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エンディミオンの章

価値観

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『この男の腕の一本でも捩じりあげてやれ…!』

そう思ったエンディミオンだったが、さくらはただお人好しなだけで声を上げなかった訳じゃなかった。

男が本当に痴漢だったか判断が付かなかったからである。

『こういう時に狼狽えたりするとかえって怪しまれることをよく承知しているのだろう。もしかすると筋金入りの常習犯かもしれなかった』

と記したことでこれを見た人間は大多数が男のことを<痴漢常習者>だと認識しただろう。しかし実際には、本当に痴漢だったかどうかを示す客観的な証拠は何もないのだ。

つまり、先の一文によって、

『この男は痴漢常習者だという認識を刷り込まれてしまった』

のだと思われる。

さくらはその辺りも考えて敢えて何も言わなかったわけだ。

男がもし痴漢ではなくてただ気が利かないだけの人間だったとしても、痴漢扱いした場合、どれほどの影響が出るのかということを考えたのであった。

痴漢冤罪がどれだけの人間の人生を破壊するか、それに関する話を聞いたことがあったからである。

こう言うと、多くの人間が、

『だからって痴漢を見逃すのか!?』

と憤慨するだろう。確かに痴漢は許されざる犯罪だ。しかし、かと言って痴漢冤罪の被害者を出していいという理屈はないとさくらは考えているだけなのだ。

この辺りが、エンディミオンの考え方との決定的な乖離なのだと思われる。

配慮が足りずに他人を不快にさせてしまうことは、さくら自身にも少なからず思い当たる点がある。なにしろ、仕事の為とはいえ、自身が担当する作家、蒼井霧雨の創作に対する想いを踏みにじるような発言をしてしまうことを、言ってしまってから悔やんだりすることもよくあった。

自身の価値観を否定されるというのは、多くの人間にとって非常に不快なことのハズなのだから。

そんな風に、自分は知らずに他人を不快にさせても許されたいが、他人が自分を意図せずに不快にさせるのは許さないというのは、我儘が過ぎるのではないか?

さくらがそう考える人間であるというのを蒼井霧雨は知っているが故に、どんなにお互いを罵り合おうとも、彼女を信頼しているのだった。

蒼井霧雨側もつい彼女をなじってしまうが故に、そしてそれを内心では申し訳ないと思っているが故に、

『お互い様』

と思うことができるというわけだ。

このような形での信頼関係の構築を、エンディミオンは知らないのだろう。彼にとって世界は、

『敵か味方か、あるいはどうでもいい有象無象か』

という三種類の存在しかいなかった。

彼はこれまで、そういう世界に生きてきたのだから。

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