宿角玲那の生涯

京衛武百十

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宿角玲那編

思いがけない提案

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来支間久美きしまひさみは、中学に上がってからも玲那の傍にいた。やたらと馴れ馴れしくする訳ではないが大体いつも玲那と行動を共にしていて、同級生などからは普通に<友達同士>だと思われていた。

だがこの時、久美ひさみの家庭は崩壊寸前の状態にあった。元より、本来は家長である筈の来支間克光きしまかつあきは週の半分も家におらず、何やら怪しげな自称タレント事務所社長であることが一番の原因だっただろう。故に克光かつあきの妻でもあり、久美ひさみの母親でもある来支間智美きしまともみは、離婚届に自分の名前と判を押し、後は克光かつあきのそれをもらえればいつでも提出できる状態にしていた。

しかも、それを娘の目にも止まるようにとでもしているのか、そのままテーブルの上に広げて置いたりもしていた。

『そんな……』

『離婚するから』という母親からの無言のアピールをそこに感じ取った久美ひさみだったが、自分はどうすればいいのかまるで分らず、ただ鬱々とそれが回避されることを願うしかできなかったのだった。

ある時には、つい、玲那の前で、

「もしかしたら、お父さんとお母さん、離婚するかもしれない……」

と呟くように口にしたりもしたが、玲那は玲那でこの時、それどころではない状況だったのでまるでそれが聞こえていないかのように取り合うことすらなかった。

昼休憩。一応、母親が用意してくれた弁当を開ける久美ひさみの前で、玲那は、昨日の営業時間終了直前にスーパーで買ってきた見切り品のホットドッグを弁当として黙々とかじっている。既に日付が変わった時点で<消費期限>は切れているが、万が一のことがあったところで構わないと投げやりになっている彼女にとっては何の問題もなかった。

中学校に上がってからも冷たい目をして常に押し黙っている玲那は、小学校の頃と変わらず浮いた存在だった。しかし単発的に男子にからかわれたり陰口を叩かれることはあったものの、過度なイジメなどは特になく、同級生達もただ距離を置いているだけで概ね平穏であっただろう。いや、そうでなければいけなかった。何故なら、この時、既に彼女はそれまでのただ大人に怯えて震えているだけの存在ではなくなっていたのだから。

一人きりの自室で両手に包丁を構え、どのようにして母親やあの男に立ち向かうかというイメージトレーニングに精を出していた彼女が、感情を窺わせない冷たい視線の奥で、時折、どす黒い何かを揺らめかせていることを見抜ける者は誰もいなかったようである。

そういう存在と出会えなかったことが、果たして玲那に責任があることなのかどうか……



放課後。家に向かう玲那の足取りは重かった。実は今、玲那をはじめとした少女達を食い物にして荒稼ぎした蓄えを基に母親の思い付きで始まったリフォームの真っ最中で、自分の部屋以外はとても人が住めるような状態ではなかったのだった。母親の京子けいこと<父親>の宿角健雅すくすみけんがは自分達だけ部屋を借りて退避中である。しかし娘については、彼女の部屋として使っている一室だけをリフォームの対象から外し、そこで生活を続けさせていたのだった。

作業を行っている職人達の間をすり抜け、玲那は自分の部屋へと向かう。リフォーム中にも拘らず無理に生活を続けるその娘を、職人達は奇異の目で見ていたりもした。中にはまずまず美しいと言ってもいい彼女の制服姿を見て淫猥な笑みを浮かべる者もいたが、特に問題もなく工事は進んでいく。それよりは、壁を失って養生シートで覆っただけの建物では防犯上も不用心だったことの方が問題だったかもしれない。

だが玲那にとっては、そんなことも些細な問題だった。今さら何者かが侵入してきて何をされようともこれ以上自分がどうにかなる訳でもないという開き直りもあったのだろう。

自室にこもり宿題を終わらせ、風呂は自転車で五分ほどのところにあった銭湯に通った。

慣れた感じで番台に料金を置いた時、「伊藤さん」と、彼女に声を掛ける者がいた。他人のいるところではいつもそうしている、人形のように意思を感じさせない様子で声の方に振り向いた玲那の視線の先にいたのは、久美ひさみであった。なぜこんなところにいるのかと言うと、実は時々、玲那の家まで勝手について行ったりして、リフォーム中で銭湯に通っていることを把握していたのだ。しかも彼女の後を追って銭湯にまで来るなどほぼほぼストーカーだが、久美ひさみとしては悪意はない。ただ玲那と親しくしたかっただけである。

「……」

玲那の方も、久美ひさみが勝手に家までついてきたりしていたことは気付いていたが、追い払うのすら面倒だと感じていたので、勝手にさせている状態だった。すると久美ひさみも、番台で料金を払って玲那の隣で服を脱ぎ始めた。当然のことだが、彼女と一緒に風呂に入りたくて現れたという訳だ。

しかし、それまでは玲那の傍にいられればそれで良かった筈の彼女がなぜ突然ここまでのことをし始めたのだろうか? 

原因は、両親が離婚するかもしれないという不安だった。その不安が彼女を駆り立て、玲那とより親しくなって少しでも不安な気持ちを紛らわせたかったという感じなのだろう。

本当は、両親の離婚を回避させたかった。けれど自分では母親を翻意させられないことは、仮にもずっと一緒に暮らしてきて嫌というほど思い知ってきていた。下手に口出しすると余計に意固地になるタイプだということをよく知っていた。だから敢えてそっとしておく方がまだ離婚が回避される可能性が高いかもしれないという、彼女なりの判断だった。

とは言え、ただ不安の中で黙って耐えるというのも、久美ひさみにとってはあまりにも苦しすぎる選択だった。だから玲那に縋ろうとしてしまった。これまで傍にいて、このくらいだったら大丈夫かもしれないと感じたが故の行動だった。そしてその読みは当たっていた。これまでずっと固く心を閉ざしていた玲那にしてみれば、久美ひさみがまとわりつく程度のこと自体がどうでもいいことでしかなかった。『勝手にすればいい』程度にしか思っていなかったのだ。

『良かった。伊藤さん、いつもと変わってない…』

玲那と並んで体を洗っていた久美ひさみは、そんなことを考えてホッとしていた。こうして距離を詰めようとしても特にこれまでと様子が変わらないのが確認できたからだった。そこでさらに思い切った行動に出た。

「ねえ、伊藤さん。今、おうちをリフォームしてるところなんでしょう? だったらうちに来ない? 今の状態じゃいろいろ不用心だし。ね?」

「…え……?」

思いがけない申し出に、さすがの玲那も咄嗟に久美ひさみを見詰めてしまった。そして縋るような目で自分を見る彼女を、初めてしっかりと見てしまった。

「……」

そんな久美ひさみの姿を見た玲那の胸の奥深いところで、玲那自身にもよく分からない何かが揺らめいていた。

これまで玲那の周りにいて彼女に積極的に関わろうとする人間は、誰も彼も自分を力尽くで捻じ伏せようとするものばかりだった。両親はもとより、客の男達も嫌がる自分を無理矢理組み伏せて体を貪るだけだった。常に上から見下ろし、従わせることしか考えていない連中ばかりだった。なのに、今、自分の目の前にいる少女は、下から見上げるようにしてこちらを見ている。それは、彼女が今まで感じたことのない感覚だった。だからつい、それにつられるようにして言葉が漏れ出てしまったのかもしれない。

「いいの…?」

それは、玲那が他人に見せた数少ない甘えの姿であった。

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