愛しのアリシア

京衛武百十

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ロボットメイド、アリシアの愉快な日常

1日目 千堂京一、一日を振り返る

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『アリシア2234-LMN-UNIQUE000に関するレポート』

夜もすっかり更けて、就寝の為に寝室に戻った千堂は、今日一日の最後の仕事としてアリシアについてのレポートをまとめていた。タイトルにある『UNIQUE000』とは、改めて彼女に与えられた形式番号である。しかし他に同様の事例が確認出来ないこと。再び同様の事例が発生する可能性が極めて低いことから、敢えて000=存在しない機体という番号が割り振られたのだった。これは千堂自身が、現時点で既に、彼女を形式番号や製造番号で区別する単なるロボットとみなしていないという意図の表れでもあった。

『観察初日で、私は大変なミスをしてしまったようだ。これは私が、アリシアに発生している<心のようなもの>をいかに正しく認識出来ていなかったかを表すものとして大いに反省するべき点だと考える』

冒頭で、彼はいきなり自らの反省点から記し始めた。

『アリシアシリーズには、人間社会の常識を逸脱しないように予め行動規範が入力されている為に、彼女にも当然、そういう認識があるものと私は捉えていたが、それは必ずしも正しくはなかった。これは、アリシアシリーズに入力されている行動規範の書式にも関係しているものと思われる。<記述により行動を制限する>タイプのものと、そもそもそういう行動はしないということを前提に<敢えて記述しない>タイプの二種類に大別されるそれのうち、記述しない形の方では彼女に対しては有効ではないと私が理解していなかったことが原因と私は推測する』

そこで一旦手を止め、少し思考を巡らせた後、再び記し始める。

『しかし、人工知能が心を持つということが確認されていない現在、その心に基づく感情というものも想定されていない以上は、敢えて記述しないという方法は合理的であると私も考えている。行動を制限する為の記述を増やすということは、行程や作業を煩雑にし、コストを増大させ、それを動作させる為にはさらに強力なシステムが要求され、かつそれを維持する為のメンテナンスもより高度なものが求められるという、およそ現実的でない選択であると言えるだろう』

さらに続ける。

『また、彼女が本当に心を持っているとするなら、その心こそが自らを律する基準になると思われる。人間は心を持ち、心で感じたものが行動規範となるのだから、彼女がそれと同じことが出来るのであれば、それは彼女が心を持っているという事象を裏付ける大きな根拠となる可能性があると私は考えるものである』

再度思考を巡らせ、また記す。

『ただし、彼女が心を持っていると仮定したとしてもそれはまだ生まれたての赤ん坊のようなものであり、彼女がそれに基づいて自らを律する為には相当な経験を重ねることが必要だと考えるのが妥当だろう。いわば彼女の心を育てる必要があると考えられる。人間を例に挙げるまでもなく心を育てるというのは多大なる手間と時間を要するものであり、かつ容易ではない。これからも困難が予想されるが、私はそれがいかなる結果をもたらすものか、自身もこの分野に関わるものの一人として知的好奇心を駆り立てられずにはいられないものである』

と締めくくった。そして端末を閉じ、椅子の背もたれに体を預ける。

それからふと、自分の唇に指をやった。アリシアの唇に触れた時の感触を思い出す。とは言えそれはやはり、人間の唇の感触ではなかったという事実を実感するものだったのだが。千堂にもそれなりに恋愛の経験はあり、一通りのことは済ませてきている。ただ、その上で一生を共にしたいとまで思える相手がこれまでいなかっただけだ。それよりも仕事の方が楽しく、やりがいがあり、家庭を守るよりもそちらに集中したかっただけだ。

そんな千堂であるが故に、逆にアリシアの唇がやはり人工的な感触だったことが引っかかったのだった。それは、『申し訳ない』という気持ちだったのかも知れない。人間と同じように心を持ってしまったかも知れない彼女に、完全に人間と同じものを与えてやれないことに対する後ろめたさのようなものと言えるだろうか。さすがに、思春期の少年のように唇の感触にどぎまぎしてというものではなかった。

とその時、コンコンと突然ドアがノックされた。瞬間、千堂の体がビクッと跳ねる。それは単純に不意を突かれたせいだったのだが、この時、彼の脳内ではある種の誤変換が行われてしまったのだった。自分が驚いたのはアリシアの唇の感触を思い出してたからだという風に。それに伴って彼の血圧と体温は上昇し、心拍数も跳ね上がり、一瞬にして汗が浮き上がった。それは完全に、思春期独特の妄想の最中に突然ノックされてしまった十代の少年の反応そのものだった。

「千堂様…夜分遅くに申し訳ありません」

ドアの向こうから、アリシアの声が聞こえてくる。すると余計に顔が熱くなるのを彼は感じた。慌ててそれを落ち着かせようとして、大きく深呼吸をする。

「千堂様…もうお休みになられたのでしょうか…?」

彼女が再びそう声を掛けてきた時、千堂はドアを開けた。

「どうした? 何か用か?」

努めて冷静に振る舞った彼だったが、彼のバイタルサインを瞬時に検知出来る彼女には全く効果が無かった。

「千堂様? どうなされました? 心拍数、血圧、体温、すべてで高い数値が検出されました。呼吸の乱れや発汗も見られます。何かあったのでしょうか?」

アリシアが心配そうな顔で見上げてくる。千堂は咄嗟に嘘を吐いた。

「いや、問題ない。就寝前に軽くストレッチをしていただけだ」

就寝前にストレッチをする習慣があるのは事実だが、それは汗をかくほどの負荷をかけるものではない。しかし幸い、この時のアリシアはまだそのことを知らなかった。だから彼の言うことを素直に信じた。

「そうでしたか。安心しました。良かったです」

ホッとした様子の彼女に、彼の胸が少し痛んだ。こんなことで嘘を吐き、彼女を欺いたことに対する後ろめたさだった。しかし敢えてそれを無視するように、冷静なふりをして問い掛ける。

「それより何か用があるんじゃないのか?」

千堂に促され、アリシアはハッとなった。

「ああ、そうでした!」

だがそう言った後、次の言葉が出てこない。

「あの…その…」

と、体をモジモジさせながら口ごもる。そんな彼女を見守りながら、彼は待った。待っている間に、彼自身も落ち着けた。そしてそっと言った。

「何でもいい。思うことがあるなら言ってごらん。私なら大丈夫だから」

その言葉が、アリシアの背中を押した。

「千堂様…あの、キス…してください」

両手でエプロンをぎゅっと握りしめ、真っすぐに彼を見詰めながら、彼女はそう言った。そしてすぐに、

「あ、いえ、唇にじゃなくていいんです! おでことかほっぺたとか、とにかく千堂様にキスしていただけたら、私、眠れると思うんです」

と付け足した。

『眠る』。アリシアは確かにそう言った。ロボットである彼女に睡眠の必要はないにも拘わらずだ。それは彼女特有の事情によるものだった。

彼女の<心のようなもの>の正体は、彼女のメモリー内に蓄積された膨大な断片化ファイルを始めとした正常に処理できない無数のファイルが本来のデータ処理を阻害することによって生じるバグだというのが現時点での仮説であった。その為、それらの不正なファイルを除去してしまうと彼女の心のようなものは失われ、ただのアリシアシリーズの一機に戻ってしまうと考えられていた。故に彼女は一般的なメンテナンスを受けることが出来ず、しかし不正なファイルがこれ以上増えると今度はそれこそデータ処理に致命的な遅延が生じるなどの重大な障害が発生する可能性もあり、それを防ぐ為には彼女は自らの活動を控えるようにしないといけないのである。それこそが、彼女にとっての『眠る』という行為なのだった。

なのに、眠れないのだと彼女は言う。だから千堂は、彼女の言葉に従った。彼女が望んだとおり、アリシアの額にそっと口づけたのであった。

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