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四章 一人ぼっちの君たちへ
第三十五話 この世界はきっと美しい
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「───これは、何の真似だ」
尻尾の先はシルビアの額では無く、厳つい紋様の描かれた丸太の様な棍棒に突き刺さる。いや、表現が違うな。俺の尻尾は、力無く棍棒を引っ掻くだけに留まった。
腕も足も動かない、背後から誰かにしがみつかれてるらしい。
俺の尻尾を阻むのは巨大な鬼の、あれは、マナドゥか。そして俺の後ろにしがみついているのは、まぁベアトリーチェだろうな。
「ここで俺を止めることに何の意味がある?」
「我々の全ては魔王様の、不律殿のものにございます。ただ、この一刺しだけはどうしても止めざるを得ませんでした」
「………いや、分からないな。俺に忠誠を誓ったんじゃなかったのか?ここに来る前も言っただろ、邪魔をするなって」
「ごめんなさイ、ごめんなさい………でも、そんなに苦しそうに涙を流す不律さんの顔、とても、見てられなかったんデス」
息が、肩が震える。腹筋は怖いくらいに痙攣を始め、喉の奥から感情を押し殺した声が漏れた。
「どけよ………退けよお前らっ!!ふざけんなよ、いい加減にしろよ………」
もう立つ気力もない。
俺は思い切り歯ぎしりをし、そのまま塞き止めていたはずの感情が怒涛のように溢れ出した。体はもう完全に背後から抱きしめられているベアトリーチェに預けてしまっている。
誰も何も言わない。ただ、俺だけの感情が駄々漏れになる。
「お前らのせいで、今、俺の全てが崩れたっ………もう俺には、シルビアを殺すことなんて出来ない。お前らに分かるか!?今までずっと一人だった俺の気持ちが………そんな俺に出来た『友達』を、俺が何度でも殺せると思ってんのか!?」
さっきの「覚悟」は、一生で一度の覚悟だった。結婚式に誓うあの約束事なんてぬるすぎるくらいの、人を、この世で一番大事にしたかったものを捨てるという覚悟。
俺はそれを、たった今失ったんだ。
いくら深い憎しみを背負っていたとしても、世界中の人間を不幸にする為に行動するなんてことが、同じ人間に出来るはずがない。だから俺はシルビアを殺すことで、人間の心を捨てて「魔王」になろうとした。いや、魔王よりももっと恐ろしいものになりたかった。全生命が俺に対して牙を向けてくれるような、強大な存在に。
唇を噛み千切るんじゃないかという程悔しい。俺の曲げられない生き方が、こんなにもあっさりと折れてしまうなんて。それが悲しくて泣くのだ。
「………これから、どうすれば良いんだ。俺はシルビアを殺したくない、でもコイツは勇者として死ななければいけない」
「不律殿、カストディオ様はきっとこう仰るでしょう『まだ若すぎる』と。もっと簡単に考えれば良いのです、勇者シルビアと不律殿のお二人が納得できるような答えが出るまでは、生き急がなくてもいいのですよ。勇者が死のうとするなら魔王様がそれを止め、魔王様が誰かを傷つけようとすれば勇者がそれを止めるでしょう。上手く成り立っているではないですか」
「それは、今まで生きてきた全てを俺とシルビアが捨てなくちゃいけないってことだ。シルビアが『勇者』を捨てて、俺はこの復讐心を捨てる。そしたら、この体には何が残る」
「ではもう一度お考えください、何を捨てるかではなく何を拾うかをです。勇者の命を今ここで奪われますか、それとも………」
マナドゥは棍棒を持ち上げて、再び俺とシルビアの間を空ける。自然とベアトリーチェも俺の体から離れた。
目の前にはいつの間にか意識を失っているシルビアが仰向けに倒れている。
他の誰でもない俺が殺さなくちゃいけない。
頭では分かっていても尻尾はピクリとも動いてくれないんだ。いくら歯を食いしばろうと、いくら叫ぼうとも殺意が体に移らない。それどころか殺意なんてもうとっくに消え失せてしまっていた。
「俺には………殺すことなんて出来ない。何一つ………この腐った世界を変えることなんて出来ない………」
「不律殿がどのような道を選ばれましても、我らは惜しみなく命を捧げる所存です。不律殿が迷われた時もそれは同じ、よくぞ、ご決断なされました」
「本当にごめんなさイ、不律さん」
今までの俺の中に渦巻いていたものがガラガラと崩れ落ち、その代わりに奥底の見えない穴が出来たような気がした。
どうしようもない不安に飲まれ、段々と意識が遠くなっていく。でもこの不安は、決して乗り越えられないようなものでは無いような気がして………何だか少し安心することできた。
疲れた、はっきり言ってもうここでいろいろ考えるのは無理だ。眠ろう、これからの事はそれからだ。
「───ようやくだね、あー長かった。これで『勇者』も『魔王』も一網打尽だ」
異変に逸早く気付いたのは結界を張っているベアトリーチェである。
何故ここまでの接近を許したのか、マナドゥ達ほどの巨体でもこの広場に進行して来ていた「大軍」を見渡すことが出来ていなかったのか。
「………まさか、これほどの数の兵士を透明化させてるなんテ」
ベアトリーチェの結界が広がっているのはあくまで広場内のみ、つまりその結界に入るまで全く悟られずに、この広場全体を一個の軍が包囲したということなのだ。
宙を覆うのは、ターバンを纏っている数百の人間の兵士達。そして、ベアトリーチェ達を包囲する兵士は広場から溢れかえっておりその総数は一見しただけでは測れない程に多い。
「上の奴らは全員自分で、そしてこの騎兵団の全ては俺が透明化にさせたんだよ。君のお父さんを見習ってね」
「ルイーヌ・アルベリック………貴方はパパと対峙していたはずじゃ………戻って来るにしても早すぎル」
「あー、ちょっとコテンパンにやられてさっさと全力で帰って来ちゃったんだよね。まぁ、ちゃんとカストディオ卿には致命傷になるくらいの深手は負わせてきたけど。あ、これウチの指揮官さんにバレちゃまずい話だった」
包囲網から割って出てくるのは、馬に乗り純白のターバンを巻く若者「ルイーヌ」であった。
カストディオから聞いていた話では、この包囲網を作る兵団はざっと千人強は居たはずだ。被害を出し、兵を少し失った状態でここに返ってきているとは言っても、とても一人の人間がこの全ての兵数を完璧に透明化させるなんてほぼ不可能に近い。
それを顔色変えずにあっさりとやってのけるそのルイーヌの姿に、ベアトリーチェ達は微かに恐怖を覚えた。
「うーん、やっぱまだあのカストディオ卿に比べると結界の張り方が甘くないかな?このくらいの張り方じゃ俺と魔騎兵に破られても仕方ないよ?」
「貴様、人間如きがベアトリーチェ様の結界を破れるとでも!?」
「トロールに凄まれるなんて、いやぁ、中々圧巻だね」
ルイーヌは一つ意地悪気にクツクツと喉奥で笑い、そして、スッと右腕を高く挙げる。
まるでそれが合図かの様に上空の魔騎兵、そしてルイーヌの体から圧縮された魔力の波が円状に広がった。ベアトリーチェやマナドゥ、ヴェベール、オートゥイユへ大量の魔力が当てられ、彼らの体が一瞬痺れる。
「ほらね?カストディオ卿に比べれば」
結界内でルイーヌらが放った魔力が外に出ていくことなく弾かれ続け、ついにはそれに耐えきれなくなり、結界は膨張した水風船のように魔力を吐き出しながら破裂した。
マナドゥらはみるみるうちに体格が通常サイズに戻り、ベアトリーチェは無理矢理結界を破壊されたことに相当の負荷が掛かったのか、顔を青ざめながらその場に膝をつき嗚咽交じりの息をする。人間の血を吸い禍々しい姿をしていたはずなのに、朱色の髪は黒髪に戻り、大きく広がっていたはずの羽も縮んでいた。
先のハインリッヒやその配下の極騎兵達との戦闘ダメージがまだ体に蓄積されているマナドゥら、そして自らの要領を超えるほどの魔力を浴びせられて意識が朦朧としているベアトリーチェ。この絶望的な状況を唯一打ち破る可能性である魔王と勇者の二人は、力を使い果たしたようにその場で泥のように眠っている。
「せめて………不律殿と勇者シルビアだけは………」
「無駄だよ、無駄無駄。確かに君たちの作戦は上手くいってた、だけどうちの指揮官さんの方が一枚上手だったのさ。そもそも全体に指示を出すべきカストディオ卿や魔王が一番の前線に出てるじゃないか、変わりゆく戦況に対して誰が指示を出すんだよって話。この世界の現実は甘くない、数々の戦を潜り抜けてきた君ら『トロールの三小兵』なら分かるだろ?───」
「───この戦況がどうやったって覆らないことぐらい」
ルイーヌが「捕獲弾、前へ!」と、その細身に似つかわしくない大声を上げると、騎兵隊の包囲を割る様に、肩に大砲を担いだ極騎兵達がベアトリーチェらを取り囲む様に数十人現れた。
ギリギリと歯を食いしばりながら立ち上がるマナドゥらだが、やはりルイーヌの言った通りで、この戦況を覆す手段が何一つ思い浮かぶことは無い。少しでもおかしな動きを見せようものなら、上空を飛ぶ魔騎兵達の魔力であっという間に拘束されるだろう。
「トロールの君達とベアトリーチェは捕縛させてもらう。魔王と勇者は後顧の憂いだ、指揮官さんの言った通りこの場ですぐに殺す、目を覚まさないうちにやっておかないとね」
先ほどのおちゃらけた感じでは無く、淡々と静かに冷酷なその声色から、ルイーヌの言葉がすべて本気であるという事が感じ取れた。
鬼達はお互いに目配せをし、一つ頷く。例え敵わずとも命を捨てる、彼らの脳内にはその言葉しか浮かんでいない。
もうとっくに体力の限界にあるはずの三体のトロール達は瞬時に不律、シルビア、ベアトリーチェの体をそれぞれ抱きかかえ、バラバラの方向に跳躍をした。
「それもとっくに分かってんだよ、おい!抑えつけろっ!!」
結界を破ってから密かに微細な魔力をソナーの様に発し続けていたルイーヌは、マナドゥ達の微細な動きが手に取るように分かっている。バラバラの方向へ跳躍しようとしたその瞬間のことだ、それを察知していたルイーヌの一声により宙に浮かんでいる魔騎兵全兵が魔力を用いて、広場中に圧をかけた。急に重力が増したかの様に、マナドゥ、ヴェベール、オートゥイユはその場に思い切り膝をつく。
しかし決してその腕に抱いている者を地に落とすことは無い。
「ハインリッヒのおっさんがあんたたちを危険視していた意味が今ようやく分かった気がするよ」
ルイーヌは極騎兵達に指示を出す。
空気に穴を空けるかのようなボゴンという音が一斉に響き、端に鉄球のついた網がマナドゥ達を絡めとった。いくら叫ぼうともその網から抜けることも、重圧の中動くことも出来やしない。
不意に、シルビアと不律の額間近に、魔力で形作られた光のナイフが複数本現れる。
「これで、長い戦争は完璧に終わりだ」
「いえ、私たちの冒険はまだまだ続きますよ」
この場の誰もが、何が起きたのか分からなかった。
一瞬のうちに辺り一面が光に塗りつぶされる。その光の正体は圧倒的な魔力だ。そしてその魔力が誰のものなのか、ルイーヌにははっきりと分かった。分かったが、理解することは出来ない。
どうして、意味が分からない、ありえない。ルイーヌの心の中にある理不尽な困惑が段々と真っ赤な怒りに変わっていくのを感じる。眩しくて目を開けられないまでも、怒りに任せてルイーヌは声を大きく上げた。
「何故、何故だ!?さっきまで死人同然だったはずだろう!?」
「私は『勇者』ですよ。今までも、守るべき人たちを守る為ならどんな奇跡だって起こしてきました」
光が次第に消え入り、そこに立つのは先ほどまで確かに意識を失っていたはずのシルビア・ランチエリの姿であった。ルイーヌが放っていた魔力のソナーからは微細な魔力も感じられていなかったはず、だからこそここで「勇者」の姿をした少女が立ちはだかっている意味が分からないのだ。
外の世界にようやく目が慣れた頃には、そこに広がる光景は全くの別世界のものとなっていた。網が切り裂かれ穏やかにその場で眠るベアトリーチェやマナドゥら、そして魔王の姿の不律。上空を覆っていたはずの全魔騎兵は意識を失ったり、痛みに声をくぐもらせながら地を掻いている。
「自分でも、私の身に何が起きたのか分かりません。ただ、私はこの『今』を『奇跡』と呼ぶことにします。初めてですよ、こんなにも胸が温かく、力が溢れ出してくるのは。意識を失っている間も、私には不律さんの想いが届いていました………彼が決断したのなら私も決めましょう。例え『勇者』であった今までの私を捨て去ったとしても、不律さんと、その不律さんが大事にしているものを守るという覚悟を」
シルビアの目の前に広がる世界は、未だかつてないほど清々しく綺麗だった。
もう迷いはない。
一人じゃなくて、大切な人と見るこの世界はきっと美しいはずだから。
尻尾の先はシルビアの額では無く、厳つい紋様の描かれた丸太の様な棍棒に突き刺さる。いや、表現が違うな。俺の尻尾は、力無く棍棒を引っ掻くだけに留まった。
腕も足も動かない、背後から誰かにしがみつかれてるらしい。
俺の尻尾を阻むのは巨大な鬼の、あれは、マナドゥか。そして俺の後ろにしがみついているのは、まぁベアトリーチェだろうな。
「ここで俺を止めることに何の意味がある?」
「我々の全ては魔王様の、不律殿のものにございます。ただ、この一刺しだけはどうしても止めざるを得ませんでした」
「………いや、分からないな。俺に忠誠を誓ったんじゃなかったのか?ここに来る前も言っただろ、邪魔をするなって」
「ごめんなさイ、ごめんなさい………でも、そんなに苦しそうに涙を流す不律さんの顔、とても、見てられなかったんデス」
息が、肩が震える。腹筋は怖いくらいに痙攣を始め、喉の奥から感情を押し殺した声が漏れた。
「どけよ………退けよお前らっ!!ふざけんなよ、いい加減にしろよ………」
もう立つ気力もない。
俺は思い切り歯ぎしりをし、そのまま塞き止めていたはずの感情が怒涛のように溢れ出した。体はもう完全に背後から抱きしめられているベアトリーチェに預けてしまっている。
誰も何も言わない。ただ、俺だけの感情が駄々漏れになる。
「お前らのせいで、今、俺の全てが崩れたっ………もう俺には、シルビアを殺すことなんて出来ない。お前らに分かるか!?今までずっと一人だった俺の気持ちが………そんな俺に出来た『友達』を、俺が何度でも殺せると思ってんのか!?」
さっきの「覚悟」は、一生で一度の覚悟だった。結婚式に誓うあの約束事なんてぬるすぎるくらいの、人を、この世で一番大事にしたかったものを捨てるという覚悟。
俺はそれを、たった今失ったんだ。
いくら深い憎しみを背負っていたとしても、世界中の人間を不幸にする為に行動するなんてことが、同じ人間に出来るはずがない。だから俺はシルビアを殺すことで、人間の心を捨てて「魔王」になろうとした。いや、魔王よりももっと恐ろしいものになりたかった。全生命が俺に対して牙を向けてくれるような、強大な存在に。
唇を噛み千切るんじゃないかという程悔しい。俺の曲げられない生き方が、こんなにもあっさりと折れてしまうなんて。それが悲しくて泣くのだ。
「………これから、どうすれば良いんだ。俺はシルビアを殺したくない、でもコイツは勇者として死ななければいけない」
「不律殿、カストディオ様はきっとこう仰るでしょう『まだ若すぎる』と。もっと簡単に考えれば良いのです、勇者シルビアと不律殿のお二人が納得できるような答えが出るまでは、生き急がなくてもいいのですよ。勇者が死のうとするなら魔王様がそれを止め、魔王様が誰かを傷つけようとすれば勇者がそれを止めるでしょう。上手く成り立っているではないですか」
「それは、今まで生きてきた全てを俺とシルビアが捨てなくちゃいけないってことだ。シルビアが『勇者』を捨てて、俺はこの復讐心を捨てる。そしたら、この体には何が残る」
「ではもう一度お考えください、何を捨てるかではなく何を拾うかをです。勇者の命を今ここで奪われますか、それとも………」
マナドゥは棍棒を持ち上げて、再び俺とシルビアの間を空ける。自然とベアトリーチェも俺の体から離れた。
目の前にはいつの間にか意識を失っているシルビアが仰向けに倒れている。
他の誰でもない俺が殺さなくちゃいけない。
頭では分かっていても尻尾はピクリとも動いてくれないんだ。いくら歯を食いしばろうと、いくら叫ぼうとも殺意が体に移らない。それどころか殺意なんてもうとっくに消え失せてしまっていた。
「俺には………殺すことなんて出来ない。何一つ………この腐った世界を変えることなんて出来ない………」
「不律殿がどのような道を選ばれましても、我らは惜しみなく命を捧げる所存です。不律殿が迷われた時もそれは同じ、よくぞ、ご決断なされました」
「本当にごめんなさイ、不律さん」
今までの俺の中に渦巻いていたものがガラガラと崩れ落ち、その代わりに奥底の見えない穴が出来たような気がした。
どうしようもない不安に飲まれ、段々と意識が遠くなっていく。でもこの不安は、決して乗り越えられないようなものでは無いような気がして………何だか少し安心することできた。
疲れた、はっきり言ってもうここでいろいろ考えるのは無理だ。眠ろう、これからの事はそれからだ。
「───ようやくだね、あー長かった。これで『勇者』も『魔王』も一網打尽だ」
異変に逸早く気付いたのは結界を張っているベアトリーチェである。
何故ここまでの接近を許したのか、マナドゥ達ほどの巨体でもこの広場に進行して来ていた「大軍」を見渡すことが出来ていなかったのか。
「………まさか、これほどの数の兵士を透明化させてるなんテ」
ベアトリーチェの結界が広がっているのはあくまで広場内のみ、つまりその結界に入るまで全く悟られずに、この広場全体を一個の軍が包囲したということなのだ。
宙を覆うのは、ターバンを纏っている数百の人間の兵士達。そして、ベアトリーチェ達を包囲する兵士は広場から溢れかえっておりその総数は一見しただけでは測れない程に多い。
「上の奴らは全員自分で、そしてこの騎兵団の全ては俺が透明化にさせたんだよ。君のお父さんを見習ってね」
「ルイーヌ・アルベリック………貴方はパパと対峙していたはずじゃ………戻って来るにしても早すぎル」
「あー、ちょっとコテンパンにやられてさっさと全力で帰って来ちゃったんだよね。まぁ、ちゃんとカストディオ卿には致命傷になるくらいの深手は負わせてきたけど。あ、これウチの指揮官さんにバレちゃまずい話だった」
包囲網から割って出てくるのは、馬に乗り純白のターバンを巻く若者「ルイーヌ」であった。
カストディオから聞いていた話では、この包囲網を作る兵団はざっと千人強は居たはずだ。被害を出し、兵を少し失った状態でここに返ってきているとは言っても、とても一人の人間がこの全ての兵数を完璧に透明化させるなんてほぼ不可能に近い。
それを顔色変えずにあっさりとやってのけるそのルイーヌの姿に、ベアトリーチェ達は微かに恐怖を覚えた。
「うーん、やっぱまだあのカストディオ卿に比べると結界の張り方が甘くないかな?このくらいの張り方じゃ俺と魔騎兵に破られても仕方ないよ?」
「貴様、人間如きがベアトリーチェ様の結界を破れるとでも!?」
「トロールに凄まれるなんて、いやぁ、中々圧巻だね」
ルイーヌは一つ意地悪気にクツクツと喉奥で笑い、そして、スッと右腕を高く挙げる。
まるでそれが合図かの様に上空の魔騎兵、そしてルイーヌの体から圧縮された魔力の波が円状に広がった。ベアトリーチェやマナドゥ、ヴェベール、オートゥイユへ大量の魔力が当てられ、彼らの体が一瞬痺れる。
「ほらね?カストディオ卿に比べれば」
結界内でルイーヌらが放った魔力が外に出ていくことなく弾かれ続け、ついにはそれに耐えきれなくなり、結界は膨張した水風船のように魔力を吐き出しながら破裂した。
マナドゥらはみるみるうちに体格が通常サイズに戻り、ベアトリーチェは無理矢理結界を破壊されたことに相当の負荷が掛かったのか、顔を青ざめながらその場に膝をつき嗚咽交じりの息をする。人間の血を吸い禍々しい姿をしていたはずなのに、朱色の髪は黒髪に戻り、大きく広がっていたはずの羽も縮んでいた。
先のハインリッヒやその配下の極騎兵達との戦闘ダメージがまだ体に蓄積されているマナドゥら、そして自らの要領を超えるほどの魔力を浴びせられて意識が朦朧としているベアトリーチェ。この絶望的な状況を唯一打ち破る可能性である魔王と勇者の二人は、力を使い果たしたようにその場で泥のように眠っている。
「せめて………不律殿と勇者シルビアだけは………」
「無駄だよ、無駄無駄。確かに君たちの作戦は上手くいってた、だけどうちの指揮官さんの方が一枚上手だったのさ。そもそも全体に指示を出すべきカストディオ卿や魔王が一番の前線に出てるじゃないか、変わりゆく戦況に対して誰が指示を出すんだよって話。この世界の現実は甘くない、数々の戦を潜り抜けてきた君ら『トロールの三小兵』なら分かるだろ?───」
「───この戦況がどうやったって覆らないことぐらい」
ルイーヌが「捕獲弾、前へ!」と、その細身に似つかわしくない大声を上げると、騎兵隊の包囲を割る様に、肩に大砲を担いだ極騎兵達がベアトリーチェらを取り囲む様に数十人現れた。
ギリギリと歯を食いしばりながら立ち上がるマナドゥらだが、やはりルイーヌの言った通りで、この戦況を覆す手段が何一つ思い浮かぶことは無い。少しでもおかしな動きを見せようものなら、上空を飛ぶ魔騎兵達の魔力であっという間に拘束されるだろう。
「トロールの君達とベアトリーチェは捕縛させてもらう。魔王と勇者は後顧の憂いだ、指揮官さんの言った通りこの場ですぐに殺す、目を覚まさないうちにやっておかないとね」
先ほどのおちゃらけた感じでは無く、淡々と静かに冷酷なその声色から、ルイーヌの言葉がすべて本気であるという事が感じ取れた。
鬼達はお互いに目配せをし、一つ頷く。例え敵わずとも命を捨てる、彼らの脳内にはその言葉しか浮かんでいない。
もうとっくに体力の限界にあるはずの三体のトロール達は瞬時に不律、シルビア、ベアトリーチェの体をそれぞれ抱きかかえ、バラバラの方向に跳躍をした。
「それもとっくに分かってんだよ、おい!抑えつけろっ!!」
結界を破ってから密かに微細な魔力をソナーの様に発し続けていたルイーヌは、マナドゥ達の微細な動きが手に取るように分かっている。バラバラの方向へ跳躍しようとしたその瞬間のことだ、それを察知していたルイーヌの一声により宙に浮かんでいる魔騎兵全兵が魔力を用いて、広場中に圧をかけた。急に重力が増したかの様に、マナドゥ、ヴェベール、オートゥイユはその場に思い切り膝をつく。
しかし決してその腕に抱いている者を地に落とすことは無い。
「ハインリッヒのおっさんがあんたたちを危険視していた意味が今ようやく分かった気がするよ」
ルイーヌは極騎兵達に指示を出す。
空気に穴を空けるかのようなボゴンという音が一斉に響き、端に鉄球のついた網がマナドゥ達を絡めとった。いくら叫ぼうともその網から抜けることも、重圧の中動くことも出来やしない。
不意に、シルビアと不律の額間近に、魔力で形作られた光のナイフが複数本現れる。
「これで、長い戦争は完璧に終わりだ」
「いえ、私たちの冒険はまだまだ続きますよ」
この場の誰もが、何が起きたのか分からなかった。
一瞬のうちに辺り一面が光に塗りつぶされる。その光の正体は圧倒的な魔力だ。そしてその魔力が誰のものなのか、ルイーヌにははっきりと分かった。分かったが、理解することは出来ない。
どうして、意味が分からない、ありえない。ルイーヌの心の中にある理不尽な困惑が段々と真っ赤な怒りに変わっていくのを感じる。眩しくて目を開けられないまでも、怒りに任せてルイーヌは声を大きく上げた。
「何故、何故だ!?さっきまで死人同然だったはずだろう!?」
「私は『勇者』ですよ。今までも、守るべき人たちを守る為ならどんな奇跡だって起こしてきました」
光が次第に消え入り、そこに立つのは先ほどまで確かに意識を失っていたはずのシルビア・ランチエリの姿であった。ルイーヌが放っていた魔力のソナーからは微細な魔力も感じられていなかったはず、だからこそここで「勇者」の姿をした少女が立ちはだかっている意味が分からないのだ。
外の世界にようやく目が慣れた頃には、そこに広がる光景は全くの別世界のものとなっていた。網が切り裂かれ穏やかにその場で眠るベアトリーチェやマナドゥら、そして魔王の姿の不律。上空を覆っていたはずの全魔騎兵は意識を失ったり、痛みに声をくぐもらせながら地を掻いている。
「自分でも、私の身に何が起きたのか分かりません。ただ、私はこの『今』を『奇跡』と呼ぶことにします。初めてですよ、こんなにも胸が温かく、力が溢れ出してくるのは。意識を失っている間も、私には不律さんの想いが届いていました………彼が決断したのなら私も決めましょう。例え『勇者』であった今までの私を捨て去ったとしても、不律さんと、その不律さんが大事にしているものを守るという覚悟を」
シルビアの目の前に広がる世界は、未だかつてないほど清々しく綺麗だった。
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