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平穏の章

大和撫子

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『不幸とは、<不幸な出来事に心を囚われてる状態>のことこそを言う』

さくらの両親がまさにそれだっただろう。

父親もそうだが、特に母親はそれに心を囚われて病んだ。そして今も心を囚われている真っ最中である。

療養施設で、<さくらの弟>の為に毎日服を用意し、幼児用のおままごとセットで食事の用意をし、玩具の洗濯機で洗濯し、玩具のアイロンで服にアイロンをかけ、ベッドに備え付けられたチェストにしまう。

それを延々と繰り返すのだ。

彼女の頭の中では、さくらの弟が生きている日常が繰り返されているのだと思われる。

しかも当時から手のかからない<いい子>だったさくらのことは意識から抜け落ちているらしく、たまに見舞いにくるさくらについては、自分の妹、つまり<さくらの弟の叔母>だと認識しているようだった。

我が子を亡くしたことは確かに不幸な出来事だった。心を病んでしまうのも無理からぬことかもしれない。しかしそれに囚われ続けている今こそが<不幸>なのだと、さくらは思った。

でなければ、いずれ死ぬことが決まっている<生>など、不幸になる結末が決まっているようなものではないか。

死はまぎれもなく不幸な出来事>だとしても、それに心まで囚われる必要はないはずだ。この世には<幸せ>だって間違いなく存在するのだ。

それに目を向けられないということこそが<不幸>なのではないだろうか。

だからさくらは、喪われてしまった弟のことも、壊れてしまった家庭のことも、あくまで<不幸な出来事の一つ>として捉えることを心掛けていた。

自分のことを<我が子>として見ようとしない母親を恨むのではなく、ただ『そういうもの』として受け入れることにしていたのである。

そんな彼女だったからこそ、エンディミオンのことも受け入れられたのだろう。

さくらは非力なただの女性に過ぎないが、その精神は非常にタフネスだと言える。

世が世で、それなりの家に生まれついて行儀作法なども学んでいたなら、もしかすると<大和撫子>と呼ばれていた可能性もあるのだろうか。

ちなみに、さくらの名は、彼女の父方の祖父が付けたものである。祖父が好きでシリーズすべてを映画館で見たことを密かな自慢にしていた、当時の人気映画の中に出てくる主人公の妹の名にちなんでつけたものなのだと言う。

その主人公の妹も、奔放すぎる兄に振り回されながらも決して見捨てないという気丈な女性として描かれていたそうだ。

それはまさに、エンディミオンに振り回されながらも彼を受け止めているさくらの姿そのものだったのかもしれない。

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