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畏敬

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生きるために戦うジャックは、単に足による複雑なステップを刻むだけなく、カウンターウェイトとしての役割も持つ太く長い尻尾を緻密に振ることで、そういう尻尾を持たないタイプの動物にはできない体捌きもやってみせた。

これも彼が独自に編み出したものである。それを、足のステップと合わせて使うと、わずか数センチとはいえまるで瞬間移動でもしたかのように、一瞬で体の位置を変えることができた。だから、アラニーズの読みを上回ることができたのである。

このアラニーズには<軍経験>があった。ゆえにナイフ捌きも堂に入っていて、確実に相手を倒すための技術だった。それでも、このような動きをする相手は初めてだったのだろう。美麗な女性と言っていいその顔には、驚嘆だけでなく明らかに感心したかのような表情も浮かんでいた。

相手の動きを予測して逃げる先にまでナイフが届くように繰り出すのに、そこにジャックはいないのだ。しかもそれを補正してさらに範囲を広げようとしても、腕の関節の有効可動範囲の影響もあって力のある攻撃にならない。かろうじて届いても分厚く硬い皮膚を完全に切り裂く強い攻撃にならない。その強さ狡猾さに舌を巻く。

それどころか、畏敬の念さえ抱いていたと言ってもいいだろう。

だからこそこの時、実はアラニーズの方も、ジャック達が撤退してくれることを望んでいた。これほどの相手を死なせるのは惜しいと思っていたのだ。

だが、その想いはジャックには届かない。言葉も通じないし、何より元々の感性が違う。価値観が違う。発想が違う。もし例え言葉が通じたとしても、理解はできなかっただろう。ジャックも相手を敢えて見逃すことはあったものの、それは決して論理的な判断ではなく、<空気感>と言うか、あくまで感覚的なそれだったのだ。だが今は、彼の感覚からすれば、

<殺さなければ殺される状況>

であった。ゆえに『逃げていい』と言われても信じることはできなかったに違いない。

しかし、そんな彼の視線の端で、仲間が一頭、この場を逃げ出すのが見えた。

「!?」

それは、つい先日、仲間に加わったばかりのオオカミ竜オオカミだった。その所為もあって、ジャックに対する信頼度や群れに対する執着もあまりなかったのかもしれない。

しかもその一頭が逃げだすと、また別の一頭も一目散に逃げていくのが視界の端に捉えられた。そして逃げていく仲間をレオンが追おうとするのを、

「ガアッ!!」

『追うな!!』と言わんばかりにレオンの一匹が声を上げたのだった。

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