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逼迫と解放
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織姫の手を振りほどいてトイレにこもってしまった結人だったが、だからと言ってこれからどうするかということは何も考えていなかった。
『どうすりゃいいんだ…?』
そんなことを考えてただトイレに腰掛けてただけだった。織姫は急に抱き付いてくるし『あなたのお母さんになりたい』とか言ってくるし、何が何だかさっぱり分からなかった。
だがそうやって結論も出せずにしばらくこもっていると、不意にトイレのドアがノックされた。
「ごめん、結人、トイレ入りたいんだけど…」
控えめな声でドアの向こうから織姫がそう訴えかけてきた。声は小さいが、それは既に結構切実なものが込められているのが感じ取れた。
結人が自分から出てくるのを待っていたものの一向に出てくる気配がないので、止むに止まれず声を掛けたのである。
「……」
しかし結人はそれを無視した。が、それでどうなるものでもない。織姫の声が更に切羽詰まったものになっただけだった。
「結人、お願い、トイレに行かせて。マジでヤバいの…!」
ドアの向こうでは、織姫が両足を擦り合わせて懸命に尿意に耐えていた。とは言え結人としてもこの状況で出て行くのはさすがに気まずくてどうしていいのか分からなくて思考停止に陥っていた。
「あ、やばい、やばいかも」
そう声を出したかをと思うと織姫は慌てて部屋から出て行った。
『まさか外でするつもりか!?』
と結人は焦ったが、そのすぐ後で、
「先輩! 先輩!」
と織姫の声が外から聞こえてきて、別の部屋のドアをノックしている気配が伝わってきた。なるほど、山下家にトイレを借りに行ったのだろう。結人もこれで解決だと胸を撫で下ろした。だが、
「先輩!!」
切羽詰まった織姫の声が止まず、ノックも続けられているのに気付き、結人は、山下家の二人がこの時間によくどこかへ出かけていたことを思い出した。ということは、留守なのか。
織姫の声が聞こえなくなったかと思うと今度は外の階段を駆け上がる音がして、
「ごめんなさい! トイレ貸してください!!」
という声と共にどこか別の部屋に入っていく気配がしたのだった。でも、どこに?。
「なにやってんだ、あいつ…?」
さすがに結人も気になってトイレから出て来た。そして外の様子に聞き耳を立てていると、
「本当に急にごめんなさい。でもおかげで助かりました」
などという、ホッとした感じの織姫の声が聞こえてきたのだった。どうやら間に合ったらしい。まあそれはいいのだが、一体、誰にトイレを借りたというのか。
『大人のクセに何やってんだあいつは…!』
と、自分がトイレを占拠してたからだというのを棚に上げて結人は胸の中で毒づいていた。けれど同時に、
『いい歳をした女が外でションベン漏らすとかありえねーからな』
と、醜態だけは回避出来たことについては安堵もしていたのだが。
この時、織姫がトイレを借りたのは、十号室の喜緑徳真であった。
何やら騒々しいので何事かと外の様子を窺いに出た時に織姫と鉢合わせ、いよいよ切羽詰まった彼女が恥も外聞もなくトイレを貸してほしいと泣き付いたのだ。この辺りは織姫の性格の為せる業だろう。誰にでも当たりよく接することができるという。
「は…! はい…っ!! どうぞ!」
この時、正面にいた織姫以外のほとんど誰にも聞こえないようなかすれた声で応えた喜緑徳真にとってはこれは衝撃的な出来事だった。
せいぜい挨拶を交わす程度だった同じアパートの住人の女性が半泣きで切羽詰まった表情で『トイレを貸してください!』と自分の部屋に飛び込んでくるなど。
普段は面倒臭いと思っていたトイレ掃除をたまたまこの日の午前中にしていて本当に良かったと彼は思った。
そして、逼迫した状況から解放された後の彼女の表情。心からの感謝の言葉。女性に慣れていない彼が織姫を意識するには十分すぎる条件が揃っていたのかも知れない。だがそれがまさかあんな事件に繋がってしまうとは……
さりとてこの時には事なきを得て、織姫は緩み切った表情で部屋へと戻ってきた。
人によっては風呂場で用を足せばよかったのにと思うかも知れないが、織姫も追い詰められて思考停止に陥っていたということだろう。こればかりは仕方がない。
結人がトイレに閉じこもっていたことについては彼女はもう何も言わなかった。
『さすがに思春期に入った男の子ににいきなり抱きついて『お母さんになりたい』とか言っちゃったら、そりゃあ混乱して当たり前だよね~…』
と、少し反省もしていたのだ。それよりは無事にやり過ごせただけでもう良かった。
この日はもう、お風呂に入って寛ぐだけだった。結人もこの騒ぎで織姫の突然の申し出についてはそれどころではなくなっていたのだった。
日は過ぎて、夏休みも残り一週間。けれど今年はいつもと大きく違っていた。夏休みの宿題がほとんど片付いているのだ。
『宿題なんて、けっ!』
とか口では言いながらでも内心ではどこか焦りも感じていたこれまでの夏休みでは感じたことのなかった余裕があった。かつて逼迫していたものが、今は解放感しかない。
『宿題を先に片付けるってのはこういうことなのかよ……』
と思った。
『こんなんだったらもっと前からそうしときゃよかった……』
と、誰にも言わないが心の中では思っていた。
ただ、今の学校は夏休みが短かった。今までは31日まであったものが、一週間ほど早く終わるのだ。しかも宿題も全て片付いた訳でもなかった。夏休みの自由課題がまだ残っているのである。
それでも他の宿題は片付いているからか、案外、夏休みが短いことについて大きな不満は感じなかった。それどころか、自由課題についてはこれまでは本当に適当な工作で誤魔化してきたというのに、彼自身、
『せっかくだしもうちょっとなんか別なもんやってみてもいいかもな……』
と思っていた。だが、何も思い付かない。
そこに、織姫が、
「ねえ結人、夏休みの工作として、これ作ってみない?」
と言って箱を差し出してきた。それは、ミニチュアの椅子だった。スケールは三分の一ほど。ちょうど大きめの人形を座らせるのにいい感じの、アンティーク調のミニチュアの椅子を作る為のキットである。が、一部、部品が組み立てられている。新品ではない。
それを見て結人はピンと来た。
『これ、山下の人形を座らせるのにぴったりの椅子じゃねーか……! しかも作りかけだし!』
と。ということは、そっち絡みで用意したものに違いないと彼は思った。
正解である。これは山下絵里奈がかつて購入し、自分で組み立てようとして挫折した人形用の椅子だった。部屋を片付けていた時に出てきて、もし誰か作れる人がいたらと山下達に問い掛けたところ、織姫から『結人の夏休みの自由課題、何がいいでしょう?』とアドバイスを求められていたのを達が思い出し、せっかくだからそれを夏休みの工作にしてはと持ち掛けたものであったのだ。
それは、いわゆるプラモデルとは少し違って、大まかな形までは切り出されてるものの仕上げは紙やすりなどを使って自分で行い、そして接着剤を用いて組み立て、塗装も自分で行うというものだった。
「まあ、いいけどよ…」
少し面倒臭いとは思ったものの、気持ちに余裕があったからか、織姫にとっても意外な程に素直に受け取って、結人はそれを作り始めた。
「……」
作業中の結人は、織姫がそれまで見たこともないくらいに集中していて、文句も言わず黙々とそれを作っていく。
組み立てを終え、アンティークっぽさを出す為のダークブラウンの塗料を塗ると、立派なアンティークの椅子のミニチュアが出来上がった。さすがに細部の仕上げには粗さも見えるものの、小学生が作ったにしては十分の出来だと言えただろう。
それを作っている時の彼を見守っていた織姫は、彼がそれをやり遂げたことに胸が詰まる想いだった。
「結人、頑張ったね!」
突然、背後から自分を抱き締めてきた織姫に対し、
「何すんだおデブ!」
と結人は声を上げたが、この時の織姫は、涙さえ浮かべながらただ彼を抱き締めていただけなのだった。
『どうすりゃいいんだ…?』
そんなことを考えてただトイレに腰掛けてただけだった。織姫は急に抱き付いてくるし『あなたのお母さんになりたい』とか言ってくるし、何が何だかさっぱり分からなかった。
だがそうやって結論も出せずにしばらくこもっていると、不意にトイレのドアがノックされた。
「ごめん、結人、トイレ入りたいんだけど…」
控えめな声でドアの向こうから織姫がそう訴えかけてきた。声は小さいが、それは既に結構切実なものが込められているのが感じ取れた。
結人が自分から出てくるのを待っていたものの一向に出てくる気配がないので、止むに止まれず声を掛けたのである。
「……」
しかし結人はそれを無視した。が、それでどうなるものでもない。織姫の声が更に切羽詰まったものになっただけだった。
「結人、お願い、トイレに行かせて。マジでヤバいの…!」
ドアの向こうでは、織姫が両足を擦り合わせて懸命に尿意に耐えていた。とは言え結人としてもこの状況で出て行くのはさすがに気まずくてどうしていいのか分からなくて思考停止に陥っていた。
「あ、やばい、やばいかも」
そう声を出したかをと思うと織姫は慌てて部屋から出て行った。
『まさか外でするつもりか!?』
と結人は焦ったが、そのすぐ後で、
「先輩! 先輩!」
と織姫の声が外から聞こえてきて、別の部屋のドアをノックしている気配が伝わってきた。なるほど、山下家にトイレを借りに行ったのだろう。結人もこれで解決だと胸を撫で下ろした。だが、
「先輩!!」
切羽詰まった織姫の声が止まず、ノックも続けられているのに気付き、結人は、山下家の二人がこの時間によくどこかへ出かけていたことを思い出した。ということは、留守なのか。
織姫の声が聞こえなくなったかと思うと今度は外の階段を駆け上がる音がして、
「ごめんなさい! トイレ貸してください!!」
という声と共にどこか別の部屋に入っていく気配がしたのだった。でも、どこに?。
「なにやってんだ、あいつ…?」
さすがに結人も気になってトイレから出て来た。そして外の様子に聞き耳を立てていると、
「本当に急にごめんなさい。でもおかげで助かりました」
などという、ホッとした感じの織姫の声が聞こえてきたのだった。どうやら間に合ったらしい。まあそれはいいのだが、一体、誰にトイレを借りたというのか。
『大人のクセに何やってんだあいつは…!』
と、自分がトイレを占拠してたからだというのを棚に上げて結人は胸の中で毒づいていた。けれど同時に、
『いい歳をした女が外でションベン漏らすとかありえねーからな』
と、醜態だけは回避出来たことについては安堵もしていたのだが。
この時、織姫がトイレを借りたのは、十号室の喜緑徳真であった。
何やら騒々しいので何事かと外の様子を窺いに出た時に織姫と鉢合わせ、いよいよ切羽詰まった彼女が恥も外聞もなくトイレを貸してほしいと泣き付いたのだ。この辺りは織姫の性格の為せる業だろう。誰にでも当たりよく接することができるという。
「は…! はい…っ!! どうぞ!」
この時、正面にいた織姫以外のほとんど誰にも聞こえないようなかすれた声で応えた喜緑徳真にとってはこれは衝撃的な出来事だった。
せいぜい挨拶を交わす程度だった同じアパートの住人の女性が半泣きで切羽詰まった表情で『トイレを貸してください!』と自分の部屋に飛び込んでくるなど。
普段は面倒臭いと思っていたトイレ掃除をたまたまこの日の午前中にしていて本当に良かったと彼は思った。
そして、逼迫した状況から解放された後の彼女の表情。心からの感謝の言葉。女性に慣れていない彼が織姫を意識するには十分すぎる条件が揃っていたのかも知れない。だがそれがまさかあんな事件に繋がってしまうとは……
さりとてこの時には事なきを得て、織姫は緩み切った表情で部屋へと戻ってきた。
人によっては風呂場で用を足せばよかったのにと思うかも知れないが、織姫も追い詰められて思考停止に陥っていたということだろう。こればかりは仕方がない。
結人がトイレに閉じこもっていたことについては彼女はもう何も言わなかった。
『さすがに思春期に入った男の子ににいきなり抱きついて『お母さんになりたい』とか言っちゃったら、そりゃあ混乱して当たり前だよね~…』
と、少し反省もしていたのだ。それよりは無事にやり過ごせただけでもう良かった。
この日はもう、お風呂に入って寛ぐだけだった。結人もこの騒ぎで織姫の突然の申し出についてはそれどころではなくなっていたのだった。
日は過ぎて、夏休みも残り一週間。けれど今年はいつもと大きく違っていた。夏休みの宿題がほとんど片付いているのだ。
『宿題なんて、けっ!』
とか口では言いながらでも内心ではどこか焦りも感じていたこれまでの夏休みでは感じたことのなかった余裕があった。かつて逼迫していたものが、今は解放感しかない。
『宿題を先に片付けるってのはこういうことなのかよ……』
と思った。
『こんなんだったらもっと前からそうしときゃよかった……』
と、誰にも言わないが心の中では思っていた。
ただ、今の学校は夏休みが短かった。今までは31日まであったものが、一週間ほど早く終わるのだ。しかも宿題も全て片付いた訳でもなかった。夏休みの自由課題がまだ残っているのである。
それでも他の宿題は片付いているからか、案外、夏休みが短いことについて大きな不満は感じなかった。それどころか、自由課題についてはこれまでは本当に適当な工作で誤魔化してきたというのに、彼自身、
『せっかくだしもうちょっとなんか別なもんやってみてもいいかもな……』
と思っていた。だが、何も思い付かない。
そこに、織姫が、
「ねえ結人、夏休みの工作として、これ作ってみない?」
と言って箱を差し出してきた。それは、ミニチュアの椅子だった。スケールは三分の一ほど。ちょうど大きめの人形を座らせるのにいい感じの、アンティーク調のミニチュアの椅子を作る為のキットである。が、一部、部品が組み立てられている。新品ではない。
それを見て結人はピンと来た。
『これ、山下の人形を座らせるのにぴったりの椅子じゃねーか……! しかも作りかけだし!』
と。ということは、そっち絡みで用意したものに違いないと彼は思った。
正解である。これは山下絵里奈がかつて購入し、自分で組み立てようとして挫折した人形用の椅子だった。部屋を片付けていた時に出てきて、もし誰か作れる人がいたらと山下達に問い掛けたところ、織姫から『結人の夏休みの自由課題、何がいいでしょう?』とアドバイスを求められていたのを達が思い出し、せっかくだからそれを夏休みの工作にしてはと持ち掛けたものであったのだ。
それは、いわゆるプラモデルとは少し違って、大まかな形までは切り出されてるものの仕上げは紙やすりなどを使って自分で行い、そして接着剤を用いて組み立て、塗装も自分で行うというものだった。
「まあ、いいけどよ…」
少し面倒臭いとは思ったものの、気持ちに余裕があったからか、織姫にとっても意外な程に素直に受け取って、結人はそれを作り始めた。
「……」
作業中の結人は、織姫がそれまで見たこともないくらいに集中していて、文句も言わず黙々とそれを作っていく。
組み立てを終え、アンティークっぽさを出す為のダークブラウンの塗料を塗ると、立派なアンティークの椅子のミニチュアが出来上がった。さすがに細部の仕上げには粗さも見えるものの、小学生が作ったにしては十分の出来だと言えただろう。
それを作っている時の彼を見守っていた織姫は、彼がそれをやり遂げたことに胸が詰まる想いだった。
「結人、頑張ったね!」
突然、背後から自分を抱き締めてきた織姫に対し、
「何すんだおデブ!」
と結人は声を上げたが、この時の織姫は、涙さえ浮かべながらただ彼を抱き締めていただけなのだった。
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