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現実には有り得ない

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 牧島まきしま煌輝ふぁんたじあが本当に際どいところで踏みとどまってくれたことは、結局、誰にも知られることはなかった。知っているのは煌輝自身だけだ。
 負の感情を向けられていたはずの琴美自身さえ、それを察することはなかった。なのでもし切りつけられていたら、それこそ琴美には何の心当たりもない、煌輝だけが一方的に『悪い』とされる事件となっていただろう。
『家庭環境に問題があっても全員が事件を起こすわけじゃない!』
 とか言って、
『親の所為にするな!』
 とか言って、自分が、
『詳細な背景など知りもしない赤の他人に過ぎない』
 という事実に目を瞑って、正義面して自分の鬱憤晴らしに利用する輩が無数に湧いて出る事件になるのだ。それは煌輝の身勝手さと何が違うのか?
 こう言われるとそれこそ言い訳を詭弁を並べて自己正当化しようとするだろうが。
 しかし、事件は起こらなかった。起こらなかったのだ。だから責めるのはそもそもおかしい。
 そして事件が回避されたことにより、その日から早速、琴美と煌輝は以前と同じように図書室で課題をこなすようになった。
 自分の前でいきなり泣き出した煌輝の<事情>については、琴美は詮索しなかった。琴美自身、自分でもよく分からない形で情緒不安定になることがあるのは知っていた。だから煌輝もそうだったのだろうと思っただけだ。そしてそんな時には、あれこれ詮索されても、本人も巧く言語化できないことが多いだろうことも知っている。
 だったらその時はそっとしておいて、後々、冷静になれてから自己分析すればいいのかもしれない。

 確かに、煌輝の家庭の問題が解決されなければ、いつまた同じような状態に陥るか分からないだろう。ただ、琴美との繋がりが保たれたということは、いずれ一真や結人ゆうと達の知るところとなり、煌輝が表立って琴美を害そうとしなければ、一真や結人達が支えてくれるようになる可能性はある。煌輝の母親は救えなくても、煌輝は救われる可能性があるのだ。
 あくまで、煌輝が琴美を表立って害そうとしなければ、だが。
『現実には有り得ない』
 結人達の振る舞いをそう感じるかもしれないが、結人達だって別に<聖人君子>でもなければ<賢人>でもないのだ。自分達の手の届く範囲、自分達が手を差し伸べたいと思える範囲でしか、行動していない。大希ひろきはその部分で『やり過ぎて』しまったことで大変な目に遭ったりもしたが、それでも大希自身は<自分にできること>をやろうとしただけだ。それを見誤ってしまったに過ぎない。
 そうやって自分達に何ができて何ができないのかを結人達は考えてやってきた。そこに琴美と一真が加わることになるだろう。そして、もしかすると煌輝も。
 もちろん、大森海美神とりとんも力になってくれるだろうが。海美神自身はすでにそのつもりなのだ。

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