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印象と実態
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『織姫さんの力になりたい……!』
十号室の喜緑徳真は真面目な人物だった。アニメが好きで少女が好きでと自認はしていたが、講義は欠かさず受けるし単位を落としたこともないし、騒いで他人に迷惑を掛けることもなく、ゴミの分別もきちんとして決められた日時に出していた。
はっきりと声は出せなくても顔を合わせれば会釈もするし、落ちていた財布を交番にも届けるような誠実な人間だったのだ。
単に女性に慣れていないだけで、実は本人が自称してるような根っからの小児性愛者でもなかった。
ただ気性が柔和すぎて同年代以上の女性に対して強く出られないだけである。それを世間では<ロリコン>というのかも知れないにせよ、少なくとも彼は幼い少女にしか興味を持ていない訳では実はなかったのだ。本人も気付いてなかったかも知れないが。
一方、鷲崎織姫は、イラストなどを描いてはいるもののアニメにはそれほど詳しくはなかった。感覚としてはイラストレーターよりは画家に近かったかもしれない。
しかし詳しくないというだけでアニメや漫画に抵抗がある訳でもなかった。幼い少女が媚びを売ってくるようなアニメに対しても、その描写などが素晴らしいと感じたら自分のイラストの参考にしたいとも思っていた。
ただ、そういう部分でいわゆる<ウケる>イラストを描いてこなかったことで本人の可能性が若干狭められていた可能性も否定できなかいだろう。
もっとも、彼女が勤めているデザイン事務所は、一部、小説の挿絵などを引き受けることもあったものの、アニメや漫画の業界とはそれほど深く関わっていないので、これまで仕事の上では困らなかったのも事実ではあった。
そんな中、結人は知らなかったのだが、喜緑徳真と織姫は既にメールアドレスの交換もし、徳真が仲間たちとの交流に利用している個人のサイトのURLも教えてもらい、少しずつではあったが交流も生まれつつあったのである。
だから当然、徳真の方も、顔を負わせた時には多少は馴れ馴れしい様子にもなっていた。とは言えそれは、
「こんばんは」
山下家に夕食を食べに行く時に顔を合わしたりすれば織姫はそう明るく挨拶をし、それに対して徳真も、
「こ、こんばんは」
と相変わらず照れながらも以前よりは親し気に挨拶も返すという程度だったのだが。
が、織姫に対しては別にそれでもいいものの、一緒にいる結人に対する視線に、若干、不穏なものが含まれるようになってきたのも事実だった。
『こいつ……なんか生意気だよな……』
そう、まるで邪魔者を見るかのように苛立ちの込められた視線と言うべきか。
だがそれは、少しは親密度が上がってきたが故のものだった。織姫や山下家の人間は結人がどういう人間かをよく知っているから受け入れられてても、そこまででない人間からすれば彼は生意気で愛想が悪くまさに傲岸不遜を絵に描いたような、典型的な<クソガキ>にしか見えず、それがつい態度に出てしまっていたのである。
しかも、赤の他人である自分を引き取って育ててくれている織姫に対して『おデブ』などと感謝の欠片も見えない悪態を吐くのだから、印象が悪いのは当然だっただろう。
『お前みたいのの面倒見てくれてる織姫さんになんだよその態度……っ!』
と、徳真にしてみれば、織姫を慕えばこその感情だったのだ。
しかし翻って、結人の方から見ればそんな徳真の態度は、かつて自分の母親と付き合って自分のことを邪魔者と疎んだ男達の記憶を呼び覚ますものでもあった。いや、そいつらそのものとも言えただろう。
小学校に上がる以前の本当に幼い頃の記憶だから決して鮮明ではない筈なのだが、憎くて憎くて仕方なかった<クズな大人>共の視線と暴力だけは、脳裏と体に焼き付いていた。<凶獣>とあだ名された彼を作り上げた大人そのものの姿でしかなかった。
結人は思っていた。
『こいつ、おデブをモノにするには俺が邪魔だと思ってやがる……!』
と。
『お前が俺を殺そうってんなら、その前に俺がお前を殺してやる……!』
彼は、織姫を性犯罪者から守るという建前以上に、自身の感情として喜緑徳真に対する憎悪を募らせていったのである。
とは言えそれは、単なる感情の行き違いでしかない。
結人のことをよく知らずに<クソガキ>と思ってしまっていた徳真にも問題があるが、徳真の真意も知らず自分が憎んでいる連中に似ているというだけで無闇に憎しみを募らせる結人も、幼稚と言えばあまりにも幼稚だった。確かに彼はまだ幼い子供ではあるが。
「……」
が、そんな状況を察し、心を痛めてる者がいた。山下沙奈子だった。
他人の感情、特に不穏なそれに対して敏感だった彼女は、結人が苛立っていることに誰よりも先に気付いていたのである。
「お父さん、あのね…」
彼女はそう言って、山下達に、結人が何かひどく苛立っていることを告げた。それを聞いた達が、夕食の際に、
「結人くん。最近、何か気になることがあるのかな?」
といつもの感じで穏やかに話しかけた。
「……」
結人は応えなかったものの、それで織姫も異変を察し、彼のことを真っ直ぐに見詰めながら言った。
「結人、もし悩んでることとか思ってることとかがあったら私に話してね? 私たちは家族なんだから」
そんな織姫と一緒に、沙奈子と達も結人のことを真っ直ぐに見ていた。だが彼はそんな三人の視線から逃れるように顔を背け、
「なんでもねえよ…」
と吐き捨てるように言っただけだった。
『こいつら、平和ボケもいい加減にしろよ……! おデブが狙われてんのに……っ!』
彼にしてみれば織姫たちの態度は、すぐ傍に迫っている危険に気付きもせずに、それに対処しようとしてる自分を非難しようとしてるようにしか見えなかったのだ。彼はまだ、大人を信用することができないでいた。
そして遂に、事件は起こってしまったのだった。
それは、クリスマスも間近に迫った日曜日の夜だった。夜と言ってもまだ宵の口だったが。
「ひい~~っ!」
その日、織姫は、ある企業の新年に向けた広告で生じたトラブルのフォローの為に、昨夜からほぼ徹夜でイラストの仕上げ作業をしていた。
と言うのも、本来それは他のデザイン事務所が請け負った仕事だったにも拘らず、その広告内で使用されていたメインキャラクターに無断盗用の疑いが出たことで急遽差し替えることなり、その依頼が、織姫が務めるデザイン事務所に舞い込んだということであった。
年の瀬も押し迫った時期の急な依頼にデザイン事務所も混乱、通常なら有り得ないスケジュールでの作業が求められることになったのである。
その為、織姫は結人の相手をする余裕もなく仕事に打ち込み、それが終わったのが最終の締め切りの一時間前という、まさに綱渡りであった。
『ガンバレ私! 負けるな私! メゲてられるか~っ!! うお~っ! これで終わりだ~っ!!』
文字通りの修羅場を潜り抜け、織姫は力尽きるように机に突っ伏したまま仮眠を取り、ハッと起き上がったと思ったら、
「あ~、糖分が足りない~、チョコが食べたい~」
とまるで獲物に襲い掛かるゾンビのようにいつも菓子を入れてある戸棚を開けたものの、
「ぐわ~! チョコがない~! くそ~、コンビニ行ってくる~」
と、部屋着であるジャージのまま辛うじて財布だけ持って部屋を出て行ってしまう。
「……」
それを見送った結人だったが、
「!?」
瞬間、彼の脳裏になにか得体の知れない予感がよぎり、思わず玄関から飛び出した。
「―――――っ!!」
するとそこには、ぐったりとなった織姫を抱きかかえる喜緑徳真の姿があったのだ。
それを見た瞬間、結人の中で何かが切り替わってしまうのが他人が見ても分かるようだった。彼にしてみれば、織姫が襲われているように感じられてしまったのだろう。
「があ…っ!!」
それは、獣の咆哮のようでさえあった。それを発しながら結人の体が徳真目掛けて走った。
だが、それと同時に、
「だめえっ!!」
という声が空気を叩く。
織姫でも、徳真でも、ましてや結人でもない、絞り出すような少女の声。
沙奈子だった。
外出から戻ってきたらしく達と一緒にアパートの敷地内に入ってきたところでその光景を見てしまい、思わずそう叫んでしまったのだ。そう叫びながら、彼女は走り出していたのだった。
十号室の喜緑徳真は真面目な人物だった。アニメが好きで少女が好きでと自認はしていたが、講義は欠かさず受けるし単位を落としたこともないし、騒いで他人に迷惑を掛けることもなく、ゴミの分別もきちんとして決められた日時に出していた。
はっきりと声は出せなくても顔を合わせれば会釈もするし、落ちていた財布を交番にも届けるような誠実な人間だったのだ。
単に女性に慣れていないだけで、実は本人が自称してるような根っからの小児性愛者でもなかった。
ただ気性が柔和すぎて同年代以上の女性に対して強く出られないだけである。それを世間では<ロリコン>というのかも知れないにせよ、少なくとも彼は幼い少女にしか興味を持ていない訳では実はなかったのだ。本人も気付いてなかったかも知れないが。
一方、鷲崎織姫は、イラストなどを描いてはいるもののアニメにはそれほど詳しくはなかった。感覚としてはイラストレーターよりは画家に近かったかもしれない。
しかし詳しくないというだけでアニメや漫画に抵抗がある訳でもなかった。幼い少女が媚びを売ってくるようなアニメに対しても、その描写などが素晴らしいと感じたら自分のイラストの参考にしたいとも思っていた。
ただ、そういう部分でいわゆる<ウケる>イラストを描いてこなかったことで本人の可能性が若干狭められていた可能性も否定できなかいだろう。
もっとも、彼女が勤めているデザイン事務所は、一部、小説の挿絵などを引き受けることもあったものの、アニメや漫画の業界とはそれほど深く関わっていないので、これまで仕事の上では困らなかったのも事実ではあった。
そんな中、結人は知らなかったのだが、喜緑徳真と織姫は既にメールアドレスの交換もし、徳真が仲間たちとの交流に利用している個人のサイトのURLも教えてもらい、少しずつではあったが交流も生まれつつあったのである。
だから当然、徳真の方も、顔を負わせた時には多少は馴れ馴れしい様子にもなっていた。とは言えそれは、
「こんばんは」
山下家に夕食を食べに行く時に顔を合わしたりすれば織姫はそう明るく挨拶をし、それに対して徳真も、
「こ、こんばんは」
と相変わらず照れながらも以前よりは親し気に挨拶も返すという程度だったのだが。
が、織姫に対しては別にそれでもいいものの、一緒にいる結人に対する視線に、若干、不穏なものが含まれるようになってきたのも事実だった。
『こいつ……なんか生意気だよな……』
そう、まるで邪魔者を見るかのように苛立ちの込められた視線と言うべきか。
だがそれは、少しは親密度が上がってきたが故のものだった。織姫や山下家の人間は結人がどういう人間かをよく知っているから受け入れられてても、そこまででない人間からすれば彼は生意気で愛想が悪くまさに傲岸不遜を絵に描いたような、典型的な<クソガキ>にしか見えず、それがつい態度に出てしまっていたのである。
しかも、赤の他人である自分を引き取って育ててくれている織姫に対して『おデブ』などと感謝の欠片も見えない悪態を吐くのだから、印象が悪いのは当然だっただろう。
『お前みたいのの面倒見てくれてる織姫さんになんだよその態度……っ!』
と、徳真にしてみれば、織姫を慕えばこその感情だったのだ。
しかし翻って、結人の方から見ればそんな徳真の態度は、かつて自分の母親と付き合って自分のことを邪魔者と疎んだ男達の記憶を呼び覚ますものでもあった。いや、そいつらそのものとも言えただろう。
小学校に上がる以前の本当に幼い頃の記憶だから決して鮮明ではない筈なのだが、憎くて憎くて仕方なかった<クズな大人>共の視線と暴力だけは、脳裏と体に焼き付いていた。<凶獣>とあだ名された彼を作り上げた大人そのものの姿でしかなかった。
結人は思っていた。
『こいつ、おデブをモノにするには俺が邪魔だと思ってやがる……!』
と。
『お前が俺を殺そうってんなら、その前に俺がお前を殺してやる……!』
彼は、織姫を性犯罪者から守るという建前以上に、自身の感情として喜緑徳真に対する憎悪を募らせていったのである。
とは言えそれは、単なる感情の行き違いでしかない。
結人のことをよく知らずに<クソガキ>と思ってしまっていた徳真にも問題があるが、徳真の真意も知らず自分が憎んでいる連中に似ているというだけで無闇に憎しみを募らせる結人も、幼稚と言えばあまりにも幼稚だった。確かに彼はまだ幼い子供ではあるが。
「……」
が、そんな状況を察し、心を痛めてる者がいた。山下沙奈子だった。
他人の感情、特に不穏なそれに対して敏感だった彼女は、結人が苛立っていることに誰よりも先に気付いていたのである。
「お父さん、あのね…」
彼女はそう言って、山下達に、結人が何かひどく苛立っていることを告げた。それを聞いた達が、夕食の際に、
「結人くん。最近、何か気になることがあるのかな?」
といつもの感じで穏やかに話しかけた。
「……」
結人は応えなかったものの、それで織姫も異変を察し、彼のことを真っ直ぐに見詰めながら言った。
「結人、もし悩んでることとか思ってることとかがあったら私に話してね? 私たちは家族なんだから」
そんな織姫と一緒に、沙奈子と達も結人のことを真っ直ぐに見ていた。だが彼はそんな三人の視線から逃れるように顔を背け、
「なんでもねえよ…」
と吐き捨てるように言っただけだった。
『こいつら、平和ボケもいい加減にしろよ……! おデブが狙われてんのに……っ!』
彼にしてみれば織姫たちの態度は、すぐ傍に迫っている危険に気付きもせずに、それに対処しようとしてる自分を非難しようとしてるようにしか見えなかったのだ。彼はまだ、大人を信用することができないでいた。
そして遂に、事件は起こってしまったのだった。
それは、クリスマスも間近に迫った日曜日の夜だった。夜と言ってもまだ宵の口だったが。
「ひい~~っ!」
その日、織姫は、ある企業の新年に向けた広告で生じたトラブルのフォローの為に、昨夜からほぼ徹夜でイラストの仕上げ作業をしていた。
と言うのも、本来それは他のデザイン事務所が請け負った仕事だったにも拘らず、その広告内で使用されていたメインキャラクターに無断盗用の疑いが出たことで急遽差し替えることなり、その依頼が、織姫が務めるデザイン事務所に舞い込んだということであった。
年の瀬も押し迫った時期の急な依頼にデザイン事務所も混乱、通常なら有り得ないスケジュールでの作業が求められることになったのである。
その為、織姫は結人の相手をする余裕もなく仕事に打ち込み、それが終わったのが最終の締め切りの一時間前という、まさに綱渡りであった。
『ガンバレ私! 負けるな私! メゲてられるか~っ!! うお~っ! これで終わりだ~っ!!』
文字通りの修羅場を潜り抜け、織姫は力尽きるように机に突っ伏したまま仮眠を取り、ハッと起き上がったと思ったら、
「あ~、糖分が足りない~、チョコが食べたい~」
とまるで獲物に襲い掛かるゾンビのようにいつも菓子を入れてある戸棚を開けたものの、
「ぐわ~! チョコがない~! くそ~、コンビニ行ってくる~」
と、部屋着であるジャージのまま辛うじて財布だけ持って部屋を出て行ってしまう。
「……」
それを見送った結人だったが、
「!?」
瞬間、彼の脳裏になにか得体の知れない予感がよぎり、思わず玄関から飛び出した。
「―――――っ!!」
するとそこには、ぐったりとなった織姫を抱きかかえる喜緑徳真の姿があったのだ。
それを見た瞬間、結人の中で何かが切り替わってしまうのが他人が見ても分かるようだった。彼にしてみれば、織姫が襲われているように感じられてしまったのだろう。
「があ…っ!!」
それは、獣の咆哮のようでさえあった。それを発しながら結人の体が徳真目掛けて走った。
だが、それと同時に、
「だめえっ!!」
という声が空気を叩く。
織姫でも、徳真でも、ましてや結人でもない、絞り出すような少女の声。
沙奈子だった。
外出から戻ってきたらしく達と一緒にアパートの敷地内に入ってきたところでその光景を見てしまい、思わずそう叫んでしまったのだ。そう叫びながら、彼女は走り出していたのだった。
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