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錯乱※
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怒らせた。苛立たせてしまった。空気が重く、射るような視線がナオトの脳天を突いている。――逃げなければ。
ここからどうにかして逃げなければいけない。怯えながらもそう思った。ナオト自身が招いた現状であるのに、その事実を忘れ去って戌亥の隙を窺う。ナオトの視線は戌亥が立ち塞がる向こう側の、入り口を捕らえていた。
戌亥の足元を這うようにして摺り抜け、走り出そうとした瞬間に、しかしながら呆気なく二の腕を掴まれる。
「……っぃ」
「ナオト」
そのまま乱暴に勢いよく壁へと押し付けられたせいで顔や身体を強打し、あまりの痛みに表情が歪む。当然のことながら、そううまく事が運ぶはずがないのだ。
苛立ちを隠そうとしない戌亥は大きな舌打ちをしてから、ナオトの左腕を背中に回し腕を曲げた状態で左手を拘束された。抵抗を試みたものの、前方には壁があり後方には戌亥がいる。その上、がっちりと固定された腕や圧迫され続けている肋骨が軋むように痛み、呆気なく心が折れた。従順であれば苦痛が少しばかり和らぐと気付いたのだ。
ただ恐怖は時が経つごとに増している。
「同じことを二度言わせんな」
衝動的な怒りでも抑えるように、ナオトの目の前の壁に戌亥が右手を突いた。まるで殴るような行動に言い知れぬ威圧感を抱き、緊張で身体が強張る。
逃げ場がない。視線をあちこちに彷徨わせるも、どこにもない。唇が戦慄いた。
「おまえがやるって言ったんだ。なあ、……そうだろ?」
耳元でそう言われ、思わず目を瞑り、必死に頷く。その拍子に溜まっていた涙が零れ落ち、頬を濡らすが拭うような真似はできなかった。だってこれ以上時間を取らせて、彼を怒らせるべきではない。何をすべきなのかは明白だ。戌亥はナオトに向けて、同じことを二度は言わないと警告している。であるならば、ナオトが今すべきことは一つだ。
恐怖に耐えながら、戌亥の命に従ってシャツの釦を外す。震える指はうまく動かず、一つ外すのも時間が掛かる。しかも片手を封じられているため動きにくい。それでも必死に釦を外し終え、次いでベルトへと手を伸ばす。シャツを脱がなかったのはどうせ拘束されているため脱ぎようがなかったし、下に肌着としてTシャツを着ていたので、どうすべきか聞くのも憚られたため後に回そうと考えた。
よって別に、戌亥に対し反抗心を抱いていたわけではないのだ。確かに羞恥から脱ぎたくないとは多少なりとも考えたものの、逆らう意思はナオトにはなかった。
「おい、もたもたすんな。時間内に収まんねえだろ」
だというのに背後の戌亥が急かすようにナオトの太腿を膝で軽く蹴るものだから、焦って仕方がない。だいたいそんなことを言ったって、片手でベルトを外すのは難しいのだ。ナオトとて時間を掛けたくて掛けているわけではない。戌亥がこのようにプレッシャーを掛けるから尚のことだろう。
それでも必死にもがき続け、漸くベルトを外すことに成功する。次いで緊張しながらジッパーを降ろすと、その拍子にベルトの重みでデニムが太腿までずり落ちた。今のナオトにも、そこまで一気に脱ぐ度胸はさすがにない。驚き、慌ててデニムを掴み上げようとすれば、その手が強い力で弾かれる。
何か、と見れば戌亥の手だ。ナオトの左腕は未だ彼に拘束されたままなので、壁に突いていた右手を離したのだろう。意図がわからずその行方を凝視していれば、戌亥の手が徐ろに動き、信じられないことにシャツの中へと滑り込んだ。
「……え、えっ?」
荒い呼吸のせいで慌ただしく動く腹の上を、戌亥の冷たい指先がするりと這う。
瞬間、身体中に更なる緊張が走った。戌亥が何を考えているのか、または何をしようとしているのか、まったく以て想像が付かない。シャツが戌亥の手元を隠しているせいで行動の予測ができないのだ。
どうしようもない不安に駆られ、真意を問うべく背後を振り返ろうとすれば、下腹部に訪れた刺激に目を見開いた。ぎしりと、行き場を失っていたナオトの右手が硬直する。
「あっ! え。……えっ、なに!?」
「うるせえな、黙ってろ。……んだこれボクサー? 色気のねえ下着だな」
不躾に、無遠慮に、大きな手で鷲掴みにされている。下着越しとは言え、性器をだ。他人の手が触れる違和感に思わず肩が跳ね、その相手が戌亥であるということに内心縮み上がる。例え二度目だからといってこんなもの慣れるはずがない。
予想だにしなかった出来事にナオトは逃げようと藻掻くが、相変わらず前方は壁で背後には戌亥がおり、尚且つ拘束されたままだ。抵抗は無意味に終わり、その間も戌亥の手はナオトの性器の輪郭を確かめるようにやわやわと触れている。羽根でも触れるような感覚にぞくりと背筋が震え、思わず吐息が漏れた。不意打ちのような刺激に腰が引け、逃げるように身を捩れば後ろに立った戌亥の身体にぶつかってしまう。
端から見れば自身の下腹部を背後に立つ人物の腰部に擦り付け、相手を煽り挑発しているかのような行動ではあるが、知識のないナオトにはそのような考えに至らない。助けを求めるように後ろの戌亥を振り返ると、彼は一層苛立ったような表情をしており、目が合うと同時に舌打ちをされる。何とも理不尽だ。
「な、なんでっ?」
「なんでって? ふざけてんのかおまえ」
そう切り替えされても、返答に困る。ふざけてもいないし、何故怒っているのかもわからない。説明もないまま、反応を示し始めたナオトの陰茎を戌亥の指先が下着越しに下から上へと辿り、一度へその方へと戻り、――下着のゴムにふとその指が引っ掛かった。
驚いて手を掴むも意味はなく、呆気なくその指は下着の中へと潜り込む。そうして戸惑いもなく陰茎を握られたときは、他人の手の温度や肌の感触に驚いて足が竦んでしまった。不快というよりも現状への困惑の方が勝り、恐怖したのだ。
「や、やだ……! なんでこんなこと……っ」
「おい。カメラの前で、男優相手にもそんな馬鹿なこと言う気か」
「あ……」
しかしながら突き放すようにそう言われ、頭の中が妙に冷静になる。そういえばそうだった。この状況に陥る原因を作り上げたのは、自分だ。だってナオト自身がビデオに出てやると啖呵を切ったのだから。それに対して戌亥がカメラを回してやろうと返し、現状があるのであって。
今のナオトは、自分が言い始めたことにも関わらずその立場を忘れ去り、意味不明な言動を繰り返して戌亥の手を煩わせているだけだ。それは苛立ちもする、不機嫌になって怒りもするだろう。だからといってこの状況をすぐさま受け入れられるかというと残念ながらそうではない。ナオトにはそういったビデオの演者になるという覚悟が、まったくと言っていいほど足りていなかった。
他者の手が直に触れたことで緊張から縮み上がった陰茎を、握り込んだ戌亥の手が上下に動きゆるゆると律動を始める。
「あ、わ、やっ、ま、待って……!」
「シャツ持ってろ。鬱陶しい、邪魔だ」
言われ、左腕を伸ばし震える指で掴む。つまり拘束が解かれていたものの、この場から逃げる気は起きないし逃げようなんて考えもしなかった。正直に言えば自由になったことに気付いていなかったのだ。気付いたところで逃げたかどうかは不明だ。
心なしかシャツを掴んだ腕を持ち上げれば、背後から肘を掴まれ高さを胸の辺りに固定された。その間も戌亥の右手はナオトへの攻めの手を緩めない。与えられる刺激に堪えるために全身に力が入り、掴んでいた戌亥の腕に爪を立てた。
だがそれすら気にも留めず、戌亥の指先はよだれを垂らし始めた亀頭の割れ目を偶にぬるりと掠めたりするものだから、変な気分になるのだ。
「あっ……ぅ、ま、っておねが……ッ」
「こうされるの好きだろ? 例の動画で悦がりまくってた」
――例の動画。それはおそらく、ナオトがそうとは知らず、ミヤビがスマホで撮影した動画だ。そしてその動画を餌に、脅された。きっとあの場にいた戌亥は、いやあの場にいた全員が見たのだろう。当然だ、何度もそのことを口にしていた。ただ何度もそう言われると、自分自身の馬鹿さ加減に再び泣けてくる。どこまでも愚かで、情けなくて惨めだった。
思い出すと鼻の奥がつんとして、荒い呼吸をするたびにずびずびと鼻が鳴る。そんな間抜けな表情を隠すように俯けば、染みをいくつも付けた下着がずるりと降ろされようとしているところが目に入った。込み上げようとしていた嗚咽が思わず引っ込むというもの。
外気に晒され、ふるりと震えたそれに代わりに出たのは声にならない悲鳴だ。容赦のない戌亥は反応する様を見せ付けるように、ぬちぬちと艶めかしく手を動かす。答えるように腰が勝手に揺らめくのは、仕方がないことなのかもしれない。
「この前も、それを思い出したから呆気なくイッたんだろうが」
「やっ、ぁ、ちが、ン、ちがう……!」
この前、というのは女性ものの下着を穿かせるために、ナオトが穿いていた下着を汚されダメにされた日のことだ。
青天の霹靂とでも言おうか。戌亥はナオトに手淫を施しながら「目を瞑っていれば男女に差はない」というようなことを言っていたけれど、明確な違いがある。まず手の大きさが違う。掌の大きさ、指の長さ、肌の硬さ、肉の厚み。はっきり言って何もかもが違う。比べるのがおかしい。
尚且つ戌亥はこうして抱き締めてくるためいつも近くに肌の温もりがあり、傍で声が聞こえる。ミヤビ相手のときは、一人ベッドに転がされ、その様子を上から彼女がただ眺めていただけだった。常に不安でいっぱいだったが、その不安は的中していて、結局は弄ばれていただけだ。
このような行為の最中でさえ嗅ぎ慣れた香りに僅かばかり安堵してしまうところもあり、――ミヤビよりも戌亥の方が。
「……どうだかな」
「は、はあ……あ……っ」
「女のように誘ってみろ。できねえくせに粋がんな。……聞いてんのか?」
「あっ……ぅ、ン」
「おい、ナオト。勝手にイくなよ」
「ん……ッはい、はい、ごめんなさい……!」
「ナオト。ケツ上げろ」
最早訳がわからなくなり始めたナオトの耳に、戌亥の声が入る。言葉の意味がよく理解できないが、戌亥がそうせよと言うのだから、そうせねばならない。
荒い呼吸を整えながら、壁に手を突きぼんやりと空を見詰め、腰部を持ち上げるように戌亥へと突き出す。若干背伸びをしたのはご愛敬だ。そうすると戌亥からの良い悪いとの返答がないまま、前方への刺激が突如なくなった。物足りなさを覚えたナオトは物憂げな息を漏らしたが、彼の手が腰部に触れたことで息を詰めることとなる。
戌亥の指先が腰から仙骨を辿り、尾てい骨へと柔く触れる。くすぐったさを感じぞくぞくと身を震わせれば、尻たぶが無遠慮に押し広げられ、その奥へぴとりと何かが押し付けられたような感覚があった。
だがそれも一瞬だ。
「え……――ひッィ!?」
目の前が真っ白になった。有り得ない場所に引き攣れのような、信じられないような痛みが走っている。ぐんと、大きなものが閉ざされた後孔の窄みをこじ開け、無茶な侵入を試みようとしているのだ。苦痛で全身が硬直しているというのに、相手は素知らぬ顔で前進を試みているから余計に焼けるような激痛がナオトを襲った。
何が起こっているのかがわからない。説明がない。呼吸を求め、はくはくと口が動くがうまく息が吸えない。先程までの甘い刺激に反応していた性器も、今では痛みに萎えてしまった。額に脂汗が滲み、助けを求めるように壁に爪を立てた手に骨が浮き上がる。
「あ……っぅ、ぐ……っひ、ぅ、いたい、いたいぃ……!」
「……っるっせえ」
「ィッ……! や……ッやださ、さけるぬいて、ぬいてください!」
「ミヤビとヤッといて何ぬるいこと言ってんだおまえは?」
「み、ミヤビさんにちんこなんか、……あッ」
彼女にこんな凶暴なもの、着いてなどいない。そう反論しようとして口を開いたものの、萎えた性器を掴まれ、性急に攻め立てられるように手を動かされ再び快楽の波が押し寄せる。痛みと快感のせめぎ合いだ。何がよくて何がくつうなのか、自分自身でもわからなくなってくる。
しかしながら性的な経験はなくとも、多少の知識ならナオトにもある。挿入というものにはある程度の準備が必要だ。そうしなければ相手を傷付けてしまうらしい。だというのに戌亥はそれをすっ飛ばして、いきなり挿入した。男女で違うのかもしれないが、これほど苦痛を伴うのであればやはり作法通りに事を進めるのが「一般常識」で「普通」なのではないだろうか。でも戌亥はナオトにそれをしなかった。壊れてもいい使い捨ての道具、要はそうするに値しない相手だということだ。
肩を掴まれ、滑りが良くないのかそれとも窮屈なのか、ぎこちなく揺さぶられながら、その考えに思い至り愕然とする。
「ナオト」
呼ばれ、ちらと振り返る。虚ろな目は見慣れぬ眼鏡姿の戌亥を捉えるも、すぐさま下を向いた。少しでも近くなれたと、距離が近付いたと、笑ってもらえるようになったと思っていた自分が本当に馬鹿だった。
怖い相手なのだから、縋ってはいけない。何の感情も抱かず、いつでも逃げられるように、そう考えていたのにいつの間にか、新しい居場所を得たような気分になって。戌亥の言う通り、――馬鹿なのだろう。
そうと気付いてからは戌亥が早く満足するように協力的に腰を動かし、手緩かったナオトの性器への手淫にも自ら加わった。指を絡めて、一緒に動かして、まるで求め合っているかのような行為だ。想像するだけで虚しくなる。だって、本当に、カメラはいったいどこにあるのだろうか? 視線を彷徨わせてもまったくわからない。それともこれは研修のようなもので、実演はまた別だろうか。戌亥が男優と言ったように、相手が用意されるのかもしれない。
このように、別の誰かとまたこうして。ぐっと、込み上げそうになったものを堪える。幻想を抱く前に現実が重くのし掛かった。
「あっ、ぅあ……っ! もっ、や、……ィッ――!」
ぶるりと身体を震わせ、吐精する。肩で息をしていると、ずるりと後孔から何かが引き抜かれていくのがわかった。戌亥は達したのか、わからないがその感覚に違和感を抱き、再度身を震わせ壁伝いにずるずるとへたり込んだ。大いに体力を消耗している。暫く休ませて欲しい、少したりとも動きたくない。
そう考えていると、子鹿のように震えている脚に半透明の何かが落ちてきた。粘度の強いそれはぺちゃりと太腿に張り付き、室内の光にてらてらと照らされている。パステルカラーのそれは何だか少し濡れているようだ。
これは何かと熱心に監察を続けるナオトの肩を戌亥が掴んだので、ふと顔を上げた瞬間――。
「――ぅっ」
どろりと、何か液体のような生温かいものが顔に掛かった。反射的に目を瞑り、暫くしてそろりと片目を開ければ、身支度を整える戌亥が目の端の方に映り込む。
え? 最初に抱いたのは疑問だ。次いで顔へと恐る恐る手で触れ、粘着いた感触に驚愕した。顔に掛けられたのだ、精液を。
「……ひどい」
唇が戦慄き、思わず漏れたのは本音だった。戌亥は素知らぬ顔でベッドに腰掛け、煙草に火を着けている。ナオトの嫌いな煙草だ。自分勝手な人間はよくあれを好む。
その姿を睨むように見詰め、息を吸う。じわりと視界が涙で滲み、彼の姿がいつの間にか最も嫌いな人間の姿へと切り替わる。
「ひどい、ひどい……!」
責めるように言うも、戌亥は他人事のような顔で煙草の煙を吐いていた。なんて非道い人だろうか。
我慢ならず更に文句を言ってやろうともう一度息を吸ったナオトに、ふと冷たい目が向けられる。思わずびくりと身体が強張ったのは、刷り込みというやつかもしれない。
「何が酷いんだ」
「だって、……戌亥さん、優しい人だと思ってたのに……ッ!」
こんなにひどいことをするなんて。痛いことをするなんて。傷付いた。裏切られた。――そう思って、なんでそんなことを考えているのだろうかと自分でも疑問に思う。だって最初から、まるで彼を信頼していたかのような言動だ。信じられないようなことが次々と起こり、混乱しているのだろう。
でも仕方がないとも思う。どんなところであれ、一度にすべての居場所がなくなってしまうのは、誰であろうとも、つらい。
ナオトはこれ程にまで悲しくて苦しくて寂しい思いをしている、のに。
「優しい? はッ……気色悪いこと言うなよ」
彼は鼻で笑い飛ばし、冷酷な言葉を煙と共に吐く。
揺れる紫煙の先、戌亥もまた見定めるような目をナオトへと向けていた。
ここからどうにかして逃げなければいけない。怯えながらもそう思った。ナオト自身が招いた現状であるのに、その事実を忘れ去って戌亥の隙を窺う。ナオトの視線は戌亥が立ち塞がる向こう側の、入り口を捕らえていた。
戌亥の足元を這うようにして摺り抜け、走り出そうとした瞬間に、しかしながら呆気なく二の腕を掴まれる。
「……っぃ」
「ナオト」
そのまま乱暴に勢いよく壁へと押し付けられたせいで顔や身体を強打し、あまりの痛みに表情が歪む。当然のことながら、そううまく事が運ぶはずがないのだ。
苛立ちを隠そうとしない戌亥は大きな舌打ちをしてから、ナオトの左腕を背中に回し腕を曲げた状態で左手を拘束された。抵抗を試みたものの、前方には壁があり後方には戌亥がいる。その上、がっちりと固定された腕や圧迫され続けている肋骨が軋むように痛み、呆気なく心が折れた。従順であれば苦痛が少しばかり和らぐと気付いたのだ。
ただ恐怖は時が経つごとに増している。
「同じことを二度言わせんな」
衝動的な怒りでも抑えるように、ナオトの目の前の壁に戌亥が右手を突いた。まるで殴るような行動に言い知れぬ威圧感を抱き、緊張で身体が強張る。
逃げ場がない。視線をあちこちに彷徨わせるも、どこにもない。唇が戦慄いた。
「おまえがやるって言ったんだ。なあ、……そうだろ?」
耳元でそう言われ、思わず目を瞑り、必死に頷く。その拍子に溜まっていた涙が零れ落ち、頬を濡らすが拭うような真似はできなかった。だってこれ以上時間を取らせて、彼を怒らせるべきではない。何をすべきなのかは明白だ。戌亥はナオトに向けて、同じことを二度は言わないと警告している。であるならば、ナオトが今すべきことは一つだ。
恐怖に耐えながら、戌亥の命に従ってシャツの釦を外す。震える指はうまく動かず、一つ外すのも時間が掛かる。しかも片手を封じられているため動きにくい。それでも必死に釦を外し終え、次いでベルトへと手を伸ばす。シャツを脱がなかったのはどうせ拘束されているため脱ぎようがなかったし、下に肌着としてTシャツを着ていたので、どうすべきか聞くのも憚られたため後に回そうと考えた。
よって別に、戌亥に対し反抗心を抱いていたわけではないのだ。確かに羞恥から脱ぎたくないとは多少なりとも考えたものの、逆らう意思はナオトにはなかった。
「おい、もたもたすんな。時間内に収まんねえだろ」
だというのに背後の戌亥が急かすようにナオトの太腿を膝で軽く蹴るものだから、焦って仕方がない。だいたいそんなことを言ったって、片手でベルトを外すのは難しいのだ。ナオトとて時間を掛けたくて掛けているわけではない。戌亥がこのようにプレッシャーを掛けるから尚のことだろう。
それでも必死にもがき続け、漸くベルトを外すことに成功する。次いで緊張しながらジッパーを降ろすと、その拍子にベルトの重みでデニムが太腿までずり落ちた。今のナオトにも、そこまで一気に脱ぐ度胸はさすがにない。驚き、慌ててデニムを掴み上げようとすれば、その手が強い力で弾かれる。
何か、と見れば戌亥の手だ。ナオトの左腕は未だ彼に拘束されたままなので、壁に突いていた右手を離したのだろう。意図がわからずその行方を凝視していれば、戌亥の手が徐ろに動き、信じられないことにシャツの中へと滑り込んだ。
「……え、えっ?」
荒い呼吸のせいで慌ただしく動く腹の上を、戌亥の冷たい指先がするりと這う。
瞬間、身体中に更なる緊張が走った。戌亥が何を考えているのか、または何をしようとしているのか、まったく以て想像が付かない。シャツが戌亥の手元を隠しているせいで行動の予測ができないのだ。
どうしようもない不安に駆られ、真意を問うべく背後を振り返ろうとすれば、下腹部に訪れた刺激に目を見開いた。ぎしりと、行き場を失っていたナオトの右手が硬直する。
「あっ! え。……えっ、なに!?」
「うるせえな、黙ってろ。……んだこれボクサー? 色気のねえ下着だな」
不躾に、無遠慮に、大きな手で鷲掴みにされている。下着越しとは言え、性器をだ。他人の手が触れる違和感に思わず肩が跳ね、その相手が戌亥であるということに内心縮み上がる。例え二度目だからといってこんなもの慣れるはずがない。
予想だにしなかった出来事にナオトは逃げようと藻掻くが、相変わらず前方は壁で背後には戌亥がおり、尚且つ拘束されたままだ。抵抗は無意味に終わり、その間も戌亥の手はナオトの性器の輪郭を確かめるようにやわやわと触れている。羽根でも触れるような感覚にぞくりと背筋が震え、思わず吐息が漏れた。不意打ちのような刺激に腰が引け、逃げるように身を捩れば後ろに立った戌亥の身体にぶつかってしまう。
端から見れば自身の下腹部を背後に立つ人物の腰部に擦り付け、相手を煽り挑発しているかのような行動ではあるが、知識のないナオトにはそのような考えに至らない。助けを求めるように後ろの戌亥を振り返ると、彼は一層苛立ったような表情をしており、目が合うと同時に舌打ちをされる。何とも理不尽だ。
「な、なんでっ?」
「なんでって? ふざけてんのかおまえ」
そう切り替えされても、返答に困る。ふざけてもいないし、何故怒っているのかもわからない。説明もないまま、反応を示し始めたナオトの陰茎を戌亥の指先が下着越しに下から上へと辿り、一度へその方へと戻り、――下着のゴムにふとその指が引っ掛かった。
驚いて手を掴むも意味はなく、呆気なくその指は下着の中へと潜り込む。そうして戸惑いもなく陰茎を握られたときは、他人の手の温度や肌の感触に驚いて足が竦んでしまった。不快というよりも現状への困惑の方が勝り、恐怖したのだ。
「や、やだ……! なんでこんなこと……っ」
「おい。カメラの前で、男優相手にもそんな馬鹿なこと言う気か」
「あ……」
しかしながら突き放すようにそう言われ、頭の中が妙に冷静になる。そういえばそうだった。この状況に陥る原因を作り上げたのは、自分だ。だってナオト自身がビデオに出てやると啖呵を切ったのだから。それに対して戌亥がカメラを回してやろうと返し、現状があるのであって。
今のナオトは、自分が言い始めたことにも関わらずその立場を忘れ去り、意味不明な言動を繰り返して戌亥の手を煩わせているだけだ。それは苛立ちもする、不機嫌になって怒りもするだろう。だからといってこの状況をすぐさま受け入れられるかというと残念ながらそうではない。ナオトにはそういったビデオの演者になるという覚悟が、まったくと言っていいほど足りていなかった。
他者の手が直に触れたことで緊張から縮み上がった陰茎を、握り込んだ戌亥の手が上下に動きゆるゆると律動を始める。
「あ、わ、やっ、ま、待って……!」
「シャツ持ってろ。鬱陶しい、邪魔だ」
言われ、左腕を伸ばし震える指で掴む。つまり拘束が解かれていたものの、この場から逃げる気は起きないし逃げようなんて考えもしなかった。正直に言えば自由になったことに気付いていなかったのだ。気付いたところで逃げたかどうかは不明だ。
心なしかシャツを掴んだ腕を持ち上げれば、背後から肘を掴まれ高さを胸の辺りに固定された。その間も戌亥の右手はナオトへの攻めの手を緩めない。与えられる刺激に堪えるために全身に力が入り、掴んでいた戌亥の腕に爪を立てた。
だがそれすら気にも留めず、戌亥の指先はよだれを垂らし始めた亀頭の割れ目を偶にぬるりと掠めたりするものだから、変な気分になるのだ。
「あっ……ぅ、ま、っておねが……ッ」
「こうされるの好きだろ? 例の動画で悦がりまくってた」
――例の動画。それはおそらく、ナオトがそうとは知らず、ミヤビがスマホで撮影した動画だ。そしてその動画を餌に、脅された。きっとあの場にいた戌亥は、いやあの場にいた全員が見たのだろう。当然だ、何度もそのことを口にしていた。ただ何度もそう言われると、自分自身の馬鹿さ加減に再び泣けてくる。どこまでも愚かで、情けなくて惨めだった。
思い出すと鼻の奥がつんとして、荒い呼吸をするたびにずびずびと鼻が鳴る。そんな間抜けな表情を隠すように俯けば、染みをいくつも付けた下着がずるりと降ろされようとしているところが目に入った。込み上げようとしていた嗚咽が思わず引っ込むというもの。
外気に晒され、ふるりと震えたそれに代わりに出たのは声にならない悲鳴だ。容赦のない戌亥は反応する様を見せ付けるように、ぬちぬちと艶めかしく手を動かす。答えるように腰が勝手に揺らめくのは、仕方がないことなのかもしれない。
「この前も、それを思い出したから呆気なくイッたんだろうが」
「やっ、ぁ、ちが、ン、ちがう……!」
この前、というのは女性ものの下着を穿かせるために、ナオトが穿いていた下着を汚されダメにされた日のことだ。
青天の霹靂とでも言おうか。戌亥はナオトに手淫を施しながら「目を瞑っていれば男女に差はない」というようなことを言っていたけれど、明確な違いがある。まず手の大きさが違う。掌の大きさ、指の長さ、肌の硬さ、肉の厚み。はっきり言って何もかもが違う。比べるのがおかしい。
尚且つ戌亥はこうして抱き締めてくるためいつも近くに肌の温もりがあり、傍で声が聞こえる。ミヤビ相手のときは、一人ベッドに転がされ、その様子を上から彼女がただ眺めていただけだった。常に不安でいっぱいだったが、その不安は的中していて、結局は弄ばれていただけだ。
このような行為の最中でさえ嗅ぎ慣れた香りに僅かばかり安堵してしまうところもあり、――ミヤビよりも戌亥の方が。
「……どうだかな」
「は、はあ……あ……っ」
「女のように誘ってみろ。できねえくせに粋がんな。……聞いてんのか?」
「あっ……ぅ、ン」
「おい、ナオト。勝手にイくなよ」
「ん……ッはい、はい、ごめんなさい……!」
「ナオト。ケツ上げろ」
最早訳がわからなくなり始めたナオトの耳に、戌亥の声が入る。言葉の意味がよく理解できないが、戌亥がそうせよと言うのだから、そうせねばならない。
荒い呼吸を整えながら、壁に手を突きぼんやりと空を見詰め、腰部を持ち上げるように戌亥へと突き出す。若干背伸びをしたのはご愛敬だ。そうすると戌亥からの良い悪いとの返答がないまま、前方への刺激が突如なくなった。物足りなさを覚えたナオトは物憂げな息を漏らしたが、彼の手が腰部に触れたことで息を詰めることとなる。
戌亥の指先が腰から仙骨を辿り、尾てい骨へと柔く触れる。くすぐったさを感じぞくぞくと身を震わせれば、尻たぶが無遠慮に押し広げられ、その奥へぴとりと何かが押し付けられたような感覚があった。
だがそれも一瞬だ。
「え……――ひッィ!?」
目の前が真っ白になった。有り得ない場所に引き攣れのような、信じられないような痛みが走っている。ぐんと、大きなものが閉ざされた後孔の窄みをこじ開け、無茶な侵入を試みようとしているのだ。苦痛で全身が硬直しているというのに、相手は素知らぬ顔で前進を試みているから余計に焼けるような激痛がナオトを襲った。
何が起こっているのかがわからない。説明がない。呼吸を求め、はくはくと口が動くがうまく息が吸えない。先程までの甘い刺激に反応していた性器も、今では痛みに萎えてしまった。額に脂汗が滲み、助けを求めるように壁に爪を立てた手に骨が浮き上がる。
「あ……っぅ、ぐ……っひ、ぅ、いたい、いたいぃ……!」
「……っるっせえ」
「ィッ……! や……ッやださ、さけるぬいて、ぬいてください!」
「ミヤビとヤッといて何ぬるいこと言ってんだおまえは?」
「み、ミヤビさんにちんこなんか、……あッ」
彼女にこんな凶暴なもの、着いてなどいない。そう反論しようとして口を開いたものの、萎えた性器を掴まれ、性急に攻め立てられるように手を動かされ再び快楽の波が押し寄せる。痛みと快感のせめぎ合いだ。何がよくて何がくつうなのか、自分自身でもわからなくなってくる。
しかしながら性的な経験はなくとも、多少の知識ならナオトにもある。挿入というものにはある程度の準備が必要だ。そうしなければ相手を傷付けてしまうらしい。だというのに戌亥はそれをすっ飛ばして、いきなり挿入した。男女で違うのかもしれないが、これほど苦痛を伴うのであればやはり作法通りに事を進めるのが「一般常識」で「普通」なのではないだろうか。でも戌亥はナオトにそれをしなかった。壊れてもいい使い捨ての道具、要はそうするに値しない相手だということだ。
肩を掴まれ、滑りが良くないのかそれとも窮屈なのか、ぎこちなく揺さぶられながら、その考えに思い至り愕然とする。
「ナオト」
呼ばれ、ちらと振り返る。虚ろな目は見慣れぬ眼鏡姿の戌亥を捉えるも、すぐさま下を向いた。少しでも近くなれたと、距離が近付いたと、笑ってもらえるようになったと思っていた自分が本当に馬鹿だった。
怖い相手なのだから、縋ってはいけない。何の感情も抱かず、いつでも逃げられるように、そう考えていたのにいつの間にか、新しい居場所を得たような気分になって。戌亥の言う通り、――馬鹿なのだろう。
そうと気付いてからは戌亥が早く満足するように協力的に腰を動かし、手緩かったナオトの性器への手淫にも自ら加わった。指を絡めて、一緒に動かして、まるで求め合っているかのような行為だ。想像するだけで虚しくなる。だって、本当に、カメラはいったいどこにあるのだろうか? 視線を彷徨わせてもまったくわからない。それともこれは研修のようなもので、実演はまた別だろうか。戌亥が男優と言ったように、相手が用意されるのかもしれない。
このように、別の誰かとまたこうして。ぐっと、込み上げそうになったものを堪える。幻想を抱く前に現実が重くのし掛かった。
「あっ、ぅあ……っ! もっ、や、……ィッ――!」
ぶるりと身体を震わせ、吐精する。肩で息をしていると、ずるりと後孔から何かが引き抜かれていくのがわかった。戌亥は達したのか、わからないがその感覚に違和感を抱き、再度身を震わせ壁伝いにずるずるとへたり込んだ。大いに体力を消耗している。暫く休ませて欲しい、少したりとも動きたくない。
そう考えていると、子鹿のように震えている脚に半透明の何かが落ちてきた。粘度の強いそれはぺちゃりと太腿に張り付き、室内の光にてらてらと照らされている。パステルカラーのそれは何だか少し濡れているようだ。
これは何かと熱心に監察を続けるナオトの肩を戌亥が掴んだので、ふと顔を上げた瞬間――。
「――ぅっ」
どろりと、何か液体のような生温かいものが顔に掛かった。反射的に目を瞑り、暫くしてそろりと片目を開ければ、身支度を整える戌亥が目の端の方に映り込む。
え? 最初に抱いたのは疑問だ。次いで顔へと恐る恐る手で触れ、粘着いた感触に驚愕した。顔に掛けられたのだ、精液を。
「……ひどい」
唇が戦慄き、思わず漏れたのは本音だった。戌亥は素知らぬ顔でベッドに腰掛け、煙草に火を着けている。ナオトの嫌いな煙草だ。自分勝手な人間はよくあれを好む。
その姿を睨むように見詰め、息を吸う。じわりと視界が涙で滲み、彼の姿がいつの間にか最も嫌いな人間の姿へと切り替わる。
「ひどい、ひどい……!」
責めるように言うも、戌亥は他人事のような顔で煙草の煙を吐いていた。なんて非道い人だろうか。
我慢ならず更に文句を言ってやろうともう一度息を吸ったナオトに、ふと冷たい目が向けられる。思わずびくりと身体が強張ったのは、刷り込みというやつかもしれない。
「何が酷いんだ」
「だって、……戌亥さん、優しい人だと思ってたのに……ッ!」
こんなにひどいことをするなんて。痛いことをするなんて。傷付いた。裏切られた。――そう思って、なんでそんなことを考えているのだろうかと自分でも疑問に思う。だって最初から、まるで彼を信頼していたかのような言動だ。信じられないようなことが次々と起こり、混乱しているのだろう。
でも仕方がないとも思う。どんなところであれ、一度にすべての居場所がなくなってしまうのは、誰であろうとも、つらい。
ナオトはこれ程にまで悲しくて苦しくて寂しい思いをしている、のに。
「優しい? はッ……気色悪いこと言うなよ」
彼は鼻で笑い飛ばし、冷酷な言葉を煙と共に吐く。
揺れる紫煙の先、戌亥もまた見定めるような目をナオトへと向けていた。
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