織姫と凶獣

京衛武百十

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嫉妬ときっかけ

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『山下さん。ちょっと付き合って』

吉上穂邑きちじょうほむら丸志木清香まるしきさやかの二人に呼び出された山下沙奈子は、特に抵抗するでもなく躊躇うでもなく、大人しくそれに従って教室を出て行った。その様子を見ていた女子数人が二組の教室へと走る。

それとは別に、鯨井結人くじらいゆうともいつもそうしているように教室を出て行った。まるで縄張りを見回るように学校内をぶらつくのはいつものことであった。

ただその方向は、山下沙奈子が連れて行かれた方だったが。

そして結人が校舎の裏が見えるところまで行くと、そこには沙奈子と、十人ほどの女子生徒の姿があった。鯨井結人ファンクラブのメンバーだ。吉上穂邑派と丸志木清香派に分かれて反目しあってたはずが、その両方のメンバー全員の姿がある。山下沙奈子を問題とすることで、一時的に休戦したというところなのだろう。

結人は、校舎の陰からその様子を窺っていた。声が小さくて聞き取れないものの、少なくとも楽しげな雰囲気でないことだけは分かった。

結人には聞き取れなかった内容としては、以下のようなものである。

「山下さん。山下さんは結人くんには興味ないはずだよね? なのに最近、ちょっとなれなれしくないかな?」

「私達が結人くんの迷惑にならないようにって自重してるのに、おかしくない?」

「だから結人くんにあんまりなれなれしくしないでほしいの」

「あなたは大希くんと仲がいいんだからそれで十分でしょ?」

とまあ、こんな感じだ。実に身勝手と言うかお門違いと言うか、いささか冗談のような話ではある。そんなわけで、沙奈子の方も相手にもしていなかった。

「…私が好きなのは、お父さんだから……他の男の人には興味ない……」

それは、沙奈子のことを知ってる六年生の生徒なら大体誰でも知ってることだった。<山下沙奈子はファザコンである>と。まあそういう意味もあって基本的に安全パイと見られていたというのもあったのだ。彼女はそれを改めて明言しただけである。

しかしこの時は、女子生徒達は少々普通の心理状態ではなかった。ちょっと感情を拗らせて物事を曲解してしまう状態にあったのだ。そのせいで、沙奈子の言い方が単なる言い逃れのようにも聞こえてしまったのだった。

「そんなこと聞いてんじゃないの! 結人くんになれなれしくしないでって言ってるの、私たちは!」

ついそんな風に声を荒げてしまったのを見て、結人の体が反応しそうになった。だがその瞬間、

「ちょっと、あんたたち! 沙奈に何やってんの!?」

断固とした意志を感じさせる、力のある声がその場の空気を叩いた。それに結人も思わず体の動きを止めて、再び姿を隠した。その場にいた全員の視線が声の主に集中する。石生蔵千早いそくらちはやであった。石生蔵千早と山仁大希やまひとひろきが校舎から出て来たのである。

千早の剣幕に、沙奈子に詰め寄っていた女子生徒達の昂っていた感情は、一気に萎えてしまった。六年生の女子の中では一~二を争うほどに体が大きくて、押しが強く、目力のある千早にそういう態度に出られると反抗できる者は殆どいなかったのだった。実際、彼女は運動が得意で力もある。腕相撲では男子ですら敵う者は少ない。また実は、姉二人や母親からの暴力に曝されていたことで暴力的なことに対する耐性もあり、派手なケンカをしたことはなかったがやれば間違いなく強いというのは誰の目にも明らかだった。それでいて、普段はそういうことをひけらかす訳でもなかったが。

それを、結人も改めて感じた。

『こいつ…やるな……』

すっかり意気消沈してしまった女子生徒達に、千早は言った。

「あんたたちもさあ、沙奈が男の子に興味ないの知ってるでしょ? 鯨井くんとも別に何でもないよ? いっつもそばにいる私とヒロが保証する。だから心配要らないって。あんたたちはあんたたちで好きにやったらいいんだよ。それを鯨井君がどう思ってるかは知らないけどさ」

そう言われて、吉上穂邑と丸志木清香達もようやく冷静になれたようだった。確かに沙奈子が結人に色目を使ってる訳じゃないのは分かっていた。ただ自分達がままならない状態だったのを、彼女のせいにすり替えてしまっていたのだ。それに気付けば後は早かった。

「ごめん……千早の言う通りだよね」

「ごめんね山下さん」

その謝罪で、この問題については片が付いた。元よりただの思い違いのようなものだったのだ。彼女らがお互いに牽制し合っていたストレスの捌け口を山下沙奈子に求めてしまっていただけだったのだから。

こうして、教師が指導するまでもなくそれは終わった。そして皆がその場から教室に戻ろうとした時、黙ってそれらの様子を見ていた大希が何かに気付いたように千早に耳打ちをした。すると今度は千早が沙奈子に耳打ちをして、指を差した。それに応じて沙奈子が視線をそちらに向けた。結人がいた方向に。

『見付かった…!?』

咄嗟に身を潜めた結人だったが、彼自身も分かってしまっていた。確かに、山下沙奈子と目が合ってしまったのだ。しかもその目は、微笑んでいたように見えた。嬉しそうに。

それに気付いた結人の胸が、ドクンと大きく脈を打っていた。



とは言え、その後何かが変わったかと言えば、何も変わってはいない。山下沙奈子は相変わらず無表情で淡々としてるし、ファンクラブの女子達も遠巻きに結人のことを見詰めているだけだ。だが、それでよかったのだろう。何もないというのは平穏だということなのだから。

結人も沙奈子のことは相変わらず無視するような態度を取っていた。ただ若干、刺々しさが減ったようには思えるかもしれないが。

思えばこれがきっかけではあったのだろう。『好きなのは父親である山下達であって、他の男子には興味が無かった』山下沙奈子が少しずつ変わり始めたのは。ただしそれが他人から見てもそうだと分かるようになるまでは、ここからさらに数年の歳月が必要だった。二人がいわゆる『付き合ってる』状態になったのは、高校三年も終り頃だったのだから。

まあそういう訳で、この時点では千早の言っていたことも間違いではなかった。沙奈子は別に結人のことを特別に想ってなどいなかったのも事実ではある。その意味では、ファンクラブの女子の誰にでもチャンスはあったのだった。ただし、結人にとっては迷惑以外の何ものでもなかったのも悲しいかな事実だった。結論から言えば、沙奈子の淡々とした振る舞いが一番適切だったのだろう。必要なことを必要なだけするのみで、他に余計なことをしないというのが肝だったということか。

しかしそれが影響として現れるようになるのはずっと後になってからのことである。今はまだ関係ない。

こうして毎日は流れるように過ぎて、夏休みに突入していた。

夏休みに突入すると、山下沙奈子は、平日の昼間は殆どアパートにいなかった。実質的な父親である山下達やましたいたるが仕事に行っている間は山仁大希の家で彼の帰りを待ち、そして、星谷美嘉の指導の下、大希や千早と共に早々に夏休みの宿題を片付けていったのであった。

そのことを知らぬ結人は何も気にすることなく過ごしていたが、実は秘かにそれを気にしている人物がいた。鷲崎織姫わしざきおりひめである。夏休みの間に結人と沙奈子の親交を深められるのではないかと微かな期待をしていたのが、完全に当てが外れたからだった。織姫も、もういい加減に仲の良い友達を作ってほしかったのだ。でないと心配で心配で。

おそらく結人が望めば山仁家で同じように沙奈子らと一緒に過ごすことはできたのだが、当の結人がそれを認める筈もなかったのだった。

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