絵里奈の独白

京衛武百十

文字の大きさ
上 下
223 / 255

<山田絵里奈>から<山下絵里奈>へ

しおりを挟む
『おめでとうございます』

山仁やまひとさんは、電話で、突然婚姻届けの証人になってほしいと言い出した彼に対してもいつもの感じで穏やかにそう言ってくれたそうだった。

強い雨が降り続く中を、私と彼はやや速足で山仁さんの家に向かう。沙奈子ちゃんと玲那には部屋で待っててもらうことにした。

もう、夜の八時も回ってる時間だから、普通に考えれば失礼に当たると思う。だけどこの時の私達にはそういうことを気遣うだけの余裕がなかった。

山仁さんの家のチャイムを押すと、「はーい!」と聞き覚えのある明るい声が。山仁さんの息子さんで、沙奈子ちゃんの友達の大希ひろきくんだった。

「いらっしゃい!」

こんな時間にいきなり押し掛けたのに、屈託のない笑顔で私たちを迎えてくれた。そんな様子が眩しくさえ感じる。

彼に続けて奥から現れたのが、山仁さんだった。

「この度は、おめでとうございます」

改めて丁寧に頭を下げられて、私も彼も恐縮してしまう。

「どうぞ上がってください」と勧められたけど、彼は「沙奈子を待たせてますから」とどうしても硬さの抜けない強張った声で応えた。すると山仁さんは黙って頷いて、その場で彼から受け取った婚姻届けの書類の証人欄に署名捺印してくれた。

「これで後は役所にもっていくだけですね」

山仁さんがそう言って微笑みかけてくれる。

本当はちゃんと挨拶するべきだったんだと思う。普通なら非常識なくらいのことを私達はしてた筈なんだ。なのに山仁さんは私達にそれだけの余裕がないことを察してくれたみたいだった。

なんて器の大きい人なんだろう。

結局、私達は、そんな山仁さんにすっかり甘えてしまって、ただ深々と頭を下げただけですぐに区役所へと向けて足早に出発する。

区役所の時間外受付けでそれを受け付けてもらって、事務的に処理されて、

「はい、これで受け付けは完了です。おめでとうございます」

と言われて、区役所も後にした。

こうして私は、<山田絵里奈>から<山下絵里奈>になった。

私は別に自分の苗字に拘りも思い入れもなかったし、なにより、彼と沙奈子ちゃんの苗字が変わってしまうのは避けたかったから、彼の苗字を名乗らせてもらうことにした。

「私達、結婚しちゃったんですね…」

降りしきる雨の中、彼と二人で歩きながら、なんだかちょっと気が抜けてしまった気分でポツリとそう言った。

「そうだね…」

と、彼も呟くように応えてくれた。

実感も感慨もない、すごく無味乾燥な<結婚>だった。だけど私と彼は、こうして、本当に<家族>になったのだった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

最近様子のおかしい夫と女の密会現場をおさえてやった

家紋武範
恋愛
 最近夫の行動が怪しく見える。ひょっとしたら浮気ではないかと、出掛ける後をつけてみると、そこには女がいた──。

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜合体編〜♡

x頭金x
恋愛
♡ちょっとHなショートショートつめ合わせ♡

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

王太子の子を孕まされてました

杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。 ※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。

処理中です...