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第二幕

実に平穏な毎日を

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などと、<第二幕>を迎えてものっけから一ミリも<ほのぼの>していない形で始まってしまったものの、少なくともミハエル達自身は、実に平穏な毎日を過ごしていた。

本当に平穏すぎて何をどう触れればいいのか分からないくらいに平穏なのだ。

多少、嫌なことがあったとしても、それ自体が普通に生きていれば当たり前にあることなので、引きずる必要もないという。

家に帰れば家族が癒してくれるし。

だから、

『なぜミハエル達が平穏でいられているのか?』

に触れることでしか間がもたないという恐ろしい事態に。

『本当に何も起こらない日常を描く』

ことは実に難しい。もはや苦痛ですらある。

『んなわけあるかボケェ~っ!!』

というのが本音だ。

それを見ていて心地好い感じに描けるということ自体が<センス>なのかもしれない。

もしくは、

『ギスギスやドロドロやトラブルも含めてまず描き、その上で、ギスギスやドロドロやトラブルといった部分を徹底的にトリミングして再構成する』

という形で作られているのだろうか? これならまだできなくもなさそうだ。



などと愚痴を言ってても始まらないので話を戻そう。

怖い夢を見ても助けに来てくれる父親を、子供達は信頼している。

ただ、

『怖い夢を見ても助けに来てくれる父親を、子供達は信頼している』

という部分だけをピックアップして真似すればそれで上手くいくか?と言われれば『否』であろう。

物事は一面だけで構成されているわけではないし、人間は設計図通りに作れば良好な品質を確保できる工業製品ではない。まあこの場合も、そもそもその<設計図>がちゃんとしたものであるという前提ではあるものの、それでも、

『子育てに成功した誰かのそれをただ真似れば上手くいくわけではない』

というのも事実。

なにしろ、他人からはごく一部しか見えていないのだから。

子供というのはあくまで<人間>である。人間を育てるということがいかに難しいかは、無数の過去の事例をひもといても分かるだろう。画一的な対応では、それぞれ異なった<人格>を持つ人間では上手く当てはまらない事例が多すぎるのだ。

ゆえに、多角的に多方面から客観的に相手の反応を見つつ、それぞれに適した対応を探らなければいけなくなる。

ミハエルとアオの場合も、悠里ユーリ安和アンナ椿つばきの三人の子供達について、三人ともただ同じように接してきたわけじゃない。

長男で長子の悠里。

長女で次子の安和。

次女で末っ子の椿。

もうこれだけで前提条件が違うのが分かる。

加えて、

悠里と安和はダンピール。

椿は普通の人間。

という事情も影響してくる。

『自分達はダンピールなのに一番下の妹は普通の人間』

『自分は普通の人間なのに上の二人はダンピールで、兄妹の中で自分だけが違う』

この事実がそれぞれの精神に与える影響を考慮しなければ上手くいかないことは、容易に想像できるのではないだろうか。

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