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呪詛と願い
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アパートに帰った結人は、ランドセルを置いてまたアパートの周囲をうろついていた。部屋にいても何もすることがないからだ。漫画やアニメにもあまり興味が無く、むしろ出来過ぎた都合の良い話などを見ると放り出して『クソだな…』と吐き捨てたりするような可愛げの欠片もない少年だった。
彼の頭の中には、今でも自分の首を絞めて殺そうとした実の母親の顔がはっきりと焼き付いていた。その何も映っていない、実の子である自分のことすら見えていない、ただ何もかもを呪って盲目となった虚ろな目が、彼の心を支配していた。あれが人間の本質であり、正体であり、全てだと思っていた。
だから彼は何も信じない。美しい言葉も優しい言葉も彼の耳には届かない。彼が思うことはただ一つ、
『オレを殺そうとする奴は殺してやる』
だけである。親からも生きていることを拒否された自分が生きて生きて生き延びて、先に死んでいく人間全てをゴミのように蔑んで、
『どうだ? お前達が要らないと言ったオレが生きのびてるぞ。くやしいか?』
と罵ってやりたいから生きているのである。
だが、織姫と一緒にいるとどうにも締まらない。とにかく何かが噛み合わなくて、はぐらかされる。あの能天気なお花畑ぶりがその原因だと思うのだが、かと言ってそれをどうにかしようという気にも何故かなれない。せいぜい時々、罵り合ったりする程度だ。それが何故なのかを知りたくて、あの女と一緒にいるというのもある気がするというのも、明確に意識はしてないが彼の中にもあったのだろう。
そういうことを考えているのかいないのか、やはりよく分からないまま結人はただ歩き続けた。その距離は、日を追うごとに長くなっていく。周囲の道を把握し、頭に入ったらさらにその向こうまで行く。彼は狂暴で学校の勉強には興味はないが、決して知能は低くなかった。それが向かう方向性が違うのだ。
彼がどうしてそういうことをしているのかは、実は彼自身にもよく分からない。もしかすると獣が自分の縄張りを確保しようとしてる感じかもしれないが、それを確かめる方法はない。ただ、これが役に立ったことはかつてあったのだった。
それは、去年のことだった。下校中、彼の目の前で同じ小学校に通っていた女子生徒が、通りがかった自動車から降りてきた男に連れ去られるという事件が発生したのだ。だが結人は、その自動車が走り去った方向から逃走ルートを予測し、先回りして待ち伏せ、わざと大きな声で騒いで周囲の人間の注目を浴びた上で、女子生徒を連れ去った自動車が通りがかったところでフロントガラスにダイブして事故を装い、それを目撃した人間達に緊急通報をさせて誘拐事件を未然に防いだということがあったのだ。
自動車が走り去った方向は狭い道がひどく入り組んでいて自動車では通り抜けが出来ず、バックで戻ってくる以外では一つしか抜け道がなかったことを知っていたことで、先回りできたのである。もっとも、彼がそのようなことをしたのは正義感からではない。女子生徒を守る為でもない。自分の目の前で決定的な犯罪行為をやらかした大人を世間の前に引きずり出して嘲笑と非難と侮蔑を浴びさせることが目的であった。そして自分は、その惨めな大人の姿を見て笑ってやろうと考えたのだ。
瞬間的にそこまで考えるのだから、頭は切れるのだ。ただし、その価値観と思考の方向性は、徹底的にねじくれている。しかも、狭い道だから限度があるとはいえ逃走を図るためにそれなりにスピードを出していた自動車にダイブするなど、正気の沙汰ではない。幸い、その時は打撲で済んだが、下手をすれば命にも係わった筈だ。
その事件は、小学生の女児を誘拐しようとして逃走中に他の小学生の男児を撥ねた凶悪なものとしてそれなりに世間を騒がせた。そして結人はテレビでそのニュースを見る度に、フロントガラスに飛び込んで来た自分を何とも言えない表情で呆然と見詰めていた男の顔を思い出しては笑い転げるという姿が見られた。ただ、当然、結人が自動車に飛び込むところを目撃した人間からは、単なる交通事故には見えなかっただろうが。
少年が誘拐犯から身を挺して少女を救い出した美談という話も出掛けたりしたが、いかんせん、当の結人が学校でも有名な問題児であり、しかもマスコミなどが取材に来ると怒鳴るわ喚くわ物を投げつけるわ水を掛けるわで大暴れしてその狂暴性を遺憾なくアピールしたことから、やはり偶発的に起こった事故だったということで評価は落ち着いてしまったのである。
だがそれも、結人の狙いだったと言えるだろう。自分を美談のヒーローに祭り上げて利用しようとする大人を徹底的に愚弄してやることが目的だったのだから。
しかしその時も織姫は『あんた何やってんの?』と呆れた様子を見せただけで、彼の傍若無人ぶりを受け流してしまったのだった。まあ、織姫自身、しつこく取材に押しかけてくるマスコミには辟易していたからなのだが。
ただし、そんな形で悪目立ちしたことで、結人はいっそう、学校側からは要注意児童として目を付けられてしまったりもしたというのも事実ではある。
こんな風に、彼は、大人や世間というものを徹底的に見下していたのだった。
彼が起こした事件は他にもある。それが故に最初に入学した小学校から、織姫の郷里である地域の小学校に転校する羽目になったりもしたのだが、それはまたおいおい語るとして、一緒に暮らしているのが彼女でなかったら『面倒見きれない』として今頃は施設にでも預けられていただろう。しかし、施設に入ったからと言って大人しくなったという保証はまるでない。むしろ織姫と一緒にいるからこの程度で済んでいるという面も否定はしきれない。
それどころか、実の母親と一緒に暮らしていたら…?
それこそ取り返しのつかない事件になっていた危険性が非常に高かっただろう。そもそも彼が織姫と出会ったきっかけだって、その実の母親に首を絞められて殺されそうになるという凄惨な事件だったのだから。その時は表沙汰にしなかったことで刑事事件にはならなかったものの、本来なら完全に殺人未遂である。
そういう点から考えると、結人の母親が彼を織姫のところに残して姿を消したのは、むしろ僥倖であったかもしれない。
そして、そんな結人の面倒を見ている織姫の願いはただ一つ。
『この、母親にも見捨てられた幼い子にも幸せが訪れますように』
だった。
どうすれば彼が幸せを掴めるのかは分からない。ただとにかく幸せになってほしい。それだけを彼女は願っていた。
まあ、『もうちょっとお行儀よくしてほしい』とか『乱暴な態度を改めてほしい』とか思うことはあったが、それも結局は彼の幸せを願えばこそではある。今のままでは、自分から事件を起こして結局は自分を不幸にするという危険性も決して低くはないだろうから。
そうは思いつつも、それをどこまで具体的に考慮して対策を取ろうとしてるかと言えば何もしていないというのも実情なのだが。
織姫は朗らかで気持ちの優しい女性ではあるものの、必ずしも利口で知恵が回るタイプではないというのも事実だった。結人の幸せを願いながらもただ心の中で願っているだけなのも残念ながら現実である。そういう、彼女に不足している部分、彼女にはできない部分を補う為の出会いが求められていた。
人間には、それぞれ向き不向きがある。結人の凶暴性をうまくはぐらかすという点では抜群の適性を見せる彼女も、彼が幸せになる為の明確な道筋を指し示せる訳ではないのだから。
彼の頭の中には、今でも自分の首を絞めて殺そうとした実の母親の顔がはっきりと焼き付いていた。その何も映っていない、実の子である自分のことすら見えていない、ただ何もかもを呪って盲目となった虚ろな目が、彼の心を支配していた。あれが人間の本質であり、正体であり、全てだと思っていた。
だから彼は何も信じない。美しい言葉も優しい言葉も彼の耳には届かない。彼が思うことはただ一つ、
『オレを殺そうとする奴は殺してやる』
だけである。親からも生きていることを拒否された自分が生きて生きて生き延びて、先に死んでいく人間全てをゴミのように蔑んで、
『どうだ? お前達が要らないと言ったオレが生きのびてるぞ。くやしいか?』
と罵ってやりたいから生きているのである。
だが、織姫と一緒にいるとどうにも締まらない。とにかく何かが噛み合わなくて、はぐらかされる。あの能天気なお花畑ぶりがその原因だと思うのだが、かと言ってそれをどうにかしようという気にも何故かなれない。せいぜい時々、罵り合ったりする程度だ。それが何故なのかを知りたくて、あの女と一緒にいるというのもある気がするというのも、明確に意識はしてないが彼の中にもあったのだろう。
そういうことを考えているのかいないのか、やはりよく分からないまま結人はただ歩き続けた。その距離は、日を追うごとに長くなっていく。周囲の道を把握し、頭に入ったらさらにその向こうまで行く。彼は狂暴で学校の勉強には興味はないが、決して知能は低くなかった。それが向かう方向性が違うのだ。
彼がどうしてそういうことをしているのかは、実は彼自身にもよく分からない。もしかすると獣が自分の縄張りを確保しようとしてる感じかもしれないが、それを確かめる方法はない。ただ、これが役に立ったことはかつてあったのだった。
それは、去年のことだった。下校中、彼の目の前で同じ小学校に通っていた女子生徒が、通りがかった自動車から降りてきた男に連れ去られるという事件が発生したのだ。だが結人は、その自動車が走り去った方向から逃走ルートを予測し、先回りして待ち伏せ、わざと大きな声で騒いで周囲の人間の注目を浴びた上で、女子生徒を連れ去った自動車が通りがかったところでフロントガラスにダイブして事故を装い、それを目撃した人間達に緊急通報をさせて誘拐事件を未然に防いだということがあったのだ。
自動車が走り去った方向は狭い道がひどく入り組んでいて自動車では通り抜けが出来ず、バックで戻ってくる以外では一つしか抜け道がなかったことを知っていたことで、先回りできたのである。もっとも、彼がそのようなことをしたのは正義感からではない。女子生徒を守る為でもない。自分の目の前で決定的な犯罪行為をやらかした大人を世間の前に引きずり出して嘲笑と非難と侮蔑を浴びさせることが目的であった。そして自分は、その惨めな大人の姿を見て笑ってやろうと考えたのだ。
瞬間的にそこまで考えるのだから、頭は切れるのだ。ただし、その価値観と思考の方向性は、徹底的にねじくれている。しかも、狭い道だから限度があるとはいえ逃走を図るためにそれなりにスピードを出していた自動車にダイブするなど、正気の沙汰ではない。幸い、その時は打撲で済んだが、下手をすれば命にも係わった筈だ。
その事件は、小学生の女児を誘拐しようとして逃走中に他の小学生の男児を撥ねた凶悪なものとしてそれなりに世間を騒がせた。そして結人はテレビでそのニュースを見る度に、フロントガラスに飛び込んで来た自分を何とも言えない表情で呆然と見詰めていた男の顔を思い出しては笑い転げるという姿が見られた。ただ、当然、結人が自動車に飛び込むところを目撃した人間からは、単なる交通事故には見えなかっただろうが。
少年が誘拐犯から身を挺して少女を救い出した美談という話も出掛けたりしたが、いかんせん、当の結人が学校でも有名な問題児であり、しかもマスコミなどが取材に来ると怒鳴るわ喚くわ物を投げつけるわ水を掛けるわで大暴れしてその狂暴性を遺憾なくアピールしたことから、やはり偶発的に起こった事故だったということで評価は落ち着いてしまったのである。
だがそれも、結人の狙いだったと言えるだろう。自分を美談のヒーローに祭り上げて利用しようとする大人を徹底的に愚弄してやることが目的だったのだから。
しかしその時も織姫は『あんた何やってんの?』と呆れた様子を見せただけで、彼の傍若無人ぶりを受け流してしまったのだった。まあ、織姫自身、しつこく取材に押しかけてくるマスコミには辟易していたからなのだが。
ただし、そんな形で悪目立ちしたことで、結人はいっそう、学校側からは要注意児童として目を付けられてしまったりもしたというのも事実ではある。
こんな風に、彼は、大人や世間というものを徹底的に見下していたのだった。
彼が起こした事件は他にもある。それが故に最初に入学した小学校から、織姫の郷里である地域の小学校に転校する羽目になったりもしたのだが、それはまたおいおい語るとして、一緒に暮らしているのが彼女でなかったら『面倒見きれない』として今頃は施設にでも預けられていただろう。しかし、施設に入ったからと言って大人しくなったという保証はまるでない。むしろ織姫と一緒にいるからこの程度で済んでいるという面も否定はしきれない。
それどころか、実の母親と一緒に暮らしていたら…?
それこそ取り返しのつかない事件になっていた危険性が非常に高かっただろう。そもそも彼が織姫と出会ったきっかけだって、その実の母親に首を絞められて殺されそうになるという凄惨な事件だったのだから。その時は表沙汰にしなかったことで刑事事件にはならなかったものの、本来なら完全に殺人未遂である。
そういう点から考えると、結人の母親が彼を織姫のところに残して姿を消したのは、むしろ僥倖であったかもしれない。
そして、そんな結人の面倒を見ている織姫の願いはただ一つ。
『この、母親にも見捨てられた幼い子にも幸せが訪れますように』
だった。
どうすれば彼が幸せを掴めるのかは分からない。ただとにかく幸せになってほしい。それだけを彼女は願っていた。
まあ、『もうちょっとお行儀よくしてほしい』とか『乱暴な態度を改めてほしい』とか思うことはあったが、それも結局は彼の幸せを願えばこそではある。今のままでは、自分から事件を起こして結局は自分を不幸にするという危険性も決して低くはないだろうから。
そうは思いつつも、それをどこまで具体的に考慮して対策を取ろうとしてるかと言えば何もしていないというのも実情なのだが。
織姫は朗らかで気持ちの優しい女性ではあるものの、必ずしも利口で知恵が回るタイプではないというのも事実だった。結人の幸せを願いながらもただ心の中で願っているだけなのも残念ながら現実である。そういう、彼女に不足している部分、彼女にはできない部分を補う為の出会いが求められていた。
人間には、それぞれ向き不向きがある。結人の凶暴性をうまくはぐらかすという点では抜群の適性を見せる彼女も、彼が幸せになる為の明確な道筋を指し示せる訳ではないのだから。
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