宿角玲那の生涯

京衛武百十

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宿角玲那編

錯乱

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突然父親を喪った、しかもそれが兄のように慕う従兄の手によるものであった久美ひさみがその後どうなったかを詳細に語ろう。

伯父を歩道橋から突き落とし死に至らしめた敏文としふみは当然、警察によって逮捕された。その時も

『自分は悪くない! 僕は悪辣な伯父を懲らしめようとしただけだ!!』

的なことを口走りながら抵抗したが、本職の警察官数人がかりが相手では無駄な抵抗だった。

また、力一杯踏みつけられたブレーキによりロックした大型トラックの巨大なタイヤとアスファルトの路面の間で磨り潰された克光かつあきの遺体は、それをたまたま目撃してしまった人間達の精神に大きな負荷を与えた。

頭蓋は原形を留めないほどに砕かれ、飛び散った脳髄の一部は歩道にまで届いたという。それらを回収する為に動員された警官達で不慣れな者の中には耐えきれずに嘔吐する若い警官もいた。まあ、無理もないことだろうが。

検視の後で葬儀の為に棺に納められたものの、どう工夫しても人の形にはならなかったので、実際の葬儀の時には遺体の上に引き伸ばされた写真が掛けられていたそうだ。

一方、夫の突然の死に来支間智美きしまともみはさすがに驚きはしたものの、自分を受取人にして生命保険をかけていたことから、一人になるとニヤニヤが止まらずに保険会社に連絡を取り、さっそく手続きを始めていた。

なお、久美はと言うと、あまりのことにただ茫然となって何も考えられないという状態だった。玲那の前でもそれは変わらず、玲那が仕方なく久美の家に泊まることは諦めて、まだリフォームの終わっていない自宅へ戻っても、まるで自身が人形になってしまったかのように佇んでいたのだった。

だがそれも、克光かつあきの遺体が検視から戻って通夜が始まる頃には、ノロノロとだが動けるようにはなり、喪服代わりの制服に着替えて通夜に参加するくらいのことはできるまでにはなった。

とは言え、いまだまともに思考が出来る状態にはなかった。それでもこの時、久美の頭の中では様々な過去の記憶が凄まじい勢いで再生され続けていたようだ。逆にその所為で活動の為のリソースが割けなかったとでも言うべきか。

久美にとっては、克光は優しい父親だった。その優しさが、久美が女の子だったからというのはあったとしても優しかったのは事実だった。仕事が忙しくてあまり会えなくても、会えば『久美はいい子だなあ』と言いながら膝に抱いてくれたり頭を撫でてくれたりお小遣いをくれたりもした。いつも不機嫌で小言ばかりで邪険なだけの母親に比べればずっと居心地が良かった。

周囲が時々、父親の仕事が怪しいとか体裁が悪いとか言ってるのも多少は耳に入っていたが、生活には困らないし今時はいろいろな働き方があるのだからそれをとやかく言うのはただ妬んでいるだけだと思って気にしないようにしていた。

幸せだった。確かに久美にとっては幸せだったのだ。その陰で、玲那をはじめとした何人の少女が嬲られて弄ばれていようとも、彼女には全く関係のない話だった。知らなかったのだから。それにこの時点ではまだ、克光の行いは表には出ていなかった。逮捕された敏文の供述と、警察内の情報共有により克光が少女を相手に淫行をしている人物の一人であるという可能性が浮上してきていたことが決め手となって家宅捜索に踏み切る前だったからだ。

だからこの時の久美は、理不尽に父親を殺された哀れな遺族でしかなかったのだ。

「気を落とさないようにね…」

通夜に参列した人の中にはそう気遣いの言葉を掛けてくれる者もまだいた。

深夜に差し掛かり、通夜に参列していた人間がまばらになった頃、久美の脳内では父親の記憶のリピート再生に続き、今度は敏文との記憶が再生されるようになっていた。

敏文も、久美にとっては<優しいお兄ちゃん>だった。泣き虫で内向的だった自分をいつも守ってくれた。励ましてくれた。だから好きだった。いつも上から目線で命令口調だったりもしたが、幼い頃はそれも頼りがいがあると肯定的に捉えていた。さすがに自分も思春期に差し掛かって、初めてできた友達を悪く言われてしまったことにはショックを受けて距離を置くようにはなってしまったものの、それでも嫌いにはなれなかったのだった。

なのに…それなのに……

『トシぃがお父さんを殺した……?』

父親との記憶と敏文との記憶が交差し、唐突にそのことに気付いてしまった時、久美の体を得体の知れない衝撃が奔り抜けた。電撃のような、爆発するような、体がバラバラに弾け飛んでしまいそうな衝撃だった。

「…あ、ぁわ、うわぁぁああぁぁあああぁあぁぁぁーっっっ!!!」

突然、久美があらん限りの力を振り絞って叫んだ。自分の中を奔り抜けた衝撃がそのまま声となって迸ったかのように。

目を見開き、自らの頭を鷲掴みにして、髪を振り乱しながら久美は叫び続けた。パニック状態だった。頭の中を出鱈目な思考が無秩序に錯綜し、自分の体さえ制御できなかった。

「ぁぁああぁぁああぁぁぁぁああぁぁぁあああぁぁっっっっ!!!!」

吐き出される声は全く意味を成さず、まるで何かに取り憑かれたかのように絶叫する少女に、その場にいた人間全員が戦慄を覚えた。

「久美ちゃん!、久美ちゃん落ち着いて!!」

親戚の一人が少女の体を掴み抑えようとするが、彼女はそれを振り払ってなおも叫び続けた。中学一年の少女とは思えない力だった。

すると久美は虚空を見詰め、指差し、ようやく意味のある言葉を発した。

「お父さん! お父さんが帰ってきた!!」

その場にいた者達全員が彼女の指差す方を見たが、そこには誰もいない。何もない。ゾワッとしたものが全員の背筋を駆け抜けた。

「お父さんが帰ってきたよぉ!! ほらそこぉっっ!!!」

久美はなおも叫び続けた。完全な錯乱状態だった。

結局、四人がかりで押さえつけ、救急車が呼ばれて搬送され、久美は病院で鎮静剤を打たれて強制的に眠らされるまで凄まじい力で暴れ続けた。

「お父さんがそこにいるんだよ!! どうして!? どうして誰も分からないのぉぉっっ!!」

力尽くで押さえ付けられても久美はそう叫んでいた。その姿はもはや人間のそれとは思えなかった。辛うじて人の言葉を口にしているだけの獣のようでさえあった。

そのまま彼女は入院を余儀なくされたが、意識を取り戻すと暴れるので、病院側も止むを得ずベッドに拘束し、暴れる度に鎮静剤を投与するという形でしか対処できなかった。

それから二週間が経ち、ようやく暴れなくなったことで拘束が解かれ、看護師ともある程度の意思疎通ができるようになった時の彼女は、自身の指をしゃぶり続け、あやふやな単語をぽつりぽつりと口にするだけの、幼児そのままの姿であったという。

それでも時折、正気を取り戻したかのように意志を感じさせる表情もしてみせたが、その時にはひたすらボロボロと涙を流し嗚咽した。

そしてさらに一週間が経った時、久美は再び暴れ始めた。病室の窓に椅子を叩き付けたのだ。どうやら窓を壊そうとしたらしい。入院患者の自殺防止の為に窓は人が通れるほどには開かない。しかも窓を壊そうとする者もいるので、大型のハンマーで殴っても割れない強化ガラスが用いられていた。

その日は結局、また鎮静剤が打たれ眠らされた久美だったが、その翌日に看護師の目を盗んで病室を抜け出し、階段の下で倒れているところを発見された。自殺なのか事故なのかは判然としなかったが、頭を非常に強く打っており、脳が大きく損傷していたのだった。

懸命の治療が続けられたものの、その四十八時間後に脳死状態であると判定され、死亡が確認された。



来支間久美きしまひさみ。享年、十三歳。死因、脳挫傷。

父親を従兄に殺された殺人事件の遺族であり、何人もの少女を嬲り弄んだ淫行事件の加害者の娘でもあった少女の、あまりにも痛ましい最期であった。

なお、この時点では、彼女の父の克光かつあきによる淫行事件は既に明るみに出ていたのだが、彼女がそれを知ることはなかった。

なかった筈である。おそらくは……

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