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撫でただけでも死んでしまいそうで

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 ただ、牧島まきしま煌輝ふぁんたじあにとっては、とてもとても苦しい時間だったようだ。家に帰っても母親には相談できない。荒れ果てた自宅リビングの中で、発泡酒で抗うつ薬を流し込み、スナック菓子のようにサプリメントを齧っている母親には。
 もはや人間の姿をしているようにさえ見えない、
 <毛の生えた枯枝>
 のような母親には、何を相談しようもない。ほんの数分、目を離しているだけでいつの間にか死んでいてもおかしくない母親には。
 何をどうすればいいのか分からないから、ただそっとしておくしかできなかった。今の煌輝が撫でただけでも死んでしまいそうで。
『こんな親でも敬うべき』?
 笑わせる。それをホザく人間は、この母親と一緒に一週間ばかり暮らしてみればいい。正気を保つことさえままならないだろう。いっそそんな戯言をホザく奴と一緒に閉じ込めて事件でも起こって何もかもおしまいにしてくれたらどんなにか気が楽か。
 生活保護を受けていることでかろうじて生活はできているものの、たまに訪ねてくるケースワーカーは完全に諦めていて、煌輝が大学にでも進学して家を出ていてけばもう肩の荷が下りるとさえ考えていた。母親本人の社会復帰など、もはや有り得ないと匙を投げていた。
 煌輝が救われれば、それでもう御の字であると。
 だから煌輝は、自室にすぐに引きこもってしまった。言葉など交わさない。生きていることさえ確認できればそれでいいし、もし死んでいれば警察と救急を呼べばいいとだけ考えていた。救命など考えもしない。気付いてないふりをして、救急救命の可能性がなくなってからゆっくりと電話をすればいいと思っていた。
 しかし、なかなかしぶとくて、死んでくれないが。
『こんなに苦しんでいる自分の親を気遣えないとか、それでも人間か!?』
 とか言う者もいるだろう。だが、自分の人生の半分くらいしか生きていない子供に気遣ってもらわないと正気も保てないような親というのは、一体、何なのだ? 子供の人生にプラスして二十年や三十年という時間を、どう過ごしてきたというのか?
 それでもなお、
『結婚して子供も作れたんだから、結婚もしてない子供よりも優れてる』
 だとか寝言を言うのか?
 そもそもこの母親は、煌輝と同じ年齢だった頃に自分の母親に掛けた言葉は、
『五月蠅い! ババア!!』
『死ね! ババア!!』
 である。対して煌輝は、そこまでの言葉は掛けずにそっとしておいてくれた。そっとしておいてくれたのだ。これはむしろ、同じ年齢の時点では、母親よりも煌輝の方が気遣いができる優れた子供であるとは言えないか?

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