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宿角玲那編
宿角玲那
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母親に連れられて突然現れた男、宿角健雅は、戸惑う玲那に向かって、
『今日から自分が父親だ』
と宣言した。玲那にしてみれば何の冗談かという話だが、残念ながらそれは冗談でも何でもない紛れもない事実だった。既に入籍も、玲那との養子縁組も完了しており、法律上、この男と玲那はれっきとした<親子>なのであった。
実は、伊藤判生と伊藤京子の離婚届の偽造に協力し、伊藤判生として行われた署名は、この宿角健雅の手によるものだったのである。
とは言え、当の判生が異議申し立てもせずそれを了承してしまったことで書類は正式に効力を発してしまい、判生と京子の離婚が成立。その後、僅か数日を経て今度は宿角健雅と京子の婚姻届及び、宿角健雅と玲那との養子縁組届も提出されて受理されてしまっていたのだった。
伊藤玲那は、彼女のまったく知らぬところでいつの間にか宿角玲那となっていたという訳だ。
もうこの無茶苦茶な振る舞いに、玲那は、怒りを通り越してただただ呆れるしかなかった。しかもその新しい父親だという男の異様さにも彼女は眩暈さえ覚えそうだった。外見もさることながら、初対面の血の繋がらぬ娘の胸をいきなり鷲掴みにするその奇行。あの母親はいったい、あんな男のどこが良くて結婚してしまったのかまるで想像すらつかなかった。
突然、以前の父親が経営していた裏風俗店が解散しあの仕事から解放された玲那は、思いがけず与えられた自由に戸惑いつつも満喫していた。中学に進学したばかりだったこともあり、新しい環境でこれまでと違う気分を味わうことになった。それがある種の気分転換と精神的な余裕をもたらし、玲那の表情は、あくまでそれまでと比べての話ではあるが僅かに穏やかな感じになっていただろう。しかも、精神的な余裕は彼女に頭を使って思考する余裕ももたらし、玲那はそれまでとは全く違って自分で<考える>ということもできるようになっていた。
もちろんそれまでもいろいろと考えていたりはした。だがそれは、精神的な余裕などまったくない状態での必要に迫られた限定的な思考でしかなかった。だが今は、『今日のアニメは何だったかな』とか、『あのアニメの展開はどうなのかな』とか、生きる上ではそれこそどうでもいい他愛ない内容をぼんやりと考えることができるというのが彼女にとっては何にもまして嬉しかった。
嬉しい。そうだ。玲那はこの時、ようやく『嬉しい』などということを多少なりとは言え感じることができるようになっていたのである。陽菜に優しくしてもらってほんの一時だけ感じた嬉しさとも違う、本当に何でもない嬉しさ。それもこれも、あの仕事から解放されたからに他ならない。
あの仕事は、彼女にとっては本当に<地獄>だった。玲那は、十歳になる直前から中学に上がった直後まで生きたまま地獄にいたのだ。厳密には生まれてこの方、地獄じゃなかった時期などなかったのだが、仕事をやらされていた時のそれは特に彼女の精神を蝕んだ。心を固く閉ざし何も考えないようにすることで辛うじてバランスを保ってきた。でも今はもうその必要もない。
さりとて、そういうことから突然解放されただけでは彼女は<普通>には戻れない。そもそも彼女にとっての普通とは常に誰かに虐げられ抑圧されてきた状態だったので、それがないというのは玲那にとってはむしろ違和感さえ覚えるものだった。仕事をしなくなって一ヶ月ほど。ようやくその違和感にも慣れてきた状態というところだ。
他の子達と同じように学校に通い、授業を受け、学校から帰れば家で宿題をし、夕食を済ませ、風呂に入り、ただぼんやりとアニメをはじめとしたテレビを見る。そのテレビを見てる途中に母親が乱暴に玄関の扉を開けて仕事に連れて行かれることもない、平穏な時間。
普通の子供なら当たり前の、なんてことのないのんびりとした毎日。ようやく手に入れたそれを満喫していたところだというのに……
『どうしてこんな……』
彼女はそんなことを考えていた。どうして自分ばかりこんな目に遭うと言うのか。この世に必要なかったのなら今からでもいい、消し去ってくれればいい。そうしたらもう何もかも関係なくなる。どうでもよくなる。
それなのに、その程度の望みさえ聞き入れてもらえないのか。
彼女は思う。
『私は、今まで何も考えてこなかった。考えられなかった。考えたら何もかも全部が嫌になるから……
でも仕事がなくなって学校だけ行ってればよくなって、嫌なこともされなくなって私はやっと考えることができるようになった。
だからこれから一杯、いろんなことを考えようと思ってたのに…
それなのに……』
その瞬間、自分の中に何かが噴き上がるように満ちてくるのを玲那は感じた。熱くて苦しくて気持ち悪くて痛い<何か>。
憎悪だった。ここまで散々苦しめてきてこの上まだ嫌なことをしようとする母親と、その母親に連れられたあの不愉快な男。その二人に対する憎悪が凄まじい勢いで彼女を満たしていった。
だが彼女は、それが憎悪であるということすら知らなかった。何か訳の分からないものが自分の中に溢れ出てきてるのは分かるのだが、人はそれを憎悪と呼ぶのだということさえ彼女は教わってこなかった。
許せない。
許せない。
許せない。
許せない。
もう嫌だ。嫌なことをされるのはもう嫌だ。だからそれをやめさせたい。じゃあ、やめさせるのはどうしたらいい?
アニメの中では<悪者>はヒーローや正義の心を持った強い誰かがやっつけてくれる。けれど現実にはそんなのはいない。警察は何もしてくれなかった。政治家も何もしてくれなかった。現実にはヒーローなんていない。だったら自分がやるしかない。
だけど……
だけど私にはそんな力はない。今はまだ私の力は全然弱い。やっとお母さんに叩かれても倒れたりしなくなっただけ。でも、ということは、私もまだこれから体も成長して力も強くなるはずだ。それでもあの男には勝てないかもしれないけど、少なくとも同じ女であるお母さんとは同じくらいの力にはなる筈だ。
そうだ。私も中学生になった。高校生くらいになったらお母さんとは同じくらいの力になるかもしれない。お母さんには勝てるかもしれない。だったらその時までに何かあの男にも勝てる方法を考えておけばいいかもしれない。私でも勝てる方法とか、武器とかを見付けなくちゃ。
そう考えた玲那は台所に行き、包丁を手にした。一本では心許なかったから両手で一本ずつ持ってみた。アニメで見た忍者とかを頭に思い浮かべて構えてみると、ほんの少しだけ自分が強くなったような気がした。アニメの中で刀を構えたキャラクターがやってたみたいに包丁を振ってみた。母親の体を包丁が切り裂くのがイメージできた。すると胸のなかでゾワゾワっとしたものが湧き上がってくる気がした。
『勝てる…? 私でも勝てる……?』
そんな風に思うとそのゾワゾワがさらに大きく湧き上がってる感じがした。口の端が勝手に吊り上がって笑みの形になった。
それは、両手に包丁を構えた中学生の少女が何かを空想しながらニヤニヤと笑っているという異様な光景だった。
玲那の中に湧き出してくるものがはっきりとした形を成していくのが見えるかのようであった。
『今日から自分が父親だ』
と宣言した。玲那にしてみれば何の冗談かという話だが、残念ながらそれは冗談でも何でもない紛れもない事実だった。既に入籍も、玲那との養子縁組も完了しており、法律上、この男と玲那はれっきとした<親子>なのであった。
実は、伊藤判生と伊藤京子の離婚届の偽造に協力し、伊藤判生として行われた署名は、この宿角健雅の手によるものだったのである。
とは言え、当の判生が異議申し立てもせずそれを了承してしまったことで書類は正式に効力を発してしまい、判生と京子の離婚が成立。その後、僅か数日を経て今度は宿角健雅と京子の婚姻届及び、宿角健雅と玲那との養子縁組届も提出されて受理されてしまっていたのだった。
伊藤玲那は、彼女のまったく知らぬところでいつの間にか宿角玲那となっていたという訳だ。
もうこの無茶苦茶な振る舞いに、玲那は、怒りを通り越してただただ呆れるしかなかった。しかもその新しい父親だという男の異様さにも彼女は眩暈さえ覚えそうだった。外見もさることながら、初対面の血の繋がらぬ娘の胸をいきなり鷲掴みにするその奇行。あの母親はいったい、あんな男のどこが良くて結婚してしまったのかまるで想像すらつかなかった。
突然、以前の父親が経営していた裏風俗店が解散しあの仕事から解放された玲那は、思いがけず与えられた自由に戸惑いつつも満喫していた。中学に進学したばかりだったこともあり、新しい環境でこれまでと違う気分を味わうことになった。それがある種の気分転換と精神的な余裕をもたらし、玲那の表情は、あくまでそれまでと比べての話ではあるが僅かに穏やかな感じになっていただろう。しかも、精神的な余裕は彼女に頭を使って思考する余裕ももたらし、玲那はそれまでとは全く違って自分で<考える>ということもできるようになっていた。
もちろんそれまでもいろいろと考えていたりはした。だがそれは、精神的な余裕などまったくない状態での必要に迫られた限定的な思考でしかなかった。だが今は、『今日のアニメは何だったかな』とか、『あのアニメの展開はどうなのかな』とか、生きる上ではそれこそどうでもいい他愛ない内容をぼんやりと考えることができるというのが彼女にとっては何にもまして嬉しかった。
嬉しい。そうだ。玲那はこの時、ようやく『嬉しい』などということを多少なりとは言え感じることができるようになっていたのである。陽菜に優しくしてもらってほんの一時だけ感じた嬉しさとも違う、本当に何でもない嬉しさ。それもこれも、あの仕事から解放されたからに他ならない。
あの仕事は、彼女にとっては本当に<地獄>だった。玲那は、十歳になる直前から中学に上がった直後まで生きたまま地獄にいたのだ。厳密には生まれてこの方、地獄じゃなかった時期などなかったのだが、仕事をやらされていた時のそれは特に彼女の精神を蝕んだ。心を固く閉ざし何も考えないようにすることで辛うじてバランスを保ってきた。でも今はもうその必要もない。
さりとて、そういうことから突然解放されただけでは彼女は<普通>には戻れない。そもそも彼女にとっての普通とは常に誰かに虐げられ抑圧されてきた状態だったので、それがないというのは玲那にとってはむしろ違和感さえ覚えるものだった。仕事をしなくなって一ヶ月ほど。ようやくその違和感にも慣れてきた状態というところだ。
他の子達と同じように学校に通い、授業を受け、学校から帰れば家で宿題をし、夕食を済ませ、風呂に入り、ただぼんやりとアニメをはじめとしたテレビを見る。そのテレビを見てる途中に母親が乱暴に玄関の扉を開けて仕事に連れて行かれることもない、平穏な時間。
普通の子供なら当たり前の、なんてことのないのんびりとした毎日。ようやく手に入れたそれを満喫していたところだというのに……
『どうしてこんな……』
彼女はそんなことを考えていた。どうして自分ばかりこんな目に遭うと言うのか。この世に必要なかったのなら今からでもいい、消し去ってくれればいい。そうしたらもう何もかも関係なくなる。どうでもよくなる。
それなのに、その程度の望みさえ聞き入れてもらえないのか。
彼女は思う。
『私は、今まで何も考えてこなかった。考えられなかった。考えたら何もかも全部が嫌になるから……
でも仕事がなくなって学校だけ行ってればよくなって、嫌なこともされなくなって私はやっと考えることができるようになった。
だからこれから一杯、いろんなことを考えようと思ってたのに…
それなのに……』
その瞬間、自分の中に何かが噴き上がるように満ちてくるのを玲那は感じた。熱くて苦しくて気持ち悪くて痛い<何か>。
憎悪だった。ここまで散々苦しめてきてこの上まだ嫌なことをしようとする母親と、その母親に連れられたあの不愉快な男。その二人に対する憎悪が凄まじい勢いで彼女を満たしていった。
だが彼女は、それが憎悪であるということすら知らなかった。何か訳の分からないものが自分の中に溢れ出てきてるのは分かるのだが、人はそれを憎悪と呼ぶのだということさえ彼女は教わってこなかった。
許せない。
許せない。
許せない。
許せない。
もう嫌だ。嫌なことをされるのはもう嫌だ。だからそれをやめさせたい。じゃあ、やめさせるのはどうしたらいい?
アニメの中では<悪者>はヒーローや正義の心を持った強い誰かがやっつけてくれる。けれど現実にはそんなのはいない。警察は何もしてくれなかった。政治家も何もしてくれなかった。現実にはヒーローなんていない。だったら自分がやるしかない。
だけど……
だけど私にはそんな力はない。今はまだ私の力は全然弱い。やっとお母さんに叩かれても倒れたりしなくなっただけ。でも、ということは、私もまだこれから体も成長して力も強くなるはずだ。それでもあの男には勝てないかもしれないけど、少なくとも同じ女であるお母さんとは同じくらいの力にはなる筈だ。
そうだ。私も中学生になった。高校生くらいになったらお母さんとは同じくらいの力になるかもしれない。お母さんには勝てるかもしれない。だったらその時までに何かあの男にも勝てる方法を考えておけばいいかもしれない。私でも勝てる方法とか、武器とかを見付けなくちゃ。
そう考えた玲那は台所に行き、包丁を手にした。一本では心許なかったから両手で一本ずつ持ってみた。アニメで見た忍者とかを頭に思い浮かべて構えてみると、ほんの少しだけ自分が強くなったような気がした。アニメの中で刀を構えたキャラクターがやってたみたいに包丁を振ってみた。母親の体を包丁が切り裂くのがイメージできた。すると胸のなかでゾワゾワっとしたものが湧き上がってくる気がした。
『勝てる…? 私でも勝てる……?』
そんな風に思うとそのゾワゾワがさらに大きく湧き上がってる感じがした。口の端が勝手に吊り上がって笑みの形になった。
それは、両手に包丁を構えた中学生の少女が何かを空想しながらニヤニヤと笑っているという異様な光景だった。
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