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第三幕

選択肢はない

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『他者を敬う』

それがどういうことなのか、どうすれば敬ってることになるのかが分からないというのは、それ自体が大きな問題だよね。

他者を敬うことができない人が道理を説くなんてできる? 人としての道理を理解しているなら他者を敬うこともできるはずなのに。

ううん、道理を理解しているなら、他者を敬うことの重要性が理解できるはずだから、

『敬わない』

という選択肢はないはずなんだけどな。

『自分の考えに合わない相手は敬う必要はない』

なんてのは、甘えなんだ。

だって、この世というのは、自分にとって都合のいいものだけで、自分の考えに合致するものだけでできているわけじゃないから。

人間にとって有害な細菌やウイルスだって存在して、それが作り上げているのが<この世>なんだからね。

人間の価値観とは絶対に折り合うことのないものが存在するこの世で、同じ人間でありながら、『価値観が噛み合わない、相反する』という程度のことを許容できないで、どうやってこの世を生きていくつもり?

自分に都合の悪いものはこの世から抹消して自分だけが生き延びるなんて、そんなムシのいい話はこの世には存在しないよ。

僕達吸血鬼にとっても、人間がいなくなるのは寂しいけれど、人間がいなくても何も困らないんだよ。

だって、吸血は必須の行為じゃないし、別に人間の血でなくちゃいけないわけでもないし。

僕がアオの血を貰うのは、彼女自身が望んでいることであるのと同時に、僕にとっても非常に効率的な精神安定剤でもあるからなんだ。実際には、他のものでも代用は利く。

アオも、その事実は理解してくれているよ。

理解した上で、

「それはつまり、私の血じゃダメってわけじゃないっていう意味でもあるよね」

と言ってくれてるんだ。

『自分に都合の悪いもの、考えに合わないもの、価値観が合わないものがこの世から消滅すれば素晴らしい世界になる』

そんなことは、有り得ないんだよ。そんなものは実現できないと、人間の歴史は証明してくれている。

同時に、人間同士でいがみ合っていては、結局、大きな損失を生むということもまた事実。

人間は、<利>を求めようとすればこそ、お互いに折り合える部分を探らなきゃいけない。それを諦めたら、また、大変な衝突が起こるんだ。

自分に都合の悪いものを排除しようとしても、排除される側だっておとなしく排除はされてくれないよ。

先の大戦だって、そうだったからね。

『自分の気に入らないものは、死ねばいい。この世から消し去ればいい』

その考えが多くの凶悪な事件の基になっていることを、無数の事例が示してくれている事実に、アオは気付いてくれたんだ。

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