宿角玲那の生涯

京衛武百十

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宿角玲那編

遺体

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リアルでは、誰も玲那を育ててくれなかった。実の父親も、母親も、新しい父親も育ててなどくれなかったし、学校の教師も玲那だけを見ている訳には行かず十分に彼女の相手をできているとは言い難かった。とは言え、イジメなどが酷くならないように対処してくれていただけでも相当頑張ってくれてたと言ってもいいだろう。だから学校に責任があったとは言い難いと思われる。

故に玲那は、ネットによって育てられたという一面があったのかもしれない。分からないことがあれば何でもネットを使って調べた。

だが、ネット上の情報や意見には、嘘や錯誤や改竄や悪意が少なからず含まれていることは承知のとおりである。それを見抜けるだけの能力は、やはりリアルとの比較によってしか身につかないのかもしれない。ネット上の情報は、その裏付けとされる根拠やソースそのものが捏造されていることが多々あるからだ。

ネットそのものは単なる道具に過ぎない。使い方によっては非常に役立つ便利な道具だろう。自動車の事故が多いからと言って自動車そのものの存在が否定される訳でもないのと同じで、あくまで使う側の問題なのだ。

ただ、現時点ではまだ利用する側が十分に成熟していないということもまた、事実なのだと思われる。そんなネットに、人間の心を育てさせたらどうなるか……

自分の気に入らないものは徹底的に貶め、弄り、攻撃する。その場の流れを読むことだけを優先し、それに少しでも水を差そうものなら袋叩きにして排除しようとする。

他人の死を願う言葉が持て囃され、まるで挨拶の如く気軽に交わされる。

誰かが死ねば『ザマアwwwwwww』とその死を嘲笑する。命の尊厳などそこには存在しない。しかもそれを疑問にさえ思わず当たり前のものとして、小学生はおろか本来なら分別が備わっている筈のいい歳をした大人までがそうしているのだ。

親に心を育ててもらえず、およそ幼児の頃から精神面での成長が止まってしまっている人間がそれを常識として学び取ってしまうのだ。それがどれほど恐ろしいことか、考えることはできないだろうか。

宿角健雅すくすみけんがは親として玲那を躾けているとうそぶいているが、実態はこんなものである。彼女の心は育てずに、自分に都合の良いロボットとして服従させようとしているに過ぎないのだ。それは決して<躾>ではない。

『親を敬え、親の言うことには従え、挨拶をしろ』

しかし、口で言っただけでは玲那は親を敬わないし、従う気もないし、挨拶などしたいとも思わない。口で言っても聞かないから、口で言っても分からないヤツだから殴る。それが健雅の考え方だった。

『口で言っても分からないヤツは殴るべき』

そういうことを言ってる人間から見れば、健雅のやってることは正しいはずではないのか?

だがそうなのか? 本当に正しいのか? 表面的な理屈だけなら健雅の言っていることは道理かもしれないが、健雅のやってることが正しいと思うか? もし健雅のやってることが正しくないと思うなら、何が正しくないのか説明できるか?

そこで、この男のすることには<愛情>や<思いやり>が足りないと仮定してみる。ではその<愛情>や<思いやり>が足りないということをどうやってこの男に分からせる? およそいくら言葉を並べてもこの男には届かないだろう。では、言葉でいくら言っても分からないから殴るか? 殴って<愛情>や<思いやり>を教えるか?

どうやって? どう殴ったら<愛情>や<思いやり>が理解できる? 愛情を込めて殴れば伝わるか? 健雅が愛情を感じてる人間などいないのに? 健雅が愛してもいない相手が一方的に愛情をもって殴ったとしてそれで愛情が伝わるというのか?

『愛情を込めて殴ればきっと伝わるはずだ!』

いやいや、そんなものはそれこそ<ご都合主義>以外の何物でもないのではないのか?

<愛情>や<思いやり>は、殴って伝わるようなものだろうか? 教えられるものだろうか? <愛情>や<思いやり>こそが人間にとって大切なものだとするなら、結局、殴ることで人が育ち、大切なものが伝わる訳ではないと考えられないだろうか?

愛情、思いやり、優しさ、気遣い。そういったものはどうやれば伝わるものなのだろうか?

そういうものはやはり、自分がそのようにしてもらえて初めて、必要であり大切であり、どのように相手に接することが愛情や思いやりや優しさや気遣いと言われるものとなるのかを実感することができるのではないのだろうか?

考えてみれば、伊藤判生いとうばんせいも、京子けいこも、宿角健雅すくすみけんがも、そのようにしてもらってきていないのだ。彼ら自身が、愛情や思いやりや優しさや気遣いといったものを実感できるような接し方をしてもらっていないのである。だから彼らにはそれが何なのか分からないし、どうすることがそれに当たるのかも分からなかった。とにかく怒鳴って命令して殴れば人間は育つものだと教わってきた。故にそうするだけなのだ。

それだけのことでしかなかったのである。

となれば、そんな人間達に囲まれてきた玲那も当然、愛情や思いやりや優しさや気遣いと言われるものを学んではきていない。教わっていない。教わってないから分からないし備わっていない。そういうものが欠落したところに、他人を罵り、蔑み、貶め、弄り、吊し上げて己の憂さを晴らし楽しむという行為が正当なことであるかのように多くの人間によって行われている様子を見せたらどのようになるだろうか? 想像するのも恐ろしい。

もし、誰かが、愛情や思いやりや優しさや気遣いといったもので玲那を守ることができていたら……

彼女に、それがどれほど心地よく、自らを癒し、慰め、穏やかな気持ちにしてくれるのかを悟らせることができていたら……

丸磯昭子まるいそしょうこ陽菜ひながしてくれたことがどれほど自分にとって大切なものだったかを改めて実感させてくれる者がいたとしたら、玲那はどのような人間になっていたのだろうか……

それを知ることはもはや叶わない。それはもう、意味の無い<たられば>に過ぎない。

京子けいこに罵られ、健雅けんがに殴られ、虐げられ、嬲られた彼女は、自分を蔑ろにする者には等しく死をもって購わせるべきという、もはや<信念>とでも言うべき強固な価値観を自らの内に育て上げていた。

中学、高校の六年間は、彼女にとって、己の牙となるべき強い意志と精神力と肉体を鍛え上げる為の絶好の期間となった。特に、中学三年生から高校高校卒業までは、まるで一流のアスリートの如く鍛錬を続けた。復讐を成し遂げる為に。

その間にも、健雅けんがに嬲られたことにより三度妊娠し、二度の人工妊娠中絶を受け、その影響によるものか、三度目の妊娠については自然に流産した。それらの経験も当然のように彼女の恨みをより強固なものに変えていくこととなった。

流産により死んだ胎児を病院で処置してもらった時には、まだ殆ど人の形すらしていない我が子の遺体と対面もした。

「…あれ…? なんで……?」

それを見た瞬間、玲那の目から涙が溢れた。悲しいとか辛いとかそんなことは感じてなかった。胸を締め付けるような感覚さえなかった。それなのに涙だけが勝手に溢れてきたのだ。それはこの時にはまだ辛うじて残っていた彼女の人間性の欠片だったのかもしれない。それを確かめる術はもはやないが、これが彼女がまともに流した生涯最後の涙だったようだ。

この後、玲那は、己の中で大きく育った負の感情を具体的に結実させるまで、人前で感情を見せることは一切なかったのであった。

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