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命の章

命の重さ

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アオが来た時にはそれこそ陣痛のピークであったさくらは挨拶する余裕さえなかった。アオもその辺りは話に聞いていたことがあったので気にしていない。むしろ何もできない自分が悔しかった。

それと同時に、脂汗を流しながら陣痛に耐えるさくらの様子を見て、

『<愛する人の子>っていうブーストというかバフがなければおよそやってられないだろうな……』

と思ってしまった。ましてや好きでもない相手の子を生むためにこんな苦しみを味わわされるとか、ただの<拷問>としか思えなかった。

それを耐えようというのだから、

『愛されてるな、エンディミオン……』

そう考えると、胸が熱くなる。

吸血鬼を憎み、吸血鬼に与する人間を憎み、自分に敵対する人間を憎み、数え切れないくらの血と死にまみれていたであろう彼がこうして救われるのだ。

しかしその一方で、彼はこれから、かつての自分のすべてを否定することになる。

復讐のために生き、自分と敵対しようとする者は一切の容赦なくその命を奪い、すべてを暴力によって解決しようとしてきた自分の価値観そのものを根底から否定しなければいけないのだから。

さくらとその子供達が今の日本で生きていくために、その価値観を学ぶために。父親として生き方の手本を示していくために。

アオは思う。

『それこそを正しいと信じて生きてきたエンディミオンにとっては、過去の自分を殺すことにさえ等しいことだろうな……

過去の自分のすべてを否定して、自分のそれまでの価値観のすべてを否定して、心の拠り所だったものすべてを否定して、自分がそれまで馬鹿にして蔑んで軽んじてきた価値観に寄せていかなきゃいけないんだ。

人間でもそれができる者がどれだけいる?

ちょっと自分のやってることを否定されるだけで、暴言を吐いてるのを『マナー違反だ』と指摘されるだけで、ムキになって逆上するような人間ならいくらでもいるけどね……

そういうことだよ。過去の自分の一切合切を否定しなきゃいけないってのが、どれほど苦しいことなのか、難しいことなのか、考えてみたらいい。

それが、彼が受ける<報い>だ……

これは、半端ないことだよ……ただの狂人や自分勝手な人間にできることじゃない……

そういうことの上に、さくらと彼の命が合わさってできた新しい命がやってくるんだ……

そんな命が、軽いもののわけがない。個人的な好き嫌いでその価値を断じていいもののはずがない。『気に入らない』なんてくだらない理由で蔑んでいいものじゃないんだ。

命の<重さ>をすごく感じるよ、さくら……』

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