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月城こよみの章
外伝・伍 市野正一の怠慢
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市野正一は、今で言うところの<オタク>である。基本的には軍事的なことに対して造詣の深いタイプのオタクだっただろう。
彼が生きていた1950年代から1980年代頃はまだネットと言えるものがなく、情報はもっぱら紙媒体であった為に集めるのは今よりずっと大変だったし、それでいて間違った情報も多かったことでいろいろ苦労もしたようだった。だが、この種の人間はそういう苦労も楽しみの一つと考えられるタイプが多いのも事実だと思われる。そして市野正一もそういうタイプの人間だった。
また同時に、成人してからではあったがカンフー映画のマニアでもあった。1973年に公開された『燃えよドラゴン』でドはまりし、尊敬する相手は当然、ブルース・リー。後に人気が出てくるジャッキー・チェンも好きではあったが、彼の中ではどちらかと言えば色物的な認識であったらしい。
だが実は彼は、カンフー映画にハマるずっと以前から、近所に住んでいた中国出身の男性から崩歩を学びその鍛錬を自らに課していたという経験があった。小学校の低学年の頃、その男性が日課としていた早朝の鍛錬を目撃し、最初は『変なことしてる人がいる』と訝っていたが、雨の日も雪の日も決して欠かさず黙々と鍛錬を続けていたその男性の姿をいつしか『カッコいい』と思うようになり、見よう見真似で始め、それなりに動けるようになったと自分で感じて、その男性に師事を申し出たのだった。
それも最初は、
「自分はまだ弟子を取れる立場にない」
と断られ、それでも諦められずに男性の近くで勝手に真似を続け、中学に上がった時に、
「弟子は取れないが、一緒に功夫を磨くくらいなら」
と事実上の弟子入りを果たした。
しかしその数年後、男性は、暴行傷害の容疑で逮捕され、本国に強制送還されることになる。それにより交流は失われたが、市野正一は学んだことを忘れずに一人で鍛錬を続けた。
実はその男性が起こした事件は、酔っぱらいに絡まれていた女性を助けようとした際に掴まれた腕を振りほどいたはずみで相手が転倒、怪我をしたというものだったのだが、男性が外国人ということで状況が不利に働いたのが一番の原因らしい。
後年、市野正一がブルース・リーを尊敬することになったのも、その男性に面差が似ていたからというのもあったようである。
とは言え、その辺りのやや突き抜けた感もある<趣味>を除けば彼は実に普通であり、思春期には多少親に反発などもしながらも極端な悪事を働くでもなく、良くも悪くも人並みの人生を送っていたのだった。
しかし<人並み>の平凡な人生を送っていたことは、必ずしも市野正一にとっては良いことばかりではなかったかもしれない。日常に流され、仕事に追われ、ウマの合わない上司の厭味に辟易しながらも無難に毎日を送ることに躍起になっていた彼はいつしか、崩歩の鍛錬すら怠るようになっていた。二十代の半ば頃までは熱心に続けていたのだが。
師と仰いだ男性と共に功夫を磨いた毎日はただの思い出となり、今でも型こそは覚えていたがその志は完全に失われている。もし、あの男性が今も彼の傍にいてくれたなら、こうはならなかったのだろうか。
自分の気持ちを具体的に形にすることなくそれを変質させずに思い続けるということは、並大抵のことではないということなのだろう。平穏に生きる努力をすることと、日々にただ流されることの違いを、彼は理解していなかったのかもしれない。本当に平穏に生きたいなら、せめて崩歩の鍛錬を怠るべきではなかったのだろうが……
彼が何物にも惑わされずに一つの志を貫けるほどの人間であれば別の結果になっていた可能性もあったのだろうか。そういう意味でも彼は<普通>だった。高すぎる志を持ち続けるには普通すぎたのだ。だからブルース・リーやジャッキー・チェンのようにはなれなかったのだと思われる。
その日、彼は、上司からネチネチと仕事に関する嫌味を言われて腐っていた。そもそも上司の指示に誤りがあったのが一番の原因で上手くいかなかったのだというのに、その責任をすべてこちらに押し付けてきて説教されたのではたまらない。そんな上司では、信頼も尊敬もできる筈ないではないか。
『まったく、やってらんねぇ……』
どうにもむしゃくしゃが収まらなかった彼は、その憂さを晴らすべく、同僚と共に飲みに出掛けた。だが同僚は「明日も仕事があるから」と早々に帰ってしまい、一人で飲み明かすことになってしまった。これがまたマズかったのだろう。苛々していたこともあり自制が効かずに、いつしか彼はどうしようもないただの泥酔者となって夜の町を歩いていたのだった。崩歩の鍛錬を続けていたなら、こんな酔い方はしなかったかもしれない。
そしてその時、女性をナンパしようとしている若い男性の集団を見付けてしまった。その男性らも女性に対してしつこくして決して褒められたものではなかったことが、彼の中に残されていた<何か>に火を点けてしまったのかもしれなかった。
彼の崩歩の師であった男性が、酔っぱらいの女性を助けようとしたということを思い出してしまったというのも考えられる。そして、『自分ならもっと上手くやれる』と思ってしまったのだろうか……
「こらぁ、お前ら。その女性が困ってるだろうがぁ…!」
どこからどう見てもただの酔っ払いが絡んできているようにしか見えなかった。彼がどれほど大真面目であったとしてもだ。
彼に掴みかかられた若い男性がその手を振りほどいたはずみで彼は転倒。歩道と車道を区切るコンクリートブロックに頭をぶつけ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだった。
市野正一。享年、三四歳。死因、脳挫傷。
ヒーローになり損ねた男の哀れな末路であった。
彼が生きていた1950年代から1980年代頃はまだネットと言えるものがなく、情報はもっぱら紙媒体であった為に集めるのは今よりずっと大変だったし、それでいて間違った情報も多かったことでいろいろ苦労もしたようだった。だが、この種の人間はそういう苦労も楽しみの一つと考えられるタイプが多いのも事実だと思われる。そして市野正一もそういうタイプの人間だった。
また同時に、成人してからではあったがカンフー映画のマニアでもあった。1973年に公開された『燃えよドラゴン』でドはまりし、尊敬する相手は当然、ブルース・リー。後に人気が出てくるジャッキー・チェンも好きではあったが、彼の中ではどちらかと言えば色物的な認識であったらしい。
だが実は彼は、カンフー映画にハマるずっと以前から、近所に住んでいた中国出身の男性から崩歩を学びその鍛錬を自らに課していたという経験があった。小学校の低学年の頃、その男性が日課としていた早朝の鍛錬を目撃し、最初は『変なことしてる人がいる』と訝っていたが、雨の日も雪の日も決して欠かさず黙々と鍛錬を続けていたその男性の姿をいつしか『カッコいい』と思うようになり、見よう見真似で始め、それなりに動けるようになったと自分で感じて、その男性に師事を申し出たのだった。
それも最初は、
「自分はまだ弟子を取れる立場にない」
と断られ、それでも諦められずに男性の近くで勝手に真似を続け、中学に上がった時に、
「弟子は取れないが、一緒に功夫を磨くくらいなら」
と事実上の弟子入りを果たした。
しかしその数年後、男性は、暴行傷害の容疑で逮捕され、本国に強制送還されることになる。それにより交流は失われたが、市野正一は学んだことを忘れずに一人で鍛錬を続けた。
実はその男性が起こした事件は、酔っぱらいに絡まれていた女性を助けようとした際に掴まれた腕を振りほどいたはずみで相手が転倒、怪我をしたというものだったのだが、男性が外国人ということで状況が不利に働いたのが一番の原因らしい。
後年、市野正一がブルース・リーを尊敬することになったのも、その男性に面差が似ていたからというのもあったようである。
とは言え、その辺りのやや突き抜けた感もある<趣味>を除けば彼は実に普通であり、思春期には多少親に反発などもしながらも極端な悪事を働くでもなく、良くも悪くも人並みの人生を送っていたのだった。
しかし<人並み>の平凡な人生を送っていたことは、必ずしも市野正一にとっては良いことばかりではなかったかもしれない。日常に流され、仕事に追われ、ウマの合わない上司の厭味に辟易しながらも無難に毎日を送ることに躍起になっていた彼はいつしか、崩歩の鍛錬すら怠るようになっていた。二十代の半ば頃までは熱心に続けていたのだが。
師と仰いだ男性と共に功夫を磨いた毎日はただの思い出となり、今でも型こそは覚えていたがその志は完全に失われている。もし、あの男性が今も彼の傍にいてくれたなら、こうはならなかったのだろうか。
自分の気持ちを具体的に形にすることなくそれを変質させずに思い続けるということは、並大抵のことではないということなのだろう。平穏に生きる努力をすることと、日々にただ流されることの違いを、彼は理解していなかったのかもしれない。本当に平穏に生きたいなら、せめて崩歩の鍛錬を怠るべきではなかったのだろうが……
彼が何物にも惑わされずに一つの志を貫けるほどの人間であれば別の結果になっていた可能性もあったのだろうか。そういう意味でも彼は<普通>だった。高すぎる志を持ち続けるには普通すぎたのだ。だからブルース・リーやジャッキー・チェンのようにはなれなかったのだと思われる。
その日、彼は、上司からネチネチと仕事に関する嫌味を言われて腐っていた。そもそも上司の指示に誤りがあったのが一番の原因で上手くいかなかったのだというのに、その責任をすべてこちらに押し付けてきて説教されたのではたまらない。そんな上司では、信頼も尊敬もできる筈ないではないか。
『まったく、やってらんねぇ……』
どうにもむしゃくしゃが収まらなかった彼は、その憂さを晴らすべく、同僚と共に飲みに出掛けた。だが同僚は「明日も仕事があるから」と早々に帰ってしまい、一人で飲み明かすことになってしまった。これがまたマズかったのだろう。苛々していたこともあり自制が効かずに、いつしか彼はどうしようもないただの泥酔者となって夜の町を歩いていたのだった。崩歩の鍛錬を続けていたなら、こんな酔い方はしなかったかもしれない。
そしてその時、女性をナンパしようとしている若い男性の集団を見付けてしまった。その男性らも女性に対してしつこくして決して褒められたものではなかったことが、彼の中に残されていた<何か>に火を点けてしまったのかもしれなかった。
彼の崩歩の師であった男性が、酔っぱらいの女性を助けようとしたということを思い出してしまったというのも考えられる。そして、『自分ならもっと上手くやれる』と思ってしまったのだろうか……
「こらぁ、お前ら。その女性が困ってるだろうがぁ…!」
どこからどう見てもただの酔っ払いが絡んできているようにしか見えなかった。彼がどれほど大真面目であったとしてもだ。
彼に掴みかかられた若い男性がその手を振りほどいたはずみで彼は転倒。歩道と車道を区切るコンクリートブロックに頭をぶつけ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだった。
市野正一。享年、三四歳。死因、脳挫傷。
ヒーローになり損ねた男の哀れな末路であった。
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