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戸惑

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 緊張して眠れない夜を過ごしてからというもの、どうしてか毎日の平穏が脅かされつつあった。戌亥が気紛れにこの部屋にやって来るようになったのだ。
 否、元々は彼が契約している部屋なのだから、帰って来ると言った方が正しい。何もおかしいことはない、だがそれでもナオトとしては気が気ではなかった。捕食者と被食者の関係とでも言おうか、強者が傍に居るだけで弱者は疲弊してしまう。
 更には、ナオトを見るなり怪訝な顔でお決まりの台詞を吐くのだから困ったものだ。

「飯は?」

 ――出た。顔を見るなりそれだ。丁寧に言えば「今日は何を食べましたか?」である。
 そこでナオトはちょっと嫌な顔をしてしまうのだが、戌亥に気付かれてしまわないかいつも心配だった。寧ろ気付かれても構わないとすら考えている。顔を合わせる度にこの問答を繰り返しているのだ、応対するのが面倒臭くなってしまうのも当然ではないか。
 しかしながら一つ言っておきたいのは、何も彼は自分の分の夕飯を用意しろと横柄な言い分を振り翳しているわけではない、ということだ。

「今日は、カレーを……」
「またレトルトか。少しくらい自炊しろ」

 顔を合わせる度に彼が小言のように繰り返すのは、どうもナオトの食生活に原因があるらしい。ナオトが毎日コンビニの弁当やレトルト、インスタントに冷凍食品で済ましていると戌亥が知ってからと言うもの、日に日に小言が増えている。ような気がする。
 節約、延いては将来のためにも、戌亥の言う通りに自炊した方が良いのだろうとは思う。わかってはいるものの、それでも毎回曖昧な笑みを浮かべるだけで、適当な用事を作り出し逃げるように戌亥の目の前から去ることが多かった。
 今だってそうだ。このリビングから逃げ出したいが、退路を塞がれているためどうしようもない。

「……ご飯くらいは炊けます」
「米を洗剤で洗うような馬鹿じゃないってわけだ。つまりできないわけじゃない、なのに何でしねえんだか……」

 溜息と共に吐き出された言葉に視線を落とす。机の上のノートには最早何を書いていたのかわからないミミズがいくつも這い回っていた。
 戌亥との力関係を考慮すればわかることだが、反論するつもりは毛ほどもない。だがはっきり言ってナオトはやりたくないのである。だって自炊なんて始めてしまったら、帰ってくるのを待ってしまうじゃないか。誰かが来るのを期待してしまう。作り置きだとか、一人分も二人分も作るなら一緒だなんて言い訳して、来ないかもしれない人をずっと待って一喜一憂しているあの母親ひとと同じになってしまう。
 利用され、搾取されているだけだとわかっていながら待っているだけの滑稽な人生なんて、そんなのは嫌だった。

「まあいい。……寝る」
「は、はい」
「ナオト」
「はい」
「勉強ばっかしてねえで、おまえも寝ろ」

 ――嫌だったのに、どうしても揺らいでしまう自分がいるのだ。今だって抗えず、怖ず怖ずとテレビを消し、教科書やノートを閉じていれば、机の上をきちんと片付ける間もなくリビングの電気が消される。暗に急かされているのを感じ、急いで立ち上がれば戌亥が漸く寝室へと歩き出した。
 その背を見て、どうしてこうなってしまったのかと必死に考える。勉強しろと言ったり勉強ばかりするなと言ったり矛盾ばかりだが、戌亥の理不尽な言動は今に始まったことではない。だが今の状況は、共に寝室へと入りベッドに潜り込む現状は、考えれば考えるほどわからなかった。
 どうもあの日からおかしくなってしまった。戌亥はこの部屋に帰ってくると、ナオトの食生活を確認した後、睡眠を取ろうとする。彼の部屋なのだからいつどこで寝ようが勝手なのだが、ただその際いつもナオトを傍に置きたがった。ナオトが何かしていればそれが終わるまで待つし、待てなければ今日のように催促される。最初はよくわからなかったが、二日三日と続けば嫌でも気付くものだ。ついに例の研修が始まるのだなと覚悟したものだが、始まる気配は微塵もない。
 ただ穏やかな時間が流れていく。人肌の温もりと感触、そして香りに安心感を覚えつつある。戌亥が傍に居ても恐怖はなく、それどころか一人で迎える朝が寂しいと感じ始めている。これではだめだと思った。

「――案外、戌亥さんと上手くやれているようだな」

 そんなある日のバイトからの帰りのことだ。偶然会った横井に車に乗せて貰ったとき、バックミラー越しにそう言われ返す言葉に迷ってしまった。
 上手くとは、いったいどういうことだろうか。波風立てず、何事もなく穏便に過ごせているという意味であれば、何となくはやり過ごせている。戌亥も特にナオトを脅すような真似はしないし、暴力を振るったりもしない。一目で相手を萎縮させてしまうような、張り詰めた緊張感を持たせるあの風貌に似合わず、自炊だの睡眠だのと小うるさいだけだ。
 だから最近は少々勘違いしそうになる。当然のようにぬるま湯に浸りきってしまっていて、感覚が麻痺しつつあるのだろう。

「深酒が多くてちょっと心配してたんだ。あの人まともに寝てなそうだったし、ここ最近は特に怪我も多かったからな」
「そう、ですね……」
「罰みたいなものだ。上司の命令に逆らうのも初めてじゃない……痛みを誤魔化すために飲んだんだろう。病院とか嫌いな人なんだ」
「逆らうって、な、なんで」
「……さあな」

 戌亥の怪我の原因が気になって問えば、素っ気なく濁されたものの、その対応こそが真っ当だとも思う。だって彼らとの適切な距離は、近しいものではない。本当はもっと遠いはずなのだ。本来であればこのようにして、親しげに会話するなど考えられないはずなのに。

「ただおまえのいる……あのマンションに行くようになって、多少はマシになったように思う。機嫌もそこまで悪くなさそうだし、顔色も良い。……ほんと、漸く踏ん切りが付いたんだな」

 そこで横井は言葉を選ぶように口を閉じた。本来の横井は無口な人だ。喋りすぎたと考えたのかもしれない。
 彼らの事情なんて何も知らないナオトは、曰く付きのマンションなのかと内心首を傾げる。

「何か……?」
「あの部屋、弟さんのために用意したらしいんだが、何もないだろ。……まあそもそも、肝心の住む人がもういないんじゃな」

 そうして続けられた言葉に、冷えた水をびしゃりと浴びせられたような、何とも言えない衝撃を受けたのは確かだった。現に会話を続ける気力もなくなり、その後はただ相槌を打つだけの機械と化している。
 どこかで変だと思っていた。ナオトという存在は突如として湧き出た異分子のはずなのに、まるで準備してあったかのようにあの部屋が与えられたのだ。戸惑わないはずがない。ただこれが元々は別の誰かのために用意されたものだと言うのなら納得だ。家具は最低限置かれており、僅かだが隠し切れない生活感がある。でも実際は、住む予定だった人物はあの部屋が必要なくなった、だからその人は使用していない。これが何を意味するか。
 ナオトは戌亥のことをよく知らないため、彼の感情を推し量ることなどできない。横井のように事情を知る同じ職場の人間でもなければ、理解者たる友人でもなかった。況してや、相手の深層にずかずかと踏み込んでも許されるような間柄でもない。
 自分たちは対等な立場ではないのだ。それを今一度、――否。より一層、理解しなければならなかった。




















 コンビニで買った弁当の袋を下げて部屋の扉を開ければ、黒革の靴が目に入って思わず硬直した。ナオトが仕事の日は偶にこういう日があるのだが、この光景には未だに慣れない。
 まるで動く生き物であるかのようにその靴を凝視しながらスニーカーを脱ぎ、音を立てないように扉を閉め、廊下を進む。リビングの灯りは付いているが、生活音が一切ないせいでとてつもなく緊張する。もし彼がソファで寝ていたらと思うと気が気ではない。
 奇妙な共同生活を送るようになって気付いた。戌亥は睡眠を邪魔されるのが一番きらいなのだ。

「……誰もいない」

 緊張しながらリビングを覗き込み、その姿が見えないことに何だか拍子抜けする。机の上に買ってきたコンビニの袋を置いて、ソファに鞄を降ろしながら、では寝室の方に居るのだろうかと踵を返した。

「――遅え」
「うわっ! ……ッくりした」

 そうすれば視線の先に探していた姿があるのだから、驚かない方がおかしい。そんなナオトを見て怪訝な表情を見せたが、元より声色が不機嫌そのものだった。こちらを見る視線も射るようで、思わず怯えたように目を逸らしてしまう。
 目元にあった痣が薄くなってきたためか、最近眼鏡をしなくなった戌亥の視線が妙に鋭いのだ。いつも観察されているような気分になる。品定めをされているような気になって、身体に緊張が走る。たかが硝子一枚、然れど硝子一枚だ。眼鏡があるのとないのとでは、これほどにまで自分の心の持ちようが違うかと驚いたくらいだった。
 今だって目が合わせられないまま、視線が床の上をうろうろと彷徨っている。いや、これはいつものことかもしれない。

「きょ、今日はバイトの日で」
「バイト。ああ……まだあれやってんのか」

 汗の滲んだ掌を誤魔化すようにシャツを握って答えれば、呆れたように冷たく返され顔を上げる。眉間に皺を寄せた戌亥は髪を乱暴に掻き乱すと、ナオトを睨むように見た。それだけで萎縮するが、逃げるわけにはいかない。
 今いったい何を言われているのか、そして何を責められようとしているのか。何もかもがわからないからだ。

「おまえ、店にいてもどうせ役に立たねえんだから、もう辞めればいい」
「え……」
「そうすれば大好きな勉強とやらに集中できるだろ」
「で、でも」

 戌亥はどうも、ナオトが夜間に仕事へ行っていることが気に食わないようだ。このような不満げで直接的な物言いは初めてだったが、薄々とは感じていた。主に彼が先にこの部屋にいて、後からナオトが帰る日、――仕事がある日は特に顕著だった。今のように決まって不機嫌になってしまうのだが、ナオトにはその理由がわからない。
 だって戌亥から紹介された受付業務の仕事だ。だからこそありがたいことにシフトの融通が利くし、何より夜間だから給料も高い。そうして渡される給料の殆どを貯金に回している。

「つうか続ける意味、何かあんの?」

 冷たく言い放たれ他言葉が胸に突き刺さった。何だか自分の存在を否定されたような気分に陥る。
 居ても居なくても変わらない、続けても時間の無駄。足手纏いであることは自分でもわかっている。なら続ける意味があるのか、それは何故か? そんなもの、聞かれるまでもない。

「自立するためです」
「は……?」
「もう部屋も見付けました。……はやく、ここを、出ようと思って」

 ――嘘だ。部屋なんか見付かっていない、行く当てなんかないままだ。ただ一刻も早くここを出て行かなければ、戌亥の傍を離れなければ、辿る末路は自分自身が最も忌避していたものになる。そう思ったら口が止まらなかった。
 大学に友達と呼べるような人もいないナオトにとって、誰かと接する場所は仕事先かこの部屋しかない。それなのに仕事先を奪われてしまっては、誰かと接する機会がなくなってしまう。そうなるといずれ戌亥に依存し、傾倒するようになる。いつの間にか彼がナオトのすべてになるのだ。
 帰らない彼を待って、気紛れの来訪に心を躍らせる。与えられる言葉だけを享受し、求められるままに何もかも差し出して、平穏とは程遠い日々を過ごす。なんて馬鹿馬鹿しい、滑稽にも程がある。
 まさに母と湯木の関係ではないか。

「ここを出る……?」
「だって、お、おれ……いつまでここに居ればいい? 最初は助かったと思ったけど、でも……いつ解放されるんだよ? お金だって渡した! それでもあの動画は消してくれない!」
「それは」
「何をしたら自由になれる? このままずっとここで過ごして、一生言いなりになれってこと? 家族でもないのに」

 いつまでもここには居られない。本当はすぐにでも出て行くべきだ、わかり切った結論なのにこの部屋に帰ってきてしまう。
 ナオトは彼らに弱味を握られており、間接的に脅されている。そんな彼らから逃げたらどうなるかわからない、恐怖故に動き出せないというのも事実だ。でもそれ以上に出て行きたくないと思う自分がいる。今以上に遅い時間に帰ったら、もしくは一日経っても帰らなかったら、彼は怒るのか? それとも呆れる? 想像も付かないからこそ、もっと知りたいと思ってしまった。厄介な人ではあるが、ナオトの行動にどういう反応をするのか気になってしまう。そして彼が何を考え、ナオトに何を求めるのかも。
 結局、彼の来訪を待ち侘びているのだ。一緒に食事をし、たわいもない会話をして、共に眠る。まるで「特別」にでもなったかのようだ。馬鹿馬鹿しい妄想である。彼は気紛れで、約束なんてものもしない。では、今日は会えても、明日は? 明後日は? 来なくなったときナオトはどうするのか。わからない。わかりたくない。そんなことを考える自分が恐ろしくて堪らない。こんなこと知りたくなかった。

「……動画が撮れたら満足する?」
「ナオト」
「だったらさっさと撮れよ! も、それで、終わりに――ッ」

 勢いに任せて喚き散らしていると、突如として左頬に衝撃が走る。驚きの余り口を閉じ、黙り込んで恐る恐る頬に触れてみれば、じわじわと痛みが広がった。
 叩かれたのだ。理解すると同時に目が覚め唇が戦慄いた。正気に戻ったというのかもしれない。妙に冷静な自分が、今の状況を俯瞰的に見ている。目の前の男は冷めた目でナオトを見下ろしていた。余計なことを言ったと青褪め、後悔してももう遅い。

「黙れ」

 期待外れだと言いたげな声色に怖じ気付き、震えながら一歩後退すれば腕を掴まれる。
 うまく息が出来ない。この状況には憶えがあった。経験したことのある恐怖が記憶の海の底から溢れ出し、緊張から身体が強張る。何せナオトは、この後に続くであろう言葉を知っている。

「おまえがそれほどハメ撮り好きとは知らなかった。悪かったよ」

 強い力で引っ張られ、バランスを崩したナオトは近くのソファに倒れ込んだ。見上げた先の彼の瞳は、相も変わらず冷え切ったままだ。その鋭さの中に、相手への気遣いなんて一切感じ取れない。
 当然だ、元からナオトと戌亥の間にそんなものは必要ない。彼は捕食者で、ナオトは単なる被食者だ。意見など受け入れてもらえるはずもなく、そもそも言える立場でもなかった。忘れていたわけではない。ただ共に過ごした穏やかな日々に、もしかして傍に居ることを許してもらえたのではないかと、少し愚かな勘違いをしていただけだ。
 隣に居てもいいのだと、ここがナオトの居場所であると、思い違いも甚だしい。この部屋は別の誰かのために用意されたもので、彼がここに来るのもナオトに用があってのことではないのだ。監視のためだ。つまり仕事である。

「服を脱いで股開け。お望み通りやってやる」

 投げ掛けられた言葉が鋭利な刃となって、再度心臓に突き刺さる。癇癪を起こした子供の相手をするのが面倒臭いのだろう。腹の底から吐き出されたような深い溜息がその証拠だ。
 だがナオトは傷付くどころか少し安堵した。だってひどくされた方が、よっぽど良い。自分が彼にとってどれほど無価値で、どうでもいい存在なのか、より強く思い知れるから。

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