神河内沙奈の人生

京衛武百十

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彼女の体育

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この頃、神河内良久かみこうちよしひさ宅での彼女の様子には、取り立てて大きな変化は見られなかったと言ってもいいだろう。学校では他の生徒や教師の真似をして『おはよう』『さようなら』と挨拶するようになっていたのだが、家の中では家人である神河内良久自身が殆ど挨拶というものをしない人間なので、家の中ではそういうものだという認識が出来上がっているようであった。その為、朝起きた時も寝る時も、お互いに何も挨拶はしないのだ。

が、それでも彼女が精神的に安定していられる限りは取り立てて口出しすることでもないだろう。神河内良久自身が元より問題を抱えた人間なのだから、余計な無理強いをして彼の精神を乱す必要もない。社会性は壊滅的でも、彼は他人に対して攻撃的な素行を見せる人間でもない。『障らぬ神に祟りなし』とでも言うべきか。

それに、彼女自身の理解が進めば挨拶の使い分けもいずれ出来るようになる可能性もある。この家の中での習慣は習慣としておけばいいだろう。

一方で、学校での彼女は、学習としては相変わらずひらがなや数字を学ぶ段階だったが、それに加えて体育の授業にも出るようになった。もっとも、にこやか学級の生徒それぞれが特異な事情を抱えてることもあり、一律で同じことをさせるということはあまりない。せいぜいボール遊びを全員でする程度である。しかし、跳び箱が出来る者は跳び箱もするし、走ることが得意な者にはかけっこもさせる。出来る者にやらせないということもなかったのだった。

ちなみに彼女の場合は、未だ他人の指示に従わせるという段階にも至っていないため、本人がボールに興味を示すようならボールで遊ばせ、鉄棒にぶら下がろうとするなら好きにさせるという状態だった。しかし、たったそれだけのことでも、伊藤玲那いとうれいなは目を細めて見守っていた。山下沙奈やましたさながボールに興味を示すとか、鉄棒にただぶら下がるとか、そういうことですら大きな進歩であり特別なことなのだ。

それまではただ生きることだけに必死だった彼女が、そんな生きる上ではどうでもいい他愛のないことに関心を持つこと自体が、彼女の成長を示唆しているのである。事情を知らない人間にすれば馬鹿馬鹿しいことでも、彼女にとっては非常に重要な変化なのだ。

何でもかんでも他人と同じであることを美徳と考える人間にはおよそ理解出来ないだろう。しかし人間は工業製品ではない。統一された規格などというものは、管理・支配する側にとっての都合でしかないのである。他人と同じであることを美徳と考える人間も、自分に出来ないことを強要されればその理不尽さを理解出来るかもしれないが。

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