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滑稽

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 彼の帰りをずっと待っていたし、会って話をしたいとも考えていたが、何もこのような惨めな再会は望んでいなかった。複数の視線から隠れるように身体を縮こまらせ、きつく目を閉じたナオトの頬に溢れた涙が伝う。
 室内は異様な雰囲気に包まれていた。呪文のように何事かを呟きながら壁際で膝を抱える女と、廊下に倒れ込んだまま年甲斐もなく泣きじゃくるその息子、そしてそんな二人を笑いながら見る男と、玄関から遠巻きに見下ろす来訪者の戌亥と他数名。
 何故この人がこんなところにいるのだろうか。ナオトを脅迫するために、ここまで押し掛けてきたのだろうか? 理由はわからないが、本来であれば隠すべき家庭の事情を他人に、――戌亥に見られてしまった。一番見られたくなかったのに。
 惨めだ、ひどく惨めだった。このような惨めな姿を見られてしまったことが恥ずかしくて堪らなかった。どうして、何故、彼はここに居るのか。戸惑うナオトの疑問に答えるように、戌亥がゆっくりと口を開く。

「――……で、約束の金は?」

 異様な空気をものともしない、淡々とした声が廊下に響いた。同時に煙草の煙を吐いたのか、懐かしい香りが廊下に充満する。その香りに釣られてそろりと見上げると、険しい顔をした戌亥の傍らに佇む横井に気付いた。彼らは何故か似たような表情で一点を睨んでいる。
 その視線の先にそっと目を向けると、どうしてか湯木が引き攣った笑みを浮かべていた。知り合いなのだろうか。覚束ない頭で考えても答えは出ない。

「そう急かさないでくださいよ、戌亥さん。ここにちゃんとありますから」
「俺たちは既に充分過ぎるほど待った。そうだろ、湯木」

 ぼんやりと彼らのやり取りを聞きながら、ずびと鼻を啜る。
 どことなく違和感のある会話だと思った。戌亥と湯木が知り合いなのは確定だろうが、内容を聞いているとただの知り合いではない気がする。自尊心の高い湯木が、見るからに年下の戌亥に敬語を使っているのもおかしい。服で涙を拭い、状況を理解するために会話内容を思い出す。確か戌亥は、湯木に対して約束がどうのと口にしていた。
 約束、金、充分すぎるほど待ったという言葉を頭に浮かべ、――やがて息を飲む。目が覚めたような感覚だ。湯木は借金があると言っていた。そして戌亥は金融業にも精通している。とは言っても闇金で、例を漏れず悪質業者であることはナオトとて察しが付いていた。
 つまり彼らのやり取りから想像するに、湯木はそんな相手から金を借りていたのだ。

「だから金ならありますって。ただ……電動ドリルとか鋸はお持ちじゃないですか? 仕舞ってある引き出しに、間違って鍵が掛かっちまって」

 理解すると同時に血の気が引く。今これは、一体何の話をしているのか? 家主を無視して話すようなことではない。湯木は、ナオトがわざわざ鍵を掛けたあの引き出しを、無理矢理にでもこじ開ける気でいるのだ。この家には湯木のものなど何一つないというのに。
 不合理な湯木の言い分に、これ以上は黙っていられないと気持ちを奮い立たせて上半身を起こす。そんなときだ。

「話が違えな。金が用意できたと、おまえがそう言ったから俺たちはここに来たんだ。さっさと寄越せ」
「……わかりましたよ。ただ鍵をこじ開けるのにちょっと時間が必要なんでね。その間はこいつらで勘弁してくれませんか」

 苛立つ戌亥を他所に、へらへらと笑い続ける湯木が乱暴に母の髪を掴んだ。耳を劈くような悲鳴と、嗚咽混じりに許しを請う声が狭い廊下に響き渡る。ナオトはその言葉と行動の意図がわからず、目の前で繰り広げられる残忍な光景を、ただ呆然と眺めているだけだった。
 だってこの男は、――湯木は、何をどうすると言ったのか。

「家のものも好きにしてもらって構わないんで。この女は年増ですが締まりがいい、使えると思います」
「担保のつもりか」
「ええそうです、話がわかる人で助かるよ。そしてあいつは男だが、若い上に顔がいい。俺は趣味じゃないが、このご時世、好き者には売れるでしょ。少しばかり分け前はいただきたいですけどね、こいつらで稼いだ金は利子とでも思って受け取ってください」

 次いで湯木の目がナオトへと向けられる。その悪びれもしない態度に怒りで唇が戦慄いた。
 この男は自分の借金の形に、何の関係もないナオトと母を売ろうとしているのだ。これほどにまで恐ろしいことを言い出すとは考えもしなかった。父の遺産を充てにするだけではなく、母の愚行とも言える今までの献身を無碍にするなんて。やはり騙されていたのだ。愛情に飢えていた母はさぞかし良い鴨だったことだろう。だと言うのに、そんな現実を突き付けられても、母は湯木に縋り付くことを辞めようとしない。
 非現実的だ、まるで異星人同士のやり取りを見ているようだった。頭が考えることを放棄しつつある。

「……そうか。なら、そうするしかねえな」

 現実逃避を始めるナオトの視界の隅で、戌亥が煙を吐いた。傍らに立っていた横井が、おそらく携帯灰皿を乗せた手を差し出す。一瞥もせずそこへ煙草を押し付けると、まるでその行動が合図であるかのように、土間に留まっていた複数の男が家の中へと入ってくる。瞬間、ナオトの身体が緊張で強張った。
 警戒するナオトを無視して、彼らは土足であちこち行ったり来たりしては、かろうじて残されていた金目の物を手に戻ってくる。家の中を物色しているのだ。躊躇なく引っ掻き回され、荒らされていく室内にナオトは言葉を失った。仮初めの平穏が崩れていくようで、その光景から目を逸らせない。
 最早間に入って止める気さえ起こらないくらいだ。わざわざ波風を立て、戌亥の機嫌をこれ以上損ねたくない。

「……なんで?」

 密かに状況を窺うナオトの耳に、か細い母の声が響いた。
 冷静さを取り戻したのか、それとも漸く現実を受け入れたのか、母は目を見開いて湯木を見上げている。そんな母を、湯木は冷めた目で見下ろしていた。

「なんでよ、どうして? 私と一緒になるって言ってくれたじゃない!」

 懲りもせず柚木に縋り付く彼女の表情からは、狂気さえ感じる。

「……あ、ああそうね。なおと……なおとね、あの子のせいでしょ? そうなんでしょ!? あの子は追い出すから、大丈夫よ。そうすればこの家に私たち二人で暮らせる。ずっとそう言ってるのに」

 何でもないことのように続けられた言葉に、今度こそナオトの目の前が真っ暗になった。耳の奥で鼓動が聞こえ、呼吸がしづらく息苦しい。
 鬼気迫る母の表情と言動に動揺を抑えきれないまま、視線を彷徨わせればこちらを見やる目に気付いた。戌亥だ。何の感情も読めない瞳の色に気まずさを覚え、思わず目を逸らす。他人に見られたくない部分に限って、戌亥に見られている気がする。一緒にいた頃はもっと恥ずかしい姿を晒したこともあるのに、どうしてか心の奥底の恥部を曝してしまったようで、やるせない恥ずかしさがあった。
 これ以上惨めな姿を見られたくないと俯くも、残念ながらその願いは誰にも届かない。

「はー……わかんねえかな。自由になる金はない、遺産も動かせないときた。自分に価値があると思ってんの? 用済みなんだよババア」
「だ、……だったら! 私、わたしがあの通帳のカードを持ってるの! だから、ね? お金ならすぐにでも―――」
「……はあ?」

 素っ気ない態度に焦ったのか、そう口走った母に湯木の声色が低くなった。
 確かに通帳と印鑑は鍵の掛かっている引き出しの中だが、カード自体は母が所持したままだ。あの日、室内にカメラを設置したのも引き出しに鍵を掛けたのも、言ってしまえばナオトの思い付きだった。一応カードの存在には気付いていたが、何の策も練らなかったのは、もしものとき母が生活に困らないようにと考えてのことだ。あのように湯木に貢がせるためじゃない。
 付け加えて、現状を打開するための解決策として提示したのであれば、とんでもない悪手だ。母は交渉相手を見誤った。

「何言ってんだおまえ、無駄な労力使わせんなっつったよな!?」
「ご、ごめんなさい。だけど、だけど……!」
「ごめんじゃねえだろ!? あんならさっさと出せよ! ほんっとに使えねえなてめえは!」
「わかってる、すぐに……だけど、……一緒になってくれるのよね? ね!? そうじゃないと」

 交渉するなら湯木ではなく、背後の戌亥たちに持ち掛けるべきだ。終始湯木はナオトたちを見下していて、家の中のものもすべて自分のものだと考えているが、第三者の戌亥たちはそうではない。彼らからしてみれば、問題の金が回収できさえすればいいはずだ。だから彼らは現状、ナオトたちを助けることもなければ手を上げることもない。静観しているのだ。結果的に不足分の金が返ってくるならば、過程は何だっていいのだろう。
 でも、やはりというか、残念ながら湯木はそうではない。

「――っとにしつけえんだよババア! 鬱陶しいなてめえはッ!」
「母さん……!」

 縋り付く母を振り払い、悲鳴を上げながら倒れ込んだ彼女の腹部を、湯木が苛立ったように蹴り飛ばす。何度も何度も繰り返されるその光景に、ナオトは弾かれるようにして立ち上がった。動く度に暴行を受けた場所がずきずきと痛むが、気にしてなどいられない。
 湯木を止めるべくその身体に体当たりして、羽交い締めにしようと脇下へ両腕を通す。暴れる湯木に必死でしがみつき、母から引き離そうと試みるも微動だにしない。

「母さん、逃げて! 母さん!」

 声を荒げて逃げるように促すも、母は力を失ったように座り込んだままだった。湯木から暴力を受けすぎて、少しも動けないほど身体が痛むのかもしれない。そう思い立ち、ナオトの気が逸れた直後だった。

「うるせえんだよおまえも! この……ッマザコン野郎が!」
「ぃ……ッ」

 ナオトの頬に何かが、――湯木の肘が勢いよくぶつけられた。突如襲った激痛に怯み、湯木への拘束が緩む。その瞬間を見逃さずナオトの腕を振り払い、息つく間もなく腹を蹴り飛ばされ、呆気なく廊下に倒れ込んだ。
 蹴られた場所も、倒れたことで打ち付けた箇所も、とんでもなく痛い。朦朧とする意識の中、母の居場所を探ろうと視線を巡らせれば、恐怖で肩を震わせる母の髪を湯木が掴んで引き摺っている姿が見える。助けを求めようと周囲を見るも、誰も彼もが慈悲のない冷めた目をしていた。戌亥でさえ興味がなさそうに、残忍な光景をただ眺めているだけだ。
 これではだめだと思った。このままでは母が連れて行かれる。止めなければいけない。そう思って、痛む身体に鞭打って廊下を這う。向かう場所はナオトの部屋だ。そんな惨めで愚かしい姿を見る視線には気付いていたが、気付かぬふりをする。彼らはここへ仕事できているのだ。ナオトの事情なぞどうでもいい。助けてもらおうなど烏滸がましいのだ。ふらつきながら立ち上がって、殆どからになった室内を見渡し、リビングチェストへと手を伸ばす。
 この部屋からは殆どのものが持ち出されてしまったが、残されているものもあった。父が生前、会社で表彰された際に授与された、ちゃちな作りのトロフィーだ。他人から見れば価値のない置物でも、ナオトからすればそうではない。思ったよりも土台がずしりと重いそれを手に取って、強く握り直す。浅い呼吸を繰り返しながら、ふらふらとした足取りで、徐々に速度を上げながら歩き出し廊下へと戻る。今この瞬間、母を助けられるのは、自分しかいないのだ。
 だから、だから――。

「――母さんから、……母さんから離れろっ!」

 手に持ったトロフィーの土台部分を、男の後頭部目掛けて振り下ろす。驚いたような戌亥の目がナオトの横顔を貫いていた。
 鈍い音がした後、湯木が短い悲鳴を上げる。頭を抑えながらよろめき蹲る姿を、ナオトは肩で息をしながら見下ろしていた。見る限り、男は頭から血を流しているだけで致命傷には至っていないようだ。何せ男はまだ生きている。
 騒然となった室内に状況を飲み込めたのか、母の大きな悲鳴が上がった。それを聞いて我に返り、手に持っていたトロフィーを投げ捨て、怯えるように震えている母の腕を掴む。せめてこの場から母を連れ出そうと思ったのだ。

「ちくしょう、てめぇ……クソガキ、ナメた真似しやがって……っ!」

 しかし思ったよりも早く、湯木が立ち上がってしまった。その表情は凶悪そのもので、額から血を流しながらナオトたちを睨み付けている。ナオトは母を背に庇うように立ち塞がるも、無視できない圧迫感にじりじりと壁側に後退した。
 男は酷く激高した様子で何かを喚き散らし、薄汚れたデニムのポケットへと手を突っ込んだ。そうして引き抜かれた手には鈍く光る何が握られている。緊張からごくりと喉を鳴らし、湯木の手元を凝視するとそれは、――折り畳み式のナイフだった。形状を理解すると同時に、湯木がナオト目掛けて走り出す。

「俺の邪魔してんじゃねえよマザコン野郎!」
「……ナオト!」

 そうすると何が起きるかなんて、想像できないほど馬鹿ではない。足が竦んでしまったのか、母は立ち上がろうともしなかった。ナオトがここから逃げれば、きっと母が大怪我を負うことになる。最後の最後まで母を見捨てられないのだから、湯木の言う通りナオトはマザコンなのかもしれない。
 恐怖に顔を引き攣らせながら、来たるべき痛みに備え目を瞑る。しかしながらいくら待っても、その衝撃は襲って来なかった。強張った身体を必死で宥めながら、そっと目を開く。

「なんで……?」

 目に映ったのは大きな背中だ。その肩越しに見える湯木は唖然としており、やがて状況を把握したのか徐々に顔色を悪くし、逃げるようにゆっくりと後退している。
 これが誰か、などと考えるまでもない。――戌亥だ。戌亥がナオトを庇ってくれたのだ。信じられない光景に、思わず声が震えた。

「なんで……っ」

 唇が戦慄く。戌亥は振り返りもせず、湯木を見やったまま僅かに身動いだ。だらりと力なく垂れたその手は赤く、同様に真っ赤に染まったナイフが握られている。傷口から無理に引き抜いたのだろう、足元に多くの血が滴った。
 戌亥はおそらく腹部を刺されたようだが、本来であればナオトがそうなるはずだった。ナオトが刺されようが戌亥には関係ない。そのはずだ。現状が理解できないナオトは疑問を口にするが、目の前の背中は返答してくれることはない。そうすると余計に疑問が増える一方だ。
 一般人を助けたところで意味はないのに、どうしてなのかと。

「は……? なんで、なんでだよ戌亥さん。なんでそんなやつ、あんたが庇って……!」

 それは湯木も同じだったらしい。まさか戌亥が間に入ってくるとは思いもしなかったのだろう。ナオトと同じ疑問を口にしている。だがやはり、戌亥は答えない。その代わりに、手に持ったナイフを握り直し、そのまま――腕を押し込むように勢いよく動かした。

「え……? いぬ、いさ」
「うるせえんだよおまえ」

 怯えきったような湯木のか細い声は、冷淡にも戌亥にばっさりと切り捨てられる。助けを求めるように血走った目がナオトを見たが、手出しすることなんてできなかった。尋常じゃない光景に足が竦んだのだ。
 不意に戌亥がつまらなさげに息を吐くと、もう一度腕を前後に動かし、湯木へとナイフを突き立てる。苦痛に悶える悲鳴が上がり、やがて湯木は目を見開いて血を吐くと、膝から力なく倒れ込んだ。痛みが限界に来たのか、それとも迫り上がる血液に呼吸困難になったのかはわからない。生死さえ不明だった。それでも戌亥はやめようとしない。その身体の上に腰を降ろし、ナイフを掴み引き抜いては、何度も何度も腕を振り下ろしている。まるで壊れた機械だ。
 暫くその様子を呆然と眺めていたナオトだったが、目が覚めたように目の前の戌亥の腕を掴む。

「も、もういい。死んじゃうよ……!」
「もう死んでる」

 焦ったように漸く止めに入るも、淡々と返された言葉に絶句してしまう。
 湯木が死んだ? だったら、そうなるとどうなるのか。母は、ナオトは、――戌亥は?

「どっ、どうしよう。戌亥さん、戌亥さんが人殺しになっちゃう……」

 考えるよりも早く口が動く。妙に冷や汗が止まらない。これだけナオトが焦っているというのに、立ち上がった戌亥は至って冷静で、普通だった。だらだらと血を流す腹部と、血飛沫を浴びた身体以外は、だ。
 先程戌亥の本当の姿を見たばかりだというのに、気に掛かるのは戌亥のことばかりだった。恐怖より遙かに大きな焦燥が募る。
 早急に彼を、生々しいほどに惨劇の痕跡が残るこの場から逃がさなければならない。異常を感じた隣人たちが警察を呼んでいないとも限らないのだ。何者かがここへ駆け付けるよりも早く、速く、はやく――。

「だってこんなの、だって……に……――逃げないと!」
「はあ? ……気色悪いこと言うなよ」
「はやく!」
「はやくって」

 ――馬鹿言うなよ、と続くはずだった戌亥の言葉は、必死な形相で血塗れの腕を引っ張るナオトの姿に飲み込まれることとなった。その代わり、目配せするように横井を見やる。
 そんな彼らに気付くことなく、ナオトはただ必死に走った。この家を出たところでやはり行く当てもなく、この浅はかな行動がどのような結果をもたらすかなんてことも知らない。とにかくここから戌亥を逃がさなければならないという一心だった。その思いだけで、今まで大事に抱え込んでいたものすべてを投げ出したのだ。
 泡沫のような、ままごとに似た安っぽい逃避行だった。

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