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伊藤玲那編
過剰適応
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判生や京子にとっての<幸せ>とは、それこそ自分の勝手気ままに思い通りに生きることだっただろう。しかし、この世はそんなに甘くない。判生や京子のような人間が好き勝手に生きることを許してくれたりはしない。だから二人の望む幸せは、一生手に入れることができるものではなかった。事実、この二人は生涯、幸せを実感することがなかったが。
その不幸が、娘の玲那にも連鎖したとも言えるのかもしれない。
なお、この頃、判生は昔の不良仲間の先輩に誘われて風俗店の店長をしており、バブル崩壊の影響は受けながらも、不況の中にあっても性に対する人間達の欲望は失われることがなく、かつ判生自身も社会の状況を察知していち早く料金の引き下げを行い格安店として人気を博すなど、思わぬ才覚を発揮してそれなりの稼ぎを得たりしていたが。
だが、それは玲那の生活環境を改善することには使われなかった。判生と京子は事務所と称してマンションの一室を実質的な住居とし、玲那のことは古びた元の家に置き去りにして、食事だけを、二日に一回、多い時でも一日に一回程度の割合で置いていくというだけの生活をしていたのだった。自分達は好き勝手に贅沢な生活をしながら。
空腹に苛まれ一人で水風呂に入りくたびれた家が作り出す恐ろし気な闇に怯えながら敷きっぱなしの布団にくるまって眠る玲那とは対照的に、美味い食事を食べ宝飾品を買い漁り高級外車を乗り回してもなお、まだまだこんな程度じゃ幸せとは言えないと、判生と京子の心は満たされることがなかった。
掴むことができるはずもない幸せを求め当然の結果としてそれを手に入れることができない二人の精神は、飢え乾いた<何か>に常に苛まれてささくれ立ち、そしてそれは、まるでそうするのが当然のことであるかのように、歯向かう術を持たぬ非力で幼い我が子へと向けられた。
故に、理不尽な苛立ちをぶつけてくる両親の暴力に怯え、玲那はいつもびくびくと他人の顔色を窺う陰気な子供へと育っていった。
ただ一方で、幸いにも玲那が通っていた学校はイジメなどのトラブルの対応に熱心なところであったことで学校でまでイジメられるようなことはなかった。また、行けば給食にありつけることもあり、玲那は学校には欠かさず通った。家にいるよりはずっとマシだったのだ。
さりとて、口数少なく表情も乏しくいつも俯き加減で怯えたような様子を見せる辛気臭い彼女と積極的に仲良くなってくれる生徒はおらず、酷くイジメられることはなかったものの、当然の如く孤立した存在にはなっていた。
学校側もそんな玲那の様子には懸念を抱いていたのだが、当時はまだ現在ほど家庭内での虐待について理解が進んでいなかったこともあり、児童相談所にも通告はするもそれ以上の踏み込んだ対応が取られることはなく、結果として苛烈な虐待が見過ごされたまま時間だけが過ぎていくこととなったのだった。
誰にも救ってもらえない玲那は、授業が終わっても、すぐには家に帰らなかった。学級文庫の本を読み漁り、それを読みつくすと今度は図書室に入り浸って本を読み漁った。そこに描き出される物語の世界に没入していると、その時だけは嫌なことを忘れることができた。彼女は、僅かな時間とはいえ自分が救われる方法を、自分で見付けるしかなかった。
家に帰っても他にすることがなかったこともあり、彼女は宿題などはきちんとやっていた。二年生になる頃にはテレビなどを見て家事の仕方も自分で覚え、拙いながらも掃除や洗濯を自分でやった。両親が持ってくる食事を一度に食べてしまうのではなく、冷蔵庫に保管して何度かに分けて食べることを自ら編み出した。やがて両親は食べ物ではなく、現金を置いていくようになった。
「それで自分で何か買って食べな」
要するに自分が買ってくるのが面倒臭くなっただけだったのだが、これは玲那にとっては逆に幸運だった。テレビで、スーパーなどでは終了時間近くなると弁当や総菜が安くなるというのを知り、近所のスーパーの営業終了直前に自分で出向いて半額になった弁当や総菜を買うようになった。これによって、それまでの倍近い食事にありつけるようになると、彼女はさらに知恵を絞り、金を使い切るのではなく少し残してそれを貯め、そして米を買って自分で炊くようにまでなっていった。
五キロの米を持って帰るのは幼い彼女にとっては大変な労力だったが、彼女の曽祖父が借家として人に貸していた時の住人が残していった台車に気付くとそれを押してスーパーまで行き、そこに米を乗せて家に帰るようにもなった。
この頃になると玲那もさらに知恵がつき、両親が家に顔を出す時には機嫌を損ねないように淡々と接するようになり、それでも機嫌の悪い時には八つ当たりされたが敢えて逆らうこともせず、金を置かれれば『ありがとうございます』と謙って丁寧に頭を下げた。すると両親は、
「やっぱガキはちゃんと躾けなきゃダメだな」
と、自分達のやり方が正しかったのだと満足げに笑うこともあったのだった。
玲那は考えた。生きる為に。少しでも暴力を回避する為に。自分の毎日が平穏なものになるように。漢字が読めるようになってくると風呂の焚き方の説明書きも読めるようになり、自分で風呂が沸かせるようになった。自動で湯温を調節できるタイプの湯沸しではなかったので最初のうちは沸かしすぎたりして大変だったものの、何度か使っているうちに要領を掴んだ。
トイレは和式の水洗だが、もちろん玲那が自分で掃除をする。しかも、かなり丁寧に。と言うのも、京子が食事を持ってきたついでにトイレを使おうとすると汚れていたのにキレて、
「こんな汚いのが使えるか! ちゃんと掃除しろ! 舐められるくらいにピカピカにすんだよ!! お前、これが舐められんのか!?」
などと怒鳴りながら玲那の顔を汚れた便器に押し付けたりしたこともあったからだ。それ以来、トイレは特に綺麗にするようにしていた。
そのような暮らしをしているうちに、彼女は小学三年生になる頃には、ほぼ一人暮らしができるまでになっていたと言えるだろう。
それでも、この古めかしい家での夜はどこか恐ろし気で、玲那はテレビのアニメに夢中になることでその不安を紛らわせようとした。アニメの中では、苦しいこと、辛いことがあってもそれらは必ず解決し、主人公達は最後には幸せを掴むことができた。たまにそうでないラストを迎える話もあったが、それでも多くの物語は幸せな結末が用意されていて、彼女も、
「私もいつかきっと幸せになれる…」
と自分に言い聞かせていた。
なのに、神だか仏だかはどこまでも残酷だ。
それは、玲那が四年生に上がる直前の春休みのことだった。平日の夕方、彼女がいつものように一人でアニメを見ていると、玄関の方で人の気配がした。両親がまた金を持ってきたのかと思って出てみると、しかしそこにいたのは全く見ず知らずの中年男だった。男は玲那の姿を見た瞬間、恐ろしい速さで走り寄り、彼女の口を押えた上で包丁まで突き付けて耳元で囁くように言った。
「れいなちゃん、だっけ? いつも一人でお留守番、偉いねえ。でも一人はさみしいだろ? だからオジサンが遊んであげようと思って来たんだ。大人しくしててくれたら怖いことはしないよ。オジサンと一緒に楽しくて気持ちいいことしようよ」
言葉は優しげだが、玲那はそこに恐ろしいものしか感じなかった。そんな彼女の細い足を温かい液体が伝い流れていたのだった。
その不幸が、娘の玲那にも連鎖したとも言えるのかもしれない。
なお、この頃、判生は昔の不良仲間の先輩に誘われて風俗店の店長をしており、バブル崩壊の影響は受けながらも、不況の中にあっても性に対する人間達の欲望は失われることがなく、かつ判生自身も社会の状況を察知していち早く料金の引き下げを行い格安店として人気を博すなど、思わぬ才覚を発揮してそれなりの稼ぎを得たりしていたが。
だが、それは玲那の生活環境を改善することには使われなかった。判生と京子は事務所と称してマンションの一室を実質的な住居とし、玲那のことは古びた元の家に置き去りにして、食事だけを、二日に一回、多い時でも一日に一回程度の割合で置いていくというだけの生活をしていたのだった。自分達は好き勝手に贅沢な生活をしながら。
空腹に苛まれ一人で水風呂に入りくたびれた家が作り出す恐ろし気な闇に怯えながら敷きっぱなしの布団にくるまって眠る玲那とは対照的に、美味い食事を食べ宝飾品を買い漁り高級外車を乗り回してもなお、まだまだこんな程度じゃ幸せとは言えないと、判生と京子の心は満たされることがなかった。
掴むことができるはずもない幸せを求め当然の結果としてそれを手に入れることができない二人の精神は、飢え乾いた<何か>に常に苛まれてささくれ立ち、そしてそれは、まるでそうするのが当然のことであるかのように、歯向かう術を持たぬ非力で幼い我が子へと向けられた。
故に、理不尽な苛立ちをぶつけてくる両親の暴力に怯え、玲那はいつもびくびくと他人の顔色を窺う陰気な子供へと育っていった。
ただ一方で、幸いにも玲那が通っていた学校はイジメなどのトラブルの対応に熱心なところであったことで学校でまでイジメられるようなことはなかった。また、行けば給食にありつけることもあり、玲那は学校には欠かさず通った。家にいるよりはずっとマシだったのだ。
さりとて、口数少なく表情も乏しくいつも俯き加減で怯えたような様子を見せる辛気臭い彼女と積極的に仲良くなってくれる生徒はおらず、酷くイジメられることはなかったものの、当然の如く孤立した存在にはなっていた。
学校側もそんな玲那の様子には懸念を抱いていたのだが、当時はまだ現在ほど家庭内での虐待について理解が進んでいなかったこともあり、児童相談所にも通告はするもそれ以上の踏み込んだ対応が取られることはなく、結果として苛烈な虐待が見過ごされたまま時間だけが過ぎていくこととなったのだった。
誰にも救ってもらえない玲那は、授業が終わっても、すぐには家に帰らなかった。学級文庫の本を読み漁り、それを読みつくすと今度は図書室に入り浸って本を読み漁った。そこに描き出される物語の世界に没入していると、その時だけは嫌なことを忘れることができた。彼女は、僅かな時間とはいえ自分が救われる方法を、自分で見付けるしかなかった。
家に帰っても他にすることがなかったこともあり、彼女は宿題などはきちんとやっていた。二年生になる頃にはテレビなどを見て家事の仕方も自分で覚え、拙いながらも掃除や洗濯を自分でやった。両親が持ってくる食事を一度に食べてしまうのではなく、冷蔵庫に保管して何度かに分けて食べることを自ら編み出した。やがて両親は食べ物ではなく、現金を置いていくようになった。
「それで自分で何か買って食べな」
要するに自分が買ってくるのが面倒臭くなっただけだったのだが、これは玲那にとっては逆に幸運だった。テレビで、スーパーなどでは終了時間近くなると弁当や総菜が安くなるというのを知り、近所のスーパーの営業終了直前に自分で出向いて半額になった弁当や総菜を買うようになった。これによって、それまでの倍近い食事にありつけるようになると、彼女はさらに知恵を絞り、金を使い切るのではなく少し残してそれを貯め、そして米を買って自分で炊くようにまでなっていった。
五キロの米を持って帰るのは幼い彼女にとっては大変な労力だったが、彼女の曽祖父が借家として人に貸していた時の住人が残していった台車に気付くとそれを押してスーパーまで行き、そこに米を乗せて家に帰るようにもなった。
この頃になると玲那もさらに知恵がつき、両親が家に顔を出す時には機嫌を損ねないように淡々と接するようになり、それでも機嫌の悪い時には八つ当たりされたが敢えて逆らうこともせず、金を置かれれば『ありがとうございます』と謙って丁寧に頭を下げた。すると両親は、
「やっぱガキはちゃんと躾けなきゃダメだな」
と、自分達のやり方が正しかったのだと満足げに笑うこともあったのだった。
玲那は考えた。生きる為に。少しでも暴力を回避する為に。自分の毎日が平穏なものになるように。漢字が読めるようになってくると風呂の焚き方の説明書きも読めるようになり、自分で風呂が沸かせるようになった。自動で湯温を調節できるタイプの湯沸しではなかったので最初のうちは沸かしすぎたりして大変だったものの、何度か使っているうちに要領を掴んだ。
トイレは和式の水洗だが、もちろん玲那が自分で掃除をする。しかも、かなり丁寧に。と言うのも、京子が食事を持ってきたついでにトイレを使おうとすると汚れていたのにキレて、
「こんな汚いのが使えるか! ちゃんと掃除しろ! 舐められるくらいにピカピカにすんだよ!! お前、これが舐められんのか!?」
などと怒鳴りながら玲那の顔を汚れた便器に押し付けたりしたこともあったからだ。それ以来、トイレは特に綺麗にするようにしていた。
そのような暮らしをしているうちに、彼女は小学三年生になる頃には、ほぼ一人暮らしができるまでになっていたと言えるだろう。
それでも、この古めかしい家での夜はどこか恐ろし気で、玲那はテレビのアニメに夢中になることでその不安を紛らわせようとした。アニメの中では、苦しいこと、辛いことがあってもそれらは必ず解決し、主人公達は最後には幸せを掴むことができた。たまにそうでないラストを迎える話もあったが、それでも多くの物語は幸せな結末が用意されていて、彼女も、
「私もいつかきっと幸せになれる…」
と自分に言い聞かせていた。
なのに、神だか仏だかはどこまでも残酷だ。
それは、玲那が四年生に上がる直前の春休みのことだった。平日の夕方、彼女がいつものように一人でアニメを見ていると、玄関の方で人の気配がした。両親がまた金を持ってきたのかと思って出てみると、しかしそこにいたのは全く見ず知らずの中年男だった。男は玲那の姿を見た瞬間、恐ろしい速さで走り寄り、彼女の口を押えた上で包丁まで突き付けて耳元で囁くように言った。
「れいなちゃん、だっけ? いつも一人でお留守番、偉いねえ。でも一人はさみしいだろ? だからオジサンが遊んであげようと思って来たんだ。大人しくしててくれたら怖いことはしないよ。オジサンと一緒に楽しくて気持ちいいことしようよ」
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