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悔恨と勇気
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平和記念公園での一件以降、結人は沙奈子と距離を置くようになった。それまでも基本的には無視しているような態度ではあったが、傍にいるだけならただ無視しているだけだった。それが、沙奈子がいると自分からその場を離れるようになったのだ。
その一方で、自分を庇おうとしたり気遣ってくれたりした、吉上穂邑や丸志木清香らに対しては、
「悪ぃ」
と声を掛けたりもした。巻き込んでしまって申し訳ないという意味だろう。
そんな結人の姿に、ファンクラブの女子たちも戸惑った。特に、自分たち以上に結人を守ろうとした沙奈子を露骨に避けようとしている様子には少なくない失望も感じていた。
「山下さんにも声を掛けてあげて…」
丸志木清香がそう声を掛けたが、結人は何も応えなかった。
「……」
彼にも何を言っていいのか分からなかったのだ。
正直な話、吉上穂邑や丸志木清香が被った迷惑はそれほどでもないと思っていた。だから素直に詫びることもできたが、
『なんて言やいいんだよ……』
頭に血が上り本気で邪魔者として突き飛ばしてしまった沙奈子に対しては、どう詫びればいいのかも分からなかったのである。
しかし、当の沙奈子の方の様子は、あれ以降、千早と大希が付きっ切りのおかげか、それまでと何も変わらない感じで落ち着いているようには見えていた。
「……?」
修学旅行二日目の夜。風呂に入ろうとしていた結人に、近付く人影があった。大希だった。
「や、たまには親睦の一つも図ろうと思ってね」
親し気にそう声を掛ける大希を無視して、結人は洗い場に座って体を洗い始めた。大希もその隣に座って、
「昨日のこと気にしてるんなら、別に問題ないよ。山下はそんなこと気にしてない」
と単刀直入に声を掛けてきた。その言葉に結人は思わず大希を見た。
「…なんだよ。謝れとか言いに来たんじゃないのかよ」
顔を正面に戻して、体を洗いながら彼はそう言った。正直な印象だった。自分が沙奈子を突き飛ばしたのは事実だ。そのことで謝れと言ってくるのが普通だと思った。
「謝る? なんで? 山下が気にしてないのに? それに山下にはもうバレバレだよ。鯨井が昨日のこと申し訳ないって思ってるのが。だからそのことは別にいいってさ」
「…山下がそう言ってたのか…?」
「うん。山下はそういう奴なんだよ。底抜けに優しいんだ。だって、人一倍、痛みを知ってる子だからね」
「……」
「僕は、父さんに殴られたことって一回もないんだ。少なくとも僕が覚えてる限りではない。だから僕には山下や鯨井がどんな目に遭ってきたのかなんてよく分からない。でもね、殴られたら痛いってことくらい知ってるよ。山下も鯨井も、いっぱい痛かったんだってことくらいは想像できるよ」
「…同情なんて…」
「同情…ね。僕は同情してるつもりないけどな。事実を述べてるだけだ。いっぱい殴られたらいっぱい痛い。そのくらい、普通は分かると思うけど?」
「…お前らには分かんねーよ…」
「そっか。まあそうかもね。でも、想像くらいできるってのはホントだよ。その想像がどの程度正確かは別にしてさ。とにかく、山下に対しては別に謝らなくても大丈夫だよ。それは本当。本人が言ってたからね。僕が言いたかったのはそれだけだ」
少し芝居じみた様子でそう言った以降、大希は何も言わなかった。彼としても実は普段はしない言い方をしたことで疲れてしまったらしい。黙って体を洗って頭を洗って、さっさと湯船に入ってしまった。何かを考え込むようにしてゆっくりと頭を洗う結人とは対照的に。
「……」
シャワーを頭から浴びて、結人は動かなかった。まるで滝行をしている修行僧の如く何かに没入していた。自分の内側にある何かと対話でもするかのように。
彼がようやく湯船に向かった時には、既に大希の姿はなかった。湯船の中でも、結人は何かを考え続けていたのだった。
『気にしてないって言ってもよ……』
風呂あがり、結人はホテルのテラスで涼んでいた。考え過ぎて少々のぼせ気味になってしまったのだ。それで頭を冷やそうと、外の空気に当たりにきたのである。
「…!」
そこに、女子が数人、同じように外の空気に当たりに出てきた。その中には、山下沙奈子の姿もあった。結人の姿に気付いた沙奈子が、彼の隣に立った。
すると沙奈子と一緒に来ていた千早は、
『沙奈……そっか……』
と察し、他の女子に声をかけて、その場から去ってしまった。だからそこには、結人と沙奈子だけが残されていた。
「……」
「……」
結人は逃げなかった。沙奈子との距離はまだ二メートル近くあるが、さっきまでならこれでもふいっとどこかへ行ってしまっただろう。しかしこの時はその場に留まっていた。
そんな彼に沙奈子の方から話し掛けてくる。
「…鯨井くん、頭打ったみたいだったけど、本当に大丈夫…?」
「!?」
相変わらず表情に乏しく感情もあまり込められてない平板なものだったが、結人はその言葉にハッとなった。あの時、彼が頭を打っていたことに他の人間たちは気付いていなかった。だが山下沙奈子だけは気付いていたのだ。彼の身を案じていたが故に。
「問題ねーよ……あれくらい…」
結人はぶっきらぼうにそう応えた。それでも沙奈子にはそれで十分だったらしい。
「……だったら良かった……」
そう言って沙奈子は結人を見た。無表情なのに、いつもの通りの無表情のはずなのに、その時の彼女の顔は、確かに微笑んでいるようにも見えた。結人にも確かにそう見えた。
それでも彼は再び仏頂面で正面を見ただけだった。そして、一言だけボソッと口にした。
「…悪かった……」
それだけを残して、結人はホテルの中に戻ってしまった。そのまま自分の部屋に入ってしまって、二度と姿を見せなかった。だが沙奈子にはそれでもう十分以上のようだった。
彼女は元々、彼を責める気など毛頭なかった。ああいう時に他のことが考えられなくなるのは彼女にも経験があったからだ。
「……」
今ではよく見ないと分からなくなった左腕の傷に触れながら、沙奈子は静かに佇んでいた。
修学旅行はその後、大きなトラブルもなく順調にスケジュールがこなされた。そして無事に学校に戻り、解散となった。
「はっはっはーっ! 充実した修学旅行でしたなー!」
学校からの帰り道、いつものように沙奈子や大希と一緒だった千早がご機嫌でそう言った。大希も笑顔で、
「そうだね」
と応え、
「……」
沙奈子も少し微笑んだような表情で頷いた。三人はそのまま大希の家に向かい、少し遅れて歩いていた結人は真っ直ぐ織姫の待つアパートへと帰った。
「おかえり~、修学旅行、楽しかった?」
部屋に戻った彼に、織姫が明るい感じで声を掛けてきた。それはいつもの織姫だった。
けれど、
「……まあな…」
一見するといつもどおりにぶっきらぼうに応えたように見えた結人に違和感を覚えた。結人の様子が出て行く前と違っていた気がしたからだ。
『あれ…? なんかあった…?』
この時点では、平和記念公園での騒動については報告されていなかった。大した怪我もなかったので、生徒自身が必要だと思えば保護者に報告し、それでもし学校側に問い合わせがあれば改めて報告する手筈になっていた。
だが織姫が感じた違和感は、それが原因ではなかっただろう。なにしろ、結人の表情が明らかに柔らかくなっていたからだ。他人にはこれでもまだ分かりにくいかも知れないが、織姫には分かってしまう違いだった。
何があったのかは、彼が織姫に話すことがなかったから分からなかった。しかし何か悪いことでなかったのだけは織姫にも何故か伝わり、
『まあいいか……』
と、彼女も詮索はしなかった。修学旅行の経験が彼にいい影響を与えたのならそれを素直に喜びたかった。彼が成長したものと考えて、ただ受け止めたいと思ったのだった。
その一方で、自分を庇おうとしたり気遣ってくれたりした、吉上穂邑や丸志木清香らに対しては、
「悪ぃ」
と声を掛けたりもした。巻き込んでしまって申し訳ないという意味だろう。
そんな結人の姿に、ファンクラブの女子たちも戸惑った。特に、自分たち以上に結人を守ろうとした沙奈子を露骨に避けようとしている様子には少なくない失望も感じていた。
「山下さんにも声を掛けてあげて…」
丸志木清香がそう声を掛けたが、結人は何も応えなかった。
「……」
彼にも何を言っていいのか分からなかったのだ。
正直な話、吉上穂邑や丸志木清香が被った迷惑はそれほどでもないと思っていた。だから素直に詫びることもできたが、
『なんて言やいいんだよ……』
頭に血が上り本気で邪魔者として突き飛ばしてしまった沙奈子に対しては、どう詫びればいいのかも分からなかったのである。
しかし、当の沙奈子の方の様子は、あれ以降、千早と大希が付きっ切りのおかげか、それまでと何も変わらない感じで落ち着いているようには見えていた。
「……?」
修学旅行二日目の夜。風呂に入ろうとしていた結人に、近付く人影があった。大希だった。
「や、たまには親睦の一つも図ろうと思ってね」
親し気にそう声を掛ける大希を無視して、結人は洗い場に座って体を洗い始めた。大希もその隣に座って、
「昨日のこと気にしてるんなら、別に問題ないよ。山下はそんなこと気にしてない」
と単刀直入に声を掛けてきた。その言葉に結人は思わず大希を見た。
「…なんだよ。謝れとか言いに来たんじゃないのかよ」
顔を正面に戻して、体を洗いながら彼はそう言った。正直な印象だった。自分が沙奈子を突き飛ばしたのは事実だ。そのことで謝れと言ってくるのが普通だと思った。
「謝る? なんで? 山下が気にしてないのに? それに山下にはもうバレバレだよ。鯨井が昨日のこと申し訳ないって思ってるのが。だからそのことは別にいいってさ」
「…山下がそう言ってたのか…?」
「うん。山下はそういう奴なんだよ。底抜けに優しいんだ。だって、人一倍、痛みを知ってる子だからね」
「……」
「僕は、父さんに殴られたことって一回もないんだ。少なくとも僕が覚えてる限りではない。だから僕には山下や鯨井がどんな目に遭ってきたのかなんてよく分からない。でもね、殴られたら痛いってことくらい知ってるよ。山下も鯨井も、いっぱい痛かったんだってことくらいは想像できるよ」
「…同情なんて…」
「同情…ね。僕は同情してるつもりないけどな。事実を述べてるだけだ。いっぱい殴られたらいっぱい痛い。そのくらい、普通は分かると思うけど?」
「…お前らには分かんねーよ…」
「そっか。まあそうかもね。でも、想像くらいできるってのはホントだよ。その想像がどの程度正確かは別にしてさ。とにかく、山下に対しては別に謝らなくても大丈夫だよ。それは本当。本人が言ってたからね。僕が言いたかったのはそれだけだ」
少し芝居じみた様子でそう言った以降、大希は何も言わなかった。彼としても実は普段はしない言い方をしたことで疲れてしまったらしい。黙って体を洗って頭を洗って、さっさと湯船に入ってしまった。何かを考え込むようにしてゆっくりと頭を洗う結人とは対照的に。
「……」
シャワーを頭から浴びて、結人は動かなかった。まるで滝行をしている修行僧の如く何かに没入していた。自分の内側にある何かと対話でもするかのように。
彼がようやく湯船に向かった時には、既に大希の姿はなかった。湯船の中でも、結人は何かを考え続けていたのだった。
『気にしてないって言ってもよ……』
風呂あがり、結人はホテルのテラスで涼んでいた。考え過ぎて少々のぼせ気味になってしまったのだ。それで頭を冷やそうと、外の空気に当たりにきたのである。
「…!」
そこに、女子が数人、同じように外の空気に当たりに出てきた。その中には、山下沙奈子の姿もあった。結人の姿に気付いた沙奈子が、彼の隣に立った。
すると沙奈子と一緒に来ていた千早は、
『沙奈……そっか……』
と察し、他の女子に声をかけて、その場から去ってしまった。だからそこには、結人と沙奈子だけが残されていた。
「……」
「……」
結人は逃げなかった。沙奈子との距離はまだ二メートル近くあるが、さっきまでならこれでもふいっとどこかへ行ってしまっただろう。しかしこの時はその場に留まっていた。
そんな彼に沙奈子の方から話し掛けてくる。
「…鯨井くん、頭打ったみたいだったけど、本当に大丈夫…?」
「!?」
相変わらず表情に乏しく感情もあまり込められてない平板なものだったが、結人はその言葉にハッとなった。あの時、彼が頭を打っていたことに他の人間たちは気付いていなかった。だが山下沙奈子だけは気付いていたのだ。彼の身を案じていたが故に。
「問題ねーよ……あれくらい…」
結人はぶっきらぼうにそう応えた。それでも沙奈子にはそれで十分だったらしい。
「……だったら良かった……」
そう言って沙奈子は結人を見た。無表情なのに、いつもの通りの無表情のはずなのに、その時の彼女の顔は、確かに微笑んでいるようにも見えた。結人にも確かにそう見えた。
それでも彼は再び仏頂面で正面を見ただけだった。そして、一言だけボソッと口にした。
「…悪かった……」
それだけを残して、結人はホテルの中に戻ってしまった。そのまま自分の部屋に入ってしまって、二度と姿を見せなかった。だが沙奈子にはそれでもう十分以上のようだった。
彼女は元々、彼を責める気など毛頭なかった。ああいう時に他のことが考えられなくなるのは彼女にも経験があったからだ。
「……」
今ではよく見ないと分からなくなった左腕の傷に触れながら、沙奈子は静かに佇んでいた。
修学旅行はその後、大きなトラブルもなく順調にスケジュールがこなされた。そして無事に学校に戻り、解散となった。
「はっはっはーっ! 充実した修学旅行でしたなー!」
学校からの帰り道、いつものように沙奈子や大希と一緒だった千早がご機嫌でそう言った。大希も笑顔で、
「そうだね」
と応え、
「……」
沙奈子も少し微笑んだような表情で頷いた。三人はそのまま大希の家に向かい、少し遅れて歩いていた結人は真っ直ぐ織姫の待つアパートへと帰った。
「おかえり~、修学旅行、楽しかった?」
部屋に戻った彼に、織姫が明るい感じで声を掛けてきた。それはいつもの織姫だった。
けれど、
「……まあな…」
一見するといつもどおりにぶっきらぼうに応えたように見えた結人に違和感を覚えた。結人の様子が出て行く前と違っていた気がしたからだ。
『あれ…? なんかあった…?』
この時点では、平和記念公園での騒動については報告されていなかった。大した怪我もなかったので、生徒自身が必要だと思えば保護者に報告し、それでもし学校側に問い合わせがあれば改めて報告する手筈になっていた。
だが織姫が感じた違和感は、それが原因ではなかっただろう。なにしろ、結人の表情が明らかに柔らかくなっていたからだ。他人にはこれでもまだ分かりにくいかも知れないが、織姫には分かってしまう違いだった。
何があったのかは、彼が織姫に話すことがなかったから分からなかった。しかし何か悪いことでなかったのだけは織姫にも何故か伝わり、
『まあいいか……』
と、彼女も詮索はしなかった。修学旅行の経験が彼にいい影響を与えたのならそれを素直に喜びたかった。彼が成長したものと考えて、ただ受け止めたいと思ったのだった。
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