを上りきるまで、枯らすの鳴き声以外は、ついに聞こえることはなかった。下を見ると、村長ははしごの長さに少々腰が引けたか、まだ半分ほどしか上れていないようだ。
「――――ん?」
不意に、水葉の懐から音が響いた。この音は、教会の通信機だ。
『――――シスター・ミズハ。応答せよ。こちら教会本部――――』
「……こちら水葉」
懐から取り出した通信機に、ぶっきらぼうに答える。村が襲われてから、通信はずっと阻害されていた。定時連絡もできなかったのだ。また小言がありそうだ。
『定時連絡はどうした? 後発隊を送ることも検討されていたのだぞ』
高圧的な声が耳に刺さる。この任務の指揮者である、上司の司教だ。
「申し訳ありません。村が襲撃に遭いました。同時に村内は何者かにより通信が阻害されている模様です。現在、村人十数名、守護者アンセムが教会に篭城。私は事件の発端と見られる剣を追い、もう一つの教会へと向かっています」
淡々と報告する水葉の声に、通信機の向こうの上司がため息をつく。
「……まあいい。しかし、状況は思ったより良くないようだな。その剣とやらを奪取できたところで、事態は収拾できまい」
「はい。村には中級使い魔が相当数。さらに、事件の裏には上位の悪魔が存在していると思われます」
「そうか……。わかった。村の掃討のために援軍を送る。君は引き続き、その剣の確保と、裏にいると思われる悪魔の招待を探れ。以上だ」
その言葉を最後に、通信が切れる。
と同時に、水葉はもう一つ、懐でなっているものに気がついた。携帯だ。普段ならばこのような仕事の際には持ち歩かないのだが、今回は休暇が明けてすぐの急な任務だったため、そのまま持ってきてしまっていた。
着信相手は――――。
「……須佐、翔悟……」
他の人間だったら仕事中には出ないのだが、あの人が仕事以外で自分にかけてくることもないだろう。なにしろ、苦手な元恋人の妹なのだから。
「……もしもし」
仕方無しに、水葉は電話に出る。その声は、先ほどの通信よりもさらにぶっきらぼうだった。
同時刻。須佐翔悟探偵事務所。
「お? ……おお、つながったぞ、つながった!」
須佐翔悟は、まるで少々高額の宝くじでも当たったかのように、電話を肩口にはさんだまま、手をたたいて笑った。
「……さっさと用件を言うつもりがないのなら、切りますが」
電話どころか、もし目の前にいたら腹でも切らされそうに思えるほど、電話の相手――――如月水葉は不機嫌そうに言った。
「あー待て待て、ちゃんと用件がある。しかし、そっちも仕事中か? 何日もつながらなかったが」
「ええ、ちょっと面倒な仕事中です。なので、用件は手短にお願いしたいのですが」
丁寧ながら、有無を言わさぬ口調に、翔悟は額の汗を拭う。やはり、過去の負い目もあって、水葉には今でも頭が上がらない。まあ、それでも以前に比べればかなりマシになったと言えるが。
なにしろ、自分は水葉の姉――――雪乃を守れなかった男なのだ。本当ならば、今でも恨まれていても仕方がない。だが、一ヶ月前の事件での共闘以来、その関係は以前よりは修復されていた。
……当の雪乃は、今はテレビの前でグルメリポートで紹介されている海鮮丼に釘付けでしっぽまで立てているが。
「そうか、悪かったな。だが、こっちもちょっと面倒なことになっててな。だもんで、単刀直入に言うぜ。紅香が、教会に狙われている。なにか心当たりはないか?」
電話の向こうで、かすかに息を飲むような気配がした。水葉も態度は冷たいながら、一ヶ月前、ともに戦った紅香のことは憎からず思っているようだ。まあ、それ以上に数度、紅香との戦いで土を付けられていることによるライバル意識のほうが強いのかもしれないが。
「……いえ。それ以前に、紅香のことを教会が知っていること自体、おかしいはずです。報告には、紅香のことは伏せていたはず」
「やっぱりそうか。……じゃあ、もう一つだけ聞かせてくれ。『グレイヴディガー』という言葉に聞き覚えは?」
その言葉がでた途端、水葉がわずかの間、沈黙した。その短い静けさのどこかに、翔悟は妙に剣呑な空気を感じ取っていた。
「……どこで、その言葉を?」
「紅香が言うには、襲ってきた教会のやつを撃退した際、最後にその言葉を残していったらしい。なんのことだか、お前ならわかるんじゃないか?」
水葉の言葉と沈黙は、問いかけるまでもなく、その答えを物語っていた。だが、あえて言葉でもう一押ししたのは、それが、恐らくは簡単に口に出すには重い言葉であると、確信したためだ。
「……教会が、いくつもの支部に分かれているのは知っていますね? ヨーロッパを本部とし、北米、南米、アジア、日本など……」
「ああ。果てはアフリカ、東南アジアまで支部があったな」
『教会』とは一言に言っても、その支部は多岐に渡る。また、それらは純粋に魔を狩るための有するものたちの集団であり、宗教の比率ははその支部によって様々だ。例えば、日本では『教会』といっても属するのは仏教の僧や陰陽師が大半であり、水葉の属するヨーロッパ本部とは逆に、キリスト教の神父や牧師は少ない。
「その中でも、支部にはそれぞれ、様々な事態に対応するための部署があります。事件の調査や捜査を専門とする部署や、緊急時に迅速に対応するための部署など……。それぞれには、正式な名称のほかに、いわゆる通称が存在します」
そこで水葉は、いったん言葉を切る。重い、一瞬の逡巡の後、再び、彼女は言葉をつむぐ。
「『グレイヴディガー』とは……教会内でも、かねてからその名しか……それも一部のものにしか知られていない、極秘の部署の名です」
「……なるほどな。だんだんと、きな臭いにおいがしてきたぜ」
肩口で携帯を支えながら、翔悟はタバコをくわえ、火をつける。
「……私も、その部署に対して明確な情報を持っているわけではありません。ただ、私が知っているのは、『グレイヴディガー』は教会にとって都合の悪いものを消すための部署……悪魔、人、どちらも問わず、闇に葬るための暗殺専門の部署……という話だけです」
「要するに、教会の暗部ってわけだ。だがわからんのは、なんでそんな奴らがわざわざヨーロッパから出向いてきて、紅香を殺す必要があるのか、だ」
紫煙を吐きながら言う翔悟に、電話の向こうの声がふと疑問の色を帯びた。
「……邪神の関係ではないのですか?」
「奴らが言うには、邪神は目的じゃないんだとよ。本当のことを言ってるかどうかはわからんがな」
だが、だとすればますますわからない。邪神の件以外で、教会が紅香の命を狙わねばならない理由など、正直、想像もつかない。
「……しかしお前さん、そんな極秘事項を漏らしちまってよかったのか? 教会内でも重大な機密なんだろ?」
「……仕方ないでしょう。友人が命を狙われているとあっては、協力しないわけにもいきません」
翔悟は水葉のその言葉に、一瞬、ぽかんとした表情を作る。が、次の瞬間には、思わず声をひそめて笑っていた。
「くくく……そうか……。友人、な」
「……なにか、おかしいですか?」
虫の居所がよろしくないらしい、今日の水葉の声の中でももっとも不機嫌そうな声に、思わず翔悟は笑みを浮かべる。まったく、あの紅いのは、本人も知らないうちにずいぶんと人の心を変えるもんだ、と。
「いーや、なんにもおかしかないぜ。友達は、大事だもんな」
「……フン。用件はそれだけですか? ほかに何もないのであれば、仕事に戻りたいのですが」
あくまで冷たい声で返す水葉に、翔悟はふと思いついたように言う。
「あ、ちょっと待て。そっちが今、抱えてる仕事ってのは、なんだ?」
「……あまり、仕事の内容を外に漏らすわけにもいかないのですが。……簡単に言えば、とある村を使い魔が占拠しているのです」
その言葉に、思わず前回の事件で調査した山奥の村を思い出す。
「……マジか。お前、よく電話に出れたな」
「だから手短に、とお願いしたでしょう? ……なぜ、聞くのです?」
大きく紫煙を吐き出し、翔悟は頭を掻く。
「これはただの勘なんだが……前回の事件から一ヶ月程度しかたたないうちに、その当事者が別々の事件で動いてる……ってのも、なんだか妙な気がして、な」
「二つの事件は、関係性があると?」
「そこまでは言わん。が……なんとなく作為めいたもんがあるような気がしてな。それと……」
そこまで言って、翔悟はいったん言葉を切る。
「雪が、お前さんのこと、心配してるからな。『ぜんぜん連絡もよこさないのですー』ってよ」
その言葉に、かすかに電話の向こうで笑ったような息づかいが聞こえた。
「……わかりました。この件が片付いたら、ゆっくり話でもさせてもらいます」
「ああ。そうしてやってくれ。じゃあ、またな。ちゃんと無事に帰ってこいよ」
タバコを灰皿に押し付けながら、翔悟は電話を切る。
「さて……ちっとばかり、仕事ができたようだな」
椅子から立ち上がり、翔悟はいつもの黒いテンガロンハットをかぶる。その様子に、テレビに夢中になっていた雪乃が気づき、じっとりとした視線で振り返る。
「翔様、でかけるのですか? まだ事務仕事はいっぱいあるのですよ」
「あー、悪いが適当にごまかして、締め切り延ばしといてくれ。明日中には戻ってくるからよ。じゃっ、よろしく!」
目をそらしながら早口で言い切ると、翔悟は戦闘のときでもそこまではすばやく動かないような速さで、風のごとく事務所から走り去った。
「えっ!? ちょっ、翔様!」
雪乃が声を出すまでには、翔悟は愛車に飛び乗っていた。すぐにエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。
「……ふう。あいつにゃ、居心地のいい場所じゃねえからな、あそこは。連れてくわけにもいかねえ。ま、俺もできれば避けて通りたかったが……いつまでもそうも言ってられんしな」
懐から、タバコをとりだし、火を着ける。あそこの門をくぐるのは、何年ぶりだったか。
「……行くか。教会日本支部へ」
大きく紫煙を吐き出すと、翔悟は鋭く前を見据えた。
携帯の通話を切り、水葉はその先にある建物を見る。
切り立った崖に前後を挟まれた、朽ちかけた教会。村のそれと大差のない、質素な材質で作られたその建物は、しかしその端々に丁寧に作られた意匠が施されており、そこに祭られたものへの、人々の思いを感じさせる。
「ふう、ふう……お待たせしました。このような高い場所のはしごなど、上ったことがないもので……」
声を出すのもやっと、という感じで村長がはしごを上り終えた。
「いえ。こちらも定時連絡がありましたから、問題ありません」
言うが早いか、水葉は教会へと歩を進める。その入り口――――石造りのアーチの前で、彼女は足を止める。
「どうかいたしましたかな?」
村長の問いには答えず、水葉はアーチを見上げる。車でも悠々と通れそうな巨大なアーチには、こちらも丁寧に装飾が施されている。所々が破損しているため、すべては確認できないが、剣や武具など、やけに物々しい装飾だ。教会というより、まるで砦だ。それに……。
水葉が、軽くその観音開きの扉に手を触れる。瞬間、パチッという、軽い電流が流れるような感触が手のひらを走った。
「……結界が、張られている……」
それも、ひどく厳重だ。例えそれなりの位を持つ悪魔でも、そうは簡単に突破できないほどの。
「どうやら、ここが敵の狙いで正解……ね」
その様子を確認した水葉はしばしの間、逡巡する。結界が張られているなら、このまま安置したほうがいいか……? しかし彼女は、その考えを頭を軽く振り、否定する。
元はこの結界ももっと強度があったのだろうが、今では当時より強度が落ちている。それに、村にはまだ、かなりの数の使い魔がいる。あれらに総当りで来られたら、さすがにもつまい。
やはり剣は回収すべきと結論付け、水葉はその結界を解く。ゆっくりと大きなアーチの扉を開くと、そこは数百年ぶりに開かれた場所とは思えないほど、清純な空気に満ちていた。
あくまで質素なつくりのその教会は、その建物自体が一つの礼拝堂であるらしかった。村の教会と構造が似ているのは、あちらがここを模して作られたためだろう。しかし、村のそれよりも新しくすら見えるのは、ここが本当の聖域であるからだろうか。
本来ならば説教台が座しているはずのその場所に、件の剣と思しきものがあった。床に切っ先をねじ込んだかのように、それは雄々しく突き刺さっている。しかし、ここから見てもわかるほど、ずいぶんと大きな剣だ。
水葉が剣に近づこうと歩く横を、村長が足をもつれさせながら駆けていく。そのまま剣の刺さった床にひざまづき、彼は剣を見上げる。
「おお……これが……これが……」
水葉はゆっくりと、村長の脇に立つ。……そして。
「……………っ!? なに、を……なされるのですか? シスター様……」
己の剣の切っ先を、村長の喉元に突きつけた。
「あなた自身が、一番よく分かっているはず。……悪魔め」
鋭く、冷たく、酷薄に、水葉は村長をねめつける。
「わっ……私が、剣を狙う悪魔だと? じょ、冗談はおやめください! な、なにを根拠にそのようなことを……」
両手を上げ、首を振る村長に、しかし水葉の視線は変わらない。
「……一番最初にあなたを怪しんだのは、無傷で教会に避難することができたこと。あなたの家がある、村の北側は壊滅的な被害状況だった。その中で、あなたは傷一つ負うことなく、教会に現れた」
「そっ、それは、運よく、偶然……」
村長の反論にも、水葉が動じる気配はない。ただ、冷徹な口調でたんたんと論破していく。
「もう一つ、あなたは強い香りのコロンを着けている。以前、昼間に会ったときにはつけていなかった。なぜ深夜に、昼間つけたりしないコロンを着けていたの? この緊急事態に」
「いや……それ、は……」
言いよどむ村長に、水葉は続ける。
「この事件で不可解だったのは、村人の遺体が一体たりとも見つかっていないこと。しかし、悪魔の中には人間を食らうものも存在する。神父の日記の内容からして、犯人はその類の悪魔。となれば……納得のいく答えはひとつ」
「……………」
村長の首筋を、一筋の汗が流れていく。
「あなたが悪魔で、あの襲撃のときに、北側の人間を殺害し……食らった。そしてその血や脂のにおいをごまかすために、強い香りのコロンを着けた。とすれば、壊滅的な被害状況も、あなたが無傷だったことも、不自然につけられたコロンも、すべて説明がつく」
「……すべて、想像ではないですか。証拠もない……」
その言葉とは裏腹に、村長のその声色はかすかに剣呑な色を帯びていく。上げられていた手の震えも、いつの間にか収まっている。
「もうひとつ。あなたは村の教会で、こう言った。『以前いた神父は錯乱していたために、日記に書いてしまったのでは』と」
「……それが、なにか?」
「なぜ、あなたが他人の家の、それも隠し通路の奥にある日記の内容を知っていたのですか?」
その言葉に、村長の顔から表情が消える。
「それは、あの日記の最後に書かれた言葉……『ごちそうさま』という言葉を、あなたが書いたからです。そのときに、日記の内容を、あなたは見た」
「……いや、神父の事件があった際、私はあの日記を見て……」
途切れ途切れに言う村長の言葉を、しかし水葉のセリフが斬り裂く。
「では、私があなたの家を訪れた際、そのことについて触れなかったのはなぜです?」
「……それは! そのときはつい忘れていて……!」
ゆっくりと、水葉が村長の後ろへとまわる。油断なくその背に剣を向けながら、床に突き刺さった巨大な剣を見上げた。
「ならば、その剣に触れてみるがいい。これは、未だ、聖なる力を纏っている。あなたが潔白で、人間であるなら、触れても問題ないはずです。しかし、悪魔ならば、剣はあなたの身を焼くでしょう」
先ほどまでおののき震えていた村長の動きが、変わる。その震えが恐れからなにに変わったのかは、彼の喉から漏れるくぐもった笑い声を聞けばなんなのかは、火を見るより明らかだった。
「くッ……くくくくケケケケケケ……大したシスター様だよォ……。まさか、ずうっと疑われてなんて、気がつかなんだ……」
ごきごきと、その身体が不気味な音をたてて変わっていく。服をその肉体が突き破り、巨大なこうもりのような羽がその背から鋭く突き出す。
水葉は舌打ちとともに後ろへ下がり、槍の一撃のようなそれをかわす。
「だがよォ、シスター様ァ……あんたやっぱり、甘ちゃんだよォ……そこまでわかってて、俺様をここまで連れてきてくれちまうんだからなァ……。教会の結界まで解いてくれて、ありがとうよォ。お礼に、骨も残さず食ってやるよォ。へへ、シスター様はさぞかし甘くて、やわらけえんだろうなァ……」
ゆっくりと、先ほどまで村長アルヴァロだったものが振り返る。それは、見るも醜悪な、悪魔そのものだった。水葉の倍以上の、巨躯。腐った肉のような黄土色の肌。でっぷりと肥った腹や腕。人間の面影はもうないその顔は、半分以上が巨大な口で、そこからはだらりと長い舌をだらしなく垂らしている。
「フン。あの場であなたの正体を暴いて、これ以上、村に被害を出したくなかっただけ。勘違いしないで。私は、あなたを処刑場に連れてきただけ……」
冷徹に言い放った水葉は、酷薄な笑みをアルヴァロに向ける。それは手にした剣の刃のように……あるいはそれ以上に、鋭い。
「ぐへへ、いつまでそんなツラァしてられるかなァ!?」
アルヴァロが体勢を低く構え、水葉に向かって突進する。地を揺らしながら迫るそれを、水葉は後ろへ大きく跳んでかわす。
そのまま、両者はアーチの外へと飛び出す。
あえて水葉が後ろへ避けたのは、外へ出るためだ。あの巨体をせまい屋内で相手するのは、いささか骨が折れる。
広い外へ飛び出したところで、水葉はアルヴァロの突進を横にかわし、同時に剣を上段に構えた。
「……………っ!?」
が、アルヴァロの横腹に突きを繰り出そうとしたところで、その動きを止め、後ろへ跳んだ。
その眼前で、突如現れた巨大な口が、がちんと音をたてて閉じた。だが、アルヴァロはあくまで横を向いたまま、こちらを見てはいない。
「ああァ? 食えなかったかァ?」
今度は、じろりとその顔がこちらを見た。
「……どこまでも、食い意地の張った奴……」
その顔を睨み返しながら、水葉が歯噛みする。
「ぐへへ、いいだろォ? この身体。どの部分ででも、ものが食えるんだぜェ? こんな……風にさァ!」
今度は、アルヴァロが水葉に向かってその手を伸ばす。
水葉はこれも下がってかわすが、その手のひらから突如現れた巨大な口が、伸び上がるようにして彼女を追撃する。まるで口蓋が飛び出してきたような真っ赤なそれは、まさに悪魔のものだ。それを着地と同時に横っ飛びにかわすが、その牙がわずかに修道服を裂く。
「くっ!」
「ぐへへへ、活きがいいなァ、きっと新鮮でうまいぞォ!」
受身を取りながら起き上がる水葉を見ながら、アルヴァロは余裕の表情で舌なめずりをしている。
その様子を睨みながら、水葉は小さく舌打ちする。万能性を考慮して剣を装備してきたが、裏目に出たか。ボウガンならば、鈍重なアルヴァロ相手には有利だったろうが。だが、いないものを当てにしても仕方がない。
水葉は余計な考えを振り切り、駆ける。
あの口での一撃を受けるわけにはいかない。ならば、こちらはスピードで撹乱するしか、ダメージを与える方法はない。
水葉を迎え撃つようにして、アルヴァロの手が迫る。そこから現れた口の一撃を横に駆けてかわす。水葉はそのまま、アルヴァロの前腕に斬りつける。
「んんぅ?」
だが、不思議そうに己の腕を見つめるその様子を見る限り、ダメージが通ったとは思えない。
「浅かった……」
その様子を睨みながら、水葉はアルヴァロの間合いから退避する。先ほどの斬撃―
―――ぶよぶよで、まるで手ごたえがなかった。ほとんど脂肪の塊だ。実際、斬りつけた剣にはてかてかと油が混じったような血液が付着している。
不快げな表情で、水葉は剣に着いた血を振り払う。あの様子から見るに、腕や腹など、脂肪をたっぷり含んだ部分を攻撃しても効果はあるまい。
「シスター様ァ、ちょっと生意気だぞォ? 餌はさァ、餌らしくしなきゃあよォ。腹が減ってるんだよォ、俺様はさァ」
鈍重な動きで、アルヴァロは水葉ににじりよる。
その様子を、水葉は凛とした瞳で見返す。
「あの方が『いっぱい食っていい』って言うから喜んできたのにィ、ジジイやババアばっかりでさァ。まずいんだぜェ? あれ。でもまァ、シスター様が若い女の子でよかったよォ。あつらも、メインディッシュの前菜くらいにはなったからさァ」
だらだらとよだれを垂らしながら歩くアルヴァロを、水葉は現せる限りの嫌悪感を込めて見つめる。
「……本物の村長も、あなたがやったのね」
「そうだよォ、すり替わるために必要だったからねェ。でも最悪。最悪の味だったよォ。証拠を残すなって言われたから、無理して食べたんだよォ?」
おどけた調子で言うアルヴァロを見て、水葉は剣を握る手に力を込める。
「口直しが必要だよォ。ああ、そうだ。シスターの後に、村に帰ってデザートを食べようゥ。あの、ルシアって子なんて、きっとやわらかくて、デザートに最高だァ」
刹那、水葉の表情が変わった。今までのような、嫌悪感を帯びたまなざしではなく――――前崎市で悪魔を狩ったときのような、黒い意思を持った瞳。
「――――ろす」
「えぇ?」
「悪魔は……殺す」
その言葉を聞いたアルヴァロが、腹を抱えて笑い出す。
「ぐへへへへへ! なにを言い出すかと思ったら……シスタァー様ァ~、餌なんだから、餌らしくゥ……」
己の間合いまで入り込んでいたアルヴァロが、言葉の途中で突如、腕を伸ばした。今までよりも、速い。
「しないとさァ!」
だが。その口が、水葉を捉えることはなかった。
「んんゥ!?」
「脂肪が剣戟を吸収するのなら……それが少ない部分を狙えばいいだけのこと」
その姿は、伸びきった口のすぐ横にあった。
「それは……ここだ!」
そして、情けも容赦もなく、飛び出した口蓋のようなそれを……斬りおとした。
べちゃっという不快な音とともに、アルヴァロの口が地面に落ちる。
「んん、ぎゃアアアァァァァァッ!?」
予期しなかった苦痛に、アルヴァロが立ったまま身をよじる。その混乱のためか、あるいは躍起になって水葉を捕らえようとしているのか、全身に口を顕現させ、叫び声を上げる。
「馬鹿ね……今、弱点を教えてあげたばかりなのに」
ため息をつき、水葉がこれまでにない速さで駆ける。瞬く間にアルヴァロの脇をすり抜け、剣を振るう。
「私は教会第64師団『葬送の剣』所属、『無慈悲なる聖歌』如月水葉。塵は塵へ、灰は灰へ帰るがいい」
刹那、光の刃が、アルヴァロの全身の口という口を刺し貫き――――爆ぜた。
「んげああああああああッ!!」
断末魔の叫びをあげ、血を噴き出しながら、アルヴァロは倒れた。
「ぐ、ぐ、ぐへ、ぐへへへ……」
だが、どう見てもすでに致命傷のそれは、醜悪に笑う。
「シスタァ~、あんたも、あんたも死ぬんだよォ……今、村にいた使い魔、みんなこっちに向かってるゥ……もう……来るんだよォ……」
水葉がその気配に、顔を上げる。先ほど上ってきたはしごの上空……そこに、空を飛ぶ使い魔たちの姿があった。その数、数十体。
「ぐへへへ……殺せぇっ!」
アルヴァロの咆哮とともに、使い魔たちの口内から火球が生まれる。
だが、水葉は動かない。ただ無機質に使い魔たちを睨んでいたその瞳が、火球が放たれる寸前、かすかに、不敵に笑った。
次の瞬間。
突如現れた光の矢が、すべての使い魔を一瞬で貫いた。
「ぶえっ!?」
水葉の背後で、アルヴァロが驚愕する。
「おおっと、俺様、サイッコーにカッコいいタイミングで来ちゃったんじゃね? おいお嬢、惚れるなよォ?」
落ちていく使い魔たちの背後で浮遊するのは、守護天使、アンセムの姿だった。
「来るのが遅い」
だが、その傍らに着地するアンセムに対する水葉の反応は最高に冷たかった。
「うそォ!? そりゃねぇよ、お嬢―」
がっくりとうなだれるアンセムに、水葉は容赦がない。
「そもそも、こうなることを予期していたから、使い魔の気配を常に探るように言っていたのです。あの程度の数、事前に撃墜するのが当然。ギリギリのタイミングになった時点で怠慢です」
「もう……天界に帰りたい、俺様……」
しれっと言う水葉に、アンセムは本気で泣きそうな顔をしている。
「……フン。まあ、結果は出たのですから、及第点くらいはあげてもいいですが。さて……」
水葉が、無言ですさまじい迫力を発しながら、アルヴァロを見下ろす。
「ぐひぃぃっ!」
情けない悲鳴をあげながらアルヴァロが這いずるが、体中の脂肪が邪魔をしてまったく進んでいない。その眼前に、ダン、と足を踏み鳴らし、水葉がその顔をのぞきこむ。
「あなたが口を滑らせた、『あの方』とやらのことを教えてもらいましょうか」
「ひ、ひぎいいぃぃっ! 勘弁してくれぇっ! しゃべったら……しゃべったら……」
いやいやをするように首を横に振るアルヴァロに、水葉は剣の切っ先を突きつける。
「話す気がないのなら、このまま教会本部に連行した上で、簡単に死ねないその身体を呪いたくなるくらいの拷問にかけてでも聞き出すまでですが?」
「わ、わ、分かったァ! 分かったよォォ!」
静かに威圧する水葉に、アルヴァロが悲鳴をあげる。
「……俺様、悪魔に生まれなくてほんとによかったなァ……」
心底ほっとした表情で胸をなでおろすアンセムを一睨みしてから、水葉はアルヴァロに向き直る。
「まず、あなた方の目的はなんだったのです? やはり、あの剣ですか?」
「そ、それもあるけど、一番の目的は、し、シスター、アンタなんだよォ。あ、あんたを殺せって言われたんだァ」
「私を、殺せと?」
水葉の表情が疑問に険しくなる。
「そ、そうだよォ。邪神の件に関わった人間、みんな殺せって……」
「なんですって? なぜ?」
「それは、あの教会の……聖……げええっ!?」
そこまで言ったアルヴァロが、突然、血を吐いた。
「あ、あの方が、あの方が怒ってるよォォォ……げっ!? げぶっ!? ば、バルヴェ……さ、ま……ぐげぶうっ!!」
一際大きな吐血とともに、アルヴァロの姿が、一瞬にして灰となった。
「……呪い、だな。こりゃァ」
囁くように、アンセムが残った灰を見て言う。
「特定の物事をしゃべろうとしたら、発動するようになってやがったんだ。全部ぶちまけられる前に、始末できるように仕組まれてたっつーこった。半分、捨て駒だったんだな、こいつぁーよ。お気の毒さま」
「しかし……少しは黒幕のことがわかった。目的は……邪神の件に関わったものの、排除。……紅香が狙われているのも……恐らく。でも、なぜあの件に関わったものを……?」
そこまで考え、水葉は顔を上げる。そこには、かつての聖人を祭ったという、教会がある。
「アルヴァロが最後に言った言葉……そのこと?」
再び、水葉は教会に足を踏み入れる。先ほどは戦いのために詳しく調べることができなかった教会の内部を調べるためだ。
まずは、聖人が使ったとされる剣……。
「……これは?」
それは、見覚えのあるものだった。反射的に、水葉は顔を上げる。そこには、この教会に祭られている聖人の像が、朽ちることなく、今でも残っていた。
「おい、お嬢……こいつァ……」
珍しくあっけにとられた様子のアンセムに、水葉がうなずく。
「……ええ……。急いで行く必要があるようね……」
踵を返し、水葉は教会の外へと向かう。
「……日本、前崎市……あの子のところへ」
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