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宿角玲那編
増幅する悪意
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来支間克光の死により正気を失い、闇へと転がり落ちた娘の久美のことを母親の智美がどう思っていたかと言えば、実に救いようのないものでしかなかっただろう。
本来ならここで娘を支えるべき母親は、彼女のことを、<腹を痛めて産んだ自分の娘>ではなく、<どうしようもなく下衆な淫行男の娘>としか見ていなかったのだ。父親の死に打ちのめされ錯乱する彼女を哀れむどころか蔑みの目で見てさえいた。この時の母親の脳裏にあったのは、
『もっと早くに離婚するべきだった』
という後悔でしかなかった。その後、智美は克光の保険金を受け取りマスコミの取材から逃れるように姿を隠した。遺産相続や裁判などの諸々の煩わしいことの一切を弁護士に任せて。
とは言え、それ以降の智美の人生が幸せだったかと問われれば疑問符しかつかないと思われる。保険金や遺産相続により金銭的にはそれほど苦労はしなかったかもしれないが、誰も信じられず精神はささくれ立ち、常に苛々していて口を開けば不平不満か悪態ばかり。それでも金さえあれば幸せだと思うのなら幸せだったのかもしれない。しかし本当のところは本人にしか分かるまい。
ただ、こうやって状況の中心から距離を置くことでそれ以上の不幸に呑まれることを回避できたのも事実なのだろう。取り返しのつかないことをしてしまった敏文とその両親に比べれば。
警察に逮捕されてからも敏文は、自分は正しいことをしようとしただけで、伯父が死んだのは自業自得であり事故でしかないと主張した。だがそんな理屈が通る筈もない。警察にしてみれば、少女を使った売春組織の有力な手掛かりの一つとなる筈だった来支間克光の死で、重要な証言が得られなくなってしまったのは間違いなかったのだから。そう、警察にとっては、『余計なことをしてくれた』というのが偽らざる感想だったのだ。
それでもせめてもと克光の事務所と自宅の家宅捜索に踏み切り、彼のPCやデジタルカメラ、ビデオカメラ等を押収。PCの中に残されていた、少女に断りなく行為を盗撮したと思しき多数の写真や動画などを見付け、そのうちの数人の身元を制服や会話に出てきた名前等から特定、補導して証言を得た。それにより、被疑者死亡という形ではあるが児童保護法違反等の罪状で書類送検まではこぎつけた。
しかし、それだけだった。克光は非常に用心深い性分だった為に、芸能事務所へ紹介した少女については一切の痕跡を消し、画像や動画の復元すらできないようにハードディスクもメモリーカードも物理的に破壊して処分していた。PCに残っていたのは、個別に援助交際で出会った少女達であり、彼にしてみれば二級品以下の存在でしかなかった。逆に、だからこそデータをぞんざいに扱っていたというのもある。そして玲那のデータは残っていなかった。その為、敏文の証言に基づいて玲那に対しても任意で事情聴取を行おうとしたものの拒否されて、それ以上突っ込んだ捜査ができなかった。
故に、敏文の克光に対する疑いそのものが明確な根拠に基づいたものであるということが立証できず、単なる思い込みで伯父を追い込もうとした挙句に死に追いやった身勝手な犯行という図式が出来上がってしまったのだった。
確かに、他の証拠から克光の淫行が事実であることは判明した。しかし、敏文の行為を正当な義憤からのものであったとするには証拠が足りないということである。これは、玲那の話を聞いたという来支間久美の証言を得られなかったことも大きかった。淫行そのものの画像や動画が見付かり克光の容疑がほぼ確定的になった時点で既に久美から証言が取れるような状態ではなく、回復を待とうとしているうちに病院の階段から転落し死亡してしまったのだから。
玲那が証言を拒んだことは敏文にも伝わり、彼は愕然としたという。
「何で…? 僕はあの子の為に…! あの玲那っていう子の為にこんなことしたっていうのに……!!」
そして留置場の中で久美の死を知るに至り、彼の困惑はやがて憎悪へと変化していった。
『やっぱり、あいつを久美から引き離さなかったのが間違いだったんだ…! あいつの所為で僕も久美も……!!』
この時の『あいつ』とは、もちろん玲那のことである。
<久美には詳しい話をしておきながら、警察には口をつぐんで自分を不利な状況へと追い詰めたクズ>。
それが、敏文による玲那の人物評となっていた。
だがこのことが、敏文に何らかの覚悟を決めさせたらしい。その後の彼はまるで心を入れ替えたかのように素直に罪を認め、協力的になった。司法手続きを円滑に進め、反省の態度を示し、早々に裁判の結果を出して刑に服し、最短で刑期を終えようとでもするかのように。
いや、まさにそれが狙いだった。自分はまだ未成年なので、しっかりと反省の態度を示せば大きく減刑される可能性は高い。場合によっては執行猶予がつく可能性もあるだろう。もしそれが駄目でも早々に刑を終えて釈放されれば、今度は<あいつ>に相応の報いを受けさせに行ける。そう考えたのだ。
敏文は、何も分かっていなかった。実際には何一つ反省などしていなかった。そういう考え方が今回の事態を招いたのだということに全く考えが至らなかったのである。
それは敏文の両親もそうだったのだろう。自分の子供は、淫行していた克光に復讐しようとした少女の計略にはまっただけでしかなく、責任は全て克光とその少女にあるとさえ考えていた。
実に近視眼的で自分本位で身勝手な発想だと言える。そして敏文はまさに、そんな両親の考え方を見事なまでに完璧に受け継いでいたということだ。
さりとて、そんな事情を知る由もない無責任な世間は、伯父を歩道橋から突き落として殺した敏文のことも当たり前のように攻撃していた。
『未成年のうちに人を殺しておこうと考えたんだろ』
『また未成年だからって守られるのかよ。少年法廃止しろ!』
『名前と顔を晒せよ!』
『裁判なんかイラネ。今すぐ吊るせ!』
『家族ともども即刻死刑! 殺人者の血は根絶やしにしろ!!』
等々。
自分がどこの誰か分からないと思えば本当に強気で大きな口を叩く卑劣な輩の多いことだと呆れるしかない。そう。こういうことを言っているのは、ごく一部の一握りの人間ではないのだ。小学生から本来は分別ある大人である筈の壮年までと、幅広い層にわたって少なくない人間がそれをやっているのである。正義を振りかざし、正義を執行する為に攻撃を加える。それがまさに敏文がやったことそのものであるということを考えさえせずに。
批判は当然だ。敏文がやったことは許されないことなのだからそれは責められるべきである。だが、批判と罵詈雑言は違うのだ。いい歳をした大人でさえその違いを区別できていない者が多いようだが。
顔を晒し身元を明かしてテレビなどで辛辣なコメントをするコメンテーターなどとも違う。匿名に守られ、正義のふりをした卑劣な悪意。
確かに、強大な権力や暴力から身を守る為には匿名であることは非常に有効な防壁ともなろう。だから匿名が必要な場合があるのは分かる。善意の内部告発者の情報が秘匿されるのはその為だ。
だが、さして力も持たぬ個人を多数で袋叩きにする為にそれを用いるなら、そんなものはただの卑怯者の隠れ蓑でしかない。その卑怯者がどの面を下げて敏文を責めるというのか。
それが敏文の両親を追い詰め、そして敏文の憎悪にさらに燃料を与える結果になるということすら、想像できないということなのだろう。
本来ならここで娘を支えるべき母親は、彼女のことを、<腹を痛めて産んだ自分の娘>ではなく、<どうしようもなく下衆な淫行男の娘>としか見ていなかったのだ。父親の死に打ちのめされ錯乱する彼女を哀れむどころか蔑みの目で見てさえいた。この時の母親の脳裏にあったのは、
『もっと早くに離婚するべきだった』
という後悔でしかなかった。その後、智美は克光の保険金を受け取りマスコミの取材から逃れるように姿を隠した。遺産相続や裁判などの諸々の煩わしいことの一切を弁護士に任せて。
とは言え、それ以降の智美の人生が幸せだったかと問われれば疑問符しかつかないと思われる。保険金や遺産相続により金銭的にはそれほど苦労はしなかったかもしれないが、誰も信じられず精神はささくれ立ち、常に苛々していて口を開けば不平不満か悪態ばかり。それでも金さえあれば幸せだと思うのなら幸せだったのかもしれない。しかし本当のところは本人にしか分かるまい。
ただ、こうやって状況の中心から距離を置くことでそれ以上の不幸に呑まれることを回避できたのも事実なのだろう。取り返しのつかないことをしてしまった敏文とその両親に比べれば。
警察に逮捕されてからも敏文は、自分は正しいことをしようとしただけで、伯父が死んだのは自業自得であり事故でしかないと主張した。だがそんな理屈が通る筈もない。警察にしてみれば、少女を使った売春組織の有力な手掛かりの一つとなる筈だった来支間克光の死で、重要な証言が得られなくなってしまったのは間違いなかったのだから。そう、警察にとっては、『余計なことをしてくれた』というのが偽らざる感想だったのだ。
それでもせめてもと克光の事務所と自宅の家宅捜索に踏み切り、彼のPCやデジタルカメラ、ビデオカメラ等を押収。PCの中に残されていた、少女に断りなく行為を盗撮したと思しき多数の写真や動画などを見付け、そのうちの数人の身元を制服や会話に出てきた名前等から特定、補導して証言を得た。それにより、被疑者死亡という形ではあるが児童保護法違反等の罪状で書類送検まではこぎつけた。
しかし、それだけだった。克光は非常に用心深い性分だった為に、芸能事務所へ紹介した少女については一切の痕跡を消し、画像や動画の復元すらできないようにハードディスクもメモリーカードも物理的に破壊して処分していた。PCに残っていたのは、個別に援助交際で出会った少女達であり、彼にしてみれば二級品以下の存在でしかなかった。逆に、だからこそデータをぞんざいに扱っていたというのもある。そして玲那のデータは残っていなかった。その為、敏文の証言に基づいて玲那に対しても任意で事情聴取を行おうとしたものの拒否されて、それ以上突っ込んだ捜査ができなかった。
故に、敏文の克光に対する疑いそのものが明確な根拠に基づいたものであるということが立証できず、単なる思い込みで伯父を追い込もうとした挙句に死に追いやった身勝手な犯行という図式が出来上がってしまったのだった。
確かに、他の証拠から克光の淫行が事実であることは判明した。しかし、敏文の行為を正当な義憤からのものであったとするには証拠が足りないということである。これは、玲那の話を聞いたという来支間久美の証言を得られなかったことも大きかった。淫行そのものの画像や動画が見付かり克光の容疑がほぼ確定的になった時点で既に久美から証言が取れるような状態ではなく、回復を待とうとしているうちに病院の階段から転落し死亡してしまったのだから。
玲那が証言を拒んだことは敏文にも伝わり、彼は愕然としたという。
「何で…? 僕はあの子の為に…! あの玲那っていう子の為にこんなことしたっていうのに……!!」
そして留置場の中で久美の死を知るに至り、彼の困惑はやがて憎悪へと変化していった。
『やっぱり、あいつを久美から引き離さなかったのが間違いだったんだ…! あいつの所為で僕も久美も……!!』
この時の『あいつ』とは、もちろん玲那のことである。
<久美には詳しい話をしておきながら、警察には口をつぐんで自分を不利な状況へと追い詰めたクズ>。
それが、敏文による玲那の人物評となっていた。
だがこのことが、敏文に何らかの覚悟を決めさせたらしい。その後の彼はまるで心を入れ替えたかのように素直に罪を認め、協力的になった。司法手続きを円滑に進め、反省の態度を示し、早々に裁判の結果を出して刑に服し、最短で刑期を終えようとでもするかのように。
いや、まさにそれが狙いだった。自分はまだ未成年なので、しっかりと反省の態度を示せば大きく減刑される可能性は高い。場合によっては執行猶予がつく可能性もあるだろう。もしそれが駄目でも早々に刑を終えて釈放されれば、今度は<あいつ>に相応の報いを受けさせに行ける。そう考えたのだ。
敏文は、何も分かっていなかった。実際には何一つ反省などしていなかった。そういう考え方が今回の事態を招いたのだということに全く考えが至らなかったのである。
それは敏文の両親もそうだったのだろう。自分の子供は、淫行していた克光に復讐しようとした少女の計略にはまっただけでしかなく、責任は全て克光とその少女にあるとさえ考えていた。
実に近視眼的で自分本位で身勝手な発想だと言える。そして敏文はまさに、そんな両親の考え方を見事なまでに完璧に受け継いでいたということだ。
さりとて、そんな事情を知る由もない無責任な世間は、伯父を歩道橋から突き落として殺した敏文のことも当たり前のように攻撃していた。
『未成年のうちに人を殺しておこうと考えたんだろ』
『また未成年だからって守られるのかよ。少年法廃止しろ!』
『名前と顔を晒せよ!』
『裁判なんかイラネ。今すぐ吊るせ!』
『家族ともども即刻死刑! 殺人者の血は根絶やしにしろ!!』
等々。
自分がどこの誰か分からないと思えば本当に強気で大きな口を叩く卑劣な輩の多いことだと呆れるしかない。そう。こういうことを言っているのは、ごく一部の一握りの人間ではないのだ。小学生から本来は分別ある大人である筈の壮年までと、幅広い層にわたって少なくない人間がそれをやっているのである。正義を振りかざし、正義を執行する為に攻撃を加える。それがまさに敏文がやったことそのものであるということを考えさえせずに。
批判は当然だ。敏文がやったことは許されないことなのだからそれは責められるべきである。だが、批判と罵詈雑言は違うのだ。いい歳をした大人でさえその違いを区別できていない者が多いようだが。
顔を晒し身元を明かしてテレビなどで辛辣なコメントをするコメンテーターなどとも違う。匿名に守られ、正義のふりをした卑劣な悪意。
確かに、強大な権力や暴力から身を守る為には匿名であることは非常に有効な防壁ともなろう。だから匿名が必要な場合があるのは分かる。善意の内部告発者の情報が秘匿されるのはその為だ。
だが、さして力も持たぬ個人を多数で袋叩きにする為にそれを用いるなら、そんなものはただの卑怯者の隠れ蓑でしかない。その卑怯者がどの面を下げて敏文を責めるというのか。
それが敏文の両親を追い詰め、そして敏文の憎悪にさらに燃料を与える結果になるということすら、想像できないということなのだろう。
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