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過剰適応
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琴美が情緒不安定になっているのは、もしかすると<過剰適応>と呼ばれるものの反動かもしれない。つらい環境に耐えるために過剰に適応してしまって、それが突然、重しが外れたような状態になって、自分の感情をどこに置けばいいのかが分からなくなっているような。
実は人間にとっては、
<喜ばしい出来事>
というのも、大きなストレスになるという。つまり、
<従来と大きく異なる状況>
というものは、ストレスになるのだ。前の部屋を掃除していた時にはまだ対処できていたが、新しい部屋に移ったことでバランスを失いつつあるのかもしれない。なので対処を誤ると、思わぬ方向に転がることもある。
『お兄ちゃん……早く帰ってきて……』
ついそんなことも思ってしまった。
ロクデナシの親からようやく解放されたというのに、まさかそれ自体がストレスになることもあるというのは、大変に皮肉な話だろう。だからこそ、過酷な環境にあった者を、<普通の環境>に適応させることは難しかったりもするのだ。過酷な戦場を経験した兵士が、平和な日常に戻っても適応できなかったりすることがあるのも、それの一種なのだという。
一方その頃、一真の方は、前の部屋で、美嘉が手配した弁護士を迎えて、管理会社が来る前に部屋の状態を確認してもらっていた。<一条>と名乗った弁護士は、
「襖と畳の破損。キッチンの錆については、居住していた期間の長さから考えて元々交換の必要があったりや通常の範囲の経年劣化だと判断できるでしょうから、原状回復の義務には当たらないでしょう」
と告げてくれた。しかし同時に、例の煙草の不始末による小火で黒くなった壁を見て、
「ですが……この壁につきましては、やはり原状回復の必要があるでしょうね」
とも告げる。それに対して一真は、
「仕方ありません……覚悟はしてます」
悔しそうにはしつつも、そう応えた。すると弁護士は、
「でも、お任せください。大まかな見積もりを取り、それから大きく外れた請求にはならないようにしますので」
スマホで何枚も写真を撮り、それをどこかに送信した。その上で電話でやり取りをし、さらに詳細な壁の状態を確認していく。
壁は、あくまで表面だけが焦げている状態だった。爪で少し掻いただけでもその下の綺麗な層が出てくる。どうやら建物の躯体にまでは影響が出ていないようだ。こうして、
「なるほど。多く見積もっても十万円というところですね」
「ああ。こっちも現場を見ないと断定はできないが、うちなら五万弱でできるだろうな。で、ボりにボッて十万だろう。そこまで値切れれば上等だと思う」
そんなやり取りが、静かな部屋で一真の耳にも届いてきたのだった。
実は人間にとっては、
<喜ばしい出来事>
というのも、大きなストレスになるという。つまり、
<従来と大きく異なる状況>
というものは、ストレスになるのだ。前の部屋を掃除していた時にはまだ対処できていたが、新しい部屋に移ったことでバランスを失いつつあるのかもしれない。なので対処を誤ると、思わぬ方向に転がることもある。
『お兄ちゃん……早く帰ってきて……』
ついそんなことも思ってしまった。
ロクデナシの親からようやく解放されたというのに、まさかそれ自体がストレスになることもあるというのは、大変に皮肉な話だろう。だからこそ、過酷な環境にあった者を、<普通の環境>に適応させることは難しかったりもするのだ。過酷な戦場を経験した兵士が、平和な日常に戻っても適応できなかったりすることがあるのも、それの一種なのだという。
一方その頃、一真の方は、前の部屋で、美嘉が手配した弁護士を迎えて、管理会社が来る前に部屋の状態を確認してもらっていた。<一条>と名乗った弁護士は、
「襖と畳の破損。キッチンの錆については、居住していた期間の長さから考えて元々交換の必要があったりや通常の範囲の経年劣化だと判断できるでしょうから、原状回復の義務には当たらないでしょう」
と告げてくれた。しかし同時に、例の煙草の不始末による小火で黒くなった壁を見て、
「ですが……この壁につきましては、やはり原状回復の必要があるでしょうね」
とも告げる。それに対して一真は、
「仕方ありません……覚悟はしてます」
悔しそうにはしつつも、そう応えた。すると弁護士は、
「でも、お任せください。大まかな見積もりを取り、それから大きく外れた請求にはならないようにしますので」
スマホで何枚も写真を撮り、それをどこかに送信した。その上で電話でやり取りをし、さらに詳細な壁の状態を確認していく。
壁は、あくまで表面だけが焦げている状態だった。爪で少し掻いただけでもその下の綺麗な層が出てくる。どうやら建物の躯体にまでは影響が出ていないようだ。こうして、
「なるほど。多く見積もっても十万円というところですね」
「ああ。こっちも現場を見ないと断定はできないが、うちなら五万弱でできるだろうな。で、ボりにボッて十万だろう。そこまで値切れれば上等だと思う」
そんなやり取りが、静かな部屋で一真の耳にも届いてきたのだった。
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