宿角玲那の生涯

京衛武百十

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宿角玲那編

誤謬

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『敏文。お前はお前の思う通りに生きなさい。私はお前を信じている』

来支間敏文きしまとしふみの父、克仁かつひろが何故、急にそんなことを言い出したのかといえば、敏文の母親でもある妻が、

『最近、あの子、何か悩んでるみたいなんです』

というようなことを告げたからである。それを聞いた克仁かつひろは、てっきり、大学生になった自分の息子が進路について悩んでいると思い込んでしまったのだ。

なるほど確かにタイミング的にはそういう時期だろう。しかも、克仁自身が今の敏文とちょうど同じ頃に、親に勧められた公務員の道に進むか、それとも役者の道に進むかで思い悩んでいたという経験をしていたのだ。だからつい、息子も自分と同じようなことで悩んでいるのだと思い込んでしまったのである。

克仁は、役者の道と公務員の道を比べて親が勧める公務員の道を選んでしまうほどに堅実で生真面目な一面を持つ人間だった。それ自体は、こうして家庭を守る一家の長としての務めを果たしているところからも間違いなく長所であり美点だったのだろう。だが、この時、克仁はあまりに大きなミスを犯してしまった。

いや、それはこの時たまたまというよりは、元々そういう部分があったというべきなのか。

彼は、自分の思う<父親像>というものに囚われすぎていたらしい。父親というものは、子供と決して慣れ合わず、常にどっしりと構えて威厳を保ち、ここぞというタイミングで的確なアドバイスを与えることこそが理想的だと思い込んでいたのである。だがそれは、あまりにも、ドラマの中などに出てくる<架空の父親像>でしかなかったと言えるのではないだろうか。

彼は、もっと息子と言葉を交わすべきだったのだ。父と子というそれぞれの立場や役目を超えて、腹を割ってお互いの本音を曝け出して語り合うべきだったのだ。そうすれば、この時、自分の息子が本当は何を悩んでいたかが分かった筈である。

外面ばかりを気にして、実際には様々な考えや一面を内に秘めているのが人間であるということを蔑ろにしたことで、克仁は取り返しのつかないミスをすることになってしまった。

「父さん。ありがとうございます…!」

そう言って頭を下げた息子が何を決心したのかすら、彼は理解していなかった。

ドラマに出てくる格好いい父親像など、所詮はフィクションの中の作り物でしかない。実際にはドラマでは描かれていない影の部分の方が遥かに多い筈である。それにも拘らずドラマに描かれている部分だけを真似したところで上手くいく筈がないのだ。よほど運に恵まれてでもいない限りは。そして克仁は、その運に恵まれていなかった。それだけだ。

一方、敏文は、伯父の克光かつあきが何をやっているかということを、父は当然気付いているものだと思っていた。しかし兄弟という立場もあり表立って動けないでいると思っていたのだ。それで今回、自分の思い通りにやればいいと背中を押してくれたのだと解釈してしまったのである。確かに克仁も、兄がロクでもないことをしているかもしれないことは薄々察していたし、それに頭を悩ましていたことも事実だ。だが少なくともこの時はそれについて頭にも思い浮かべてはいなかった。

冷静になってしまえば実にくだらないすれ違いだった。お互いにきちんと普段から話し合っていれば回避できたことだった。なのに、そんなあまりに馬鹿馬鹿しい思い違いが取り返しのつかない結果を生むこともある。

もっとも、この父と息子は、お互いの勘違いに生涯気付くことはないのだが。

無理もないか。こんなことがあの結果を生んだなどと想像したくもないだろう。本当の原因に目を瞑り、二人はこの後も自らをドラマの登場人物になぞらえて、悲劇の主人公を演じていくことになる。事実の重大性に比べて、あまりにも浅墓であると言わざるを得ないだろう。

父親に背中を押してもらったと勘違いしてしまったことで腹を括った敏文が部屋に戻ると、そこに久美からの電話が入った。

携帯に出ると、まず聞こえてきたのは久美の泣き声だった。

「トシぃ…私…、私……」

話そうとはするのだが、感情が昂りすぎて胸につかえてしまい、言葉が出てこない。それほどのことを聞かされてしまったのだと敏文は察した。

「久美。慌てなくていい…ゆっくりと話してくれたらいいから……」

そう気遣う様子を態度で示して、彼は久美が落ち着くのを待った。そういう器を見せられている自分自身に酔っていた。

やがて少しずつ、玲那から聞かされた内容を話す久美のそれは、ある程度の予測はしていたものの、彼の想像を超えて凄惨なものだった。そして、僅か十歳の少女を嬲り愉悦できる伯父に対する憤りがより強く形を成していった。あの男を放っておくのは、正義に反すると彼は思った。

「ありがとう…彼女にもよく話してくれたと感謝しておいてほしい。後は僕に任せておいてくれ……」

久美の話が終わり、泣きじゃくる彼女にそう声を掛けて電話を切った彼は、強い決意をその顔に浮かび上がらせていた。

『これは、僕がやらなくちゃいけないことだ…!』

それは、間違いなく彼なりの正義感だったのだろう。幼い少女を嬲り食い物にする悪辣な男を許せないと考えるその気持ちは確かに尊いものであっただろう。だが、彼は警察官でもなければ検事でもない。法律上の知識も多少は備えていたかもしれないが、それでも法律の理念そのものを正しく理解してるとは到底言い難かった。

専門家である筈の警察や検察ですら間違いは犯すし失敗もする。だからこそ冤罪事件などが存在するのだ。それを、目先の感情のみを優先する素人にやらせればどんなことになるか、客観的に物事を見られる人間なら分かる筈だ。この世の多くの傷害事件・殺人事件が、加害者側の一方的な<正義>によって発生しているのだということが。

自制無き正義が何をもたらすか、敏文は自ら体現することになる。

翌日。昨夜の久美の電話を受けた時のテンションそのままに、彼は伯父の事務所へと向かった。それは、戸建ての借家を事務所と称して使っているだけの伯父の別宅だった。

その伯父の事務所の近所まで来た時、彼は思いがけない姿を見た。その瞬間、彼の頭の中でカアッと何かが熱を発するのを感じた。怒りか憤りか、とにかく激しい感情がもたらすものだったのは間違いない。そんな彼の視線の先にいる者。

伯父の克光かつあきだった。克光がコンビニから出てくるところを目撃してしまったのである。朝食か何かを買いに出たのであろう。弁当と思しき商品が入ったレジ袋を提げていた。克光は事務所に戻ろうとしているのか、歩道橋を上っていく。それを、体の中に湧き上がるものに突き動かされるようにして敏文は追った。

この時の敏文は、いわゆる<視野狭窄>に陥っていたのだろう。己の感情に囚われ、冷静な判断が出来ず、周囲が見えていない状態だった。彼の頭にあったのは、卑劣な伯父に正義の鉄槌を下すというただ一点のみだったと思われる。

「伯父さん!」

歩道橋を上がったところで、先を歩いていた克光を、彼は呼び止めた。いきなり声を掛けられて驚いた克光だったが、振り向いた先に見慣れた顔を見付けて安堵するのが分かった。

「ああ、敏文君か。こんなところで奇遇だね。どこかに出かけるところだったのかい?」

たまたま甥に出くわした伯父として当たり前の返答をして、穏やかに彼を見た。しかしそんな克光に対して敏文は、顔を真っ赤に紅潮させ、大股で歩み寄っていったのだった。

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