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新居と挨拶
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鷲崎織姫は、イラストレーターである。それほど著名というわけではないが、自分の仕事だけでも、贅沢さえしなければ結人と二人でつつましく生きていく程度のことは出来るくらいの収入はあった。まあ、かなりつつましいというレベルではあるが。
しかし元々、派手な暮らしは好きではない、人懐っこく社交的に見られがちだが本質は地味でどちらかと言えばむしろ内向的な、自分の身の回りだけで完結する小さな世界で生きるタイプの人間だけあって、それで何か不満があるわけでもなかった。わずかな蓄えを残し、仕事の道具をきちんと確保出来れば、服装とかもファストファッションで満足出来た。食べることは好きだが、豪華な食事を食べ歩くような趣味もない。
そういう人間であるが故に、結人を引き取って生活できているというのもある。結人は結人で、他人に何も期待しないタイプの人間だった。他人が何か親切なことをしようとするときは必ず裏に何らかの意図があり、見返りを要求してくるものだと悟りきった少年だった。織姫が自分を傍に置いているのも、絵のモデルにする為だと認識している。
そんな二人がどうして京都の地に降り立ったかと言えば、デザイン事務所により近い場所に移り住むことが目的だった。それまでは慣れ親しんだ滋賀県の某市に居を構えていたが、さすがに通勤に一時間をかけるのは大変になってきたというのも理由の一つではある。もっとも、もっと大きな理由があったのだが。
それはさておき、織姫はバス乗り場で路線図を確認し、結人を連れてバスに乗った。新居に向かう為だ。引っ越しは昨日既に済ませてある。今日は入院していた結人を迎えに行って戻ってきた形だ。
20分強で、バスに揺られて目的のバス停に着いた。目印のコンビニの横を通り過ぎ、レンタル倉庫の裏にあるアパートが新居だった。本当はマンションにしたかったのものの、織姫が以前住んでいた辺りに比べると少々家賃が割高でさすがに厳しかったという現実的な問題が。しかしそれ以上にここにした理由があった。知り合いがこのアパートに住んでいたのだ。そしてその知り合いから、結人をこの学区にある小学校に通わせることを勧められたという経緯があった。
「ビンボくせーアパートだな」
結人はそのアパートを見るなり悪態を吐くた。だがそれは決してもっと上等なところに住みたかったという意味ではない。思ったことがそのまま口に出る癖があるだけだ。だから織姫も「はいはい」とまともに取り合わず、階段を上って行った。
織姫と結人の部屋は二階の七号室である。鍵を開けて部屋に入ると、そこは味も素っ気もないシンプルな部屋だった。女性の部屋とは思えないくらいに飾り気がなかった。パソコンとスキャナ一体型のプリンターが置かれたパソコンデスクと椅子とテーブルの外には、小さな本棚とテレビがあるだけの、玄関から部屋のほぼ全部が見渡せてしまういかにもなワンルームだ。キッチンも決して大きくなく、コンロは一口しかない。しかもユニットバスの風呂場も玄関を開ければ丸見えで脱衣所もない。ここに、四月から小学六年生になる結人と二人で住むというのは、普通の感覚からするとどうかと思われた。
だが、織姫自身はそういうのは平気だった。なにしろ結人のことを男性とは見ていないし、自分が女性であるということもそれほど拘ってもいない。良く言えば大らか。悪く言えばいささか天然が過ぎるのが、彼女、鷲崎織姫という女性であった。それに、先にも言ったがここには彼女の知り合いが住んでいて、それが何より心強かったのだ。
荷物を部屋に降ろし、織姫はさっそく結人を連れてまた外に出た。
「ちょっとご挨拶するからね」
そう言った織姫だったが、結人は明らかに不満顔だった。見ず知らずの他人に挨拶など、面倒臭くてやってられないという態度がありありと見えていた。それでも織姫は結人を伴って階段を下り、一階の一号室へとやってきた。躊躇することなくチャイムを押し、応答を待つ。
するとドアの向こうに人の気配があり、それから静かに開けられた。そこに現れたのは、三十になるかならないかくらいの、穏やかな表情をした痩身の男性だった。その男性を見るなり、織姫は大きく頭を下げる。
「こんにちは、先輩! 結人を連れて改めて挨拶に伺いました!」
明るい表情ではきはきという彼女に、その男性は少し気圧されたように少々苦笑いを浮かべながら、
「わざわざありがとう。鷲崎さん」
と応えた。そして結人の方を見てフッと柔らかい表情を浮かべて言った。
「君が結人くんだね。初めまして。僕は鷲崎さんと同じ大学に通ってた山下達。そしてこっちは、僕の娘の沙奈子だ。よろしくね」
山下達と名乗った男性の脇に、いつの間にか一人の少女が立っていた。さらりとした黒髪を胸の辺りで切り揃え、真っ直ぐにこちらを見詰めてくる沙奈子と呼ばれたその少女は、まるで人形のように無表情ながら、しかし父親とどこか似た雰囲気の柔らかさも併せ持った不思議な印象を見る者に抱かせた。
だが、そんな少女に対しても結人は面倒臭そうなふてぶてしい態度を変えることなく、無視するように視線を逸らしてしまう。
「もう、またそんな顔する。ちゃんとご挨拶しなきゃダメでしょ、結人」
不遜な姿を見せる結人に対して織姫はぷうと頬を膨らまし、彼を諫めた。しかしそんな彼女に対して山下達はやはりあの穏やかな表情を変えることなく静かに語り掛けてくる。
「ああ、いいよいいよ。気にしてないから。愛想良く出来ないのはうちの沙奈子も同じだし。事情は分かるつもりだよ」
そう、彼は、織姫と結人がどういう事情で一緒にいるのかということを知っていたのである。いや、知っていたからこそ、前の学校にいられなくなった結人を、自分の娘である沙奈子が通う小学校に転入させることを勧めたのであった。なにしろ、自分と娘の関係も、織姫と結人のそれに似たものだったのだから。
山下達と、山下沙奈子は、実の親子ではない。本当は叔父と姪という関係だった。だが姪の沙奈子が実の父親に叔父のところに置き去りにされたことで、彼が父親代わりとして少女を養育しているということである。
一方の織姫と結人は、全く血縁関係にはない、本当にただの赤の他人である。ただ、織姫と結人の実母が中学の頃に友人だったというだけでしかない。それが、当時、織姫の住んでいたマンションの別の部屋を訪ねてきて、そこに当てにしていた親戚が既に住んでいなかったことで追い詰められた結人の実母が彼と無理心中を図ったところにたまたま織姫が帰宅してきて凶行を防ぎ、そして結人とその母親が織姫の部屋に転がり込むように同居するようになり、だがある日、母親が行先も告げずに行方をくらましたことで、なし崩し的に二人は一緒に暮らすことになったのだった。そういう意味では、よく似た境遇なのだと言えるだろう。
その鷲崎織姫と山下達が、昨年、偶然にも再会を果たし、お互いに似たような境遇であることを知って連絡を取り合うようになり、終業式直前、結人が学校である事件を起こしたことで転校を余儀なくされたところに、『だったらいい学校がある』と山下達が話を持ち掛けてくれたことで、ちょうど空き部屋だった七号室への入居と、沙奈子が通う小学校への転入を決めてこうしてやってきたというのが経緯だった。
故に互いに子供の事情が分かることで、目くじらを立てる必要がないということなのだ。
だが、それは良かったのだが、挨拶の後、織姫は自分の部屋に戻る途中、
『せっかく先輩と再会できたのに結婚してるんだもんな~』
と、落ち込んだりもしていたのだった。
しかし元々、派手な暮らしは好きではない、人懐っこく社交的に見られがちだが本質は地味でどちらかと言えばむしろ内向的な、自分の身の回りだけで完結する小さな世界で生きるタイプの人間だけあって、それで何か不満があるわけでもなかった。わずかな蓄えを残し、仕事の道具をきちんと確保出来れば、服装とかもファストファッションで満足出来た。食べることは好きだが、豪華な食事を食べ歩くような趣味もない。
そういう人間であるが故に、結人を引き取って生活できているというのもある。結人は結人で、他人に何も期待しないタイプの人間だった。他人が何か親切なことをしようとするときは必ず裏に何らかの意図があり、見返りを要求してくるものだと悟りきった少年だった。織姫が自分を傍に置いているのも、絵のモデルにする為だと認識している。
そんな二人がどうして京都の地に降り立ったかと言えば、デザイン事務所により近い場所に移り住むことが目的だった。それまでは慣れ親しんだ滋賀県の某市に居を構えていたが、さすがに通勤に一時間をかけるのは大変になってきたというのも理由の一つではある。もっとも、もっと大きな理由があったのだが。
それはさておき、織姫はバス乗り場で路線図を確認し、結人を連れてバスに乗った。新居に向かう為だ。引っ越しは昨日既に済ませてある。今日は入院していた結人を迎えに行って戻ってきた形だ。
20分強で、バスに揺られて目的のバス停に着いた。目印のコンビニの横を通り過ぎ、レンタル倉庫の裏にあるアパートが新居だった。本当はマンションにしたかったのものの、織姫が以前住んでいた辺りに比べると少々家賃が割高でさすがに厳しかったという現実的な問題が。しかしそれ以上にここにした理由があった。知り合いがこのアパートに住んでいたのだ。そしてその知り合いから、結人をこの学区にある小学校に通わせることを勧められたという経緯があった。
「ビンボくせーアパートだな」
結人はそのアパートを見るなり悪態を吐くた。だがそれは決してもっと上等なところに住みたかったという意味ではない。思ったことがそのまま口に出る癖があるだけだ。だから織姫も「はいはい」とまともに取り合わず、階段を上って行った。
織姫と結人の部屋は二階の七号室である。鍵を開けて部屋に入ると、そこは味も素っ気もないシンプルな部屋だった。女性の部屋とは思えないくらいに飾り気がなかった。パソコンとスキャナ一体型のプリンターが置かれたパソコンデスクと椅子とテーブルの外には、小さな本棚とテレビがあるだけの、玄関から部屋のほぼ全部が見渡せてしまういかにもなワンルームだ。キッチンも決して大きくなく、コンロは一口しかない。しかもユニットバスの風呂場も玄関を開ければ丸見えで脱衣所もない。ここに、四月から小学六年生になる結人と二人で住むというのは、普通の感覚からするとどうかと思われた。
だが、織姫自身はそういうのは平気だった。なにしろ結人のことを男性とは見ていないし、自分が女性であるということもそれほど拘ってもいない。良く言えば大らか。悪く言えばいささか天然が過ぎるのが、彼女、鷲崎織姫という女性であった。それに、先にも言ったがここには彼女の知り合いが住んでいて、それが何より心強かったのだ。
荷物を部屋に降ろし、織姫はさっそく結人を連れてまた外に出た。
「ちょっとご挨拶するからね」
そう言った織姫だったが、結人は明らかに不満顔だった。見ず知らずの他人に挨拶など、面倒臭くてやってられないという態度がありありと見えていた。それでも織姫は結人を伴って階段を下り、一階の一号室へとやってきた。躊躇することなくチャイムを押し、応答を待つ。
するとドアの向こうに人の気配があり、それから静かに開けられた。そこに現れたのは、三十になるかならないかくらいの、穏やかな表情をした痩身の男性だった。その男性を見るなり、織姫は大きく頭を下げる。
「こんにちは、先輩! 結人を連れて改めて挨拶に伺いました!」
明るい表情ではきはきという彼女に、その男性は少し気圧されたように少々苦笑いを浮かべながら、
「わざわざありがとう。鷲崎さん」
と応えた。そして結人の方を見てフッと柔らかい表情を浮かべて言った。
「君が結人くんだね。初めまして。僕は鷲崎さんと同じ大学に通ってた山下達。そしてこっちは、僕の娘の沙奈子だ。よろしくね」
山下達と名乗った男性の脇に、いつの間にか一人の少女が立っていた。さらりとした黒髪を胸の辺りで切り揃え、真っ直ぐにこちらを見詰めてくる沙奈子と呼ばれたその少女は、まるで人形のように無表情ながら、しかし父親とどこか似た雰囲気の柔らかさも併せ持った不思議な印象を見る者に抱かせた。
だが、そんな少女に対しても結人は面倒臭そうなふてぶてしい態度を変えることなく、無視するように視線を逸らしてしまう。
「もう、またそんな顔する。ちゃんとご挨拶しなきゃダメでしょ、結人」
不遜な姿を見せる結人に対して織姫はぷうと頬を膨らまし、彼を諫めた。しかしそんな彼女に対して山下達はやはりあの穏やかな表情を変えることなく静かに語り掛けてくる。
「ああ、いいよいいよ。気にしてないから。愛想良く出来ないのはうちの沙奈子も同じだし。事情は分かるつもりだよ」
そう、彼は、織姫と結人がどういう事情で一緒にいるのかということを知っていたのである。いや、知っていたからこそ、前の学校にいられなくなった結人を、自分の娘である沙奈子が通う小学校に転入させることを勧めたのであった。なにしろ、自分と娘の関係も、織姫と結人のそれに似たものだったのだから。
山下達と、山下沙奈子は、実の親子ではない。本当は叔父と姪という関係だった。だが姪の沙奈子が実の父親に叔父のところに置き去りにされたことで、彼が父親代わりとして少女を養育しているということである。
一方の織姫と結人は、全く血縁関係にはない、本当にただの赤の他人である。ただ、織姫と結人の実母が中学の頃に友人だったというだけでしかない。それが、当時、織姫の住んでいたマンションの別の部屋を訪ねてきて、そこに当てにしていた親戚が既に住んでいなかったことで追い詰められた結人の実母が彼と無理心中を図ったところにたまたま織姫が帰宅してきて凶行を防ぎ、そして結人とその母親が織姫の部屋に転がり込むように同居するようになり、だがある日、母親が行先も告げずに行方をくらましたことで、なし崩し的に二人は一緒に暮らすことになったのだった。そういう意味では、よく似た境遇なのだと言えるだろう。
その鷲崎織姫と山下達が、昨年、偶然にも再会を果たし、お互いに似たような境遇であることを知って連絡を取り合うようになり、終業式直前、結人が学校である事件を起こしたことで転校を余儀なくされたところに、『だったらいい学校がある』と山下達が話を持ち掛けてくれたことで、ちょうど空き部屋だった七号室への入居と、沙奈子が通う小学校への転入を決めてこうしてやってきたというのが経緯だった。
故に互いに子供の事情が分かることで、目くじらを立てる必要がないということなのだ。
だが、それは良かったのだが、挨拶の後、織姫は自分の部屋に戻る途中、
『せっかく先輩と再会できたのに結婚してるんだもんな~』
と、落ち込んだりもしていたのだった。
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