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命の章

邪魔なんだよ

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そして夏に差し掛かる頃、大きなお腹を抱えたさくらが、育児休業の申請を出した。期間は六ヶ月。

「先生方に愛想尽かされないことを精々祈るんだな」

上司はまたそんな嫌味を言ってきたが、さくらは、

「ご迷惑をおかけします」

深々と丁寧に頭を下げて職場を後にした。

「……あの減らず口を二度と利けないようにしてやりたいんだが、ダメだよな……」

寄り添うように隣を歩くエンディミオンが憮然とした表情でそう言うが、さくらは当然、

「お願いだからやめてね。私はそんなに気にしてないから」

とたしなめる。

そして二人はその足でアオのマンションへと向かう。

途中、駅のエスカレーターで、初老のサラリーマンと思しきスーツを着た男がエスカレーターを駆け下り、腹を支えるようにして添えていたさくらの肘を引っ掛けて、さくらは危うくバランスを崩しかけた。

「エスカレーターは手すりにつかまり、ステップの中央に立ち止まってご利用願います」

とアナウンスが流れている中でのことだった。

もちろん前に立っていたエンディミオンがそれを放っておくわけもなく、自分の体でさくらを支える。

その耳に、

「ちっ! 邪魔なんだよ。うろうろ出歩いてんじゃねーよ…っ!」

と、さくらにぶつかった男が小さく吐き捨てるように口にしたのが届いてくる。

瞬間、エンディミオンがギリっと歯を噛みしめるが、何もしなかった。

さくらと出逢う前の彼なら、容赦なくその男の背中を蹴り飛ばしエスカレーターから突き落としていたかもしれない。

他人に対してそあのような態度を取るというのは、自らそういうリスクを招くということでもある。さくらのように大人しくしていてさえこのようなことに巻き込まれる可能性もあるというのに、わざわざ自分でリスクを増やすのだ。これを<愚か>と言わずして何と言えばいいのだろう。

他人を気遣うというのは、翻って自分を守るということでもあるのだ。

あのサラリーマンらしき男の親は、彼にそれを教えなかったのだろうか?

この先もああいう態度でいて、それでかつてのエンディミオンのような相手に遭遇して命を落としでもしたら、そんな人生でいいのだろうか?

さくらは、自分の子供にはそんな風になって欲しくないと思った。だから、相手が、

妊婦であろうと、

子供であろうと、

高齢者であろうと、

障碍者であろうと、

それどころか健常者であろうと気遣い、トラブルを招かないようにするのは当然のことだと思っていた。

そういった日常の中のちょっとした出来事からも学ぶべきことはたくさんある。

そういったことについても、さくらは自分の子供に教えていきたいと思っていたのだった。

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