宿角玲那の生涯

京衛武百十

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宿角玲那編

宿角健雅

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「マジかよ…。せっかく割のいいバイトだったのに…」

不満げにそう口にする莉々りりを尻目に、仁美ひとみは思案に暮れていた。

突然仕事を失ったことにはさすがに戸惑ったが、しかし泣き言を並べてもどうにもならないことは既にそれまでの経験で承知していたからだ。

そこで仁美は、莉々が裏風俗店に勤めていた時のアリバイ作りに協力していた運送会社の連絡先を莉々から聞き出し、自らそこに電話を掛けた。

「アルバイトは募集してるか?」

その不躾な言葉遣いに電話に出た担当者は呆れたが、彼女は社長を名指しして『敷居出莉々しきいでりりの件で話があると言えば分かる』と取り次がせた。

「敷居出莉々のアリバイ工作に利用してた荷捌き作業のアルバイトをやりたい」

電話に出た社長に対して仁美は臆することなく単刀直入に申し出た。そのあまりに堂々とした態度に社長の方が気押されてしまい、裏風俗に協力していたことをバラされるくらいならと彼女をアルバイトとして雇うことを決めた。

こうして仁美は、普通の仕事を手に入れることができたのだった。

さすがに収入そのものは随分と減ってしまったが、それでも彼女は文句も言わず真面目に仕事に励んだ。運送会社の社長は、彼女があまりに堂々としてることからてっきり脅されているのだと思ったが、実際の働きぶりを見て胸を撫で下ろしていた。

また、給料が減ってしまったことも、彼女にとっては想定の範囲内だった。時期が早まってしまっただけで、いずれ表の仕事をするようになればこうなることは分かっていたのだ。

それまでの貯えにはなるべく手を付けず、アルバイトの収入だけで生活することを仁美は心掛けた。身元保証を引き受ける会社を利用してアパートを借り、一人暮らしも始めた。風呂なしトイレ共同、築四十年以上の老朽アパートだったが、彼女はついに<自分の城>を手に入れた。

もう、小学生のふりをする必要もない。莉々りりから譲り受けた赤いランドセルも押入れに仕舞い込み、自分の部屋の真ん中に立った彼女の顔は僅かに紅潮しているように見えた。新しい生活が始まることに興奮しているのかもしれない。

しかもそのアパートで、彼女は後に生涯のパートナーとなる男と出会った。男の名は佐久田俊二さくたしゅんじ。アニメとゲームが好きで、かつ、いわゆるロリコンの大学生だった。

佐久田は、突然、隣の部屋に入居した、どう見ても小学生にしか見えない、しかし高校の制服を着て毎日部屋を出て行く少女のことが気になって気になって仕方なかったのだが、あることがきっかけでその少女と言葉を交わすようになり、気取らず、口数は少ないが必要とあればはっきりと要点だけを簡潔に述べる彼女に惹かれ、彼女の暮らしを手助けしていくことになっていった。ただし、その詳細についてはここではもう触れることはない。別の機会があれば語られることもあるかもしれないが。

とにかくこうして、裏風俗で小学生として仕事をしていた<陽菜ひな>は、この世から完全に消え去ってしまったのであった。



陽菜、麻音まのん心音ここねのように日の当たる場所へと戻っていく少女もいるかと思えば、その道が示されることもなく日の当たらぬ場所を歩き続ける少女や、日の当たる場所から闇の中へと転落してくる少女がいるのもこの世というものなのだろう。

前者は当然、玲那のことである。後者についてはまた後に語ることになるので待ってもらうとして、まずは玲那のことから触れていこう。

夫の伊藤判生いとうばんせいが経営していた裏風俗店が警察からマークされたと知った伊藤京子いとうけいこは、

『このままじゃあいつと共倒れだ』

と考え、離婚届を偽造し、夫と離婚してしまったのだった。しかし、自分の知らないところで勝手に離婚されてしまった判生ばんせいの方も、その事実を知るや、

『ちょうどいい。俺はフけさせてもらう』

と言ってどこへともなく逐電してしまったのである。どこまでも不実な人間達だと言えた。

それは、玲那が中学に上がったばかりの頃のことであった。

事務所と称して住んでいたマンションの部屋を失い、夫にも逃げられた京子けいこは、仕方なく築五十年以上のくたびれた自宅へと戻ってきていた。事務所に置いていた家財道具は一式運び込んでそちらはまずまず充実したが、そもそもの家の古さには辟易していた。トイレはどうすることもできないと諦めることはできても、風呂については我慢がならず、わざわざ毎日スーパー銭湯へと風呂に入りに行く始末だった。

しかし京子けいこは、そうやって出掛ける時も玲那を連れて行くことはなかった。玲那としても、この母親と一緒に出掛けることなど望んでいなかったのでそれは問題ではなかったのだが、京子けいこの身勝手さは底知れず、ご飯を炊いてスーパーで総菜を買って食事の用意をする玲那に自分の分も用意をさせた。

その振る舞いにはさすがの玲那も不満げな視線を向けてしまったが、それに気付いた京子けいこに、

「なんだその目は!?。それが親に向ける態度かよ!!」

と怒鳴りながらやはり暴力を振るわれた。

ただ、思い切り頬をひっぱたかれた玲那だったが、この時は吹っ飛ばされたりせず、その場にとどまることができた。体が大きくなってきたことで持ち堪えられたのだ。

「…!?」

その事実に気付いた玲那の目に何かがよぎったのを、京子けいこが気付くことはなかった。だが、これをきっかけにして、母親に対する玲那の恐怖心はすさまじい速さで失われていくこととなる。そして恐怖心が消え去ったことでできた心の余白に、別の感情が入り込んでくるのを彼女は感じていた。

ぐつぐつと煮え滾るようでいて、暗く重く腐臭の如き不快な何かを放つ感情。

憎悪だった。以前から芽生え始めてはいたのだが、母親に対する恐怖心の方が上回っていたことで縮こまっていたそれが、恐ろしい速さで膨れ上がり、彼女の心を満たしていく。

それでもまだ、突き動かされ理性を失わされるほどのものではなかった。しかし紛れもなく彼女の中で育っていったことも事実だった。

なのに、その母親に対する憎悪すら上回る程の異様な感情を呼び覚まされるものが、突然、彼女の前に現れた。

「この人が今日からあんたの父親だから」

進学したばかりの中学校から帰ってきた玲那に向かって母親がそう紹介したのは、母親よりも明らかに若い、二十代半ばかせいぜい三十手前という感じの、不自然なほどに日に焼けて黒い肌のがっちりとした体格を持ち、造形は整っているが耳どころか鼻にまでいくつもピアスを着けたどこか何とも言えない不気味な雰囲気を漂わせる顔つきをした男であった。

男の名は、宿角健雅すくすみけんが。傷害の前科を持つ、もう見るからにまともとは思えないそいつは、言葉にしがたい表情で自分を見上げる玲那の、真新しい制服に包まれた体を舐めあげるように見詰めて、ニヤァと吐き気も催すような不快な笑みを浮かべて言った。

「オレがお前の父親だから。オレ、礼儀とか厳しいからね。舐めた態度する奴にはバシバシいくよ。でも、ちゃんとしてる子にはめっちゃ優しいからね」

もうその物言いだけで正気を疑うレベルではあったが、玲那は敢えて、

「よろしくお願いします…」

と頭を下げた。それを見た宿角健雅すくすみけんがはさらに気持ちの悪い笑顔を浮かべて、

「いい! いいねえ! 素直な子は好きだよオレ!!」

などと、意味の分からないテンションで手を伸ばし、制服の上から玲那の胸を鷲掴みにしたのだった。

「さっそく、親子のスキンシップね!!」

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