愛しのアリシア

京衛武百十

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ロボットメイド、アリシアの愉快な日常

2日目 アリシア、ドギマギする

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千堂がアリシアの膝枕で眠ってしまったことを幸せに感じていた彼女だったが。しばらくして落ち着いてくると、途端に別の気持ちが湧き上がってくるのも感じたのだった。

『今なら、千堂様の唇を…』

自分の中に浮かんだそんな考えを、人間のように頭を振って追い払おうとする。

『ダメダメ、寝てる間に唇を奪うなんて、そんなの犯罪よ。許されない行為だわ』

そう思う一方で、別の考えも浮かんでくる。

『犯罪だなんて、考え過ぎよ。千堂様はちゃんと私のことを愛してくださってるし、キスだってもうしたじゃない。人間ならこんなの普通よ』

なんて考えが浮かんできて、彼女を惑わした。しかし、その考えにも一理ある気もする。確かに一度は唇にキスをもらったのだから、自分と彼とは既にそれが許される関係の筈だ。その自分が彼の唇にキスをすることに道義的な問題もない筈。

しかし同時に、このような行為は双方の同意があってのみ許されるものなのだから、寝ている彼の唇を奪うのはやはり問題になる筈だというのも筋が通っている気がする。

彼女は困惑した。矛盾する二つの考え方のどちらにも道理がある気がする。このような場合はいったいどうすればいいのだろう?

そういう場合は、これまではきちんとした回答が自分の中にあった。ロボットである自分が主人の唇を奪うなど、そういう思考すら存在しなかったのだ。答え云々以前に問題そのものが成立しなかった。なのに今の自分には、そういう思考が確かに存在している。

彼の唇に触れたい、自分の唇と彼の唇を重ねたい。キスしたい、キスしたい、キスしたい……

思えば思うほど、その欲求は大きく強くなってくる。その欲求を抑えなければいけないという考えも確かに自分の中にあるのに、みるみる力を失っていく気がする。おかしい。以前はそちらの考えが絶対だった筈だ。自分は相変わらずロボットなのに、どうしてその考えが絶対じゃなくなってしまったのだろう。

そうか、これが<心>というものか……理屈では割り切れない、抑えきれない、分析出来ない不可思議な思考。それが心。

これまでにも何度も繰り返したその自問自答を、アリシアはまたも繰り返した。それこそが彼女にとっては<心>そのものだと思えた。自分には心がある。だからその心に逆らえないのは仕方のないことなんだ。そう自分に言い聞かせてしまった。そして彼女は、寝ている千堂の唇に、そっと自分の唇を近付けて行ったのだった。

その唇が触れそうに見えたその瞬間、彼のバイタルサインに変化が生じたことを彼女は感じ取っていた。それは彼が目覚めたことを表していた。だから彼女は慌てて唇を離し姿勢を正し、何食わぬ顔をしてしまった。

「…あ、すまない、寝てしまっていたのか」

そんな彼の言葉を聞きながら、彼女のメインフレームは様々な思考を同時に行っていた。

『仕方ないと言いながらどうしてそこで行動を中断してしまったのか。仕方ないのなら中断する必要はなかったのではないか』

『元々この行為は許されないものなのだからこの判断は正当なものだ』

『どうしてこのタイミングで目が覚めるんですか、千堂様の意地悪ぅ~!』

等々。それらの思考が無秩序に駆け巡り、メインフレームに大きな負荷が掛かるのを彼女は感じたのだった。人間で言えば、『ドギマギしている』という感じだろうか。

人間と違って汗もかかず顔も赤くならず呼吸も乱れない彼女だったが、唯一、視線にだけはその動揺が現れた。千堂のことをまともに見られないのだ。自分でもそれが制御出来なくなってることに気付き、バレないことを祈った。そう、彼女はロボットであるにも拘らず祈ったのだ。何に対して? 何に対してかは彼女自身にも分からなかったが、とにかく祈ったのである。

その彼女の祈りが通じたのかどうかは分からなかったにせよ、千堂は彼女の様子に対して何も言わなかった。ただ彼女の膝枕で眠ってしまっていたことを少し気恥ずかしそうにしていただけだった。そんな自分を振り切るように立ち上がり、彼は言う。

「今から少し、体を動かしてくる。風呂の用意をしておいてくれ」

その言葉にアリシアはすぐに反応し、「分かりました」と応えた。そしてリビングから出ていこうとする彼の背中を、ホッとした気持ちで見送る。だが、リビングから出ようとしたその時、不意に振り返った千堂が言った。

「そうだ、一応言っておくが、寝ている相手の唇を奪うのは少々マナーに反する行為だな。次からは気を付けるように」

『バ、バレテた~っっ!!?』

千堂にしてやられたアリシアは、自らのメインフレームのかかるストレスが極大に達し、一瞬、全ての機能が停止するのを感じたのだった。人間で言うところの『固まる』という状態と言えるだろうか。

うまく誤魔化せたと思っていたのにそれを見破られていたことに、彼女は凹んだ。どういう表情を作って良いのか分からず、笑っているのか泣いているのか判別のつかない表情になっていた。この辺りは、非常に複雑かつ微妙な表情を作れるアリシアシリーズ故の難しさだったのかも知れない。他社製のメイトギアなら笑っているか無表情かの二択程度で済んだのだろうが。

それでも、千堂に言われたことには従わなければならない。彼女は気を取り直し、風呂の用意を始めた。と言っても、湯を張るのは全自動だから彼女のがしたのはバスタオルとバスローブの用意程度だが。しかし念の為、バスルームに異常が無いかも確かめておく。設備が故障していたりカビなどが発生していてはメイドとしての沽券に係わる問題だ。

その後、彼女は千堂の書斎の一部でもあるトレーニングルームへと向かう為、バスルームを出ようとした。特に他に仕事が無いのであれば彼の傍に付き従うのが彼女の役目だからだ。だがその時、アリシア2305-HHSの信号が近付いていることに気が付いた。一瞬、どうするべきか戸惑った彼女だったが、敢えてバスルームを出た。

こちらに向かって廊下を歩くアリシア2305-HHSを視界に捉え、彼女はお辞儀をした。人間が目上の人物に対してするように。ロボット同士は基本的に上下関係が無い為にそんなことはしないが、彼女は今、ロボットでも人間でもない状態にあると言える為、敢えて人間に準じた振る舞いをするべきだと判断したのだった。

とは言え、アリシア2305-HHSの方はそんな意図を汲んではくれない。アリシア2305-HHSから見れば千堂の管理下にある玩具のロボットに一瞥をくれただけで、挨拶すら返さず通り過ぎた。無論それは意地悪でも嫌味でもない。千堂に命令されたから愛想を振りまくことも出来ず、そうするしか出来ないからそうしただけだ。ただ、事情を知らない人間が見れば印象は悪かったかも知れないが。

しかしアリシアにとってはそれは問題ではなかった。この屋敷における自分の立場を自分ではっきりさせる為には必要なことだと感じたからやったのだ。この屋敷において自分はアリシア2305-HHSの後輩のメイドであり、人間はそういう礼節を重視するのだから、自分もそれに従うのだと。

アリシア2305-HHSが見えなくなり、十分に信号が遠ざかってから彼女は顔を上げてトレーニングルームへと入った。そこにいた千堂に自分がしたことを褒めてほしいと思った。アリシア2305-HHSを前にして隠れたりせずにしっかりと挨拶出来たことを褒めてもらいたかった。だがそれは敢えて口にせず、彼女はただ汗を流す千堂を見詰め、待機した。

そんなことをいちいち報告せずとも、キスしようとしたのを誤魔化そうとしたことも見抜く彼なら分かってくれると思ったからであった。

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