獣人のよろずやさん

京衛武百十

文字の大きさ
上 下
146 / 404
第二部

私は人間だ

しおりを挟む
地球各地に古来より伝わる<祭>の多くも、大変な災害や戦禍といったものを後世に伝え備えるということが起源となったという話を聞いたことがあります。

悲しみや苦しみを忘れず、けれどそれに対する備えさえ楽しんでしまおうという逞しさも感じられますね。

ここの獣人達も、きっと同じなのでしょう。

兎人とじん達が穴を掘り、そこに山羊人やぎじん達と猪人ししじん達が柱を立てていきます。

それを繋ぐように丸太を渡し、身軽な山猫人ねこじん達が縄で括りつけ、見る見るやぐらの形になっていく様子は、壮観でさえありました。

<命の息吹>そのものを感じると言いますか、力強さを感じると言いますか。

この種の危険で力を要する作業のほとんどはロボット任せになった地球人が久しく忘れていたものかもしれません。

もっとも、一部には、敢えてロボットに頼らず、作業のほとんどを人力によってのみ行うという<祭>とその準備というものも、実は残っているのです。

かつては、

『人間は文明や技術の発達に伴って体を使わなくなり、頭ばかりが大きくて体は小枝のように頼りないものになっていく』

などと予測されたようですが、実際には、二十二世紀頃に体力を示す指標が最低を記録した後、徐々に回復し、二十五世紀頃からはほぼ横這いという状態だそうです。

学校ではスポーツをカリキュラムに取り入れ、社会人になってからも、余暇を利用してスポーツによって体を鍛えて体力の維持に努めるというのが一般的になったからでしょう。

そしてその中で、アスリートを目指す者達も出てくる。

百メートル走では九秒代前半を記録してからは頭打ちではありますが、それ以上を目指すとなるとそれこそ薬物などを用いた<肉体強化><肉体改造>が必要になってくるので、そうなってしまっては、

『人間ではなくなってしまう』

という懸念から、あくまで、

『偉大な先人達に後れを取らないように』

を目的として研鑽を重ねるという形になっています。

『人間でなくなってまで記録だけを追い求める』

のではなく、どこまでも『人間として』高みを目指すという形を取ることができたのを、私は誇りに思います。

その一方で、地球を拠点とした<総合政府>から独立して自治権を得て独自路線を目指す殖民惑星の中には、逆にひたすら<新記録>を目指した肉体改造を是とした社会もあるとも言います。

どちらが正しいのかは私には断言できませんが、私自身は、

『人間でありたい』

と、今のこの体になったからこそ思うのです。

地球人の社会ではおそらく法律上は<人間>とは認められないであろう今の体だからこそ、

『私は人間だ』

と思いたいのです。

しおりを挟む

処理中です...