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二人にとっての普通

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「ただいま」
 前の部屋の明け渡しを終えて<家>に帰った一真が鍵を開けて玄関に入ると、炬燵に入っていた琴美が体を起こして自分を見ていて、しかも明らかに泣きはらした目をしているのが分かった。
「ど、どうした……!?」
 一真が慌てて部屋に上がっても、琴美は、
「……大丈夫。何でもない……」
 首を横に振るだけだった。実際、何かあったわけじゃない。ただただ琴美自身が情緒不安定になってしまっていただけだ。
「いろいろ考えちゃってただけ……」
 琴美も、兄の姿を見て安堵したように応える。
「そうか、それならいいんだ。でも、これからはなんでも素直に言ってくれていいからな。もう我慢する必要はないんだ」
 一真はそう言うものの、当の一真自身、保証金の件などについては敢えて<権利>を行使せず早々に手打ちにしてしまうなど、
『言っていいことを素直に言う』
 という振る舞いができているとは言い難いだろう。けれど、何もかもを一気に変えてしまうというのは、むしろ危険なことである。たった、
『新しい部屋に移り新しい生活を始める』
 というだけのことで琴美が情緒不安定になっているように、<変化>はそれ自体がストレスなのだ。
 たとえそれが<良い方向への変化>であっても。
 かように、ストレスというものは、決して完全になくすことはできない。あくまで過剰なそれにならないように緩和することもできるというだけだ。一真もそれは承知している。
 だから改めて琴美に対し、
「部屋は新しくなったけど、なるべく今まで通りに行こう……」
 そう告げた。そんな兄に対し琴美も、
「うん……」
 安心したかのように少しだけ微笑んだ。そしてすぐにその微笑みも消えて、前の部屋にいた時のように冷淡な表情へと変わる。
 それでいい。それでよかった。
 急ぐ必要はない。焦る必要もない。普通に、<二人にとっての普通>に、過ごしていけばいい。
 だから、
「コーヒーでも飲むか……?」
 一真の問い掛けに、
「うん……」
 冷淡な様子で応えた。

 せっかくの状況の好転に諸手を上げて喜ばないことを疑問に感じる者もいるだろう。だがそれは、
『自分と他者は<別の存在>である』
 という現実から目を背けているだけに過ぎない。自分と同じ感覚を他者も持っていて当然と考えるのがそもそも正しくないのだ。
 そう考えるからこそ、
『自分にとって不快なものはとにかく排除すればいい』
 などという狭隘な思考に陥ってしまうのだから。
 一真も琴美も、<世間一般>からすれば眉を顰められるような人間達の<子>である。そして世の中には、それだけで<子>の人間性まで決め付けてしまう者もいる。
『人間はそれぞれ違う』
 という現実を認められないがゆえに、そんなことを思うのだろう。

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