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月城こよみの章
外伝・壱 ブリギッテ・シェーンベルクの悲劇
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ブリギッテ・シェーンベルクは、中世ヨーロッパの田舎町で、鍛冶屋を営む無口で不器用な男と、決して美人ではないが朗らかで快活な女の長女として生を受けた。
貧乏の子だくさんとはよく言ったもので、決して経済的に余裕があった訳ではないのに五人もの弟や妹が次々と生まれ、幼い頃からブリギッテはその弟妹達の面倒を見て両親を支えたのだった。
「いつもありがとうね、ブリギッテ。あなたのおかげで私もお父さんも本当に助かってる」
家は貧しいが、不器用でも性根は優しい父親と、弟妹達の面倒を見る自分をいつも笑顔で褒めてくれる明るい母親の下で、彼女は幸せだった。
弟妹達の面倒を見て慣れてきてたから結婚して子供ができてもきっと母親のようににこやかに接することができると思っていた。
「ブリギッテ。君となら素晴らしい家庭が築けそうだ」
「ええ、私もあなたの子供が欲しい。三人、いえ、五人は欲しいわ」
「それは大変だ。僕も寝ている間に靴を作ってくれる小人を見付けないといけないね」
年頃になり、ブリギッテは近所の靴屋の若い職人と結婚した。彼は誠実で、しかもユーモアを解する明朗な青年だった。彼女はそんな彼を愛していた。お互いに若いし健康だということですぐにも子供ができるだろうと思っていた。そう思っていたのに……
しかし、結婚して一年経っても二年経っても、二人の間には一向に子供ができる気配がなかった。
この頃の社会の常識としては、やはり結婚して子供を生してこそ一人前というのが一般的であり、子供ができないというのは半人前、もしくは<欠陥品>という風に見られるというのが実情だっただろう。
「気にしなくていいよ。僕達はまだその時期じゃないってことさ」
始めのうちは夫もそう言って慰めてくれたりもしたが、子供ができないことで、
『あいつは腕はいいんだが子無しだからねえ』
『あいつの作った靴は縁起が悪いから他のにするよ』
などと、仕事上の評価にも影響するようになる頃には、夫婦の間にも不協和音が生まれ始めていたのだった。
『子供ができないのは縁起が悪い』など、今から考えれば冗談としても三流以下の戯言に過ぎないだろうが、この頃はまだ、それがまかり通ってしまう時代だった。
やがて夫は、いつまで経っても子供ができないブリギッテを求めることもなくなっていった。殆ど毎日のようにだったものが三日に一度になり、一週間に一度になり、一ヶ月に一度になり、結婚して三年が経つ頃には半年に一度という感じだった。その一方で、仕事での憂さを晴らすかのように飲みに行く回数が増え、いつしか酒場で給仕をしていた若い女と仲良くなっていったのであった。
子供はなかなかできなかったが、ブリギッテは妻としてはよくやっていたと言えるだろう。炊事も洗濯も、子供の頃から母親を手伝っていたこともあり完璧と言ってもよかった。夫に対しても献身的で、夜の勤めも決して拒むようなことはなく、むしろ夫を励まそうとして積極的に奉仕もした。
なのに、どれほど夫を受け入れても子供ができる気配がなかった。
『神様…どうか私たちに子供をお授けください……』
近所の教会へも足しげく通い、そう祈りを捧げもした。
しかしこの頃には、夫は妻に隠れて酒場の給仕係の若い女との逢瀬を重ねていたりもしたのだが。
もっとも、周囲との人間関係も今よりずっと濃密だった当時では噂が広まるのも早く、夫の不貞行為はすぐにブリギッテの耳にも届くようになっていた。それでも彼女は、子供ができないのは自分が悪いのだと考え、敢えて夫を責めるようなことはしなかった。
するとそんな彼女の境遇に同情の念を抱く男が現れた。夫と同じ靴職人で、夫よりも若くて見た目にも精悍な男だった。
「ブリギッテさん。あなたのように素晴らしい女性が報われないなんて間違ってる」
男も教会に熱心に足を運んでいたので、そこで彼女を見かける度にそう言って彼女を慰めた。
ブリギッテは夫を愛し、家庭を一番に考えてはいたが、男の熱心な優しさの前にほだされてしまい、つい、それに縋ってしまったのだった。一度だけの過ちだった。
しかも男に体を許してしまったその日の夜、何故か夫も久しぶりに彼女を求めてきた。半年ぶりに女性として愛されたことで、彼女自身も意識しない艶っぽさが増していたのかもしれない。
そしてその数ヶ月後、彼女は自身の体調に変化を感じていた。それまでは判で押したようにしっかりと訪れていた<月のもの>が来なくなり、更には料理をしていた時に何故かその匂いがたまらなく不快になって、咄嗟に胃の中のものを戻してしまったりしたのだ。
「まさか、これは…?」
そのまさかだった。妊娠である。
「それは本当かい!? やった! やはり僕たちは神様に見放されてはいなかったんだ!!」
夫はそう声を上げて満面の笑みを浮かべつつ彼女を抱き締めた。その上、酒場の給仕係の女とも会わなくなり、以前のように妻を大切にするようになった。
ただまあ、こうなると事情を知る者なら誰もが思うことだろうが、二人の間にこれまで子供ができなかったのは実は夫の方に原因があったのだった。
さりとて、この頃の医療技術では誰の子かを正確に判別することはできなかった為、ブリギッテも何となく不安を感じつつもその子を夫の子供として受け入れることを心に決めていたのだった。
ブリギッテとその夫がようやくの妊娠に喜んでいたちょうどその頃、ある事件が世間を騒がせていた。妊娠中の女性が次々と襲われ、殺されていくという事件が起こっていたのである。
それだけではない。その事件の内容があまりにおぞましく、詳細が知れれば知れるほど、人々は恐れおののいた。なにしろそれは、妊娠中の女性をただ殺害するのではなく、まず女性の腹を割いて胎児を取り出しそれを女性の目の前で切り刻んでから女性が失血死していくのを眺めるという、まさに悪魔のような所業だったのだ。
しかしその事件はブリギッテが住む町からは遠く離れた場所での事件だったので、彼女にとっては真偽不明な怪奇譚のようなものでしかなかった。
「大丈夫かい、ブリギッテ」
大きな腹を抱えてふうふうと息を切らしながら家事をこなすブリギッテに、夫は優しかった。子供ができる前の不協和音がまるで嘘のようだ。子供ができたということで、『縁起が悪い』などと彼の作る靴を敬遠していた人間達も掌を返し幸せにあやかろうとこぞって彼の靴を買い求めた。元より腕は良かったから品物自体の出来は素晴らしいものだったからである。
ブリギッテとその夫の不仲を案じて彼女に言い寄っていた若い職人も、自分が入り込む隙はないと潔く身を引き、彼女に声を掛けることもしなかった。
また、
「お姉ちゃん、もうすぐ赤ちゃん産まれるの?」
と、近所に住んでいた幼い妹が家に訪れる度にキラキラした目でそう尋ねてくる。
「そうね、もうすぐだよね」
応える彼女を、体を気遣って家の手伝いをしに来てくれた他の弟妹達も温かく見守っていてくれた。自分達が姉からしてもらったことを少しでもお返ししたいと考えたのだ。温かく、そして労りと慈しみに満ちた関係だった。決して裕福ではなかったが、心の持ちようによってはこういう生き方もできるのだというのを示してくれていた。
その時の彼女の顔には、幸せというものが形を持ってそこに張り付いているようにさえ見えただろう。
誰もがこの若い夫婦の幸せを願い、祝福していた。
しかし、この世に神というものが本当に存在するのだとしたら、その神とやらは何故、理不尽や不条理といったものをこの世にばら撒くのだろう。この若い夫婦がついしてしまった過ちは、そこまでの報いを受けなければいけない程のものだったのだろうか……
この時、幸せそうに微笑む彼女を誰もが温かく見守っていたのだが、ただ一つ、まるで恐ろしい闇を湛えた深淵から覗き込むかのような暗く淀んだ禍々しい瞳が、少し離れたところから向けられていたことに、ブリギッテもその周りの人間達も誰一人として気付くことはなかったのだった。
そいつにどんな恨みがあり何故そのようなことを行っていたのかは、結局逮捕されることがなかったことから誰にも分からない。悪魔のような何かが取り憑いていたのは確かかもしれなくても、そもそもそれを呼び寄せることになった原因があった筈なのだが、それも永遠に分からず仕舞いのままだった。
その男の名はツェザリ・カレンバハ。長身痩躯。不自然に固まった右腕を懐に隠すように入れているところを見ると、何か障害があるのかもしれない。手入れの行き届いてない髪を無造作に伸ばしたその姿は、生気のない顔白い顔と合わせて、病と右手の障害で働けなくなって路上で寝泊まりしている物乞いのようにも見えたのだった。
とは言え、物乞いそのものは別に珍しいものでもなかったことから特に目立つ存在でもない。その目をまともに覗き込むようなことをしなければだが。
彼の目を見れば、誰しもが身構えただろう。不穏なもの、いやそれどころか明らかな危険を感じて警戒せずにいられなかったかもしれない。しかし彼は殆どぼろきれのようになったマントを頭から被って顔を隠していた。が、それも別に珍しい格好ではなかった為に気にも留められることはなかった。
だがこの時の彼は、深淵の奥深くから覗き込むような、暗く淀んだ禍々しい視線を一人の女に向けていた。女は大きな腹を抱え大儀そうに動きながらも明るく眩しい笑顔に囲まれて、自身も輝くような笑顔を周囲に向け、それが彼をさらに暗く闇に沈み込ませるように光を放っていた。光が強ければ強いほど、影もまた濃くなるかのように。
だからツェザリの目に留まってしまったのだろう。この男にとって彼女は眩しすぎたのだ。
男は大きな腹を抱えて幸せそのものという姿をした女の家を確かめ、その日の夜にすぐに動いた。以前の町では少々騒ぎになってしまって警戒が強くなり動きが取りにくくなっていたのだが、そこから遠く離れたこの町ではまだそこまでではなかった。それどころかまるで警戒していなかったと言ってもいいだろう。だから何の苦労もなかった。
懐に忍ばせた右腕を出し、女の家の前に建つ。
男の右手にあったそれは、ナイフというよりはもはや<刀>と言ってもいいくらいの大きさだった。刃の部分だけでも男の肘から指先までの長さよりも長く、分厚く、月明かりの下でも禍々しい光沢を放っている。
いや…よく見るとそれはあまりにも不自然だった。何しろ、袖口からは男の<手>は見えておらず、ただ刃だけが覗いていたのだ。
まるで、男の肘辺りから直接生えているかのように。
その刃先をドアの隙間に差し込んで捩じると、まるで飴細工のように鍵が壊れた。手慣れたやり口であることが伝わってくる。
その物音に、女も気付いた。大きな腹が負担になって深く眠れなかったからだ。しかし彼女の夫はまるで気付く様子もなかった。
そして男は影のようにするりと女に忍び寄り左手だけで殆どボロ布と変わらないハンカチを丸めたものを器用に口へと詰め込み、それと同時に一瞬の躊躇もなく、いつ生まれてもおかしくなさそうな女の腹に刃先を滑り込ませていたのだった。
『熱っっ!!?』
突然、腹に熱した鉄の棒でも押し付けられたのかと感じ、ブリギッテは声を上げようとした。なのに声が出ない。口に何かが詰め込まれたと気付くと同時に、腹に感じたそれは熱さではなく痛みだと分かってきたのだった。
だが、今度は、痛いなどというどころではなかった。脳を焼かれるかのような激しい痛みで今度は意識が遠のきかける。何が起こっているのか理解できず、彼女はパニックに陥っていた。
恐らく三十秒ほどしてようやく状況が理解でき始めると、自分に覆いかぶさるように誰かが、おそらく黒っぽい服装をした男がそこにいて、おそらくその男に口に丸めた布のようなものを詰め込まれたのだと察した。しかし痛い。腹が途方もなく痛い。しかも、痛いだけでなく何か異様な違和感もあった。パニックになった頭でなんとかそれを理解しようとした彼女は、ぬるりとした液体で腹が濡れているのだということに気が付いた。さらに男の左手が腹をまさぐっているのにも気が付いた。
『いや…! やめて……!』
彼女はまず性的に乱暴されようとしているのだと考えて身を捩ろうとした。すると鋭い痛みが体を引き裂かんばかりに走り抜ける。殴られたとかという痛みとは根本的に違う鋭利な痛み。
『まさ…か……?』
ここに来てようやく、混乱を極めていた彼女の脳裏に一つの考えが浮かんだ。浮かんでしまった。決して考えたくなかったおぞましいそれに、ブリギッテの顔が歪む。
だが、窓から差し込む月明かりで辛うじてシルエットだけが見えるその光景の中にあるものを、彼女は気付いてしまったのだった。
男の左手に掴まれた小さな塊から、短い指を備えた細い腕が伸び、動いていたということに。
『あ…あぁ……い…いやぁあぁぁああぁぁぁっっ!!!』
口に丸めた布のような物が詰め込まれている所為で大きく声は出せないが、彼女はあらん限りの力で絶叫した。
『赤ちゃん…! 私の赤ちゃん……!!』
そう、月明りだけでは殆どシルエットしか見えないが、それは確かに赤ん坊だった。大きく切り裂かれた彼女の腹から伸びた臍の緒と繋がった、彼女の子。
『いや! いやぁああぁぁっ! やめてぇぇええぇぇえぇぇぇっっっ!!!』
口を塞がれたままそう叫んだ彼女の視線の先で、自分の腹の上に置かれた我が子の体が変わり果てていくのをブリギッテは見た。見てしまった。
男は、腹の中から取り出した胎児を腹の上に置き、恐ろしく大きな刃物でそれを、まるで肉でも捌くかのようにためらうことなく切り刻んでいったのである。
そしてブリギッテ自身も、大量の出血により意識を失い、そのまま帰らぬ人となった。
ブリギッテ・シェーンベルク。享年、二十一歳。死因、出血性ショックによる多臓器不全。
ようやく掴みかけた幸せを見ず知らずの殺人鬼に奪われた、痛ましい最期であった。
とまあ、突然何事かと思っただろうが、これは、私が人間として転生を繰り返していた時に降りかかった話だ。
そう。ここで非業の死を遂げた<ブリギッテ・シェーンベルク>こそ、私だよ。正確には、<私の一人>だが。
さすがに一万年ばかり人間に転生を繰り返しているといろいろあったということだ。
なお、このブリギッテ・シェーンベルクは、自分の正体がクオ=ヨ=ムィだなどとは欠片すら気付くことなく、人間として生まれ生きてそして死んでいったのだということは付け加えておこう。
貧乏の子だくさんとはよく言ったもので、決して経済的に余裕があった訳ではないのに五人もの弟や妹が次々と生まれ、幼い頃からブリギッテはその弟妹達の面倒を見て両親を支えたのだった。
「いつもありがとうね、ブリギッテ。あなたのおかげで私もお父さんも本当に助かってる」
家は貧しいが、不器用でも性根は優しい父親と、弟妹達の面倒を見る自分をいつも笑顔で褒めてくれる明るい母親の下で、彼女は幸せだった。
弟妹達の面倒を見て慣れてきてたから結婚して子供ができてもきっと母親のようににこやかに接することができると思っていた。
「ブリギッテ。君となら素晴らしい家庭が築けそうだ」
「ええ、私もあなたの子供が欲しい。三人、いえ、五人は欲しいわ」
「それは大変だ。僕も寝ている間に靴を作ってくれる小人を見付けないといけないね」
年頃になり、ブリギッテは近所の靴屋の若い職人と結婚した。彼は誠実で、しかもユーモアを解する明朗な青年だった。彼女はそんな彼を愛していた。お互いに若いし健康だということですぐにも子供ができるだろうと思っていた。そう思っていたのに……
しかし、結婚して一年経っても二年経っても、二人の間には一向に子供ができる気配がなかった。
この頃の社会の常識としては、やはり結婚して子供を生してこそ一人前というのが一般的であり、子供ができないというのは半人前、もしくは<欠陥品>という風に見られるというのが実情だっただろう。
「気にしなくていいよ。僕達はまだその時期じゃないってことさ」
始めのうちは夫もそう言って慰めてくれたりもしたが、子供ができないことで、
『あいつは腕はいいんだが子無しだからねえ』
『あいつの作った靴は縁起が悪いから他のにするよ』
などと、仕事上の評価にも影響するようになる頃には、夫婦の間にも不協和音が生まれ始めていたのだった。
『子供ができないのは縁起が悪い』など、今から考えれば冗談としても三流以下の戯言に過ぎないだろうが、この頃はまだ、それがまかり通ってしまう時代だった。
やがて夫は、いつまで経っても子供ができないブリギッテを求めることもなくなっていった。殆ど毎日のようにだったものが三日に一度になり、一週間に一度になり、一ヶ月に一度になり、結婚して三年が経つ頃には半年に一度という感じだった。その一方で、仕事での憂さを晴らすかのように飲みに行く回数が増え、いつしか酒場で給仕をしていた若い女と仲良くなっていったのであった。
子供はなかなかできなかったが、ブリギッテは妻としてはよくやっていたと言えるだろう。炊事も洗濯も、子供の頃から母親を手伝っていたこともあり完璧と言ってもよかった。夫に対しても献身的で、夜の勤めも決して拒むようなことはなく、むしろ夫を励まそうとして積極的に奉仕もした。
なのに、どれほど夫を受け入れても子供ができる気配がなかった。
『神様…どうか私たちに子供をお授けください……』
近所の教会へも足しげく通い、そう祈りを捧げもした。
しかしこの頃には、夫は妻に隠れて酒場の給仕係の若い女との逢瀬を重ねていたりもしたのだが。
もっとも、周囲との人間関係も今よりずっと濃密だった当時では噂が広まるのも早く、夫の不貞行為はすぐにブリギッテの耳にも届くようになっていた。それでも彼女は、子供ができないのは自分が悪いのだと考え、敢えて夫を責めるようなことはしなかった。
するとそんな彼女の境遇に同情の念を抱く男が現れた。夫と同じ靴職人で、夫よりも若くて見た目にも精悍な男だった。
「ブリギッテさん。あなたのように素晴らしい女性が報われないなんて間違ってる」
男も教会に熱心に足を運んでいたので、そこで彼女を見かける度にそう言って彼女を慰めた。
ブリギッテは夫を愛し、家庭を一番に考えてはいたが、男の熱心な優しさの前にほだされてしまい、つい、それに縋ってしまったのだった。一度だけの過ちだった。
しかも男に体を許してしまったその日の夜、何故か夫も久しぶりに彼女を求めてきた。半年ぶりに女性として愛されたことで、彼女自身も意識しない艶っぽさが増していたのかもしれない。
そしてその数ヶ月後、彼女は自身の体調に変化を感じていた。それまでは判で押したようにしっかりと訪れていた<月のもの>が来なくなり、更には料理をしていた時に何故かその匂いがたまらなく不快になって、咄嗟に胃の中のものを戻してしまったりしたのだ。
「まさか、これは…?」
そのまさかだった。妊娠である。
「それは本当かい!? やった! やはり僕たちは神様に見放されてはいなかったんだ!!」
夫はそう声を上げて満面の笑みを浮かべつつ彼女を抱き締めた。その上、酒場の給仕係の女とも会わなくなり、以前のように妻を大切にするようになった。
ただまあ、こうなると事情を知る者なら誰もが思うことだろうが、二人の間にこれまで子供ができなかったのは実は夫の方に原因があったのだった。
さりとて、この頃の医療技術では誰の子かを正確に判別することはできなかった為、ブリギッテも何となく不安を感じつつもその子を夫の子供として受け入れることを心に決めていたのだった。
ブリギッテとその夫がようやくの妊娠に喜んでいたちょうどその頃、ある事件が世間を騒がせていた。妊娠中の女性が次々と襲われ、殺されていくという事件が起こっていたのである。
それだけではない。その事件の内容があまりにおぞましく、詳細が知れれば知れるほど、人々は恐れおののいた。なにしろそれは、妊娠中の女性をただ殺害するのではなく、まず女性の腹を割いて胎児を取り出しそれを女性の目の前で切り刻んでから女性が失血死していくのを眺めるという、まさに悪魔のような所業だったのだ。
しかしその事件はブリギッテが住む町からは遠く離れた場所での事件だったので、彼女にとっては真偽不明な怪奇譚のようなものでしかなかった。
「大丈夫かい、ブリギッテ」
大きな腹を抱えてふうふうと息を切らしながら家事をこなすブリギッテに、夫は優しかった。子供ができる前の不協和音がまるで嘘のようだ。子供ができたということで、『縁起が悪い』などと彼の作る靴を敬遠していた人間達も掌を返し幸せにあやかろうとこぞって彼の靴を買い求めた。元より腕は良かったから品物自体の出来は素晴らしいものだったからである。
ブリギッテとその夫の不仲を案じて彼女に言い寄っていた若い職人も、自分が入り込む隙はないと潔く身を引き、彼女に声を掛けることもしなかった。
また、
「お姉ちゃん、もうすぐ赤ちゃん産まれるの?」
と、近所に住んでいた幼い妹が家に訪れる度にキラキラした目でそう尋ねてくる。
「そうね、もうすぐだよね」
応える彼女を、体を気遣って家の手伝いをしに来てくれた他の弟妹達も温かく見守っていてくれた。自分達が姉からしてもらったことを少しでもお返ししたいと考えたのだ。温かく、そして労りと慈しみに満ちた関係だった。決して裕福ではなかったが、心の持ちようによってはこういう生き方もできるのだというのを示してくれていた。
その時の彼女の顔には、幸せというものが形を持ってそこに張り付いているようにさえ見えただろう。
誰もがこの若い夫婦の幸せを願い、祝福していた。
しかし、この世に神というものが本当に存在するのだとしたら、その神とやらは何故、理不尽や不条理といったものをこの世にばら撒くのだろう。この若い夫婦がついしてしまった過ちは、そこまでの報いを受けなければいけない程のものだったのだろうか……
この時、幸せそうに微笑む彼女を誰もが温かく見守っていたのだが、ただ一つ、まるで恐ろしい闇を湛えた深淵から覗き込むかのような暗く淀んだ禍々しい瞳が、少し離れたところから向けられていたことに、ブリギッテもその周りの人間達も誰一人として気付くことはなかったのだった。
そいつにどんな恨みがあり何故そのようなことを行っていたのかは、結局逮捕されることがなかったことから誰にも分からない。悪魔のような何かが取り憑いていたのは確かかもしれなくても、そもそもそれを呼び寄せることになった原因があった筈なのだが、それも永遠に分からず仕舞いのままだった。
その男の名はツェザリ・カレンバハ。長身痩躯。不自然に固まった右腕を懐に隠すように入れているところを見ると、何か障害があるのかもしれない。手入れの行き届いてない髪を無造作に伸ばしたその姿は、生気のない顔白い顔と合わせて、病と右手の障害で働けなくなって路上で寝泊まりしている物乞いのようにも見えたのだった。
とは言え、物乞いそのものは別に珍しいものでもなかったことから特に目立つ存在でもない。その目をまともに覗き込むようなことをしなければだが。
彼の目を見れば、誰しもが身構えただろう。不穏なもの、いやそれどころか明らかな危険を感じて警戒せずにいられなかったかもしれない。しかし彼は殆どぼろきれのようになったマントを頭から被って顔を隠していた。が、それも別に珍しい格好ではなかった為に気にも留められることはなかった。
だがこの時の彼は、深淵の奥深くから覗き込むような、暗く淀んだ禍々しい視線を一人の女に向けていた。女は大きな腹を抱え大儀そうに動きながらも明るく眩しい笑顔に囲まれて、自身も輝くような笑顔を周囲に向け、それが彼をさらに暗く闇に沈み込ませるように光を放っていた。光が強ければ強いほど、影もまた濃くなるかのように。
だからツェザリの目に留まってしまったのだろう。この男にとって彼女は眩しすぎたのだ。
男は大きな腹を抱えて幸せそのものという姿をした女の家を確かめ、その日の夜にすぐに動いた。以前の町では少々騒ぎになってしまって警戒が強くなり動きが取りにくくなっていたのだが、そこから遠く離れたこの町ではまだそこまでではなかった。それどころかまるで警戒していなかったと言ってもいいだろう。だから何の苦労もなかった。
懐に忍ばせた右腕を出し、女の家の前に建つ。
男の右手にあったそれは、ナイフというよりはもはや<刀>と言ってもいいくらいの大きさだった。刃の部分だけでも男の肘から指先までの長さよりも長く、分厚く、月明かりの下でも禍々しい光沢を放っている。
いや…よく見るとそれはあまりにも不自然だった。何しろ、袖口からは男の<手>は見えておらず、ただ刃だけが覗いていたのだ。
まるで、男の肘辺りから直接生えているかのように。
その刃先をドアの隙間に差し込んで捩じると、まるで飴細工のように鍵が壊れた。手慣れたやり口であることが伝わってくる。
その物音に、女も気付いた。大きな腹が負担になって深く眠れなかったからだ。しかし彼女の夫はまるで気付く様子もなかった。
そして男は影のようにするりと女に忍び寄り左手だけで殆どボロ布と変わらないハンカチを丸めたものを器用に口へと詰め込み、それと同時に一瞬の躊躇もなく、いつ生まれてもおかしくなさそうな女の腹に刃先を滑り込ませていたのだった。
『熱っっ!!?』
突然、腹に熱した鉄の棒でも押し付けられたのかと感じ、ブリギッテは声を上げようとした。なのに声が出ない。口に何かが詰め込まれたと気付くと同時に、腹に感じたそれは熱さではなく痛みだと分かってきたのだった。
だが、今度は、痛いなどというどころではなかった。脳を焼かれるかのような激しい痛みで今度は意識が遠のきかける。何が起こっているのか理解できず、彼女はパニックに陥っていた。
恐らく三十秒ほどしてようやく状況が理解でき始めると、自分に覆いかぶさるように誰かが、おそらく黒っぽい服装をした男がそこにいて、おそらくその男に口に丸めた布のようなものを詰め込まれたのだと察した。しかし痛い。腹が途方もなく痛い。しかも、痛いだけでなく何か異様な違和感もあった。パニックになった頭でなんとかそれを理解しようとした彼女は、ぬるりとした液体で腹が濡れているのだということに気が付いた。さらに男の左手が腹をまさぐっているのにも気が付いた。
『いや…! やめて……!』
彼女はまず性的に乱暴されようとしているのだと考えて身を捩ろうとした。すると鋭い痛みが体を引き裂かんばかりに走り抜ける。殴られたとかという痛みとは根本的に違う鋭利な痛み。
『まさ…か……?』
ここに来てようやく、混乱を極めていた彼女の脳裏に一つの考えが浮かんだ。浮かんでしまった。決して考えたくなかったおぞましいそれに、ブリギッテの顔が歪む。
だが、窓から差し込む月明かりで辛うじてシルエットだけが見えるその光景の中にあるものを、彼女は気付いてしまったのだった。
男の左手に掴まれた小さな塊から、短い指を備えた細い腕が伸び、動いていたということに。
『あ…あぁ……い…いやぁあぁぁああぁぁぁっっ!!!』
口に丸めた布のような物が詰め込まれている所為で大きく声は出せないが、彼女はあらん限りの力で絶叫した。
『赤ちゃん…! 私の赤ちゃん……!!』
そう、月明りだけでは殆どシルエットしか見えないが、それは確かに赤ん坊だった。大きく切り裂かれた彼女の腹から伸びた臍の緒と繋がった、彼女の子。
『いや! いやぁああぁぁっ! やめてぇぇええぇぇえぇぇぇっっっ!!!』
口を塞がれたままそう叫んだ彼女の視線の先で、自分の腹の上に置かれた我が子の体が変わり果てていくのをブリギッテは見た。見てしまった。
男は、腹の中から取り出した胎児を腹の上に置き、恐ろしく大きな刃物でそれを、まるで肉でも捌くかのようにためらうことなく切り刻んでいったのである。
そしてブリギッテ自身も、大量の出血により意識を失い、そのまま帰らぬ人となった。
ブリギッテ・シェーンベルク。享年、二十一歳。死因、出血性ショックによる多臓器不全。
ようやく掴みかけた幸せを見ず知らずの殺人鬼に奪われた、痛ましい最期であった。
とまあ、突然何事かと思っただろうが、これは、私が人間として転生を繰り返していた時に降りかかった話だ。
そう。ここで非業の死を遂げた<ブリギッテ・シェーンベルク>こそ、私だよ。正確には、<私の一人>だが。
さすがに一万年ばかり人間に転生を繰り返しているといろいろあったということだ。
なお、このブリギッテ・シェーンベルクは、自分の正体がクオ=ヨ=ムィだなどとは欠片すら気付くことなく、人間として生まれ生きてそして死んでいったのだということは付け加えておこう。
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闇夜に道連れ ~友哉とあきらの異常な日常~
緋川真望
ホラー
少しだけ歪んでいたとしても、そばにいるだけで、きっと幸せ。
盲目で何も見えないはずの友哉の目には、怪異が映る。
半妖のあきらの目にも、怪異が映る。
でも、二人に見えているものは同じではなかった。
盲目の友哉と半妖のあきらは便利屋をしながら各地を転々として暮らしている。
今回依頼があったのは築三年の新しいアパートで、事故物件でもないのに、すでに6人も行方不明者が出ているという。
アパートを訪れたふたりはさっそく怪異に巻き込まれてしまい……。
序章は現代(19歳)、第一章から第七章まで二人の高校時代のお話(友哉の目が見えなくなる原因など)、終章はまた現代に戻る構成です。
ホラーみのあるブロマンスです。
エロはありません。
エブリスタでも公開中。
深淵の孤独
阿波野治
ホラー
中学二年生の少年・楠部龍平は早起きをした朝、学校の校門に切断された幼い少女の頭部が放置されているのを発見。気が動転するあまり、あろうことか頭部を自宅に持ち帰ってしまう。龍平は殺人鬼の復讐に怯え、頭部の処理に思い悩む、暗鬱で孤独な日々を強いられる。
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