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平穏の章

何一つ不幸な出来事のない人生なんて

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「ん…美味い……」

さくら手作りの唐揚げを口にして、エンディミオンは呟くようにそう口にした。その表情も、どこか穏やかなそれに見えた。

ただ、さくらが、

「よかった…♡」

と嬉しそうに微笑むと、

「ふん……!」

と仏頂面に戻ってしまう。

自分がこれまでどんな世界に生き、何をしてきたかを考えると、ただ幸せそうにすることはできないと彼は思っているようだ。

さくらはそれが悲しくて、微笑みながらも顔を伏せずにはいられなかった。



この世は確かに<不幸な出来事>で溢れている。アオもミハエルもさくらもエンディミオンも、大きな括りの中で見れば不幸の真っ最中にいるのだろう。

けれど彼女達は間違いなく<幸せ>だった。それぞれ家族と思える相手に巡り合い、多少のトラブルに見舞われながらもそれで何もかもが失われるようなことはなかった。

だから平穏に暮らせていると言える。

何一つ不幸な出来事のない人生なんて存在しない。

アオは言う。

「ほのぼのとした<優しい世界>として描かれているフィクションにだって、描かれてないだけできっと不幸な出来事は起こってる。生き物が主な登場人物が描かれてるなら、そこにいる者達だっていつかは死ぬし、家族や身内が死んだりもしてるだろう。

そういうものだ。<嫌なことがまったく存在しない世界>なんて、フィクションの中にさえ有り得ないと私は思ってる。だがそれでも幸せにはなれる。幸せは転がってる。要はそれに気付くかどうかだけの違いだ。

『自分は不幸だ!』と思い込んで誰かが幸せを持ってきてくれることを期待してるだけの奴のところには幸せは来ない。なぜなら、本人が幸せを否定してるからだ。

<不幸>というのはな、自分の周りにある幸せに気付けない状態を言うのではないかと私は思うのだ」

その言葉に、さくらはハッとした様子を見せ、そしてふわりと柔らかく微笑んだ。

「先生のおっしゃってること、すごくよく分かります。私も本当にその通りだと思います。それで私は確信しました。こういう部分が合うからこそ、私は先生を尊敬できるんだなって……」

真っ直ぐな視線を向けられてそう言われたアオは、顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。

「やめてくれ。そんな風に言われるといたたまれなくなる……」

照れまくっているアオに、さくらはますます穏やかな笑顔を見せていた。

世間では入学式や入社式の時期だという。

既にそういうものとはあまり縁がなくなってしまったアオやさくらだが、自分達の暮らしも暖かな春の日差しに包まれたかのような平穏なものになっていたのを実感していた。

「……」

そしてそんな二人の様子を感じていたミハエルも、穏やかに微笑んでいたのだった。

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