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伊藤玲那編
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知らない男に徹底的に乱暴されたことを、玲那は夢だと思うことにした。その後、男が再び現れるようなことはなかったし、下腹部の痛みもドロッとした何かが零れてくるのも収まったこともあり、春休みが終わって四年生として学校に通うようになる頃には彼女自身も元通りになっていた。
元通りになった気がしていた。
だが実際には、男は玲那に対して確実に変化をもたらしていた。彼女の中に、それまでとは確実に違うドロドロとした濁った何かが、この時はまだほんの僅かではあったが、まぎれもなく芽生え始めていたのだ。
それが何かは、彼女自身が自覚していなかったので分からない。しかしそれは確かに彼女の成長と共に大きく膨れ上がって、やがて彼女の根幹となるものであった。
とは言え、それが表立って玲那の人間性そのものに影響を及ぼすようになるにはまだ猶予あっただろう。今回の事件までで終わっていれば……
あの事件から半年、両親の娘に対する仕打ちは相変わらずだったものの、玲那はその状況に適応してしまっていた。心を閉ざし余計なことを考えないようにすることで受け流す術が完全に身についていたのである。
日中はまだ暑いとはいえ朝夕には秋の気配も感じられるようになってきた頃、憂鬱な運動会も無難に乗り切った彼女は、それなりに平穏な日常を送っていたと思っていた。あくまで、彼女にとってはだが。
しかしこの頃、幼い彼女をどうしてもいたぶりたい何者かでもいるのか、ロクでもない大人がロクでもないことを話し合っていた。
「なあ、おたくんとこ、小学生の女の子都合できんか? 小学生、できたら十歳以下の子がいいんやけど、もし用意してくれたら十万出すで」
「十万かぁ…でもなあ、中学生くらいまでなら心当たりもあるけど、小学生となるとさすがにな」
「そうかあ、やっぱ無理かなあ。とにかくいっぺんでいいからヤってみたいんやけどなあ」
「ん…待てよ…? そうか! 十歳や! 十歳くらいなら心当たりある!」
パン、と手を叩いてそう声を上げたのは、玲那の父、伊藤判生だった。判生が店長を務める風俗店の事務所で、これまで店に数百万もの売り上げをもたらしてくれた上得意の男性客を迎え入れて他愛のない話をしている時に、客の男が小学生の女の子を紹介できないかと持ち掛けてきたのだ。店舗の店長だけでなく、自ら派遣型の風俗店も経営していた判生は、若く見える女性を使って<女子高生風>と銘打って宣伝し、始めた頃はそれなりに利益も上げていた。
だが、同種の競合店が増えるにしたがって人気が分散。本当に高校生の少女を使うところも出てきたり、当の女子高生や女子中学生が直接自分で客を取るいわゆる<援助交際>も、何年も前に流行語大賞で入賞するなど一般化してしまったことで必ずしも好調とは言えなくなってしまっていたのも事実だった。
しかし判生自身、以前から何度か援助交際で少女を買っており、それによって女子中学生や女子高生とも知り合っていた為、自分が持つ派遣型の風俗店のノウハウを活かし、援助交際を行っている彼女らを利用して商売にできないかと考えてもいた。そこに、中学生どころか小学生を紹介してほしいと持ち掛けられたことで、ロクでもないことにばかり知恵の働くその頭が、またロクでもないことを思い付いてしまったのだった。
『玲那がいるじゃねぇか。あいつもちょうど十歳になるところだろ』
そう。このどうしようもない下衆な父親は、己の娘を売りに出そうと思い付いてしまったのだ。すると判生はさっそく京子に電話をして事情を話し、玲那を迎えに行かせた。
「あんたもホントにどうしようもないクズだねぇ」
「うるせぇ。そのクズに寄生してるお前はそれこそ何だってんだよ。いいからさっさと玲那を連れてこい。こういうのはホットなうちに動くのが肝なんだからよ」
そんなやり取りをしていたが、正直、どっちもどっちだろう。「ったく、メンドクサ」と文句を言いながらも、京子は自動車を走らせ、玲那が住む本来の自宅へと向かった。
その頃、玲那は、夕食を終え風呂にも入り、宿題も終わらせてゆっくりと居間でテレビを視ているところだった。すると玄関の鍵を開ける気配がして、ガラッと乱暴に扉を開ける音も聞こえた。彼女の体はビクンっと跳ね上がり、心臓が激しく脈を打ち、一瞬で汗が噴き出した。全身が強張り呼吸が浅くなる。
「玲那! 出掛けるよ。そのままでいいからついといで!」
ガッと、襖が開けられると同時に掛けられた言葉に、玲那の思考は停止した。逆らう意思も気力も湧いてこない。ただその言葉に従って黙ってついていくだけだった。青いワンピース以外には下着しか身に着けてない状態でサンダル代わりのビーチサンダルを履き、家の前に止められた自動車に乗った。
テレビで『自動車に乗るときはシートベルトをしましょう』と言っていたのを覚えていて、母親に言われなくてもシートベルトをしたものの、十歳になる直前の彼女にはまだ上手く合わなかった。胸にかかる筈のベルトが顔のところに来てしまうので、それは頭の後ろにやって腰のところだけベルトを掛けるようにした。
十分ほど走ったところで京子は自動車を止め、
「ここで待っときな」
と玲那に声を掛けて彼女を残し、雑居ビルへと入っていった。自動車が止められたそこは、派手なネオンの看板がギラギラと辺りを照らしている、明らかに品のない通りだった。数分で京子は戻ってきたが、その隣に、知らない男を従えていた。その知らない男は当たり前のように助手席に乗ってきた。そして後部座席に乗っていた玲那を見て、
「おお! この子か!? こいつぁすげぇ! マジで小学生やんか!!」
と興奮が抑えきれないといった風情で声を上げた。
玲那は、声も出せなかった。男を見た瞬間、意識さえ失いそうになった。見たくないものが、思い出したくないものが、凄まじい勢いで自分の中から湧き上がってくるのを感じ、体中の血がザーッと音を立てて流れ出ていくような悪寒も感じたのだった。かつて同じような光景を見たことがあると、彼女は働かない頭のどこかで微かに思っていた。吐きそうなほどに不快で、眩暈がしそうなくらいにおぞましい記憶。いつの間にか彼女自身がただの悪い夢だったと思い込んでいたそれがまぎれもない現実であったと思い起こさせる光景だった。
彼女は察した。これから自分が何をされるのかということを。あの悪夢がまた自分を滅茶苦茶にするのだと彼女は察してしまったのだった。
助けを求めるように母親の方を見るが、しかし母親は娘のことなどまるで関心がないという風に不機嫌そうな顔で黙って自動車を運転していた。
十五分ほど自動車を走らせると、大きなマンションの前に着いた。それは、団地という感じのそれではなく、見るからに高級そうなものだった。男は逸る気持ちを抑えきれないといった感じで車を降り、「こっちこっち」と京子を促した。
「おいで」
後部座席の娘に対して掛けられた短い言葉は、決して反抗することを許さない命令だった。玲那はそれに逆らうことができなかった。シートベルトを外して自動車を降りると、京子が彼女の細い腕をがっしと掴んだ。逃げられないようにする為の力と威圧が込められているのを玲那は感じ取っていた。
ウキウキとした男の後ろを、母親に引きずられるように少女が歩く。それに不信感を覚える者は誰もいなかったのであった。
元通りになった気がしていた。
だが実際には、男は玲那に対して確実に変化をもたらしていた。彼女の中に、それまでとは確実に違うドロドロとした濁った何かが、この時はまだほんの僅かではあったが、まぎれもなく芽生え始めていたのだ。
それが何かは、彼女自身が自覚していなかったので分からない。しかしそれは確かに彼女の成長と共に大きく膨れ上がって、やがて彼女の根幹となるものであった。
とは言え、それが表立って玲那の人間性そのものに影響を及ぼすようになるにはまだ猶予あっただろう。今回の事件までで終わっていれば……
あの事件から半年、両親の娘に対する仕打ちは相変わらずだったものの、玲那はその状況に適応してしまっていた。心を閉ざし余計なことを考えないようにすることで受け流す術が完全に身についていたのである。
日中はまだ暑いとはいえ朝夕には秋の気配も感じられるようになってきた頃、憂鬱な運動会も無難に乗り切った彼女は、それなりに平穏な日常を送っていたと思っていた。あくまで、彼女にとってはだが。
しかしこの頃、幼い彼女をどうしてもいたぶりたい何者かでもいるのか、ロクでもない大人がロクでもないことを話し合っていた。
「なあ、おたくんとこ、小学生の女の子都合できんか? 小学生、できたら十歳以下の子がいいんやけど、もし用意してくれたら十万出すで」
「十万かぁ…でもなあ、中学生くらいまでなら心当たりもあるけど、小学生となるとさすがにな」
「そうかあ、やっぱ無理かなあ。とにかくいっぺんでいいからヤってみたいんやけどなあ」
「ん…待てよ…? そうか! 十歳や! 十歳くらいなら心当たりある!」
パン、と手を叩いてそう声を上げたのは、玲那の父、伊藤判生だった。判生が店長を務める風俗店の事務所で、これまで店に数百万もの売り上げをもたらしてくれた上得意の男性客を迎え入れて他愛のない話をしている時に、客の男が小学生の女の子を紹介できないかと持ち掛けてきたのだ。店舗の店長だけでなく、自ら派遣型の風俗店も経営していた判生は、若く見える女性を使って<女子高生風>と銘打って宣伝し、始めた頃はそれなりに利益も上げていた。
だが、同種の競合店が増えるにしたがって人気が分散。本当に高校生の少女を使うところも出てきたり、当の女子高生や女子中学生が直接自分で客を取るいわゆる<援助交際>も、何年も前に流行語大賞で入賞するなど一般化してしまったことで必ずしも好調とは言えなくなってしまっていたのも事実だった。
しかし判生自身、以前から何度か援助交際で少女を買っており、それによって女子中学生や女子高生とも知り合っていた為、自分が持つ派遣型の風俗店のノウハウを活かし、援助交際を行っている彼女らを利用して商売にできないかと考えてもいた。そこに、中学生どころか小学生を紹介してほしいと持ち掛けられたことで、ロクでもないことにばかり知恵の働くその頭が、またロクでもないことを思い付いてしまったのだった。
『玲那がいるじゃねぇか。あいつもちょうど十歳になるところだろ』
そう。このどうしようもない下衆な父親は、己の娘を売りに出そうと思い付いてしまったのだ。すると判生はさっそく京子に電話をして事情を話し、玲那を迎えに行かせた。
「あんたもホントにどうしようもないクズだねぇ」
「うるせぇ。そのクズに寄生してるお前はそれこそ何だってんだよ。いいからさっさと玲那を連れてこい。こういうのはホットなうちに動くのが肝なんだからよ」
そんなやり取りをしていたが、正直、どっちもどっちだろう。「ったく、メンドクサ」と文句を言いながらも、京子は自動車を走らせ、玲那が住む本来の自宅へと向かった。
その頃、玲那は、夕食を終え風呂にも入り、宿題も終わらせてゆっくりと居間でテレビを視ているところだった。すると玄関の鍵を開ける気配がして、ガラッと乱暴に扉を開ける音も聞こえた。彼女の体はビクンっと跳ね上がり、心臓が激しく脈を打ち、一瞬で汗が噴き出した。全身が強張り呼吸が浅くなる。
「玲那! 出掛けるよ。そのままでいいからついといで!」
ガッと、襖が開けられると同時に掛けられた言葉に、玲那の思考は停止した。逆らう意思も気力も湧いてこない。ただその言葉に従って黙ってついていくだけだった。青いワンピース以外には下着しか身に着けてない状態でサンダル代わりのビーチサンダルを履き、家の前に止められた自動車に乗った。
テレビで『自動車に乗るときはシートベルトをしましょう』と言っていたのを覚えていて、母親に言われなくてもシートベルトをしたものの、十歳になる直前の彼女にはまだ上手く合わなかった。胸にかかる筈のベルトが顔のところに来てしまうので、それは頭の後ろにやって腰のところだけベルトを掛けるようにした。
十分ほど走ったところで京子は自動車を止め、
「ここで待っときな」
と玲那に声を掛けて彼女を残し、雑居ビルへと入っていった。自動車が止められたそこは、派手なネオンの看板がギラギラと辺りを照らしている、明らかに品のない通りだった。数分で京子は戻ってきたが、その隣に、知らない男を従えていた。その知らない男は当たり前のように助手席に乗ってきた。そして後部座席に乗っていた玲那を見て、
「おお! この子か!? こいつぁすげぇ! マジで小学生やんか!!」
と興奮が抑えきれないといった風情で声を上げた。
玲那は、声も出せなかった。男を見た瞬間、意識さえ失いそうになった。見たくないものが、思い出したくないものが、凄まじい勢いで自分の中から湧き上がってくるのを感じ、体中の血がザーッと音を立てて流れ出ていくような悪寒も感じたのだった。かつて同じような光景を見たことがあると、彼女は働かない頭のどこかで微かに思っていた。吐きそうなほどに不快で、眩暈がしそうなくらいにおぞましい記憶。いつの間にか彼女自身がただの悪い夢だったと思い込んでいたそれがまぎれもない現実であったと思い起こさせる光景だった。
彼女は察した。これから自分が何をされるのかということを。あの悪夢がまた自分を滅茶苦茶にするのだと彼女は察してしまったのだった。
助けを求めるように母親の方を見るが、しかし母親は娘のことなどまるで関心がないという風に不機嫌そうな顔で黙って自動車を運転していた。
十五分ほど自動車を走らせると、大きなマンションの前に着いた。それは、団地という感じのそれではなく、見るからに高級そうなものだった。男は逸る気持ちを抑えきれないといった感じで車を降り、「こっちこっち」と京子を促した。
「おいで」
後部座席の娘に対して掛けられた短い言葉は、決して反抗することを許さない命令だった。玲那はそれに逆らうことができなかった。シートベルトを外して自動車を降りると、京子が彼女の細い腕をがっしと掴んだ。逃げられないようにする為の力と威圧が込められているのを玲那は感じ取っていた。
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