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実例と実践
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結人の攻撃性の根源になっているのは、当然、憎悪である。自分の存在を全否定した両親と、暴力によって自分を支配してきた大人への徹底的な憎悪こそが、彼の全てだった。
だが、果たして本当にそうなのだろうか?
確かに彼の両親はどうしようもない愚かで駄目な人間だった。しかし結局は彼の命を奪いはしなかった。実母も、最後の最後に彼の首を絞めはしたが、織姫に止められて泣き崩れた。母親の交際相手の男もどうしようもない人間だったが、最後の一線は越えなかった。
無論、それらはあくまで運が良かっただけだろう。どの時点で彼が命を落としていても不思議ではなかったし、やったことが許される訳でもない。だが、それでも彼は今、生きているのだ。そして何より、織姫と一緒に暮らした五年間はどうだっただろうか?
鷲崎織姫も決して利口な人間ではない。近視眼的で能天気で空気を読まず後先を考えない楽天的な天然だ。だが、だからこそ結人の存在を肯定してきた。結人の粗暴さや態度の悪さを叱責したりはするが、だからと言って彼の存在そのものを否定はしなかった。
そう、彼はもう、自分のことを肯定してくれる存在と出会っているのだ。
自分が心の奥底から呪い、憎んだ人間達だけがこの世の全てではないことを知っている筈なのだ。なのに彼は、いまだに自分の中の憎悪に囚われ続けている。
それは織姫が上手く対処できなかったからに他ならない。彼女には、そういう意味で彼を導く適性がなかった。それだけの話である。しかし今、彼の前には、彼と同じように自身の存在を否定され、自分を否定した親や世間を憎み、にも拘らずそれを乗り越えた、いや、乗り越えようと今も努力を続けている者達が何人もいるのである。いわば彼の先輩達だ。
彼女らと比べても、結人の境遇は過酷だっただろう。直接命に関わるほどのことはされてこなかったのも事実だ。だからそういう点では完全に結人と同じではないと言える。さりとて、系統としては決して遠くないのもまた確かなのだ。
彼女らは、山下沙奈子らは、だからこそ、彼に強い影響を与えうる存在だった。他人や社会を恨み憎しみ続けることを止めたからこそ彼女らはこうして温かい空間にいられるのであり、それを実践してきた者達なのだ。結人がこれからどう生きるべきかという明確な実例そのものなのである。
後は、彼がいかにそれに気付くかというだけのことだ。
もっとも、それ自体が『言うのは易し、行うのは難し』なのだが。
彼に対して説教をする者はいない。ああしろこうしろとご高説を垂れる者もいない。彼女らはただ見せ、実践するだけだ。自分達がどう生きているのかということを。その中で少しばかりのヒントを、言葉としてくれることになるだけだ。この出会い自体が既に彼の人生の大きな転換点だったと、彼はずっと後になって気付くだろう。
彼が、今、自分が置かれている状況に違和感を感じられたということ自体が兆しである。この出会いを活かせない人間は、それを違和感として捉えることもなかった筈だから。
彼がこの場のペースに巻き込まれているのは間違いなく良い傾向だった。織姫の醜態を嘲笑う者がいないという事実に戸惑うことで、彼はその理由を考え始めていたからだ。『何故?』と考えることが、今の自分を認識し、別の可能性について考えるきっかけになる。ここにいる、山下沙奈子、山下達、山下絵里奈、山下玲那、石生蔵千早、星谷美嘉の六人は、『何故?』と考えることで今の自分を手に入れたのだ。それを同じ道を鯨井結人も辿ることになる。
それだけの話だった。
どんなに美辞麗句を並べられても、実感できるものがなければ人間は納得できない。『どう生きるべきだ』と説かれても、心にまでは沁み込んでこない。特に、結人のような人間はそうだ。誰のことも信じられず、反発し、自分に向けられた言葉に耳を塞いでしまうようなタイプは。だから実例を見せ付けていくのである。
幸い、彼は決して愚鈍な人間ではなかった。むしろこの歳にしては利口すぎるくらい敏い子供である。このことが、彼を救うことになる。誰かが彼を救うのではなく、彼自身が彼を救うことになるだろう。
なんて話はまあさて置いて、結人も千早の作ったオムライスを口にした。
『…美味い…』
そう。美味い。美味いのだ。沙奈子の作ったハンバーグも美味かったが、千早のオムライスも確かに美味い。
石生蔵千早は、実の母親と二人の姉から虐待を受けてきた。その姉も、母親から虐待を受けていた。故に、自分がされたことを、自分より弱い存在である千早に対して行ったのだ。そして母親自身も、その親から虐待を受けていた。だから子供にはそういう風に接するものだと思い込んできたのだった。それが故に一番上の姉の千歳は、こちらに転校してくる前に通っていた小学校である事件のきっかけを作ってしまい学校にいられなくなったことで、今、千早が通っている小学校に転校することになってしまった。結人と同じように。
ただ残念ながら、千歳はその後の出会いに恵まれず、しかし幸いにも決定的な過ちも犯さず今に至っている。次の姉の千晶も似たようなものだった。母親の千草に至ってはこちらに引っ越した後も子供達への接し方は変わらず、何度も児童相談所に通報されてはその介入を居留守を使ったりして拒むということを続けていたりもした。そんな中で千早は育ち、母親と姉二人からの虐待を一身に受けて命の危険すら感じるほどに追い詰められていた。
そんな時に、彼女はある出会いをした。山仁大希との出会いである。同じクラスになった時、体が小さくてまるで女の子のように柔和な顔つきをして気性の穏やかだった彼を、自分にとって理想的な弟と感じ、まるでペットを可愛がるかのように世話を焼き始めたのだった。が、当の大希の方は最初、過剰な彼女の干渉を迷惑に感じていたりもした。それに若干遅れて出会ったのが、今の小学校に転校してきた山下沙奈子である。
活発といえば聞こえはいいが、それは少々粗雑で乱暴な面もあった千早と違い、山下沙奈子は非常に大人しい生徒だった。そんな沙奈子と気があったのか、大希は沙奈子と行動を共にするようになり、庇うような振る舞いも見せた。
しかし千早はそれに嫉妬し、沙奈子に対してきつく当たるようになった。沙奈子がそのことで暗い表情を見せるようになると彼女の変化に気付いた山下達が担任に相談。学校側はそれを受けてその件を<イジメの疑い案件>として認定、担任、学年主任、教頭、校長に至るまで連携して対処し、根気強く指導を行うことで事態の収拾にあたったのであった。
その指導の最中にも、千早の過剰な干渉に大希が反発して教室を飛び出し行方をくらますなどのちょっとした事件もありつつ、山下沙奈子のケアを心掛けた山下達と、山仁大希のケアを心掛けた大希の父、及び学校側の連携もあり、三人が和解し友人となるという結果を迎えることができたのである。それは、この時に関わった人間が誰一人欠けてもこの結果はなかったかもしれない。千早の母親の協力が得られなかったのは残念だが、それが逆に、千早の沙奈子や大希への依存という形を誘導した可能性もある。
また、同じくこの時期に、大希の家庭教師をしていた星谷美嘉も千早と出会い、千早と千歳の間で起こった事件を解決することで千早に実の姉のように慕われるということもあったのだった。
だが、果たして本当にそうなのだろうか?
確かに彼の両親はどうしようもない愚かで駄目な人間だった。しかし結局は彼の命を奪いはしなかった。実母も、最後の最後に彼の首を絞めはしたが、織姫に止められて泣き崩れた。母親の交際相手の男もどうしようもない人間だったが、最後の一線は越えなかった。
無論、それらはあくまで運が良かっただけだろう。どの時点で彼が命を落としていても不思議ではなかったし、やったことが許される訳でもない。だが、それでも彼は今、生きているのだ。そして何より、織姫と一緒に暮らした五年間はどうだっただろうか?
鷲崎織姫も決して利口な人間ではない。近視眼的で能天気で空気を読まず後先を考えない楽天的な天然だ。だが、だからこそ結人の存在を肯定してきた。結人の粗暴さや態度の悪さを叱責したりはするが、だからと言って彼の存在そのものを否定はしなかった。
そう、彼はもう、自分のことを肯定してくれる存在と出会っているのだ。
自分が心の奥底から呪い、憎んだ人間達だけがこの世の全てではないことを知っている筈なのだ。なのに彼は、いまだに自分の中の憎悪に囚われ続けている。
それは織姫が上手く対処できなかったからに他ならない。彼女には、そういう意味で彼を導く適性がなかった。それだけの話である。しかし今、彼の前には、彼と同じように自身の存在を否定され、自分を否定した親や世間を憎み、にも拘らずそれを乗り越えた、いや、乗り越えようと今も努力を続けている者達が何人もいるのである。いわば彼の先輩達だ。
彼女らと比べても、結人の境遇は過酷だっただろう。直接命に関わるほどのことはされてこなかったのも事実だ。だからそういう点では完全に結人と同じではないと言える。さりとて、系統としては決して遠くないのもまた確かなのだ。
彼女らは、山下沙奈子らは、だからこそ、彼に強い影響を与えうる存在だった。他人や社会を恨み憎しみ続けることを止めたからこそ彼女らはこうして温かい空間にいられるのであり、それを実践してきた者達なのだ。結人がこれからどう生きるべきかという明確な実例そのものなのである。
後は、彼がいかにそれに気付くかというだけのことだ。
もっとも、それ自体が『言うのは易し、行うのは難し』なのだが。
彼に対して説教をする者はいない。ああしろこうしろとご高説を垂れる者もいない。彼女らはただ見せ、実践するだけだ。自分達がどう生きているのかということを。その中で少しばかりのヒントを、言葉としてくれることになるだけだ。この出会い自体が既に彼の人生の大きな転換点だったと、彼はずっと後になって気付くだろう。
彼が、今、自分が置かれている状況に違和感を感じられたということ自体が兆しである。この出会いを活かせない人間は、それを違和感として捉えることもなかった筈だから。
彼がこの場のペースに巻き込まれているのは間違いなく良い傾向だった。織姫の醜態を嘲笑う者がいないという事実に戸惑うことで、彼はその理由を考え始めていたからだ。『何故?』と考えることが、今の自分を認識し、別の可能性について考えるきっかけになる。ここにいる、山下沙奈子、山下達、山下絵里奈、山下玲那、石生蔵千早、星谷美嘉の六人は、『何故?』と考えることで今の自分を手に入れたのだ。それを同じ道を鯨井結人も辿ることになる。
それだけの話だった。
どんなに美辞麗句を並べられても、実感できるものがなければ人間は納得できない。『どう生きるべきだ』と説かれても、心にまでは沁み込んでこない。特に、結人のような人間はそうだ。誰のことも信じられず、反発し、自分に向けられた言葉に耳を塞いでしまうようなタイプは。だから実例を見せ付けていくのである。
幸い、彼は決して愚鈍な人間ではなかった。むしろこの歳にしては利口すぎるくらい敏い子供である。このことが、彼を救うことになる。誰かが彼を救うのではなく、彼自身が彼を救うことになるだろう。
なんて話はまあさて置いて、結人も千早の作ったオムライスを口にした。
『…美味い…』
そう。美味い。美味いのだ。沙奈子の作ったハンバーグも美味かったが、千早のオムライスも確かに美味い。
石生蔵千早は、実の母親と二人の姉から虐待を受けてきた。その姉も、母親から虐待を受けていた。故に、自分がされたことを、自分より弱い存在である千早に対して行ったのだ。そして母親自身も、その親から虐待を受けていた。だから子供にはそういう風に接するものだと思い込んできたのだった。それが故に一番上の姉の千歳は、こちらに転校してくる前に通っていた小学校である事件のきっかけを作ってしまい学校にいられなくなったことで、今、千早が通っている小学校に転校することになってしまった。結人と同じように。
ただ残念ながら、千歳はその後の出会いに恵まれず、しかし幸いにも決定的な過ちも犯さず今に至っている。次の姉の千晶も似たようなものだった。母親の千草に至ってはこちらに引っ越した後も子供達への接し方は変わらず、何度も児童相談所に通報されてはその介入を居留守を使ったりして拒むということを続けていたりもした。そんな中で千早は育ち、母親と姉二人からの虐待を一身に受けて命の危険すら感じるほどに追い詰められていた。
そんな時に、彼女はある出会いをした。山仁大希との出会いである。同じクラスになった時、体が小さくてまるで女の子のように柔和な顔つきをして気性の穏やかだった彼を、自分にとって理想的な弟と感じ、まるでペットを可愛がるかのように世話を焼き始めたのだった。が、当の大希の方は最初、過剰な彼女の干渉を迷惑に感じていたりもした。それに若干遅れて出会ったのが、今の小学校に転校してきた山下沙奈子である。
活発といえば聞こえはいいが、それは少々粗雑で乱暴な面もあった千早と違い、山下沙奈子は非常に大人しい生徒だった。そんな沙奈子と気があったのか、大希は沙奈子と行動を共にするようになり、庇うような振る舞いも見せた。
しかし千早はそれに嫉妬し、沙奈子に対してきつく当たるようになった。沙奈子がそのことで暗い表情を見せるようになると彼女の変化に気付いた山下達が担任に相談。学校側はそれを受けてその件を<イジメの疑い案件>として認定、担任、学年主任、教頭、校長に至るまで連携して対処し、根気強く指導を行うことで事態の収拾にあたったのであった。
その指導の最中にも、千早の過剰な干渉に大希が反発して教室を飛び出し行方をくらますなどのちょっとした事件もありつつ、山下沙奈子のケアを心掛けた山下達と、山仁大希のケアを心掛けた大希の父、及び学校側の連携もあり、三人が和解し友人となるという結果を迎えることができたのである。それは、この時に関わった人間が誰一人欠けてもこの結果はなかったかもしれない。千早の母親の協力が得られなかったのは残念だが、それが逆に、千早の沙奈子や大希への依存という形を誘導した可能性もある。
また、同じくこの時期に、大希の家庭教師をしていた星谷美嘉も千早と出会い、千早と千歳の間で起こった事件を解決することで千早に実の姉のように慕われるということもあったのだった。
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