織姫と凶獣

京衛武百十

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修羅と凶獣

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「ごめん、分かってるんだけどさ。目の前にすると抑えが効かなくなっちゃって…」

カナは泣きそうな顔で自分を見詰める田上文たのうえふみに頭を掻きながらそう詫びた。

そう、彼女のそれは正義感などではなかった。どちらかと言えばむしろ憎悪、変質者に対する憎しみが彼女を動かしていたのである。この時、ようやく落ち着いてきた結人ゆうとも、カナの中にあるものを感じ取っていたようだった。

『こいつも、キレる奴かよ。さては変質者に何かされたな?』

結人の推測はその通りだった。カナは、波多野香苗はたのかなえは、変質者と言うか性犯罪者に家庭を滅茶苦茶にされた被害者だった。しかもその性犯罪者というのが、彼女の実の兄の一人だったのである。幸か不幸か、彼女の時は未遂に終わったものの、その後、カナの兄は無関係な女性の部屋に侵入して強姦するという事件を起こし、家裁で『成人と同じように裁判を受けさせるべき』との判断を受けて行われた裁判員裁判で有罪判決を受けて少年刑務所に収監されてもなお本人は無罪を主張し現在も裁判が続いている。

カナは、その兄の犯行の被害者の一人であると同時に加害者の親族でもあり、兄が事件を起こしたことで家庭が崩壊、両親は離婚し、一応の親権を得た父親とも一緒には暮らせず、現在は知人の家に居候させてもらっている状態だった。その為、元々行動的と言うか若干無鉄砲なところもある、典型的な<頭で考えるよりも先に体が動く>タイプだったこともあり、痴漢や変質者を見ると頭に血が上ってしまって後先考えない行動に出てしまうことがあるのだった。

特に今回は、家に押し入るなど悪質性が高く、兄に乱暴されそうになった時の記憶が蘇り、一気に逆上してしまった感じだろう。結人が<凶獣>だとするなら、カナはさしずめ<修羅>と言ったところか。

今後また警察で事情を聞かせてもらうこともあるかも知れないと警察官に告げられて苦笑いしつつ、去っていくパトカーに頭を下げたカナに、田上文が声を掛けた。

「もう……玲那さんのこと忘れたの? 玲那さんみたいな事情があってもやり過ぎたら罪に問われるんだよ。今のカナがそんなことになったらイチコや大希ひろきくんにもすごい迷惑掛けるんだから、自重してよね」

その瞬間、結人がハッとなる。

『そうかこいつ、山仁んとこに出入りしてる女だ…!』

そう、大希の家に高校生くらいの女子が出入りしているのを何度か見かけたが、その中の二人がこの波多野香苗と田上文だった。たまたまこれまで、顔をはっきりと見られなかったからすぐにピンとこなかったが、知った名前が出たことで間違いないと確信した。『玲那』と『大希』。同じ名前の人間は他にもいるにしても、複数同時で、しかも顔は確認してなくても全体的な雰囲気が一致したのだから間違えようもなかった。

『まさかこんな形でまたあいつらの仲間と関わり合いになるとか、呪われてんのか?』

とさえ思ってしまった。まあもっとも、いつもこの近所にいるのだからこうやって出くわすことも特別珍しいことでもないだろうが。

すると、自分を見ていた結人の方に、カナが振り返っていた。

「君もあの子を助けようとしてたみたいだね。あたし、男は嫌いだけど、君はなかなか見所あると思うよ。怪我とかしてない? 大丈夫?」

そう言ってまた親指を立てて見せた。

「…問題ない…」

結人は吐き捨てるようにして言い残し、その場を立ち去った。



その事件は結構なニュースになり、連日テレビで報道された。ただし、事件を未然に防ぎ容疑者逮捕に協力した女子高生がいたことは、騒がれたくないというカナの意向を受けて警察が発表しなかった為、殆ど知られることはなかった。ましてやそこに結人も協力していたことも。

いつもならそういうニュースを見て犯人がどういう目に遭うかを想像して笑い転げていた結人だったが、今回はさすがにそうはいかなかった。なにしろ自分は殆ど何もしていないのだ。横取りされたと言ってはおかしいかも知れないが、まあ結果としてはそういうことになるのだろう。憮然とした表情でテレビを視ている結人の姿があった。

その後、どうしてもこの近所をうろつくことが多い結人は何度も波多野香苗に遭遇し、その度に『よっ!』っと気安く声を掛けられすっかり顔馴染みになってしまっていたりもした。そしてとうとう、山仁家の近くを通りがかった時に見付かってしまい、大希や千早と同じ六年生で、しかも沙奈子とは同じクラスだということが知られてしまったのだった。

彼は親し気に声を掛けてくるカナを無視し、足早にその場を立ち去った。

「あちゃあ、しつこくしすぎたかな? 嫌われちゃったみたい」

結人の反応にカナがそう言うと、

「ああ、あいついつもあんな感じだよ。クールぶってるんじゃないかな」

と、一緒にいた千早が笑った。だがそれはバカにした感じの笑い方ではなかった。ただ朗らかなだけだ。

そんな千早達の横で、沙奈子が結人が立ち去った方を静かに見詰めていた。



結人は思っていた。

『あいつら、なんか変だ。なんかおかしい』

それは、山下沙奈子達のことだった。幸福な家庭に生まれ育ち平和ボケで頭の中にお花畑を作ってるような連中とは何かが違っていると感じていた。その直感は正しいのだが、沙奈子達がいちいちそれを語ってこないのでどうしても掴み切れないのだ。かと言ってこちらから聞くというのも癪に障る。だから学校ではとにかく無視した。しかしそういう風にしているとますます『クールでカッコいい』と言い出す女子がいて、どうすればいいのか彼は戸惑うしかできなかった。

そんなある日、結人は授業中になぜかふと横に視線を向けていた。山下沙奈子のいる方だ。すると沙奈子が、ポリポリと自分の首の後ろを掻いていた。無意識の仕草だったのだろうが、結人はそれを見てハッとなった。彼女の首筋に、何かを見付けてしまったからだ。

その瞬間、結人はいろんなことが納得いった気がした。

『なんだよ、こいつもかよ』

そう思った。そしてそれを確認する為に、給食が終わった時、山下沙奈子の横に立ち、声を掛けた。

「ちょっとついてこいよ」

そのただならぬ様子に、他の生徒達は遠巻きに様子を窺うだけだった。しかし当の沙奈子は黙ったまま静かに頷き、歩き出した結人の後に大人しくついていった。二人が出て行った後、女子生徒が何人か教室を出て二組の教室へと入っていく。

沙奈子を伴って、結人は音楽室の前に来ていた。そこは、普段あまり生徒が来ない場所だった。アパートの周囲を調べるように歩き回ったのと同じく、学校の中も昼休憩中などに歩き回ってだいたいどんな感じか把握していたのだった。

二人きりになり、結人は突然、右足の靴と靴下を脱ぎ、沙奈子に向けて足の指を広げて見せて言った。

「お前の首の後ろに、これと同じのがあるだろ」

<これ>。そう言われた瞬間、沙奈子は自分の首の後ろを手で押さえた。彼女が見た結人の足の指の間には丸く茶色い痣のような変色がいくつもあった。そう、確かに沙奈子の首の後ろには、それと同じような痣があったのだ。結人はそれを見付けてしまったのである。

「……」

黙って頷く沙奈子を見て、結人は靴下と靴を履き直し、苦笑いを浮かべながら言った。

「お前が叔父さんとこにいたのもそれかよ。お前、俺と同じだったんだな」

「……」

その言葉に、沙奈子は再び頷いた。

<同じ>。そうだ。山下沙奈子も結人と同じだったのだ。実の両親を始めとした大人たちから虐待を受けてなお生き延びたサバイバーであることに、結人はようやく気付いたのであった。

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