ハズレガチャの空きカプセル

京衛武百十

文字の大きさ
上 下
62 / 108

過剰適応

しおりを挟む
 琴美が情緒不安定になっているのは、もしかすると<過剰適応>と呼ばれるものの反動かもしれない。つらい環境に耐えるために過剰に適応してしまって、それが突然、重しが外れたような状態になって、自分の感情をどこに置けばいいのかが分からなくなっているような。
 実は人間にとっては、
 <喜ばしい出来事>
 というのも、大きなストレスになるという。つまり、
 <従来と大きく異なる状況>
 というものは、ストレスになるのだ。前の部屋を掃除していた時にはまだ対処できていたが、新しい部屋に移ったことでバランスを失いつつあるのかもしれない。なので対処を誤ると、思わぬ方向に転がることもある。
『お兄ちゃん……早く帰ってきて……』
 ついそんなことも思ってしまった。
 ロクデナシの親からようやく解放されたというのに、まさかそれ自体がストレスになることもあるというのは、大変に皮肉な話だろう。だからこそ、過酷な環境にあった者を、<普通の環境>に適応させることは難しかったりもするのだ。過酷な戦場を経験した兵士が、平和な日常に戻っても適応できなかったりすることがあるのも、それの一種なのだという。

 一方その頃、一真の方は、前の部屋で、美嘉が手配した弁護士を迎えて、管理会社が来る前に部屋の状態を確認してもらっていた。<一条>と名乗った弁護士は、
「襖と畳の破損。キッチンの錆については、居住していた期間の長さから考えて元々交換の必要があったりや通常の範囲の経年劣化だと判断できるでしょうから、原状回復の義務には当たらないでしょう」
 と告げてくれた。しかし同時に、例の煙草の不始末による小火ぼやで黒くなった壁を見て、
「ですが……この壁につきましては、やはり原状回復の必要があるでしょうね」
 とも告げる。それに対して一真は、
「仕方ありません……覚悟はしてます」
 悔しそうにはしつつも、そう応えた。すると弁護士は、
「でも、お任せください。大まかな見積もりを取り、それから大きく外れた請求にはならないようにしますので」
 スマホで何枚も写真を撮り、それをどこかに送信した。その上で電話でやり取りをし、さらに詳細な壁の状態を確認していく。
 壁は、あくまで表面だけが焦げている状態だった。爪で少し掻いただけでもその下の綺麗な層が出てくる。どうやら建物の躯体にまでは影響が出ていないようだ。こうして、
「なるほど。多く見積もっても十万円というところですね」
「ああ。こっちも現場を見ないと断定はできないが、うちなら五万弱でできるだろうな。で、ボりにボッて十万だろう。そこまで値切れれば上等だと思う」
 そんなやり取りが、静かな部屋で一真の耳にも届いてきたのだった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

コグマと大虎 ~捨てられたおっさんと拾われた女子高生~

京衛武百十
現代文学
古隈明紀(こぐまあきのり)は、四十歳を迎えたある日、妻と娘に捨てられた。元々好きで結婚したわけでもなくただ体裁を繕うためのそれだったことにより妻や娘に対して愛情が抱けず、それに耐えられなくなった妻に三下り半を突き付けられたのだ。 財産分与。慰謝料なし。養育費は月五万円(半分は妻が負担)という条件の一切を呑んで離婚を承諾。独り身となった。ただし、実は会社役員をしていた妻の方が収入が多かったこともあり、実際はコグマに有利な条件だったのだが。妻としても、自分達を愛してもいない夫との暮らしが耐えられなかっただけで、彼に対しては特段の恨みもなかったのである。 こうして、形の上では家族に捨てられることになったコグマはその後、<パパ活>をしていた女子高生、大戸羅美(おおとらみ)を、家に泊めることになる。コグマ自身にはそのつもりはなかったのだが、待ち合わせていた相手にすっぽかされた羅美が強引に上がり込んだのだ。 それをきっかけに、捨てられたおっさんと拾われた(拾わせた)女子高生の奇妙な共同生活が始まったのだった。      筆者より。 中年男が女子高生を拾って罪に問われずに済むのはどういうシチュエーションかを考えるために書いてみます。 なお、あらかじめ明かしておきますが、最後にコグマと大虎はそれぞれ自分の人生を歩むことになります。 コグマは結婚に失敗して心底懲りてるので<そんな関係>にもなりません。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

医者と二人の女

浅野浩二
現代文学
医者と二人の女の小説です。

ナースコール

wawabubu
青春
腹膜炎で緊急手術になったおれ。若い看護師さんに剃毛されるが…

兄の悪戯

廣瀬純一
大衆娯楽
悪戯好きな兄が弟と妹に催眠術をかける話

僕らは不完全な世界で猫を撫でる。

道端の椿
ライト文芸
僕は動物飼育のひどい現状に絶望し、自分を守るために世界から心を閉ざした。クラスメイトの綾という女の子がその重い扉をノックする――

伏線回収の夏

影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。某大学の芸術学部でクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。かつての同級生の不審死。消えた犯人。屋敷のアトリエにナイフで刻まれた無数のXの傷。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の六人は、大学時代にこの屋敷で共に芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。グループの中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。 《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》

処理中です...